おかしい。
なんでこんなことになっているんだろう。
俯き、膝の上で小さな手を握り締めたまま、ティアは泣きたい気分に陥っていた。
二週間前あんなに泣いて、泣いて――もうこれ以上、破れた恋に流すものなどないと思っていたけれど。
その原因たる男を前にすれば、心が揺れて仕方がない。ずきずきと痛むこめかみを、思わずそっと撫でた。
穏やかな晴れた午後。静かな通りに面した洒落た雰囲気のカフェテラス。果物がたくさん乗った可愛らしいケーキと、柑橘類に似た香りを漂わせる紅茶を並べた、丸いテーブルの向こう。悠々と座ってお茶を飲む男を、ティアは暗澹たる気分で一瞥する。
生活用品の買出しに出かけた矢先、街中でヒースに出くわし、慌てて回れ右をしたところでつかまってしまったのが運のつきだった。
そのまま、何か言う前にずるずるとこの店に連れてこられて、あっという間に注文がなされ、この状態。
すでにこうしてから半時ほどたっているような気がする。いや、実際は数分のことなのかもしれないが、ティアにはそれくらい長く感じたということだ。
「えっと……」
このまま、ずっとこうしていても埒があかないし、なるべくならこうしていたくない。
だって、いつ泣いてしまうかわからない。
もう会わないようにしなければと思った心が、溶けてしまう。
だが、口を開いてはみたものの、思考がまとまらない。言葉はどうやってつくるものだったろう。
「……奢ってもらっちゃって、すみません」
そして、なんとも間の抜けた台詞しかでてこなかった自分に、ティアは別の意味で泣きたくなってきた。
「いいや。君から貰ったものの礼だからな。気にするな」
「え?」
ティアは、思わず眉を顰めた。
会ってからも、あんなことがあってからも、ティアはヒースに何かプレゼントした覚えはない。三年前ならいくつか品を渡したことはあったけれど、そのお礼というにはあまりに時間がたちすぎている。
全然思い当たる節がなく、ティアが小さく唸っているとヒースが苦笑いした。
「ドロテア王女から、君がつくったというお菓子を渡されたんだが」
「あ……」
ティアは、小さく声を漏らした口に手を当てて目を見開いた。
あのとき、ドロテアに押し付けてしまった紙袋を思い出す。確かに、ヒースのために作ったものではあったけど……。ドロテアが、気を利かせたのだろうか。
ようやく思い出したか、とヒースが笑う。
「ありがとう、美味しかった。そのことで君が来たときにでも礼を、と思っていたんだが……ここ最近は、顔をみせにもきてくれなかったからな」
あう、とティアは呻いた。あの日から、ヒースのもとを訪れたことは一度もない。
だから、とヒースが続ける。
「今日は、こうしてオレから出向いたというわけだ」
「……すみません、わざわざ」
ティアは小柄な体をさらに小さくしながら、か細い声で謝った。
「そういえば、お話の続きも……ありましたね」
まだまだ語りつくせぬ旅の思い出はあるけれど、今のティアには二人きりで会うのは辛い。今だって、そうだ。
そんなティアの心境など知らぬヒースは、朗らかに笑う。
「いや、君だって都合というものはあるだろう。それに、オレが勝手に君を待って……いや、会いにきただけのことだしな」
「……!」
ぎゅう、っと手のひらに爪が食い込ませながら、ティアは俯く。
この二週間、ヒースはティアが来るのを待っていてくれた。そして、会いにまできてくれた。
ただ旅の話の聞きたいだけだったのかもしれないけれど。お菓子の礼をしたいだけだったのかもしれないけれど。
それでも、凄く嬉しいと。思ってしまった。
「ティア、そのままだと紅茶がさめるぞ」
優しく細まる瞳に、胸の鼓動を速めながら――ああ、やっぱりまだヒースのことが好きだ、と。どこか他人事のように感じながら、ヒースに勧められるまま、のろのろと手を伸ばしてティーカップに指をかけた。一口飲めば、じんわりとした僅かな苦味と一緒に、さわやかな香りが通り抜けていく。小さな皿の上にあるケーキも、フォークを使って小さく取り分け、口に運ぶ。
甘い。
ティアの心の内とは正反対の感覚を舌先で味わいながら、もごもごと口を動かし続ける。
そんなティアを邪魔するつもりはないのか、ヒースは黙って紅茶を飲んでいる。
そして、静寂のうちにあともう一口でケーキがなくなる、というところで。ヒースが切り出した。
「ティア……あのな、まあ、菓子の礼をしたかったというのもあるんだが、実はその、他の用件もあってな」
ぴくっとティアは肩を震わせた。
――まもなく、婚約するらしいのじゃ――
そんなドロテアの言葉が蘇る。
きっと、ヒースの用件はそのことなのだろう。弟子の自分に教えておこうと考えたのか。
聞きたく、ない。
そう思ったあとの、ティアの行動は素早かった。
残りのひとかけら分のケーキをくちに放り込み、残った紅茶を一息に飲み干しカップを下ろす。カップの底とテーブルが触れ合って、大きな音が響いた。
ティアのそんな急いだ様子に、ヒースは言いかけた言葉を飲み込んでしまっている。
その隙を逃さぬように、ティアは早口で告げる。
「あ、ありがとうございました……! 私、もういきますね! ご馳走様でした、おいしかったです!」
「あ、おい! ティア!」
席を立ち、去ろうとするティアの手首を、ヒースの大きな手のひらが捕まえる。伝わる男の熱に、ティアは震えた。
「……君に、聞いて欲しいことがあるんだ。少し、時間をくれないか」
「いや、です」
そう、即答して。
ティアは一瞬、しまったと思った。だが、それは正直な気持ちだし、もうそろそろ我慢できない。耐えるのが辛い。自分ばかり、こんな思いをするなんておかしいとさえ、考えてしまう。
断られるとは思ってなかったのか、それともいつものティアらしからぬ言動に驚いたのか、ぽかんと口をあけたヒースの手を振り払う。
「失礼します」
それでも律儀に頭を下げることは忘れず。ティアは歩きだした。ずんずんと大きな歩幅で家へと向かう。もう、買い物をする気分も、きれいさっぱり霧散してしまった。
幾分か通りを進んだところで、ぐいと肩を掴まれる。
「!?」
「ティア、一体どうしたんだ? 君らしくもない」
まさか追いかけられるとは思っていなかったティアは、背後に立つヒースを。目を見開いて見上げた。
そして、聞き分けのない子供を窘めるような顔をしているヒースに、苛立ちを募らせる。
人の気持ちも知らないで。この心を奪ったのは、ヒースのくせに。こんな思いをさせているのは、ヒースなのに。
喉元までせりあがったそんな言葉を飲み込んで、ティアはヒースの腕を振り払って走り出した。
「っ!」
再び、驚愕して固まったヒースを置き去りにして、ティアは風のように通りを駆けた。
ここまですればさすがについてはこないだろうと、そう思っていたら。
「っ……このっ! オレが事務作業ばかりしていて衰えていると思ったら、大間違いだぞ! 待て!」
大きな声でそう言って。ヒースが、走り出す。それを僅かに振り返って視界におさめたティアは、驚いて声をあげた。
「うわわっ!?」
慌てて、前に向き直り速度を上げる。
通りを歩いていた街の住人たちが、何事かと視線を向けてくるが、今は気にしていられない。
幼い頃よく遊んだ人通りの少ない路を選び、障害物を飛び越えて、ローアンの街東部へ。道場前を抜ければ、あとは家まで一直線だ。
ゆったりとした曲線を描く舗装のない道も、あと少しでおわる。家が見えた、というところで。
「ティア!」
「きゃっ!」
先ほど肩を掴まれたときの衝撃とは比較にならない力強さで、ティアはヒースの腕の中に引き寄せられていた。
ようやく捕まえた獲物を絶対に逃がさないといわんばかりに力を込めるヒースを、ティアは睨み付けた。
視線を交わしながら、互いに荒い息を吐き、肩を揺らす。
「なぜオレから逃げる」
先に息を整え、口を開いたのはヒースだった。
「……逃げてなんか、いません」
ここまでしておいては説得力はないだろうが、ティアにはそう言うしかできない。それに、ティアは、ヒースというより自分の想いから逃げている。
「だが、オレを避けているのは確かだろう。どうして、話をしに来てくれなく――いや、会いにきてくれなくなった」
「……それは……」
正直に、ヒースが好きだから婚約話をきいて衝撃を受けたのだと、言えるわけがない。
「オレは君に何か、不愉快な思いをさせたのか?」
「……違います。そうじゃ、なくて……」
は、とティアは走ったあとの乱れた呼吸ではない、諦めの吐息を漏らした。
もう、ここが限界だ。とうとうたどり着いてしまった、逃げ場のない袋小路。
観念したティアは、奥歯を強くかみ締めた。