友人たちに励まされて、翌日。
己の気持ちに気が付いた以上、いつまでも逃げ回るなどできやしないと腹をくくったティアは、フランネル城内のとある部屋の前にたっていた。
そこは、外交官的な立場にもある帝国将軍のヒースに与えられた執務室だ。重厚な造りの扉は、古い歴史を誇るこの城にふさわしい意匠が施されている。その真正面で胸を押さえ、大きく深呼吸を繰り返す。
いざ、とノックをしようと小さな拳を持ち上げた次の瞬間。
「なにしているんだ、こんなところで」
横手からかかった声に、ぴゃっと小さく飛び上がったティアは、慌てて右方向に振り向いた。
そこにいたのは、ティアが会いたくて、いままさに訪ねようとしていた人物であった。
「ヒ、ヒ、ヒースさん……」
深緑の軍服に身を包んだヒースのわずかに驚いたような顔を見上げながら、ティアは小さく「こんにちは……」とつぶやいた。
は、と甘い息を吐く。胸の奥が熱いような冷たいような、もやもやした不思議な感じ。
それにしても、ヒースはやっぱり格好いい。素敵だと、思ってしまう。なでつけられた髪も鈍い青い色を称えた瞳も、昔と何一つかわらないのに。それはティアの胸を、際限なく高鳴らせる。恋ってすごい。
「ああ、こんにちは」
にこ、と微笑まれるだけで、泣きたくなるほどに嬉しい。
「じゃ、じゃあ私これで!」
「おいおい、何か用事があったんじゃないのか」
最初の気合はどこへやら、なんだか急にいたたまれなくなり、ぎこちなくきびすを返して廊下を去っていこうとするティアに、ヒースは声をかけた。
「えっと、いや、あの……とくに何があったっていうわけじゃ、なくて、ですね」
「そうなのか? ずいぶんと扉の前でたっていたように見えたが」
うっ、とティアは息を呑んだ。
「み、みてたんですか?」
「みてたというか……あの廊下の端を曲がっときからずっと微動だにしなかったからそう思っただけだ」
指差された長い長い廊下の、遠い角をティアは見た。あそこからここにくるまでずーっと見られていたのかと思うと、顔から火が噴出す気持ちになる。
「まあ、茶の一杯くらい出すから、飲んでいけ。そういえば、姫からいただいたクッキーがあったはずだ。せっかくだからもらっていってくれないか」
困ったように眉を下げたその表情と言葉に、ティアの心が躍る。
「甘いもの、相変わらずだめなんですか?」
くす、と自然にティアの顔がほころんだ。やっぱり、ヒースは変わってない。少しだけ、緊張が薄れた。
「まあな」
どこか照れたように笑い、首元に手を当てたまま、ヒースはさっさと部屋にはいっていく。
一人が通れるほどにあけられたその隙間が、ティアにどうぞといっているような気がした。恐る恐る、身を滑り込ませる。
「お邪魔しまぁす……」
「おう。適当にかけていてくれ」
そういって、ヒースは隣の部屋へと消えていった。
「はい」
きょろ、と視線を巡らせる。奥にはヒースが消えていった隣の部屋へと続く扉がひとつ。部屋の中に調度品の類はほとんどない。ソファセットが一組と、大きな執務机が目を引いた。机の上には、たくさんの紙の束と羽ペンがみえる。ここが、ヒースの仕事場。
初めて入る場所を漏らさず記憶に押し付けて、ティアは言われたとおりにソファに腰をかけた。
そうして待つことしばし。
やがて、香り高い紅茶を漂わせながらヒースが戻ってくる。片手には、お茶をのせたトレイ。もう片方には紙袋がひとつ。
「またせたな。ほら」
「わあ、ありがとうございます!」
差し出されたクッキーの入った紙袋を受け取って、ティアは微笑む。ヒースは空いた右手で、トレイから白いティーカップを手にすると、ティアに差し出した。
ふんわりと蒸気と一緒に立ち上る香りに、ティアはさらに目を細める。
これは、かつてティアが好みだといっていた茶葉だ。覚えていて、くれたのか。
その様子に、なぜかヒースが噴出した。
思わず目を瞬かせると。
「君も相変わらずだな。お菓子とその紅茶がよほど好きだと見える」
むむ、と唇を引き結ぶ。
確かにお茶もお菓子も好きだ。だが、自分が喜んだのは、ヒースがお茶の好みを覚えていてくれて嬉しかったからだ。
でも、それを口にするにはあまりに恥ずかしくて。ティアはつんとそっぽを向いた。
「そ、それはそうですよ。お菓子とか女の子は大好きなんです。こういう好みってそうそう変わりませんよ」
「お、それに似た台詞、昔も言われたような気がするな」
はっはっは、と向き合うようにソファに腰掛けたヒースが笑う。
そんなことをいわれて、はた、とティアも思い出す。そういえば、幾度か二人でお茶をしたときに、「女の子はお菓子が好きだ」とか、そんなことをいったことがあるような気がする。いつだったか定かではないのだけれど。
「ふふふっ、なんだか、私もそんな気がします」
そういって、顔を見合わせて微笑みあう。
「ほんとうに懐かしい」
そういって、ヒースは自分のカップに口をつける。僅かに唇を湿らせたヒースが、ほんの少し目を伏せた。
「今と違ってあの頃の君は、まだまだ子供だったが――その強い意志の宿った瞳は同じだな」
そんな風にみられていたということに、ひどく照れてしまう。ティアは、それを誤魔化すように言う。
「そりゃあ、お師匠様の唯一の弟子ですから」
「ああ、そうだな。君は、オレの自慢だよ」
わざとらしく胸をはってティアがそういえば、くすぐったそうにヒースが笑った。
ゆるゆると流れていく他愛ないこんな時間が、すごくすごく幸せなことのように思えて、ティアは甘い息をついた。
もっと続けばいいのに、と思ったティアの心を見透かしたようにヒースが口を開いた。
「なあ、ティア。せっかくきてくれたんだし、旅の話を聞かせてくれないか? この前約束していただろう」
あ、とティアは声を漏らした。そういえば、城に去っていくヒースとの別れ際、そんな約束をしていた。
「は、はい……! ええっと、でも、何から話したらいいかな……」
ティアの巡った場所は多く、なにから言葉にすればいいのか見当をつけることも難しい。
「では、一番印象に残っている景色は、どんなものだった?」
考えあぐねるティアにヒースが助け舟を出してくれた。それならば幾分か対象を絞り込める。
「そうですね、みんな印象深いですけれど。特に、といえばやっぱり――……」
そうして、ティアは遠い異国の話を語る。
極寒の地の青い氷、濃い緑に覆われた大地、深く赤い湖、大人の何倍もあるキノコの群れ。こことは違う文化をもった国が作り上げた美しい町並み、残されたどこか物悲しさ漂う古代の遺跡。
話はティアが過ごしてきた時間の分、際限なく続く。
それらに対して優しく頷き、ときに簡単な質問をしながら、ヒースは耳を傾けてくれた。
しかし、楽しい時間はあっという間に過ぎるもの。
夕暮れの赤い色が、室内をゆるりと侵食しはじめたころ。
「ああ、もうこんな時間だな。続きはまた今度聞かせてくれるか?」
翳る陽と時計を見比べて、ヒースが言う。
そして、君の話はおもしろくて興味深い、と続けたヒースに、ティアは大きく頷いた。
「はいっ、いつでも聞いてください!」
「ああ、よろしく頼む」
にこにことティアは微笑む。確たる日にちを決めたわけでもない小さな約束が、胸にすとんと落ちて、大切な宝物となったよう。
「さて、そろそろオレは準備しないといけないからな、今日はこれでお開きだ」
そういいながら、どこかやる気なさそうにヒースは立ち上がった。
「今日、なにかあるんですか?」
「ん……。まあ、な」
なんとも歯切れの悪い言葉に、ティアは首をひねった。
「大事な用事なんですね、お仕事ですか?」
「あ~……、なんというか。いろいろと、な」
ティアは頭の上に疑問符を並べる。せっかく答えてもらったのに、よく、わらかない。
「いいからいいから、ほら、暗くなる前にちゃんと家に帰るんだぞ。寄り道はするなよ?」
「もう、ヒースさんったら……私そんな子供じゃありませんっ」
言い聞かせるような言葉に、ティアはそう返して席をたつ。そのまま、わざとらしく頬を膨らませたまま、扉へと向かう。
その後ろを、悪かったといいながら、くつくつと笑い声を重ねるヒースが続く。
ティアは扉を開いて、数歩廊下へでたところで振り返る。
ヒースに、きちんと挨拶をしようと思ったのだ。今日は楽しかった、またこんな時間がすごせたらいいと伝えたかった。
だが、ヒースを見上げた瞬間――はく、と動いた唇は、言葉を発することはなかった。
夕焼けの赤い光を背負ったヒースの顔は、暗く陰っている。
軽く握った拳を右の扉に当てて、左手はティアが開いた扉のノブに添えて。ティアを包み込むように背をかがめているヒースの近さに、どきりと心臓が跳ねた。
「そうだな、君はもう――子供じゃない」
そんな言葉とともに浮かんだ、淡い笑み。
鼓膜を振るわせた低い声はなんだかとても甘い。それは熱さをもって、ティアの胸にとろりと落ちた。ぞくぞくと身体が震える。それを抑えるように、ティアはきゅっと胸元を握り締めた。
「またな、ティア」
ヒースの言葉が大気に溶ける。その音を飲み込むように頷けば、静かに扉は閉じられた。
聞こえるかどうかもわからないけれど、か細く「また……」と返して、ティアはふらりと歩き出す。
そうして、最初の廊下の角を曲がったところで、壁に手をつく。
ふわふわと夢の中を歩いているようだ。このままでは転んでしまう。もう片方の手の平を、熱を持つ頬に押し当てた。
ずるい。
あんな、今までみせたことない顔を、恋する自分にみせるなんて、ずるい。
ずぶずぶと底なし沼にはまるように、ヒースへの想いに深く沈んでいく自分を自覚する。
ティアは真っ赤な顔をして、酸素をもとめてあえぐ魚のように、浅くせわしない呼吸をただひたすら、繰り返した。