「……だって……ヒースさん、婚約するんでしょう?」
そしていつか、結婚する。手の届かない場所にいく。
ティアの言葉に、ヒースの瞳が見開かれる。その様子から、知られていると思ってはいなかったことが伺えた。秘密裏に進められていたというのだから、当然だ。
ティアは、ぎこちなくもなんとか笑ってみせた。
「おめでとうございます。私、知らなかったから。だから、あんなに気安くヒースさんにまとわりついちゃって……」
そう言って、ごめんなさいと、小さく頭をさげた。
ぐい、とヒースの胸を両手で押す。意外にすんなりと、ヒースの腕がほどけてゆく。戒めから解放されたティアは、俯いた。
「きっと婚約者になる人だって、いい気分じゃなかったはずですから……だから、ヒースさんがなにかしたとか、そういうわけじゃありませんから」
自分の立場を弁えただけだ、と言葉に滲ませる。それは、自分に言い聞かせるためのものでもあった。
自由になった体を抱きしめるように、ティアは身を縮めて数歩後ろに下がった。
「その話なら、」
ぽつん、とヒースが声を漏らす。やけにはっきりとティアの耳にそれは届く。
「断ってきた。今日ようやく、あちらも納得してくれたところだ」
嫌な音しか奏でていなかった心臓が、一瞬止まった。ティアは大きく体を震わせる。
わずかな沈黙のあと、ティアの震える唇から零れた言葉は。
「……うそ」
ヒースの言葉を信じられないと、そう短く否定するものだった。
あまりにも頑なな態度をとり続けるティアに苛立ったのか、ヒースが自分の前髪をくしゃりとかき回す。
「嘘じゃない」
「だって、だって、なんで……そんな……」
同じような言葉を繰り返すティアに、一歩近づきながらヒースは口を開いた。
「好きな女ができたといって、頭を下げた」
「……!」
好きな女という言葉が、頭の中にがんがんと木霊する。
婚約話を蹴るほど、ヒースが好きになった人が、いる。
ああ、やっぱり、私の恋は実らないのか。
自分が滑稽すぎて、ティアは泣きたいのか笑いたいのか、もうわからなくなってきた。
そう思ったら、ティアはとまれなくなった。溜め込んでいたものが、一気に噴出す。
「……そうですか……よかったですね、婚約せずにすんで! だったら、もうヒースさんは自由なんでしょう? じゃあ、その好きな人とやらのところにいったらいいじゃないですか!」
言外に、私のところにくる必要などなかっただろうと突きつけて、ティアは踵を返して、もうすぐそこの家へと向かう。
「おい、ティア!」
「や、だっ! 触らないでくださいっ」
伸びてきた手を払い落とすようにして、ティアは逃げる。ぎりっとヒースをにらみつけ――ティアは、くしゃりと顔をゆがめた。
あ、とヒースが小さく声を漏らして、戸惑っている。
頬を伝う雫を拭うことなく、ティアはスカートを握り締めた。
「わ、私のことは放っておいてください。だって、関係ないでしょう? ヒースさんが、好きだっていう人のところに、はやくいってあげれば……いいじゃ、ない、ですかっ……」
最後はもう、涙声だった。
はやく、ヒースに去っていって欲しかった。こんな姿、見られたくない。でも、もう足が動かない。歩き疲れてしまったときのように、重い。このまま、うずくまって泣きたかった。
「オレの話を、聞いてはくれないのか」
聞きたくない、聞きたくない。
ティアは耳をふさいで、拒絶するように大きく頭を振った。
だめだ。今の自分じゃ、大好きな人の幸せさえも喜べない。
こんな、嫌な子になるくらいなら。
「もう、やだ……。こんなことなら、帰ってこなきゃ、よかった……! ヒースさんに会わなきゃよかった! もう、やだぁ!」
「ティア、いい加減にしろ!」
「っ!」
大きな手が、ティアの肩を痛いほどに掴みあげる。痛みだけじゃない、ヒースに怒鳴られたことに、ティアの全身が萎縮した。
「そんなことを、いわないでくれ。オレは、君と再会できてよかったと思っている」
ひくっとティアは空気を吸い込んで目を開いた。
「オレは君が旅にでてからも、その身を案じないことはなかった。今どうしているかと、怪我でもしていないかと。無事を信じてはいたが、ずっと気になっていた」
「でも、それは、」
ティアは、は、と息をついた。
「それは、私がヒースさんの弟子だから、でしょう?」
ティアだって、ローアンの街に住む人たちはどうしているかと思い馳せないことはなかった。でもそれは、友人や恩人への他意のない「好き」という気持ちからだ。
そして、きっとそれはヒースがティアに対して感じているものと一緒。三年前なら、素直に喜べたはずのもの。
でも、それは今のティアが欲しい「好き」じゃない。
「……そうだ。君がオレの弟子で、皇子を助けてくれた恩人でもあるからだ」
ほら、やっぱり。
ヒースの言葉に、ティアは自嘲気味に笑った。そんな表情に、ヒースが眉をしかめている。
「ティア、最後まで話を聞いてくれ」
ティアのはやとちりと諌めるようにそういって、ヒースはぐいとティアを引き寄せた。ふらり、ティアは半歩前に足をよろめかせた。
「君がいうとおりの理由もある。だが、オレにはもうひとつ、君に会えてよかったと思う理由ができた」
え、とティアは顔を上げた。
大好きな青灰色の瞳がすぐそこにある。優しく、それでいて熱い。その視線のなかに、焦がれるようなものを感じて、ティアの胸の奥がきゅうっと絞られる。
「久しぶりに君の姿をみたとき、オレはどうしたらいいのかわからなくなった。三年ぶりにあった君は、あの頃よりずっと綺麗になっていて、もう、あどけない少女じゃなくなっていた。情けないことに、頭の中が真っ白になったよ」
小さく笑って、ヒースは続ける。
「あの頃のようは扱えない。そう、思った」
囁く声が、ティアの耳の奥を震わせる。その響きに、思考が霞むようだ。その感覚を必死に抑えながら、ティアは涙越しにヒースの視線を受け止め続ける。
「そう思うのに――時を重ねていけばいくほど、君に触れたくなっていった」
自分でも驚いたと、ヒースが瞳を伏せる。それはなにか、とてつもない痛みを耐えるような仕草だった。
ティアはそっと、ヒースの腕に震える己の指先を重ねた。肩を包む手のひらの熱が心地よい。離れて欲しくない。もしかしたら、ヒースも離したくないと思ってくれているのかもしれない。
「それが、君を守りたいと思っていたあの頃とは違う気持ちだと、気付いた。君に惹かれていく自分を、自覚した」
とくん、とティアの心臓が軽やかに、甘い鼓動をひとつ刻む。
「だから、オレは婚約を解消してもらった。自分の気持ちに、嘘はつけないからな」
つまり。ヒースがいっているのは。
「それは、さっきヒースさんがいってた……」
――好きな女ができたといって頭を下げてきた――
ティアの脳裏に、ヒースの言葉が蘇る。
「だから、いっただろう。婚約話は白紙にしてきた。そして、一番に君のところへきた。さっき言っていた君への用件というのは、もういわずともわかるだろう?」
「っ……!」
さすがのティアにもここまでくればわかる。ヒースがどうして、そんなことをしたのか。
あう、と顔を真っ赤にして驚きの表情を隠せていないティアに、ヒースはゆるりと笑った。
「さっさと好きな女のところへいけといったのは君なのに、どうして驚くんだ」
「だ、だって、そんな……私、だなんて。思うわけ、が……」
ついさっきまで失恋やら絶望やらの渦に叩き込まれていたティアの心が、ふわふわと温かくなって羽でも生えたように舞い上がる。
あわあわと目を白黒させている間に、ヒースが顔を寄せてくる。
「君はどうだ」
「ふぇっ?!」
「オレをどう思っている」
「あ……う……」
「ティア」
答えを求めるヒースの瞳が真剣で、怖いくらいだ。
「君はオレを好いてくれている――そう思うのは、オレの自惚れか?」
そんなことない。その通りだ。どこまでだって、自惚れてくれていい。
そういいたいのに、ティアの唇は動かない。言葉が、喉の奥からでてこない。
だからせめて伝わるように、この気持ちを持っていって欲しいと願って。目を閉じた。
ふ、とヒースが笑う気配がする。
わずかな時間の後。
やんわりと落ちてきて唇に触れたぬくもりに、ティアは小さく声を漏らした。
長いような、短いような。ただ重ねただけのものなのに、どっと胸のうちから指先まで押し寄せる感情の波に、全身が慄く。
離れていくぬくもりを忘れないよう最大限努めながらティアが目を開けると、そこに困ったような、驚いたような顔をしたヒースがいた。
そして、今さっき、ティアに初めて口付けてくれた自分の口元を手で覆い、「まいったな」とつぶやく。
どうかしたのだろうか、と。
疑問符がティアの頭に浮かんだ瞬間に、ヒースの腕が伸びてくる。そして、ティアの肩を抱いたまま、歩き出す。
ティアを引きずるようにして家の扉の前までくると、勢いよく開け放つ。そのまま、もつれあうようにして二人で雪崩れ込んだ。
だが、きつく抱きしめられたティアは転ぶことなどなく。
「すまん、ちょっと……無理だ」
「!」
切羽詰ったようなその声に、ティアは身を硬くするだけだった。
ティアの意思をきく余裕がないとでもいうような性急さで、もう一度唇が塞がれる。
外の明るい景色が扉の向こうに消えていくのを視界の端に感じながら、ティアは目を閉じた。
ぱたり、と小さな音をたてて、外界から小さな部屋が隔離される。
それを待っていたとばかりに、ヒースの口付けが深くなる。
その荒々しさはヒースがその心の内に抑えていたものを、ティアへと伝えてくるようで。
自分ばかりが、一方的に想っているとばかり考えていたのに――こんなにも、ヒースは自分のことを求めてくれていた。
悲しみではなく喜びに零れた涙が、頬を伝って床の上でいくつも弾ける。
そんな嵐に翻弄されつづけて、ティアの意識が朦朧としてきた頃。ようやくヒースは離れていった。
まだ、ヒースは満足したというわけではなさそうだが、やりすぎただろうかと心配そうに、青灰色の目が細くなる。
蕩けた顔をしたティアの頬にある雫の跡を拭うように指先が触れて、頬に大きな手のひらが押しあてられる。それにそっと己の手を重ねて、ティアは震える睫を伏せた。
まだ痺れるような感覚が残っている唇を、懸命に動かす。どうしても今、想いを言葉にしたい。
「……ヒースさん、好き――」
そして、小さな音をたててヒースの手のひらに口付けると。
む、とヒースが息を飲む。そして、深く深く息をついてティアを再びその胸へと引き寄せる。
「本当にまいったな」
心底困ったようにそういって、ヒースがぎゅうと腕に力を込めてくる。
「離したく、なくなる」
胸をちりちりと焦がすような抱擁に身を委ねながら、ティアは思う。
そうしてくれればいい。もうヒース以外の誰のもとにもいけないようにしてくれればいい。
「そうして、ください」
そう囁いた瞬間に、大きな身体を震わせた男を、ティアはとても愛おしく思いながら――その細い腕で、決して離されないように。
ヒースを強く、抱きしめ返した。