視線を交わしたその瞬間、04

 頬を薔薇色に染め、ティアは踊るような足取りでフランネル城を歩いていた。
 ふかふかの絨毯を踏みしめ、今日も向かうは恋する男の執務室。
 あともう少しで休憩時間になるはず。すっかり覚えてしまったヒースの行動を見計らって、会いに行く。それは幾度繰り返しても、胸躍る。
 なんとなく、あれ以来二人で過ごす時間をもつようになって、一ヶ月と二週間ほど。まだまだ旅の話はつきることがなくて、それを理由にしばらくはこんな風に会えるのだと考えれば、嬉しくて仕方がない。
 そして、今日は甘いものが苦手なヒースに配慮して、甘さを控えたお菓子という差し入れつきだ。
 それは、旅の話の続きをしながら二人で食べられるようにと、ティアが昨夜作ったもの。
 喜んでくれるといいな。
 そんな柔らかな希望を抱いて、長い廊下を夢見心地で歩いていると。
「なあ、ティア。すっげぇニヤけてる自覚、あるか?」
「えっ!」
 傍らに浮かぶレンポからの物凄く呆れた声の忠告に、ティアは足を止めて顔を押さえた。
「いいじゃない、恋する乙女って感じで! もう、ティアったらほんと可愛いわー」
 対して、同じように本日のお供を務めているミエリは、ひどく楽しそうにティアの頭を撫でてくる。そして、やたらと「可愛い、可愛い」と連呼してくるので、ティアはさらに頬を赤らめた。
「うう……」
 浮かれている自覚はあったが、それがそのまま顔に表れていたとは思っていなかった。そんな自分を恥ずかしく思いつつ、ティアは頬を覆う。
 ヒースに会えば、どうせぽかぽかと日向ぼっこでもしたように身体は温まるが、会う前から頬を火照らせていては話にならない。これまであまり人とすれ違ってはいないが、もしかしたら不審に思われてやしないだろうかと思ったティアは、なんとなく周囲に視線をめぐらせた。
 と。
「――ドロテア王女?」
「お? ほんとだ。なにしてんだ、あの姫さん」
豪奢なドレス姿の金の髪のお姫様が、こそこそと柱の影から影へと移動している。供の女官も連れず一体何をしているのかと、ティアはレンポと一緒に首をかしげた。
 どうも本人は素早く移動しているつもりらしいが、長いスカートや装身具などが邪魔をしていて、のたのたとした動作になっている。何かから身を隠そうしているようにも見えるが、膨らんだスカートが柱からはみ出している。どうもそのことには気付いていないらしい。
 先日会ったときには、王女と呼ぶにふさわしい人に成長したと思ったのだが、根本的なところはあまり変わっていないのかもしれない。
 そんなことを考えつつ、ティアはドロテア王女の後を追いかけた。ぴったり寄り添うようにして飛びながら、ミエリが瞳をくるりと巡らせる。
「ティア、どうするの?」
「んー、もし、一人で城下にいくつもりなら心配だし。ちょっと、何をしているのか訊いてみる」
 ――もしかしたら、勉強が嫌で女官から逃げているのかもしれない。
 ふとそんなことが頭をよぎったものの、さすがにもうそんなことはないか、と軽く否定をしつつティアは王女に追いつく。
「ドロテア王女、どうしたんですか?」
 そして、柱の影に身を隠して、何かを覗き込んでいるドロテアになんとなく声をかければ。
「ひっ!!」
 なんともいえない悲鳴をあげて、ドロテアが飛び上がって勢いよく振り返った。
 そんな想像もしていなかった反応を返されて、ティアは大きな目をさらに大きくした。
 ドロテアは胸を押さえ、身を縮めて。ティアをみつめている。
 その悪戯がみつかったような子供のような仕草に、ティアは目を瞬かせて言葉に詰まった。
「えーと……何か、壊しちゃったんですか? それともお菓子のつまみぐいしちゃったとか……」
「こ、子供の頃ではあるまいし、そのようなことするわけが……!」
 思わず失礼なことをいってしまったティアに、ドロテアは大きな声をあげて否定した。
 が、すぐにしまったといわんばかりに口元を押さえ、ティアをぐいと柱の影に引きずり込んだ。
「わわっ……!」
「しーっ! 静かにするのじゃ、ティア! みつかったらどうするのじゃ!」
「み、見つかるって……誰にですか?」
 さきほどとは違う、小声でドロテアがこそこそと耳打ちをしてくるから、ティアも自然と小声になる。
「こうなっては、致し方ないのう……。じゃが、まあ、ティアならばかまわぬか」
「「「???」」」
 ティアと精霊たちは、そろって頭の上に疑問符を並べた。
「これは内緒じゃぞ?」
「は、はい?」
 しーっと可憐な唇に白い手袋をした指先をあてて、ドロテアは何度も念押ししてくる。
「なんだよ、もったいつけずにさっさと言えばいいのによ――あ?」
 ドロテアの視線の先にあったものが、その内緒のことなのだろうと見当をつけたレンポが、柱の影からいち早く抜け出す。そして、間の抜けた声を出して固まった。
「なーに、どうしたの、レンポ――え?」
 人に姿を見られないという精霊の特性をよく知っているミエリも、堂々とレンポの隣に飛び上がった。そして、同じように声を漏らして固まる。
 そして、精霊二人は顔を見合わせ――次の瞬間、ティアに飛びついた。
「ちょっと待った! ティア!」
「た、たいしたものじゃないから、このまま行きましょ! ね?!」
「え、え、え?」
 何があったのかわからず、ティアがおろおろとしているうちに、ドロテアがわずかにティアの肩を押した。
「とにかく、あまり他言はせぬように! ほれ、わらわが見ていたのはあれじゃ」
 僅かによろめき、柱の影から視線を零したティアは、ドロテアがいう光景に目を見開いた。
 あっちゃー、と額に手をあてたレンポの声がやけに遠くから聞こえる。
「どうじゃ、いい雰囲気じゃろう?」
 ティアと同じように、こっそりと柱の影から様子を伺いつつ。楽しげにドロテアが言う。
 ばくばくと嫌な音をたてはじめた胸から浅い息を吐き出しながら、ティアはそっと震える手を握り締めた。
 今、目にしているものが信じられない。
 それは、一枚の絵のように、しっくりとおさまった一組の男女が寄り添う姿。
 手入れの行き届いた美しい庭へと続く大きな硝子扉をくぐり、明るい日差しの中へと歩いていく。
「ティア、大丈夫……?」
 ミエリの優しい気遣いの声に、ティアは目を伏せる。
 これが幻であって欲しいという願いも虚しく、ドロテアがうきうきと語り始める。
「あの二人、ティアが帰ってくる三ヶ月前くらい前に、引き合わされてのう」
 中庭へと出て行った二人を追いかけるように、ドロテアがティアの手を握り締めて柱から窓辺へ移動する。
 おぼつかない足取りでなんとかそれについていったティアは、綺麗に磨かれた窓越しに、腕を組んで歩くその男女――ヒースと、見知らぬ美しい女性を呆然とみつめた。
 幾度、目を瞬かせてもみえるものは変わらない。

「まもなく、婚約するそうなのじゃ」

 同じ光景をみて、微笑ましそうに羨ましそうに、屈託なくそう言ったドロテアの言葉が、ティアの頭に木霊した。
 ぱちん、とティアの胸のうちではじける音がする。膨らんでいた想いが、ぱらぱらと小さな欠片となって心の奥底へと静かに降り積っていく。
「……そう、なんですか。私、全然、知りませんでした」
 空ばかり見上げていて、足元の落とし穴に気付かず、まともに落っこちたらきっとこんな気分になるのだろう。
 悔しいような、寂しいような、悲しいような――負の感情がひとまとめにしたものを、無理やり飲み込んだように、体のあちこちが悲鳴を上げている。
「まあ、ティアが帰ってくる前のことじゃからのう。知らずとも仕方あるまい。それに、帝国の将軍に王国の貴族の娘ということでな、このことは内密に進められておったのじゃ。まあ、ここまでくれば隠す必要もないのやもしれんが……」
 だからこそ、こうして昼間から城の中庭に二人はいるのだろう。
 とにかく、このことはティアだから特別に教えてやったのじゃぞ? と、小さく胸を張るドロテアに、ティアは何もいえなかった。
 中庭に縫い付けられたように視線を逸らせないティアの横で、ドロテアはそっと息をついた。
「いいのう……。はぁ、ヴァルド皇子はどうしておられるかのう……」
 ドロテアが、ヒースたちをこっそり追いかけていたのは、二人の進展具合が気になっているというのもあるだろうが、結婚という響きにドロテアが憧れているせいもあるのだろう。
 じっと真剣な様子で何事か語り合っている二人に、自分と想い人を重ねるドロテアが羨ましい。ティアには、それができない。
 女性がころころと上品に笑って、対照的にどこか困ったようにヒースは微笑む。
「おい、ティアいこうぜ。……あんなやつ、放っておけよ」
「ティア……、ね、行きましょ……?」
 優しい声音で口々にそういう精霊たちに、小さく声を漏らしてティアは頷いた。
 つん、と鼻の奥が痛い。目頭が熱い。
 どうせなら、知りたくなかったな、と思う。
 ああ、伝えてさえいなかったこの想いは、どうしたらいいのだろう。密かに胸のうちで咲き綻んでいた恋の花は、まだこんなにも鮮やかな色をしているのに。それを差し出したかった人は、もう別の誰かの想いという名の花を受け取ってしまっている。
 だけど、知ることができてよかったな、とも思う。
 この恋が叶うことがないと現実が突きつけられるなら、はやいほうがいい。
 これ以上、好きになる前でよかった、と。
 そう、思わなければ。
「!」
 そう考えた瞬間――逸らすことのできなかった視線が、ふとこちらを向いたヒースとわずかに絡み合ったような気がして、ティアは身を翻した。
「ティア?」
 窓から身を隠すように動いたティアに驚いたドロテアが、息を飲む。
「っ……ふ、」
 ぱた、と頬に零れた涙を押さえようと、ティアは目元を押さえる。
「ティア!? ど、どうしたのじゃ! どこか痛むのか? 待っておれ、王族付きの医師と薬師をすぐに呼んで……」
「違います……! 具合が悪いわけじゃ、ないんです……!」
 あたふたと駆け出しそうになるドロテアを、ティアは制した。
 ふるふると頭を振れば、その拍子にぽろぽろと涙が零れていく。足の長い絨毯に雫を吸い込ませながら、ティアはしゃがみこんだ。
「ティ、ティア……、どうしたというのじゃ」
 世界から消えてしまいたいというくらいに体を縮めたティアを、ドロテアはそっと抱きしめた。おろおろとしながらも、声をかけティアの背を撫でてくれる。
「わらわが、何かしてしまったのか……?」
 違う。ドロテアが、悪いわけじゃない。
 悪いのは私だ。三年離れていて唐突に帰ってきて、勝手に好きになって、そのあげく失恋までしてしまった、馬鹿な自分が悪いのだ。
 考えてみれば、ヒースにそんな相手がいないほうがおかしい。そんな単純なことさえみえなくなっていた自分は、どれだけ盲目的にヒースに恋していたのだろう。
 帰ろう。
 ふと、そう思った。
 いつまでもここにいたって、辛い現実が変わるわけでもない。むしろもっと苦しくなるだけだ。今はここを離れて、すこし落ち着かなければ。
 ティアは、そっとドロテアの手を外すと、無理にぎこちない笑みを浮かべた。
 それをみたドロテアのほうが、いまにも泣き出しそうな顔をする。
「すみません、ほんとうに……なんでもないんです」
 涙声でこんなこといったところで説得力ないんだろうなとは理解しつつも、それ以外にできることなんてない。
 ティアは、腕の中の紙袋をドロテアに押し付けた。
「これ、もらってくれませんか?」
「じゃが、これは……ティアが作ったものではないのかや? 誰かに渡すつもりであったのでは……」
 ふわりと香るお菓子の甘い匂いに、ドロテアが不思議そうな声を出した。
「ん、と……もう、必要なくなっちゃった、から。いらなかったら、捨ててください」
 力なく笑って、極力中庭が目に入らないようにしながら、ティアは立ち上がった。
 手にした袋とティアを交互に見上げて、ドロテアはなにか思い当たったのか、「あっ」と声をあげた。
「ティ、ティア。おぬしまさか……」
 なにかいいかけるドロテアの前で、ティアはそっと人差し指を唇にあてた。
 それは、さきほど内緒だと楽しげに言ったドロテアと同じ仕草。
「内緒、ですよ」
 眉をさげ、にこりと微笑んで。ほろりと落ちた涙が頬を伝う前に、ティアは走り出した。
「ティア!」
 ドロテアの声を引きずり、城の景色を流れさせ、中庭の光景を振り切るように。
 フランネル城の長い階段を駆け下り、賑わう公園を突っ切り街中へ。やがて、家が近くなるにつれて、ティアはその速度をゆるゆると落とした。
「っ……くっ、ふぇ……ひっく」
「ティア、ティア、ね、泣かないで?」
「あんにゃろ、燃やしてやろうか……!」
 嗚咽を零しながら、とぼとぼと歩くティアの周囲を飛びながらミエリが慰め、こんな状態に陥れたヒースに対してレンポが怒り狂う。
「わ、わたしの……せい、だもん……」
 ぐすっと鼻を鳴らして、ティアは小さな我が家の扉に手をかけた。
「ティアは悪くねーだろ!?」
「そうよ、ティアはただヒース将軍のことを想っただけで!」
 精霊たちの言葉も、今は胸に響かない。ただ心配してくれるその心は嬉しい。
「ん、そう……だね」
 するりと家の中へと身を滑り込ませて、ティアは扉を閉じた。
 ほんの少し前、恋に身を任せてここから飛び出していった自分を思い出し、ティアは小さく笑った。あの瞬間は、本当に幸せだったのに。その終わりは、なんともあっけなかった。
 ヒースと結ばれると信じていたのかと訊かれれば、首を振るだろうけれど。こんな風に恋の幕が引かれるとは、思っていなかった。
 ふら、と寝台に向かいそのまま倒れるように、身を投げ出す。
 軋む音と柔らかな寝具に埋もれて、ティアはそっと瞳を閉じる。
 なんだか、とても疲れてしまった。
「ごめんね、こんなことに付き合わせちゃって……」
 とろり、と目蓋を下ろせば、眠気と一緒に精霊たちの気配が近づいてくるのがわかった。
「ううん。気にしないでいいのよ、ティア。ゆっくり、休んでね」
 そっと幼子をあやすような髪を撫でる穏やかなミエリの手。それは悲しみを洗い流すかのように零れる涙を、さらに誘う。
「ったく、あんま泣きすぎると干からびるぞ」
 呆れたような言葉なのに、宿るものはひどく優しいレンポの声に応えるように、ティアは枕に顔を埋めたまま、小さく声を漏らして頷いた。
 目を閉じれば、闇の中に蘇る光景に思う。
 お似合いだったなぁ……。
 ちょっと追いついたくらいのティアなぞ割り込む隙がないと、諦めざるをえないほどに。

 ああ――もう、ヒースには会わないようにしなければ。

 ほろほろと涙は留まることを知らぬように、溢れ零れる。
 そして、精霊たちに見守られながら。
 ティアは、暗く冷たい眠りの淵へ、すとんと落ちていった。