朝の空気も薄れてきた午前の半ば。
雲ひとつない快晴の空の下、踊るように風が街を駆け抜けていく。
穏やかな日に人々は街角で語らい、子供たちは歓声をあげて路地裏へと飛び込んでいく。古くから魔除けとしていくつも置かれている木箱の上で、白い猫があくびを漏らしている。
そんなローアンの街並みを背景に、長いスカートの裾を遊ばせて美しい人が歩いていく。誰しもが目を惹かれる瑞々しい生気に溢れたその人に、街の住民たちは一言二言、笑顔で声をかける。
伸ばされた艶やかな栗色の髪を靡かせ、生を謳歌するように瞳を輝かせたその乙女は、健康的な肌をほんのりと上気させ、上機嫌にどこかへ向かいながら愛想よく人々に応えている。
その光景に、路の角を曲がったばかりの同じ年頃の青年たちが気付き、手を振った。
「やあ、ティア! おはよう! 今日はどこにいくんだい?」
「なんだ、やけに嬉しそうじゃねぇか」
声をかけたのは、ローアンの街西に位置する道場の跡取り息子であるデュランと、相変わらずの口調のレクスだった。
「おはよう! デュラン、レクス」
ティアは友人である彼らに挨拶をしながら、足を止めて微笑みかける。
もうすでに立派な青年へと成長したデュランは、ようやく師であり父であるグスタフに認められつつある。剣の技も磨かれ、以前のように思いだけが空回りするようなこともない。自称勇者が、本当の勇者になる日も近いだろう。
レクスも、数年前まで荒れてはいたものの、預言書の一件以降は真っ当に暮らしている。手先が器用なこともあって、グスタフの紹介で銀細工職人の工房にはいった。いまは修行の真っ最中だが、そのデザインと緻密な細工の美しさは少しずつ人々に知られつつある。
向けられた笑顔に頬をわずかに染めたレクスと、人好きする柔和な笑顔を返すデュランの二人に対し、ティアは少し興奮気味に続ける。
「今日ね、ピクニックにいくの」
おそらく昼食が入っているのだろうバスケットを抱えなおしたティアに、デュランは首を傾げて笑った。こんな風に幸せそうに語るに値する人物は、一人しか思い浮かばなかった。
「もしかして、あの人とかい?」
「うん! そうだよ」
えへへ、と少女のときそのままの嬉しそうな顔で頷くティアが眩しくて、デュランは目を細め、「今日は天気もいいし、それはいいね」と言いながら頷いた。
対して、レクスはわざとらしく深いため息をついて頭を振った。デュラン同様、ティアにこんな笑顔をさせることができる心当たりは、一人だけだ。
「ったく……なーんで、あんなおっさんがいいんだが。オレには理解できないね」
レクスが小ばかにしように肩を竦めても、ティアはただ笑うだけ。
そして、小さく威張るように胸を張る。そんな仕草はどこかあどけなくて、可愛らしく、懐かしい。
すでに大人として扱われる年頃だというのに、女と言うのは不思議なものだ。そういった少女らしさは、いつまでも失わないものなのだろうか。
そんな男たちの感想を知る由もなく、人差し指を振りながらティアは言う。
「レクス、いつもいってるでしょ? 私には、あの人しかいないの」
その声があんまりにも堂々としていて、レクスはもう一度深いため息をついた。これが私にとって唯一無二の真実だと、ティアは恥ずかしげもなく言っている。
本人にそのつもりはないのだろうけれど、これはのろけだ。どうみても藪をつついて蛇を出してしまった。どうせ答えがわかりきっていたのに、つい言ってしまった己の馬鹿さ加減をレクスが後悔してもすでに遅い。
恋しい人を思い浮かべて、ほわわ、と夢見心地になっているティアが纏う空気が辛い。
直撃をくらい、一日の始まりですでに気力がごっそり削げてしまったレクスの心境が手に取るようにわかって、デュランは苦笑した。
「へぇへぇ、ご馳走様……」
レクスの諦めの声色に、ころころとティアは鈴を転がすように笑った。
「じゃあ、二人ともまたね!」
そういって、ティアは幸せを撒き散らしつつ去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、レクスは頭をかいた。
「ほんとなあ……こんないい男どもが身近にいるっつーのに、なにがよくてあいつなんだろうな。すぐだめになるかと思ったのによ。つーか、何年続いてんだあいつら……」
いち、にい、と指を折り数えるレクスに、デュランは言う。
「あの人のなにがいいかなんて、ティアにしかわからないことだし、ティアだけがわかっていればいいことだよ。きっと、彼女にとってあの人が一番の勇者なんだと思う。素敵なことじゃないか。憧れるよ。四年近くもずっとあんな風に仲がいいんだから」
「へーへー。どうせオレは勇者様じゃねぇよっと」
もっともらしいデュランの優等生的な回答に、レクスは天を仰いで頭の後ろで手を組んだ。悪態をつくところは、昔と変わっていない。
「そんなひねくれたこといってるから、駄目なんだよ」
そんな馬鹿にしたような態度に、やれやれとわざとらしく首を振ったデュランに対し、レクスは食って掛かる。
「おまえ、いうようになったじゃねぇか! 大体、お前だって恋人なんざいねぇだろうが? あ?」
「……」
そんなレクスの言葉に、デュランは意味ありげに静かに微笑んだ。その表情に、レクスの頬がひきつる。
「……まてコラ。なんだその沈黙は! もしかしているのか、いるのかっ?」
「はっはっはっは、いやだなぁ。今日はね、レクスに髪飾りの製作を頼もうと思ってきたんだよ。それがなんのためかなんて、君なら言わなくてもわかるだろ?」
思わず胸倉をつかんで顔を突き合わせてきたレクスに、デュランはにこやかに言った。
それはつまり、その髪飾りを贈りたい相手がいるということで。
レクスの喉がひゅう、と鳴る。
同じく秘かに恋していた相手を、見知らぬ男にかっさらわれた同士だと思っていたのに! 仲間ではなかったのか!
ぶるぶると震えるレクスの手に、宥めるようにデュランが己のそれを重ねた。
諭すような、お先にごめんね、とでもいうような生ぬるい視線に、ぷつんとレクスのどこかが切れた。
「うわぁぁぁぁ! デュラン、てっめぇぇぇ! いつのまにっ!? どこの誰だぁぁぁっ!!」
「あははははは!」
がくがくと揺さぶられながらも、デュランはさわやかに笑っている。
独り身のレクスの叫びは、ローアンの街の片隅に虚しく響き渡っていった。
そんな男たちのやりとりが行われているなど微塵も考えず、ティアは公園の噴水の横を通り抜け――その先から歩いてくる人影に、ぱっと顔を輝かせて手を振った。
「ヒース!」
そして、小走りに愛しい人へと駆け寄っていく。
「ティア!?」
そんな恋人の姿に、ヒースは目を開いた。だが、当たり前のように腕を広げる。勢いそのままに、ぽすん、と胸へと飛び込んできたティアを受け止めて、ヒースは問いかける。
「なぜ君がここに……家まで迎えにいくといっただろう?」
「えへへ、待ちきれなくてきちゃった」
見上げるティアに、ヒースは肩の力を抜きながら息をついた。その目が優しく綻んでいく。ゆっくりと身を離し、ティアの頬に己の手を当てて言う。
「まったく、仕方ないな」
呆れた言葉も、どこか甘い。ティアはヒースの大きな手のひらに、頬を摺り寄せて笑った。剣を握り鍛えた手は決して柔らかくはないけれど、とても温かくて安心できる。
そして、当たり前のようにティアからバスケットをとりあげるヒースに、ありがとうと礼を言って、ティアは彼の左腕に己の腕を絡めた。
そのまま、二人連れ添って歩き出す。
「いいお天気になってよかったね」
「ああ、まったくだ」
他愛もない会話を交わしながら。二人は街をゆく。
そんな他国の将軍と自国の英雄の仲睦まじい姿を見て、ローアンの住人たちは和やかに目を細める。
元敵国であるヴァイゼン帝国の将軍は、いまや両国をつなぐ橋渡しのような外交を担う立場になった。
そうなったのはもちろん、カレイラの英雄と名高いティアと親密な関係にあることを利用しての、帝国側の思惑もあった。と、同時に優秀な将軍を王国内に留めておくことで、戦への憂慮を少しでも削ぎたいという王国側の意図もあった。
剣を振るい戦場を駆け巡ってきたヒースは、そういった仕事に慣れておらず、最初は気が進まなかった。だが、今は彼の努力もあり、両国は非常に良好な関係を維持している。誠実かつ実直な人柄が、周囲の人に認められたのだ。
しかもつい最近、ローアンの街の中階層に質実剛健な彼らしい家まで建てた。それだけこの街に馴染んだ、ということでもあるのだろう。
そんなわけで顔見知りの多いヒースとティアは、あれこれと言葉を交わしつつ、街を後にしていつもの場所へと向かう。
二人のお気に入りである、あの丘へ。
そこで待つ、人生最大の喜びを、ティアはまだ知らない。
そよ、と前髪を弄び駆け抜けていく風に、ティアは目を細める。
陽だまりの丘に唯一ある木もわずかに大きくなったような気がする。さらさらと葉の擦れ合う音は心地よく、光は柔らかに大地へ落ちている。
そんな木漏れ日の下、ティアは草原に横になったヒースの傍で、小さく歌を口ずさみながら花冠を作っていく。
古くからローアンの住人たちの憩いの場であったグラナ平原をひとまわりしながら、摘んできた花々だ。
幼い少女でもないというのに、ひどく楽しそうにしているせいか、ヒースが笑みを零した。
「うまいもんだ」
どこか感心したような声に、思わずはにかむ。
「そうかな? 女の子なら、誰でもできそうな気がするけど……」
「誰かに習ったのか?」
ひょいひょい、と動いていく自分の指先を目で追いながらヒースが言う。
「お母さんに教えてもらったんだよ」
ふと遠い記憶が蘇って、ティアは小さく息をついた。
ヒースは、昔一度だけ出会った母を覚えているだろうか。あの頃の母のように、美しいと自分のことを見てくれているだろうか。思い出の母は、娘の自分がいうのもなんだか綺麗な人だったはず。少しは近づいているだろうか。
ついそんなことを思い浮かべながら笑う。
「それでね、お母さんは、お母さんのお母さんから教わったんだって。えっとつまり、私のお祖母さんってことなんだけど……」
それは母親と娘の間で伝わってきたもの。生まれる前から紡がれてきた、優しい糸の端。それを確かに受け継いだのだから、次は自分の番だとティアは思う。
「私も、いつかそうできればいいなって思うよ」
「……そう、か」
そう朗らかに未来の希望を言えば、もごもごと相槌を打ってヒースは口を噤んだ。ちらり、と近くに放り出している上着に目をやっている。
あまりはっきりしない態度はとらないヒースのそんな行動に対して、頭に疑問符を浮かべつつ、ティアは最後の仕上げに白い小さな花を花冠に挿した。
これで出来上がり。なかなかうまく作れたと自画自賛する。
「できた! はい、ヒース。プレゼント」
明るい声でそういって、ティアは出来上がった花冠をヒースの頭にぽん、と載せてやる。相手は寝転がったままなのだから、かなり傾いているがこの際仕方ない。
色彩豊かな花をひっかけて、ヒースはなんとも困った顔をした。まさか自分に贈られるとは思ってなかったらしい。
「うん、よく似合うよ?」
そんな表情がおかしくて、笑いを堪えながらそういうと、ヒースは小さく息をついた。
「大の男に言う台詞じゃないと思うぞ」
幼子ならば男でもいいかもしれないが、ヒースはすでにいい歳の大人である。
溢れる香りにむせそうになりながら呆れたようにそう言われて、ティアはころころと笑った。
それでもティアからの贈り物をむげにすることなどヒースはできないのだろう。視界を遮る部分をどけようと動かしはするものの、決してはずそうとしないヒースの心が、ティアは嬉しい。
笑いおさまらないティアに観念したのか。
ヒースは目を閉じてもう一度、小さく息をついた。と、思ったらいきなり身を起こした。頭の上に斜めに花冠をぶら下げたまま手を伸ばし、ごそごそと上着のポケットから何かを取り出す。
「では、オレからはこれを贈ろう」
「え……?」
ぽん、と膝の上にそれが置かれてティアは目を瞬かせた。
ベルベットの赤いリボンがかけられた小さな白い箱。なんだろう、と思わずヒースの顔を見上げるが、無言で開封するよう促される。
しゅるりと掛けられたリボンをはずし、白い綺麗な箱を開けて――ティアは、己の視線が捕らえたものに、ぴくりとも動けなくなった。
だって、これは。
「えーっと、これ……」
いつの間にサイズをはかったのか、とか。
花冠のお返しにしてはお高くないですか、とか。
いろんなどうでもいい疑問が、ティアの脳裏を飛び交う。
そのうち、じれったくなったのかヒースがティアの膝の上に手を伸ばした。
小さな箱の中、太陽の光を反射して輝いていた指輪をつまみ上げ、ヒースはティアの左手をとった。
「あ、あの……」
何事か言いかけるティアの先手を打つように、するりと薬指にそれが滑り込んでくる。皮膚を撫でた冷たい感触に、背筋が震える。
最初からそこにあるべきだったもののように、ぴったりと指の根元におさまった白金の指輪が、じんわりとティアの体温に馴染んでいく。
「やはり、ちょうどよかったな」
そのまま左手はヒースへと引き寄せられて、優しく指輪の上から口付けが落とされる。
その光景は、自分に起こった出来事ではないように思えた。まるで夢物語の一場面のようだ。だが、確かにヒースの手はいつもの暖かさで自分の手を握っている。
いつの間にか真っ赤になっていた顔で、ティアは口を開け閉めする。
正直に言えば、いつかそうなるかな、って淡い期待はしていた。けれど、それが今日だなんて思うはずない。
軽く混乱してきたティアをじっと見つめながら、ヒースは言う。
「なあ、ティア。一緒に暮らそう」
誰と、なんて訊く必要もない。
ん、とティアは息をのむ。ひどく穏やかな緑の瞳から視線を逸らして俯いた。
いつもなら心地よいはずの恋の鼓動は、いまはひたすら胸に痛い。
「……私でいいの?」
わずかな沈黙の後、ティアの唇から零れたのはそんな言葉だった。
試すような問いに、ヒースが小さく笑うのがわかる。
骨ばった指が伸びてきて、頬をかすめて顎を掬う。優しく覗き込まれて、ティアの瞼が条件反射でゆるりと下がる。閉ざした視界の向こうで、甘い花の香りが手招きしているような気がした。
ふわり、と触れあった唇は相手の存在を幾度も確かめるように、重ねあわされる。
「いまさらそんなことを訊くなんて、ずるいと思うがな」
「ん……」
口付けの合間に、ヒースの抑えた低い笑い声が響いてくる。なんだかくすぐったくて、ティアは思わず蕩けた笑みを浮かべた。
「オレは君以外なんて考えられない。君だって、そうだろう?」
そう、それ以外はありえない。
だから、ティアは素直に頷く。そのわずかな肯定に、ありったけの想いをのせる。
「――うん」
わずかに顔が離されて、ティアがうっすらと目をあけると大好きなヒースの明るい笑顔がそこにあった。
「だから、一緒に暮らそう。オレと、結婚してほしい」
ゆっくりと、プロポーズの言葉がティアの全身へと染み渡る。その波が広がっていくたびに、湧きあがる気持ちは、あらゆる感情がないまぜになっていて、なんとも形容しがたい複雑さ。
ただ、一番強いのは「喜び」で間違いない。
だから、ティアはヒースにその心のままに飛びついた。
「うん! ずっと、ずーっと一緒だよ……!」
その拍子にヒースの花冠が落ちた。鮮やかな緑の草の上、ころころと転がっていくが、二人ともそれに構う余裕はない。
ぎゅう、と応える力強い腕に身をゆだね、ティアはうっとりと瞳を閉じる。
抱きしめあう二人を背景に、ころころと転がっていった花冠は、ぱさりと音を立てながら。
祝福するような光が降り注ぐ陽だまりのうちに、静かに横たわる。
そう遠くない未来に、きっと。
この思い出の地で、小さな愛しい我が子と共に、ティアはおなじ花の輪を紡ぐことだろう。