切りつけてくるような、とまではいかないが、そんな冬の寒さを思い出させる空気の冷たさに、ティアは小さく身震いした。
まだ秋も終わっていないというのに、ひたひたと忍び寄る季節の足音が、聞こえるような気がする。
「ん……さむ……」
もぞもぞと暖かさを求めて、ティアは身を捩らせる。頬がひんやりとしている。本能に従って、自分を包みこむ熱源から暖かさを奪うように顔を摺り寄せるものの、相手が起きる気配はない。小柄なティアをすっぽりと抱いて、すかすかと安らかな寝息をたてている。
朝の光が薄いカーテン越しに強まるのを感じながら、恋人の腕の中でたっぷりと蓄熱をしたティアは、ようやく顔をあげた。
無防備な寝顔を晒しているヒースの厚い胸に手をついて、顔を傾ける。自然と、淡い笑みが浮かんだ。好きだなぁと、ふと思う。
人のぬくもりが恋しくなると、よくいわれるこの季節。だけれども、ティアにはヒースがいてくれるので、そんなせつない気持ちを抱いたことは、幸福なことに一度もない。
だがそれは、この人がいない日々にはもう戻れないというということでもある。一人のとき、自分はどうやって生きていたのだろう。そんなに昔のことでもないというのに、思い出せなくて首を捻る。
幸せって、素敵なことだけど――ちょっと怖くもなるものなんだね。
そんなことを考えながら、安らかな呼吸を繰り返すヒースをみつめていると、つられたのか、また眠気が襲ってきた。とろり、とろりと下がりそうな瞼をなんとかもちあげて、気をそらすように視線をめぐらせると、あるものが目に付いた。
「おひげ……」
いつもなら特に気にも留めないものが、今朝はやけに視線を奪う。
ティアは寝ぼけ眼のまま、手をそろそろと伸ばした。そっと、顎先に触れてみる。
「ちくちく……する……」
ふふ、とティアは小さく微笑んだ。指先に伝わる感触が楽しい。
つ、と太い喉の真ん中あたりへと細い指を滑らせたところで、そこが震えた。肺から押し出され、喉をとおった息が、微かに持ち上げられた唇の間から漏れる。
「……君は、朝からいったい何をしているんだ?」
震え掠れた寝起きの声。ほんの少し、眠気を残した瞳がゆっくりと瞬く。
「ヒース、さん……おはよう、ございます」
「ああ、おはよう」
ティアとは違い、ヒースの目覚めはいい。長く戦に携わってきた以上、夜討ち朝駆けに備えるための、長年の習慣――ということらしい。一言を交わす合間のうち、さっぱりと覚醒したヒースが笑う。
だが、まだ夢世界の残滓にとらわれているティアは、ヒースの問いにはこたえずに、しばらく指先を遊ばせる。ヒースも諌めるつもりはないらしく、好きにしろといわんばかりになすがままにされている。
「楽しいか?」
しばらくそうしていた後、くすぐったそうにヒースがいうので、ようやく目も覚めたティアはくるり、大きな瞳をめぐらせた。
「んと、楽しいっていうか不思議な感じ、です」
ティアには、こんな風にはえてくる髭などない。それは女の子なのだから当たり前。逆に、ヒースにしてみれば、髭がはえるのは男だから当たり前。だけど、やっぱり不思議である。
どうしてこう、すぐにはえてくるのだろう。剃っても剃っても、きりがないなんて。
これまで背の高さ、肩幅の広さ、声の低さ、身を覆う筋肉の厚さ、手の大きさ――そういったところに、いつも大人の男との差を感じきたけれど、これもそのひとつだなぁ、とティアはぼんやりと思った。
ティアはヒースの喉元をくすぐるように、指を転がす。さすがにもう限界だったのか、その指先をヒースが掴んだ。
やりすぎたかな、とティアがヒースと視線をあわせると、青灰色の瞳がゆるやかに和むところであった。
「君のほうが、オレにはよほど不思議だ」
「そうですか?」
そんなことはないと、思うのだけれど。
ティアが瞬きを繰り返していると、大きな手が伸びてきて、するり、と頬が撫でられた。ティアは、思わずその温もりに擦り寄った。
「どこも柔らかくて滑らかだ。どうして、君はそんな風にできている?」
「そういわれても……」
そんなこと、ティアがわかるわけがない。ヒースだって、どうしてそんな風にできていると尋ねられても応えられないくせに。
「髪も、絹糸のようだしな」
ヒースの指先に梳かれた髪が、耳にかけられる。耳たぶに触れて、包み込むように手のひらが頬に添えられる。みつめられる視線の色と、何気ない仕草に溢れる慈しみに、ティアは己の頬が染まっていくのを自覚した。
その様子を眺め、まったくもって愛らしくて仕方がないと、ヒースがくつくつと笑った。ティアは、恥ずかしくて、ヒースの胸に顔を押し付けた。それすらも愛おしいのか、ヒースに強く抱きしめられて、ティアの肺から息が漏れ出していく。
とくとくと、互いの鼓動が重なっている。
このまま、ヒースに深く沈んで融けていきそうだと思いながら、ティアはなんとなく思ったことを口にした。
「ね、ヒースさん。ひげ、もっと伸ばしてみたらどうですか」
ティアの提案に、ヒースが僅かに眉根を寄せた。
「唐突だな……だが、うーん……悪いが、はっきりって面倒だな」
「面倒?」
「髪を伸ばすのだって、それはそれで大変だろう? それと一緒だ」
「ん、ん~……?」
わかるような、わからないような。生憎と、いつも肩の上で髪を切りそろえているティアには、理解しづらかった。だが、知り合いの占い師の豊かな赤髪は、日々の手入れがあってこその美しさなのだといっていたから、きっとヒースのいうとおりなのだろう。
「――まあ、他にも理由はあるが」
ティアは、ゆっくりと顔をあげた。それはなに? と尋ねる前に、ヒースが笑った。その目がとても優しくて、ティアは言葉につまる。
「君は、そっちのほうが好きなのか?」
「え?」
きょとんと目を瞬かせる。逆に問いかけられてしまったというのもあるが、そんな風にいわれるとは思ってなかった。
「髭のある男が好みなのか? もしそうなら、考えんでもないが」
にやにやとした笑みに、ティアはうーんと考えてみる。
街中で出会う髭の人に心惹かれたことがあるかというと、そんな経験は一度もない。つまり、重要なのは髭ではないということだ。外見の好みというのはもちろんあるが、そのなかに髭は含まれていない。
だって、ティアがヒースを好きになった経緯に、髭はまったくもって絡んでいない。うん、髭が好きということではない。
結論がでるのは早かった。
「別に、そうじゃないですよ」
ふるふる、とティアは頭を振りつつ、きっぱりという。
「おいおい、じゃあさっきなんで伸ばしてみろなんて言ったんだ」
ティアのあっさりとした否定に、ヒースが面食らったような顔をする。これはしまったと、ティアは慌てて理由を探した。
「ええっとー、えっとー……サンタさんみたいになったヒースさんが、ちょっとみてみたかったから?」
とってつけたような理由だが、それ以上のものは、ティアには捻り出せそうになかった。
「なんだ。特に意味はなかったのか……。というか、そこまで伸ばさせるつもりだったのか、君は」
えへ、とティアは笑った。くしゃりと、そんなティアの頭をかき混ぜてヒースが身体を動かした。
離れていくのが惜しいといったら、笑われるだろうか。ティアはそんなことを思う。だが、家の外で囀る小鳥の声が、もう起きるべきだと知らせるように、一際その美声を響かせるのが聞こえた。
「まあ、いいさ。さて、そろそろ起きるとするか。今日は、昨日の探索の続きをしにいくんだろう?」
「はい。じゃあ、朝ご飯作りますね? 卵はどうします?」
「そうだな、スクランブルエッグにしてくれ」
「はぁい。ベーコンはカリカリに、ですよね?」
「ん」
いつものやりとりと交わしつつ、そうして、二人一緒に寝台の上で身を起こす。
暖かな寝床から身を晒せば、寝間着越しに感じる部屋の空気が全身をつつみこんだ。ティアは、思わずぶるりと身体を震わせる。やはり寒い。ぬくもりを名残惜しむように、先に寝台を降りていったヒースの背中をみつめつつ、ティアは座り込んだままベッドを整えていく。
「でも、やっぱり……ちょっとだけみてみたいなあ」
そんなことを呟きながら、ティアは一生懸命想像してみる。
口元がふかふかで。顎の先から胸元まで伸びた髭をたくわえたヒース――だめだ、うまくいかない。むしろ想像すればするほど、笑いがこみあげてくるのはなぜだろう。
くすくすと肩を揺らし、毛布を抱きしめて笑っているティアに、ヒースが肩をすくめた。
「そこまで伸ばすなんて、オレはしないぞ? 君も、別に好みじゃないといっただろう」
むう、とティアは小さく唸った。ひらひらと、ヒースが手を振る。
「理由がない以上、たとえもっと歳をとっても、お断りだ」
そういって、自分の顎を撫で擦る。これから、普段どおりに整えるのだろう。
「どうしてです? ちょっとくらいなら、いいと思いません?」
笑顔のまま、ティアはヒースに問いかける。さきほど聞きそびれたこともあって、そこにどんな理由があるのか、単純に気になった。
く、と声を漏らしたヒースが、ティアに向かって腰を折る。無意識のうちに薄く開いていたティアの唇に、節くれだったヒースの人差し指が優しく触れる。
「んむ」
驚いて目を見開いたティアに構わず、それはまるでキスでもしているように、柔らかな感触をゆっくりと味わって離れていった。
にや、とヒースが笑い、自分の人差し指に音を立てて口付ける。
「キスするとき、君がくすぐったがるだろうからな」
「……!」
ぼっと、ティアは真っ赤になって固まった。
その様子を一瞥し、からからと笑ったヒースが、顔を洗うために歩きだした。その背をぼんやりと見つめながら、ふと思い出す。
どんなに歳をとっても、お断りだ――
ヒースのいった、さっきのそんな言葉は、いま告げられたものが理由であるとするならば。
ヒースは、ずっと、ずーっとティアにキスをしてくれるつもりだということだろうか。
もっと大人になっても。ティアが、おばあちゃんになったとしても。
どこまでも君を愛していきたいのだと、いわれているようだった。
そしてティアのそんな考えは、間違ってはいないのだろうと妙な確信がこみあげる。
ティアは、胸を高鳴らせながら毛布をきつく抱きしめた。笑みが、あたたかな気持ちと一緒に自然と溢れる。
遠い未来もこんな風に―― 一緒に、朝を過ごそうね。
ティアはそんなことを心の中で呟いて、そっと毛布を下ろして寝台を降りた。
そのまま、寝間着に覆われた大好きな人のその広い背中へと駆け寄って。
満面の笑みを浮かべながら、ティアはぴょんと飛びついた。