君が心に住んだ瞬間

 ――空にかかった薄雲は、太陽の光を弱弱しいものに変えている。そのせいで、室内はほのかに暗い。だが、弱った人間にはちょうどいい。そんな部屋の片隅にしつらえられたベッドの上、息荒く眠る少女を見下ろし、ヒースは小さく息をついた。
 肉体的にも精神的にも疲弊したティアは、牢獄を脱出してすぐの平原で糸が切れたように崩れ落ちた。きっと、鳥篭のようなあの監獄の中、地震の影響で降ってきた石を片手でヒースがはじいたあのときには、もう限界だったのだろう。
 抱き上げた華奢なその身体には驚くほどの熱がこもり、ここでできることはなにもないと判断したヒースは、ラウカメイヤを頼ってこの西の巨木までティアを連れてきた。
 転がり込んできたヒースたちに驚いたものの、決して嫌な顔をしなかった家主は、いまは熱ざましの薬草を探しに森へと出かけてしまっている。
 自分も疲れてはいるが倒れるほどではない。ヒースは静かに、ティアの看病に努めていた。
 熱に温まってしまった布を冷たい水に浸して絞り、そっとティアの額に乗せる。汗で張り付いた髪を頬から落とす。
 どこからどうみても、か弱い女の子だ。
 それなのに、ティアはカレイラの英雄と祭り上げられ、住民から期待に応えるように懸命に頑張っていた。街のひとたちのためになるならばと、魔物を退治して回っていたことも、森に潜ませた帝国兵士を追い払ったことも、幼馴染の少女を助けるために駆けずり回っていたことも、ローアンに忍び込ませていた斥候から聞いている。
 そこまで尽くしていたというのに。街の破壊はティアのせいだと確たる証拠もなく決め付けて、街の住民は彼女を突き放した。すべてこの少女が元凶なのだと言い切った。そして、責めた。
 預言書を奪う際に、自分が近くにいたところをみられたこともあるのだろうが、それでもこの少女がそんなことするはずがないと、すこし考えればわかりそうなものだというのに。
 牢獄にもどってきたときの憔悴しきったティアに、ヒースはなんともいえない気持ちになったものだ。彼女は街の人たちへ、やっていないと訴え続けていた。わかってくれると、信じていたのか。
 ぜぇぜぇとかすれた息を繰り返すティアに、ヒースは眉を潜めた。深く刻まれた眉間の皺は、あっさりと手の平を返した住民への怒りか。それとも、あれでもなお信じ続けようとしたティアの甘さへの苛立ちか。ヒース自身にも、判断はつきかねた。
 窓の外に視線を送り、まだ戻らないラウカはどこまでいったのだろうと思う。はやく戻ってきて欲しい。
 ヒースはたたき上げの将軍であることもあり、切り傷などの怪我に対する応急手当ぐらいならばできるものの、こんなに弱った人間に対しては傍にいてやることしかできない。ただ、こうして額のタオルを交換してやったりするくらいしかできない。それがとても、もどかしく感じる。
「すまんな」
 自分の無力さに思わずそう小さく声を落とすと、ティアの睫が震えた。そして、ゆっくりと瞳が開く。だが、そこに宿る光は弱弱しい。心配になって覗き込むと、乾いた小さな唇が動いた。
「気付いたか。どこか苦しくはないか? 痛むところは?」
 ふるふる、と力なく振られる頭。ぱくぱくと開け閉めされる唇から漏れる音を拾うため、ヒースが耳を近づけると。
――大丈夫……ですか?
 そんな言葉が、聞こえた。
 呆れた。心底呆れた。
 こんな状態で、どうして他人のことを気遣える?
 わずかに目を見開いてゆっくりと身を起こすと、焦点の定まらない目が一心にヒースを見つめていた。視線はふらふらとしていて頼りないが、それでも含まれる色は、あなたが心配なのだと雄弁に物語っている。
「オレのことは気にするな……君は、もっと自分のことを大切にするべきだ」
 ――でも。辛そう、だから。
 耳を済ませて小さな音を拾ったヒースは、目を伏せる。
「それは……」
 それは、ティアのことを考えていたから。
 そうはいえずに、ヒースはくちごもる。言えるわけもない、そんなこと。
「なに、オレは大丈夫だ。君は余計なことに気を回さず、回復することだけ考えていればいい」
 ――ありがとう、ございます。
 わずかに浮かんだ微笑に、ヒースは笑い返した。少しでも、ティアが安らぐことができればいいと願う。
「ここまで帝国の兵も、王国の兵も来はしない。もし、たとえそんなことがあっても、魔物がきてもオレがなんとかしよう。だから、安心して眠れ」
 それは本心からの言葉だった。
 ヒースの想いが通じたのか、ティアの顔がさらに綻ぶ。
 はい、と小さく頷いたティアが、掛布の合間から細い指先をおずおずと伸ばしてくる。
 か弱くとも確かに己へと向けられたそれを、ヒースはゆっくりと迷うことなく握り締めた。
 ほ、とティアが息をつく。ゆるゆると、震えていた指先から力が抜けていくのがわかる。
 いつもはめている手袋を看病のために外していたヒースは、直に捕らえたティアの指先の儚さにぞっとした。戦うものにはふさわしくないこの手で、どれほど頑張ってきたというだろう。
 英雄としてティアが何かを守ることはあっても、ティアという少女を守ろうとした者が、果たしていたのだろうか。
 そう思った瞬間に、ちりりと心のどこかが焼け付いた。焼印を押されたようにくっきりと刻まれる何か。でも、それはまだ小さくてはっきりとした形を成していない。
「大丈夫だ。ここにいる――傍にいる。オレが君を守る」
 囁くようにヒースが落とした言葉に、もう一度ティアは微笑む。そうして、ゆっくりと瞼が閉じられて、少女は落ちていくように眠りの世界へと旅立っていく。
 それを黙って見送って、ヒースは握りつぶさぬように細心の注意を払いつつ、ティアの指を包む自分の手に力をこめた。
 さきほどよりもずっと落ち着いた呼吸と、和らいだ表情に安堵しつつ、深く息を吐き出す。
 守りたいと、思ってしまった。しかもそれを口にした。
 それを押し出したのは、まだ身体の奥で燻っている想いだ。それがよくわからなくて、ヒースは内心首をひねる。
 だが、あまり深く考える必要もないだろう。あどけなさの残る少女は、まだまだ大人には程遠い子供っぽさが前に出ていて、おまけに今は大層弱っている。小さくて壊れそうな何かを守りたいと思うのは、人として当たり前のこと。
 そう結論付けたヒースは、ティアの額のタオルをもう一度手に取った――

 

 

 夢を、みていた。
 それは随分と前のような気もするが、実のところさほど時を経ていない。大切な、ティアと過ごした時間の断片。なんだか、懐かしく思えるのはなぜだろう。
 ヒースは、ゆっくりと目をひらく。
 空は青く、雲は白く。
 風は優しく、地は温かく。
 すべてが終わって心通じ合わせた二人は今、陽だまりの丘の上に寝転がって午睡にまどろんでいる。
 ヒースは、すやすやと自分の腕の中で安心しきって眠る少女をみる。
 そして、ふと思った。

 ああ、あれがきっと――君が心に、住んだ瞬間。

 小さく笑ってティアの頬に優しく口付けて、ヒースはそっと目を閉じる。
 今度はいつものように元気で明るいティアがみられたらいい。
 そう願って。
 今一度、ヒースは夢をみる。