「遠い国ではね、結ばれる人同士の左手の小指同士に赤い糸が結ばれているっていう言い伝えがあるんですって」
麗らかな午後の陽射しが差し込む窓辺にある寝台の上、肩掛けをなおしながらファナがいう。いつもはどこか青い顔しているファナが、ほんの少し頬を染めていった言葉に、ティアは首を捻った。
病弱なファナにとっては、旅行記や伝承の本を読むことと、ティアの他愛のない世間話だけが、世界を知る術だ。だからきっと、今の言葉も本から得たものなのだろう。
「赤い糸……」
反芻するようにつぶやきながら、思わずティアは自分の手を見下ろした。だが、小指にそんなものはもちろん見えない。
くすくすと、ファナが笑い声を漏らす。つ、と太陽に翳すように自分の白い手を持ち上げ、瞳を柔らかに細める。
「目には見えないけれど、たしかな絆がそこにあるって、運命が結びあっているって素敵よね」
うっとりとしたファナの様子に、ティアもまた、己の手を持ち上げてみる。誰かと結ばれる約束がここにあるなんて、確かに不思議で興味深い。
「うん、そうだね!」
ティアは大きく頷いた。ファナにもそんな相手がきっと現れてくれると、信じながら。
それにしてもこの先は、一体誰につながっているのだろう。まだ出会っていないだろうか。それとももう出会っている人たちの誰かだろうか。ティアには想像がつかない。
そもそも。
「でも……、見えないのになんで色がわかったのかなぁ?」
ごくごく単純な疑問だった。ファナが目を瞬かせる。
「……そういわれれば、そうね。なんでかしら?」
うーんと二人で首を捻る。どうやら、本を読んだファナにもわからないらしい。謎は深まる。その国に行くことがあれば、わかるのかもしれないが……あいにくと、少女二人にそんな旅などできるわけない。
しかし、わからないならわからないで、余計に神秘性が増すというものだ。
「だけど、いつか会えるときがくるなら、いまからとっても楽しみだよね?」
ティアは手を伸ばして、ぎゅっとファナの左手を取って笑った。最初驚いた顔をしたファナだったが、ティアのいいたいことがわかったのか、ひどく嬉しそうに――それでいて儚く笑った。
「ええ。いつか……いつか、そんな人に会えるといいわね」
恋し恋され、愛し愛される。そんな人に出会うことのできる明るい未来が、ありますよう。どうか、この穏やかで優しい幼馴染の病が少しでもよくなりますように。
そう心から願いながら、ティアはファナと笑いあう。
「ファナなら素敵な人が、きっと現れるよ」
「そうかしら。じゃあそれまでは、ティアが一緒にいてくれる?」
家から外にでることさえままならぬファナに、たくさんのお話をして世界のことを伝える。世界がファナをちゃんと待っていることを、伝えたい。それは幼馴染であるティアの役目だ。
「もちろんだよ!」
だから、満面の笑みでティアは返事をした。
それを見たファナが、嬉しそうに目元を綻ばせる――
「……」
繕い物をしていて、ふとそんな幼馴染とのやりとりをティアが思い出したのは、ひろげた裁縫箱の中に赤い糸がはいっていたからだ。
そういえば、あの頃はまだ預言書に選ばれていなくて、何の力もなくただ祈るだけだった。あのあとすぐに、レンポと出会い、預言書を手にして。ファナのために奇跡の花を捜し求めて、森の奥深くに分け入ったこともあった。いまやファナは健康そのもので、ローアンの街中を一人で歩くこともできるようになった。きっと、彼女だけの大切な人にめぐり合うのも時間の問題だろう。いまの、自分のように。
するするとひとくくりになっている記憶を次々と脳裏に描きながら、ティアはそっと細い指を伸ばした。よく覚えていないけれど、いつか使ったときの残りであろうそれは、少し長い。
赤い赤い、鮮やかな色。火の色、実の色、命の色。
そんなことを連想させる糸を、手の中で弄びながら、寝台に腰掛けて新聞を読む恋人を見遣る。大きな左手の、小指が目に付く。自分とは違う、節くれだった男のそれ。
「あの、ヒースさん」
「ん、なんだ? どうかしたか、ティア」
すいと深い眼差しが紙面から持ち上がり、ティアを捕える。その、ときに厳しく、ときに優しく、今は穏やかに自分を映す青灰色の瞳が、ティアは大好きだ。いや、それだけでなく全部が好きなわけだけれども。
そんな素直な自分の心に、若干の気恥ずかしさを感じながら身体ごと向き合う。
「ええっと、ちょっと左手を貸してくれませんか?」
きょとん、としたヒースが新聞を掴んでいた手をわずかに動かす。
「左手? 別にかまわないが……オレの手など、どうするんだ?」
「えへへー」
問いには答えぬまま、不思議そうな顔をしながら新聞をたたむヒースに、とてとてと近づく。意味はわからずとも「ティアの願いなら」、と差し出される手。
ヒースの左隣に腰かけて、その手を引き寄せ小指に糸をかける。ちょっと手間取ったが、なんとか結べた。蝶々の形を綺麗に整える。
「???」
ますます不思議そうな顔をするヒースと、うまくできたことに満足そうに笑ったティアは、今度は己の小指に糸をかける。が。
「あ……ん、とー……。うまく……結べないや……」
自分の手ではどうにもうまくいかない。当たり前といは当たり前である。ティアが、眉を下げて四苦八苦していると。
「なにをしようとしているんだ?」
本格的に、頭の上に大きな疑問符を浮かべたような表情のヒースに、ティアははにかむ。そろそろ話してもいいだろう。
「赤い糸なんです」
「……みればわかるな。間違いなく赤い糸だ」
小指に絡められた糸をみて、ヒースは至極真面目に頷いた。
「ん、と」
ティアは、結ぼうとする手をとめて、ファナとの会話を思い出しながら唇を動かす。
「結ばれると決まっている女の人と男の人の間には、見えないけれど生まれたときから赤い糸が繋がっているっていう言い伝えがあって。それはお互いの左手の小指に結ばれているらしいんです」
「ほう? それは今まで聞いたことがないな」
右手で顎を擦りながら、ヒースが興味深そうな声でいう。
「カレイラからずっとずっと遠い、東の国でそういわれているらしいですよ」
「なるほど。それで、ティアはオレに結んだのか」
うんうんと頷くと、ヒースが喉の奥を低く鳴らした。そのくせ、顔は少年のように楽しげで。ティアは、ほんのりと頬を染めた。
「では、オレがティアのほうを結んでやろう」
「ふぇ?」
ぐい、と糸を絡めていただけの左手が引き寄せられて、ティアは目を見開いた。
「ほら、指をみせてみろ」
「あ、はい」
いわれるままに、小指だけを立てて差し出す。ヒースの長くしっかりとした指が、糸を摘み器用に動く。きゅ、と確かに結ばれる感触がした。
「わぁ」
ヒースの手がどけられて、ちょこんと小指にあるその赤い糸を見た瞬間、なんともいえない嬉しさがティアにこみ上げた。
「うわぁ、うわぁ、見えたらこんな感じなんですね!」
ふわふわと糸を操るように、ティアは左手をひらめかせる。自分の小指と、ヒースの小指が鮮やかな色で結び付けられている。
「私とヒースさんの赤い糸!」
こうして目に見えると、なんだか気分がいい。声が自然と明るいものになる。
「いつもこうやって見えるといいのに! ね、ヒースさんもそう思いませんか?」
ゆるゆると全身を満たしていく、幸福感に包まれながら笑いかければ、ヒースがどこか呆けたような顔をしていた。
あれ? と、ティアが首を傾げると。わずかに俯き、ぽりぽりと額をかきながらヒースが深く息をついた。
「……反則だぞ、ティア」
「え? え?」
そんなことをいわれるようなことをしただろうか。思い当たる節はないけれど、ヒースがそういうならば、そういわれるようなことをしてしまったということだ。
そんなティアのうろたえる姿を目にしながら、ヒースが笑う。
「あまり可愛いことばかりいってくれるな。どうしたらいいのかわからなくなる」
「きゃ、ん……」
顎に手が掛けられて、あっという間にヒースの顔が迫る。唇がふれる。驚いて目を見開き、ぎゅっと手を握り締める。すぐに離れるかと思ったが、ヒースはティアの唇を楽しそうに弄んでいる。口付けを続けるヒースの熱を抱きしめるように、ティアは瞳を閉じる。だって、キスをしてもらうのはとても嬉しい。全身の力が、すうと抜ける。
そのまま、互いの体温を交換することしばし。すっかりティアの頬が薔薇色に染まりきった頃。
ようやく満足したのか。す、とヒースが距離をとる。去っていく影を追うように、ティアは赤らんだ顔を晒しながら、長い睫に縁取られた瞼をゆるゆると開いた。
「もう、なんですか……急に、こんな……」
こうされるのは嫌なわけは決してないのだが、いきなりされるとびっくりする。そんな空気なんて、まったくなかったのに。ごにょごにょと、力ない抗議をすると大きな手のひらが、頬にぴたりと添えられた。
「嬉しいことをいうからだ」
「?」
ヒースに覗きこまれ、またキスをされるかと思ったが、違う。蕩けるような甘さを帯びて、ヒースが笑う。
「君はオレとの運命を疑っていない、そういってくれたからな」
「……あ」
自分の言葉を思い返して、かあ、とティアは赤くなった。
見えたらこんな感じ――そうさっきいったのは、二人の間に確かに糸が存在すると信じているから。
いつも見えていたらいい――そういってしまったのは、二人の絆が切れることはないと信じているから。
ごくごく当たり前のことだと何の疑問にも思っていなかったけれど、改めて言われると……とんでもなく、恥ずかしいことを堂々としたあげくに、言葉にしていないだろうか。
ティアの指先、つま先まで、熱が一瞬にして駆け巡る。恥ずかしさに、胸が震える。ヒースから反射的に距離をとりたくなるものの、頬に感じる恋しい人の熱にそれもままならない。
「生まれたときから、オレと出会い、結ばれることが決まっていたと、信じてくれているんだろう? 君は」
その震えさえも愛しいというように、ヒースがティアの眦を指でなぞる。
「あ、いえ、その、そういうつもり、で、あの、」
「違うのか?」
しどろもどろに否定しようとするものの、ティアはもともと嘘をついたり誤魔化したりができない性質だ。それをわかりきっているヒースが、楽しげに笑って。ほんの少し意地悪そうな口調で、いう。
「……う、う~……。そ、そう、です……信じて、ます」
無理にいったところで、ヒースにはすべてお見通しなのだと思い出し、ティアは真っ赤な顔で小さく頷いた。
「――ありがとう、嬉しい」
低い声が、ティアの小さな耳の奥をくすぐる。照れているのはティアばかりではなく、ヒースもまたそうなのだと示すような音色。ますます、心臓が甘く痛む。胸が疼く。
ふわり、額に唇を落とされて、ティアはきゅうと目を瞑る。
「ヒース、さん」
掠れた声で愛しい名を呼びながら、ティアは左手を握り締める。結ばれた赤い糸から、この精神を蕩けさせる苦しみが、伝わればいいのに。
「何もかもあらかじめ決まっているというのは、癪なものだと思ってきたが……。君とのことなら、それでもいい」
神だかなんだかしらないが、勝手に定められた道をそのまま歩くのは気に入らない。だけれどそうしてその先に、君がいるなら。君にたどり着くのなら。そうして、一緒に肩を並べ手を繋いでゆける道があるのなら、それはなんて得難い幸福なのだろう。
未来を自分の手で掴むことをよしとする男の、恋に彩られた夢みるようなその言葉に、ティアは目を閉じたまま笑みを浮かべた。
こんなこと、ヒースにいわれたらくすぐったくてしかたがない。
ティアもヒースと同じ。二人一緒にいられるこの現在が、膨れ上がる恋心に魂が軋む音が聞こえるような気がするほど、幸せだ。
「はい。私も、そう思います」
そう伝えて目を開くと、この世界で一番大好きな笑顔がそこにある。応えるようにティアもまた微笑んで。ん、とねだるように顎を持ち上げ背伸びする。
ふと笑ったヒースの大きな身体が作る影が、もう一度ティアを覆う。
唇で重なるふたつの熱が、ひとつになって溶けあう心地よさに身を委ねながら、ティアは思う。
自分が預言書に選ばれることがなかったら。
敵国の将軍と、英雄として出会っていなかったら。
徒手流派の伝承者と、それを受け継ぐ者でなかったら。
今、こうして同じ時間を共有して、同じ場所にいることもなかったのだろうか。
否。それでも、自分たちは導かれていたと信じたい。
二人を繋ぐ赤い糸が、いつの日か手繰り寄せられて、出会うべくして出会っていたと信じたい。そして恋に落ちていく。
きっとそれが、自分たちの「運命」のはずだから。
視界を閉ざしたまま。キスを交わしながら、手探りでヒースの左手を求める。すぐに、指先が応えるように握り締められる。見えていないはずなのに、言葉にもしていないのに。そうしてくれることが、嬉しくて。恋に脈打つ胸の奥に、ほんのりとあたたかなものが宿る。
そして、そこから生まれるヒースへの「好き」をこめて、ティアは指をきつく絡めた。
重なり形作られる大きな影の側、すっかりその存在を忘れられた新聞の端が、窓から吹き込む風に不満げに翻る。
二人の間の赤い糸が、それを宥めるようにいつまでも揺れていた。