時遡り時辿り 時辿の薬編—–後編

「ヒースさんのお友達に、悪い事しちゃいましたね」
「気にしなくても大丈夫だ。あいつはいつもあんな感じだしな。君こそ不愉快じゃなかったか?」
「いいえ、楽しかったです」
 そうか、と呟いたヒースが「ん」と声を漏らした。
「すまない、ちょっと用事があった。ここで待っていてくれないか?」
「あ、はい」
 そういえば、もともとヒースは用事があって街に来ていたはずだ。ティアは、するりと腕を解いた。ちょっとだけ、寂しさがこみあげる。消えるぬくもりを離さないように、ティアは胸の前で祈るように手を組んだ。
「じゃあ、ここにいますね」
 そうティアがいったのは、中心街のおわりのところ。まばらに人が歩いている。
「わかった。すぐに戻る」
 そういって、賑わいの中に戻っていくヒースを見送って、ティアはほうと息をついた。
 近くに積んである木箱の側にいって寄りかかる。
 街の景色を眺めながら、ふふふ、とティアは思い出し笑いをする。それだけで、この待つだけの時間も退屈しない。なんて楽しい日だろう。
 だが、それももうすぐ終りだ。視線を上げた先の空が、わずかに赤みを帯びてきている。
 手のひらをじっとみつめる。薬の効果がいつまでかはわからないが、正体を教えて家に戻るべき頃合だ。残念だけど。
 そろそろヒースの姿がみえないかな? そんなことを思いながら視線をあげたティアの手を、横手からのびた影が絡めとった。
 ぐい、と強引にひかれたティアはよろけながらそちらをみた。
「……あなたたちは……!」
 そこには、あの二人組みがいた。まだ、うろうろしていたらしい。それとも、あとをつけてきていたのか。いやらしく歪む二人の顔に、ぞっとティアは嫌悪を覚えた。
「なんだよ、オレたちの誘いは断ったくせに。こんどはこっちに付き合えよ」
「だって、私は最初からヒースさんに会いに行くつもりだったから……!」
 声をかけられたときとは違い問答無用の勢いで、ティアは木箱が積んであったすぐ側の路地へと押し込まれた。
「いいからこいって!」
「あのときもやだっていったじゃないですか! 離して!」
 こうなったら預言書を呼び出して、ウルの雷でおしおきが必要か、とティアは苛立ちの中で考える。もみあいながらティアが唇を噛み締めたとき。
「女性に二度も無理強いをするなんて、いい加減にしろ」
 研ぎ澄まされた剣を突きつけるような冷たい声が、路地裏に響いた。
 男の動きが止まる。反して、ティアは、勢いよく振り返る。そこには、追ってきてくれたらしいヒースが立っていた。僅かにあがった息を一瞬で整えたその身から、威圧するような重い空気が滲む。
「ヒースさん!」
 ティアは、顔を輝かせ近づこうとするが、それは男たちに阻まれる。
「またおまえかよ! おい!」
 それが合図だったのか、ばらばらと路地の合間から姿を現す数人の男たちに、ヒースが小さく息をついた。ゆっくりと、腰に帯びた剣に手が伸びていく。それを見咎めた男が、ティアを引き寄せた。
「きゃっ」
 ぎらりと目の前に突きつけられたナイフに、ティアは小さく悲鳴をあげた。
「おっと、動くとこの女がどうなるか、わかんねぇぞ?」
「ああ、そう言うと思った」
 は、とヒースが鼻を鳴らした。
「で? 次は? 『剣を捨てろ』、このあたりか? ん?」
 うっすらと笑みを浮かべたまま、ヒースが一歩前にでる。ゆらり、ティアにはその肩から立ち昇る闘気がみえた。ヒースが、本気で怒っている。身の危険に晒されているのも忘れ、ティアは身を乗り出そうとする。しかし、男たちが邪魔をする。
「は……! わかってるじゃねえか」
「ほら、さっさとその剣捨てろ!」
 命令され、ゆっくりと鞘の留め金を外したヒースによって、ジェネラルソードが路地裏に転がる。
 従順なその様子に、帝国の軍人が己のいうことをきいたという優越感に浸ったような顔で、男が笑った。
「そんなにこの女が大事かよ」
「そうだ」
 戸惑う様子もなくはっきりと言い切られ、ティアは現状をわかっていながらも頬を染めた。
 冗談かとも思うが、こんなときにそんなことをいう人でないことを、ティアは知っている。ならば本気ということだろうか――?
「は、帝国の将軍でも女の色香にゃ弱いのな!」
 げらげらと下卑た声が幾重にも重なる。
「抵抗するなよ?」
 近寄った二人組みの仲間らしき一人にそういわれて、ヒースは眉を小さく動かした。
「それはできんな」
「はあ? 剣も捨てたくせに、この人数相手にできると思ってんのかよ!? こっちにはこの女もいるんだぜ!?」
 出来る、この人ならば――ティアは、心を落ち着けヒースをひたと見据えた。
 に、と微かにあがる口元。瞳が安心させるように和む。だが、それは次の瞬間には消えうせていた。ティアは、足に力を込めた。衝撃に備えるために。
 次の瞬間、強い風が吹いたような音が響いた。光が、路地を駆けた。
 ゆっくりと景色が移り変わっていくように、ティアは感じた。目を瞬かせるわずかな合間に、ヒースの拳から放たれた輝くプラーナが、ティアを捕えていた男の顔面を殴打する。
 仰け反ったところへ追い討ちのように男に体当たりをして転ばせると、ティアは素早く駆け出した。
 何が起こったのかわからぬ男たちの合間をすりぬけて、ヒースの元へと駆け寄る。ほっとしたように迎えるヒースに涙が出そうだった。
 そして、あのときのようにティアをかばいながら、ヒースが一歩前に出る。
 ばきっと拳をひとつ鳴らして、いう。
「さて、覚悟はいいか? あまり騒ぎにしたくはなかったのだが、いたし方あるまい」
 ヒースが光を帯びたその拳を構えると、男たちの顔が一斉に恐怖に歪んだ。
 そこから先は一方的とさえいってもいいくらいだった。徒手流派を極めたヒースに、勝てるわけがない。男たちが焦ってナイフを無様に振るうたび、ヒースの冷静さと強さが際立つようだった。
 そうして。騒ぎを聞きつけたカレイラ兵士たちが駆けつけた頃には、すべて終わっていた。

 

 カレイラ兵士にことの次第を告げ終わったヒースが、立ち尽くすティアのもとへとゆっくりと歩いてくる。
「すまん。大丈夫か……っとと」
 ぼすん、とティアはヒースの胸に飛び込んだ。ぎゅうと無言で抱きつくと、安心させるように、その背をぽんと叩かれた。それだけで肩の力が抜けていく。
「一人にしたのがまずかったな……悪かった」
 ふるふるとティアは頭を振った。ヒースが悪いわけではない。そう伝えたくて、さらに頬を押し付けると、優しく抱きしめられた。
 ゆっくり顔をあげると、ヒースの顔がすぐそこにある。突然気恥ずかしくなったティアは、自分から身を寄せたというのにその腕の中から抜け出そうともがいた。
「あ、あの、抱きついたりしてごめんなさい。だから、その……」
「ははは、離すのが惜しいんだがな」
「もう、からかわないでください……」
 急にうぶな反応をみせたティアに笑いかけ、ヒースは腕を開いた。
「さて、いこう」
 すい、と手をとられる。誘われて歩き出す。ここに長居させるのはよくないと、ヒースは思ったのだろう。ついていきながら、ティアは小さく頭を下げた。
「また、助けてもらっちゃいましたね」
「そうだな。というか、君が事件に巻き込まれやすいだけなんじゃないのか?」
「そ、そんなこと……ない、と思います……たぶん」
 むう、と唇をわずかに尖らせるとヒ-スの笑みが深くなった。
 人の少ない落ち着ける場所を選んで進んできたせいか、やがて二人は闘技場にたどり着いた。色気も何もない場所であるが、階層わけされている街の構造上、そこからは西へと沈みゆく太陽がよく見えた。静かに吹く風に身を任せれば、穏やかな時間が流れ出す。
 ティアはその空気に包まれながら、おずおずときりだす。
「……さっき、助けてくれたときにいっていた言葉、覚えてますか?」
「どの言葉だ?」
 とぼけるような問い返しに、ティアは視線を下げた。
 ――そんなにこの女が大事かよ――あの男の問い掛けに、迷うことなく「そうだ」と頷いてくれたくせに。
 嬉しかったのに、と聞こえるかどうかの小ささで呟くと、ヒースが照れを誤魔化すように頭を掻いた。
「オレは、嘘は嫌いだ」
「……!」
 それは独り言のような静かさだったが、ティアの耳はしっかりと捕らえていた。はい、と小さくこたえてティアは口を噤んだ。
 そうして二人の間に心地よい沈黙が広がる。だがそれもわずかな合間。
 大地の端に近づくにつれ赤く熟れていく陽をみつめ、ヒースがまぶしそうに目を細めた。
「そろそろ、日が暮れるな」
 ヒースの言葉は、頃合だ、終りだと告げているようだと、ティアは思った。
「――はい。あの、今日はありがとうございました。それで、あの、私……」
 風に長い髪が流れるのも構わず、ヒースの顔をみあげる。ぱち、と視線があった。じっとみつめられて、ティアの頬が熱をもつ。
「えと、あの……」
 ぎゅ、とスカートを握り締める。いうなら今だ。種明かしをして、びっくりした? と、言うのなら今しかない。でも、ヒースの強い視線がそれをいうのを阻む。喉にでかかった言葉が、ひゅうと胃の中に落ちていく。
「そうか、一日しか君はいられないんだったか……」
 苦しそうなその声に、胸が痛い。
 もうこのまま、別れるべきだというような気がする――正体を、教えられない。そんな目をしてみつめる相手が、ティアだと知ったら。きっと、ヒースはがっかりするに違いない。
 そんな思いつきに突き動かされるように、ティアはするりとヒースから距離をとる。だが、その傍らが名残惜しい。後ろ髪をひかれるというのは、こういうことをいうのだろう。
 それを断ち切るように、ぺこりと頭を下げる。
「ええ。だから私、もういきます。ヒースさんのおかげで、今日はすごく楽しかったです!」
 にこ、と笑いながら顔をあげる。これで、終わりのはずだった。終わると思っていた。
 だが、身を翻す直前に手首を捕まえられて、ティアは息を飲んだ。
「いくのか」
「……は、はい」
 ヒースの大きな手は、優しいのに振りほどけそうにない。
「まだ、一緒にいたい」
 求めに応え「私もです」、と反射的に言いかけるのを堪えて、ティアは弱弱しく頭を振った。ヒースの表情が寂しげに曇る。
「あ、あの、手を……」
 離してくださいという前に、すいとヒースが一歩前にでる。ティアは思わず後退しようとするが、ぐっとこめられたヒースの力がそれを許さない。
「では……また、オレと会ってくれないか」
 そのまま、ぐいと引き寄せられ、ティアは目を見開いた。押し付けられたヒースの胸に手をつく。抱きしめられていると自覚して、悲鳴をあげそうになる口をなんとか閉じる。
 大騒ぎする心臓を抑えて、ティアはそこから逃れようと試みる。だけど、ヒースの逞しい腕は、檻のようで鎖のようで。ティアを決して放そうとはしてくれない。
「あ、あの、私、私……」
「会えるといってくれ。でなければ、いかせられない」
 耳に落とされる声が、熱くて甘くて、頭がしびれる。チョコレートの沼に、ぽいと放り出されてしまった気分だ。そのまま溺れたくなる。
 ティアは、おずおずとヒースの胸に頬を寄せた。自分の鼓動が煩くて聞こえないけれど。もしかしてヒースも、今の自分と同じように、どきどきしているのだろうか。
「……あ、会えます……会いに、きます」
 ヒースにだけ聞こえるように、そう伝える。ただ、「いつかの、未来に」そんな言葉は飲み込んだ。いつもの姿に戻ればどれだけだってかなうことだけれど、この姿に成長するまではまだ先だ。だから、今はそうとしかいえなかった。
「――そうか。その言葉を信じよう」
 ゆっくりと腕が解かれる。痛みを覚えていた身体が、緩む。
 ほ、と息をついた瞬間、一足先にティアの目の前が夜色に染まった。
 それが、ヒースの顔が覆い被さってきているからだと、息ができないのは唇を唇でふさがれているからだと、そう気付くのは一拍の後。
 ごく自然に唇を奪われたティアは、目を見開いて己に口付ける男を凝視した。その感触を覚える暇もなく、ヒースの顔は波が引くように、遠ざかっていく。
「今日のことを忘れるな。オレは、決して忘れない。――次は、逃がさない」
 ヒースという男のこと。そして二人で過ごした時間を心に刻めと命じる、言葉だった。
 闇が忍び寄る闘技場で、影の落ちたヒースの瞳が、秘めた感情を帯びて揺らめいている。
 ああ、ヒースはこんなにも情熱的な人だったのか。
 知らぬ一面をみせつけられてティアの肌が粟立つ。それが自分に向けられていると思うだけで、この場に崩れ落ちてしまいそうだった。
 ティアの髪を絡めとった手が、その一房をヒースの口元へと引き寄せる。そこにも口付けを落とされて、神経がかよっていない場所のはずなのに、ティアは震えた。あまりにも恋しさを隠さぬヒースに、唇が震える。
 ティアだと、言いたかった。私は、あなたの弟子で。ローアンの街の下町に住む女の子で。ただ、あなたに恋をしている女の子なんだって、いいたかった。
 でも、今のヒースがみているのは、ティアじゃない。今の、自分じゃない。
 俯き、奥歯を噛み締めて、ティアはヒースの腕をすり抜けた。
「さよう、なら……」
 ティアは、ヒースに背を向け、駆け出した。
 長いスカートが足に絡まる。だけれど、気にしてなんかいられなかった。身体が熱い。熱い。息が上がる。身体の奥へ奥へと、押し込められるような感覚にティアはあえぎながら走り続けた。
 どこをどう通って帰ってきたかは、覚えていない。
 ただ、なんとかたどり着いた家に飛び込んで、ティアは扉に背を預け――ずるずると、しゃがみこんだ。
 はやく、大人になりたい。ヒースにあんな瞳を向けてもらえるように、大人になりたい。
 自分が恋敵なんて、なんてたちの悪い冗談だろう。
 ひたすらにそう思いながら、ティアはぶかぶかになった服に包まれたまま、膝頭に額を押し付けた。
 さらり、肩の上で切りそろえられた髪が揺れる。母のスカートは、恋に喘ぐ我が子の涙を、ただ優しく受け止め続ける。
 姿を消した太陽に成り代わり、宵闇がゆるりと世界に広がっていった。

 

 

 高いところから降り注ぐ昼の太陽光を浴びながら、どこかぼんやりとした顔でフランネル城門の傍らにたつ男に、ティアはそろそろと近づいていく。手にしたものを見下ろしているせいで、ヒースはティアに気付いていない。
「こんにちは、ヒースさん!」
「よう、ティア。待ってたぞ」
 夢幻であったような日が終わり。今日も、何事もなかったように太陽は昇った。
 そんないつもと同じ何気ない日に、いつもと同じように元気よくヒースへと挨拶をしたティアは、にこりと笑った。ヒースは驚いた風もなく、いつものように腕にへばりついてきたティアに応え、挨拶を返してくれる。
 そこにあるのは暖かく包み込むような笑顔で、昨日のような、一人の男として女を求める色はちらともみえない。それも当然だ。今のティアは、ヒースにとってよく出来た弟子の女の子にすぎないのだから。
 家に帰ってから泣いてすっきりしたはずなのに、ちくりと胸が痛む。それを押し込めて、ヒースの顔を覗き込む。
「待ってたっていうわりに、とってもぼんやりしてたみたいですけど」
「……そうか? そこまで腑抜けていたつもりはないんだがな」
 顎をさすりながら、困ったように眉を下げるヒースに、いつもの覇気がない。
「なにかありました?」
 わかっているくせに、そらとぼけて問いかけるのはなかなかに難しい。
 ヒースは、そんなティアを見下ろして僅かに沈黙した。じっと見つめられることを不思議がるように、ティアは首を傾げてみせる。
 冬の湖のような青灰色をたたえた瞳が、ふいに揺れる。
「――ああ。とてもいい思い出になるようなことが、な」
 そういって、にかっと笑ったヒースが、ティアの頭をくしゃくしゃと大きな手でかき混ぜるように撫でた。
「やだっ、せっかく梳かしたのに!」
「はは、すまんすまん」
 乱れる髪を押さえて抗議するようにティアが声をあげると、悪びれた風もなく謝られる。
 頬を膨らませ、ティアは髪に指を通す。ものすごい子供扱いだ。昨日とはいってくるほど対応が違う。
「ヒースさんの馬鹿」
 紳士的対応と真逆の乱雑な仕草に対する不満が、ティアにそんな言葉を吐かせた。
「まあ、そう怒るな。侘びに一緒に昼飯でもどうだ?」
 大きな背を屈めたヒースが、宥めるようにいう。その言葉を待っていたとばかりに、ティアは表情を一変させた。
「もちろんおごってくれるんですよね?」
 くくく、とヒースが笑う。
「ああ、なんでも好きなものを頼むといい」
「やった!」
 ぴょんと飛び上がりながら、ティアは声をあげる。そして、ぐいとヒースの手を引っ張った。
「いきましょ、ヒースさん!」
「待った。その前に」
 そんなティアの前に、大きな手が差し出される。そこには、ヒースがついさきほど見下ろしていたものが、乗っている。
「ティア。これを君に」
「?」
 はやくとれ、といわんばかりに突きつけられて、ティアはそっとそれを手にした。クリームホワイトの柔らかな布越しに、冷たさが伝わる。ゆっくりと開くと、隠されていたものが煌いた。ティアは目を見開く。
 それは昨日、露店でみた、小花を模したあの髪飾りだった。ティアが、素敵ですねといったもの。ヒースが、君の髪によく映えるだろうといってくれたもの。
 何故これがここに――どうして?
「えっと、これは……?」
 混乱しつつ、ティアはのろのろとヒースをみあげた。そして、顔を上げなければよかったと、赤く染まっていく頬を自覚しながら、そう思った。
 ヒースが、笑っている。それは、恋しい女をみつめる男の顔だった。
「別れのときに、渡しそびれたものだからな」
「え、え?」
 渡しそびれた? 誰に? 私に? ……あれれ?
 飄々とした発言の中身を噛み締めつつ、ティアは眉間に皺を寄せた。
「……ええっと……」
 にや、とヒースが笑う。その表情を間近で見上げたまま、ティアは必死に考える。
 もしかして、もしかして……! っていうか、もしかしなくてもバレている――?
 隠していたものを知られたゆえに出る冷や汗なのか。火照った体を覚ますために出てくるものなのかわからぬ汗をかきながら、ティアはぱくぱくと口を開け閉めした。
 そんなティアの様子を満足げに眺めて、ヒースがいう。その瞳が、甘やかな光を帯びている。
「いつまでも待っているから、それをつけた君とまた必ず会おうと伝えてくれ――『彼女』に」
「……な、な、なななな……!」
 何言っているんですか意味がわかりませんよ、という言葉は、形になることはなかった。ティアは、ゆっくりと空気の抜けていく風船のように俯いていく。
「君に言えば伝わるだろう?」
 いつから? どこから? なんで? どうして?
 ぽろぽろとあふれ出す疑問は、どれひとつとて言葉にならない。
「頼んだぞ」
 ぽんと肩が叩かれる。勢いによろけたティアの高みから、陽気な笑い声が降ってくる。
 ティアが黙り込んでいると、やがてヒースは、ふいに声を止めた。見計らったかのように、風が、ごうと強く二人を撫でた。
 その向こうから自分を見つめる男の、熱っぽい視線がティアの記憶に焼け付く。
 そうして世界に落ちた言葉を、ティアは生涯忘れることはない。

「こうして会いにきてくれたんだ――もう、逃がさん」

 昨日の儚い夢と同じように。再びその隣を歩ける日が約束されたことを、ティアはその中に知る。
 頭の中が、雪原のように真っ白になっていく。何も考えられない。
 小さな手のひらの上にある髪飾りが、自分がその証拠だと誇らしげに伝えるように、静かに輝く。
 思考の停止に伴い、まったくもって動かなくなったティアにヒースが笑う。練りに練った悪戯に成功したような、その顔。
「オレをからかおうとした君が悪い」
 すい、とそのまま固まりきったティアの腰を攫って、ヒースは顔を寄せながらとどめの一言を囁いた。
「――抑えてたこっちの気持ちを暴いた責任も、ちゃんと、とってもらわないとな」
 ちゅ、と頬に落ちたその唇が離れた数拍の後。
 ティアは声にならない悲鳴をあげた。それをみたヒースは楽しげに笑い。
 二人の声は、街の上遙か、どこまでも広がる青空へと、賑やかに響いた。