ローアンの街から南に下れば、大鮫の顎と呼ばれる崖に出る。
そこから見晴るかす景色は美しい。陽の光にうねる波が煌く海原、白い雲が浮かび流れる空。どちらも鮮やかな青さで世界を包み込んでいる。
「おー、いい風だな」
「ほんと、気持ちいいね」
ひゅう、と吹き上げてくる潮風に遊ばれる髪を抑えて、ティアは隣にたつヒースを見上げた。
「そうだな。泳いでみたいところだ」
そういいながら崖の縁からヒースは下を覗き込む。
「降りれんことはなさそうだが……」
「ちょ、ちょっと! だめだよ、危ないよ!」
「いや、あそこの岩を足場にして、あの岩を伝って、そっち方向に降りて……いけそうだぞ」
「そんなこと真剣に考えなくても……」
ぶつぶつと顎に手を当て真面目な顔で攻略ルートを考えているヒースに、ティアは呆れた。将軍というよりは、なんだか冒険家のようだ。困難なものに直面したとき、それをどうやって乗り越えて目標を達成するかを楽しむような節があるとは思っていたが、わざわざここから海に下りずともいいと思うのだが。
「とにかく、危ないことはしないでね。終わったらお弁当食べよう?」
「ん、ああ、わかっている。君は自分のすべきことをしてくるといい。魔物もいないようだしな」
心配気なティアの表情に、ヒースが安心させるように微笑んでそう言う。ほんとに大丈夫かな、そんなことを思いつつ。ティアはこの地域を探索すべく足を踏み出した。
預言書を取り戻し、クレルヴォを打ち倒したことで世界の破滅へは若干の猶予が与えられた。その間に預言書の価値を少しでもあげるべく、ティアはあちこちへ出かけている。
世界は広く、隅々まで確かめることはできないだろうけれど、それでも出来る限りのことを。そう思って冒険を続けるティアに、ヒースがちょくちょく同行してくれるようになったのは最近のことだ。もちろん、帝国の将軍としての務めもあるから、いつも一緒とはいかない。遠出をすることも難しいため、こうして近場を共に巡るくらいだが、魔物退治も手伝ってくれるし、大好きな恋人と一緒にいられるということがなによりも嬉しい。
そして、今日はサミアド地方へ続くこの場所にやってきた。
いつぞやオオリに攫われた際にローアンへ帰るための道として通ったのだが、あのときは急いでいてまともに調べていなかった。
ちょろちょろとあたりと調べ、イージスに関するメモ書きのようなものをみつけたティアは顔をあげた。いつの間にか探索に没頭していた。
「イージスの盾、かぁ。解読していないメタライズの中にあるのかも……」
いろいろなメタライズをスキャンしてきたのはいいものの、解読していないのもたくさんある。きっとその中にあるだろう。夜にでも改めて解読作業しよう、そう決めたティアは振り返る。これ以上、ここでできることはないと判断したのだ。
「ヒース将軍、今日はこの辺でおしまいに……って、あれ?」
てっきり海を眺めていると思っていた大きな後ろ姿が、ない。
「え、あれれ?」
きょろきょろと見回して、崖へと近づく。視界の届く範囲にも、姿はみえない。
「どこにいっちゃったの……?」
てっきりヒースがいると思っていた場所には、爽やかな風が吹きぬけていくだけだ。
いきなり姿が見えなくなったことに、急に不安がこみ上げる。
「まさか!」
慌てて下を覗き込む。崖を降りていくヒースの姿はない。ほっとした次の瞬間、もっと最悪な事態に思い当たる。
もしかして、海に落ちた?
自分の想像に、ぞっとティアは背筋を寒くした。どこまでも青く深い海は、その底が見えない。じっと目を凝らしてみても、ゆらりゆらりと波がたゆたうだけだ。
しかし、落ちたと決まったわけでもない。もしかしたらちょっと別の場所にいっただけかもしれない。でも、それなら一言かけていってくれるはず。そう思えば、焦りばかりが募っていく。嫌な想像が頭から離れてくれない。
ティアは頬に手を当てて青くなった。そして、おろおろとその場で小さな円を描くように歩きまわる。
「ど、どうしようどうしよう……!」
ここで待つべきか、それとも崖を降りてみるべきか。いやいや、誰か助けを呼んでくるのが正解か。
ぐるぐると思考を渦巻かせながらティアが悩みつつ小さく唸っていると。
「自分の尻尾を追いかける犬か猫、といった感じだな」
「!」
くつくつと押し殺した低い笑い声が聞こえてきて、ぱっとティアは振り返った。
いつの間にか、ヒースがそこにいた。いつからみていたのか。いつからそこにいたのか。
「ど、どこにいって……!?」
目を見開き、ヒースを失うかもという恐怖を味わっていたティアが思わず声をあげる。が、当の本人はどうかしたのか、といわんばかりの表情で首をかしげた。
「ん? ちょっと砂漠のほうまでみてくると声をかけただろう? 気付かなかったか?」
「……」
どうやら夢中になりすぎて気付かなかったようだ。
「よ、よかったぁ~……」
思わず地面に座り込みたくなるのをなんとか堪え、こわばっていた身体から力を抜きつつティアはため息を落とす。
「どうかしたか?」
「ううん……ヒース将軍がね、海に落っこちたかと思って、びっくりしちゃって」
「オレが? 海に?」
ティアの言葉に、ヒースは盛大に笑い声をあげた。
「はっはっはっは! そうか、心配してくれたのか。悪いことをしたな」
「もうっ、笑いすぎだよ!」
「いやいや、それであの行動をしていたのかと思うと――ちょっと無理だ、堪えられん。すまんな」
謝罪の言葉を口にしながらも、腹を抱えて笑うことをやめないヒースに、顔を真っ赤にしたティアはそっぽを向いた。
「いいもん、ずっとそこで笑っていればいいんだから」
「悪かったといっているだろう。ほら、詫びにならんかもしれんが、これを君に。もどる道すがらでみつけた」
す、と一息で近づいてきたヒースの腕が伸びてくる。
「わっ」
するり、と髪の合間に何かが滑り込んだ感触に、ティアは身をすくませた。
「え、なに? なに?」
驚いて目を瞬かせるティアに、ヒースは優しく目を細めるだけだ。
教えてくれないことに少し唇を尖らせて、ティアはそっと髪に挿されたそれを抜き取った。
ふわり、と潮風を受けてティアの手の中で花が揺れる。先端がほの青い白銀色の花弁、鮮やかな黄色の雄蕊。それはどこか儚い姿で、ティアを惹きつける。
「えっと、確かこれハクギンツバキだっけ。意味は、」
――あなたを支える――
記憶の棚をひっかきまわしたティアがそう呟くと、ヒースがわずかに目を開いた。
「ほう、そんな意味があるのか」
「え、知らなかったの?」
「まあな。そういったことにあまり興味はないからな」
確かに小説家のカムイではあるまいし、やたらと花と花言葉に詳しいヒースなんて、ちょっと想像できない。むしろしたくない。
「もしかしたら、無意識のうちにその意味を感じ取っていたのかもしれないよ? これまでヴァルド皇子を支えてきたヒース将軍らしいかも」
ともに夢見た平和な世界のため、帝国の将軍として力となってきたヒースに、ふさわしい。そういって笑うと、太い首筋に手をあててヒースは苦笑した。
「いや、確かにそれもあるかもしれないが……オレはただ、綺麗な花だし君に似合うと思って摘んできただけだ」
「っ!」
顔を覗きこまれて、ティアの胸が大きく鳴った。こればっかりは、どんなに見つめられても慣れそうにない。少しくすんだやさしい青の瞳が、宿す光はあたたかい。心地よいのにくすぐったくて、ティアは目を伏せた。
「ティアは、花がよく似合う」
ひょい、とティアの手からハクギンツバキをとりあげて。ヒースはもう一度ティアの髪へとそれを挿した。
するりとティアの頬をひとつ撫で、ヒースは屈託なく笑った。
「まあちょうどいいだろう。オレは師匠として、恋人として、これからもずっと君を支えて生きたいと思っているんだからな」
ヒースのそんな言葉に、ティアは蕩けるように笑った。
嬉しい。嬉しい。ティアは心からそう思う。
そっと、髪を飾る花に手を添えて、高い位置にあるヒースの顔をみあげる。ほんの少し背伸びをして、すこしでも近いところで唇を開く。
「――私も、あなたを支えます。ずっとずっと。どんなに遠い世界の果てへいっても。ヒースが、大好きだから」
ティアの甘い声が紡ぐ言葉は、神聖な誓いのよう。一瞬目を見開いたヒースが、口元を手で覆って肩を揺らした。
「なんだか、結婚式をしているみたいだな」
楽しげにそう言われたティアは、顔を一瞬で赤らめる。確かに言われてみればそういう感じではあったけれど。素直な心を言葉にしただけだ。いや、それが恥ずかしいのか。
「えっと、あのっ、私、そんなつもりじゃ……!」
おたおたと手を振ってそう言うティアに、ヒースは目を細めた。
「ほう、じゃあティアは誰と結婚するつもりなんだ?」
「……う」
それはもちろん決まっている。だけど、はっきりというとまたからかわれるような気もする。もごもご口ごもったティアが涙目になったころ、さすがに哀れになったのかヒースが噴出した。
「悪かった」
「うひゃ!」
問答無用で抱き上げられて、ティアは慌ててヒースの肩に手を置いた。
「なに、君のことは絶対逃がさん。だから、覚悟だけしておけばいいぞ」
「!」
にやり、と至近距離で見せ付けられた笑みは、獲物を見つけた獣のようで。ぷるぷると全身を赤くして震えるティアを抱えなおし、ヒースは歩き出す。
「さて、どこで昼飯を食べるとするかな。やはり海が見えるほうがいいか?」
「うう~~!」
飄々とした態度に、叶わない大人の余裕に、ティアは頬を膨らませ――腹いせにヒースの首へ力いっぱい抱きついた。
ティアはぎりぎりと締め上げるつもりで力を込めるが、所詮は細い少女の腕だ。そんなもの、百戦錬磨の将軍にはなんの効果もありはしない。
ぽんぽんとその背を穏やかに叩き、ヒースはからからと笑った。
潮風はそんな二人を包み、木々の梢を揺らして、ゆっくり砂漠へと流れていった。