今宵の軌跡

 預言書の出現によって朽ちていくことが示唆されている世界とはいえ、それを知らぬ人々は戦のない穏やかな日々を喜んでいる。ティアの活躍で、世界の崩壊が緩やかなものとなった今、しばらくこの世界は平和のうちに存続するだろう。
 そして、カレイラ王国とヴァイゼン帝国との間で和平が結ばれてから、はや一年が経った。
 今、その和平条約の締結を記念してのパーティが、カレイラ王国のフランネル城ホールで豪勢華麗に執り行われている。

 ヴァルド皇子や帝国からの招待客とともに出席しているヒースは、会場の片隅で極力気配を消しつつ、重いため息をついた。
 式典用の礼装も着慣れなくて息が詰まるし、入れ替わり立ち代り挨拶に訪れる要人たちとの会話も神経をすり減らしていく。
 彼らとの挨拶にもようやく一息つけたと思ったら、今度は香水の匂いを撒き散らして着飾ったご婦人方が詰め寄ってくる。それをなんとかあしらって、ようやく落ち着けたところなのだ。はっきりいって疲れた。酒ではなく、人に酔いそうだ。
 手にした酒をあおり、視線を流す。
 ホールの中は極彩色の人の波。男性はそうでもないが、貴族の女性たちはここぞとばかりにご自慢のドレスに身を包み、ふんだんに身に着けた眩い宝石をシャンデリアの下で瞬かせている。
 いくつかある人垣の中心には各国の王族や要人がいる。見知った兵たちがヴァルド皇子を護衛しているのをみて、少々羨ましく思う。自分もあんなお役目があったほうが、幾分かマシだ。
 だが、帝国からの要人の一人に数えられてしまった以上、そんなわけにもいかない。むしろ、つけられそうだった護衛をなんとか固辞するので精一杯だった。というか、自分にどうして護衛をつけなければいけないと思うのだろう。たとえ襲われようとも、どうにかできるというのに。
 そんな帝国中央部とのやりとりを思い出せば、さらに疲れが増すようだ。
 挨拶などやるべきことはやった。あとは外交官などにまかせればいいだろう。
 城内に用意された自分の客間に下がりたいと思いつつ、ヒースは視線を走らせる。
 この場を名残惜しいなど欠片も思わないが、気になることが一点だけあるのだ。
 それは、カレイラの英雄として紹介されていたティアのこと。
 なれないこんな場所で自分以上に消耗しているのではないかと心配でたまらない。
「……!」
 と、ようやくその姿をとらえることができたヒースは、無言のまま歩き出した。
 次から次へとやってくる人々に戸惑い、それでも懸命に応対する小さな姿が視線の先にある。取り囲む貴族の青年のうち一人が、慣れた手つきでその小さな手をとる。困ったように微笑むティアが強く拒否できないのをいいことに、手をひいてどこかへいこうとしている。
 それを視界におさめたまま、ヒースは小間使いに空いたグラスを預け、持ち前の身体能力を活かして人にぶつからぬよう必要最低限の動きとできうるかぎりの素早さで、近づいていく。
 ドロテア王女が見立て、ティアへと贈ったという白いドレスはこの上もなく似合っていて、繊細な作りの砂糖菓子を思わせる。だから、思わず手を伸ばしたくなるのもわかるけれど――この少女は、オレのものだ。
「ティア、ここにいたのか」
 どこにもいかせまいと、ヒースはティアを捕まえる。大きな瞳をもっと大きくして、ティアがヒースを見上げた。
「ヒース将軍!」
 突然現われたヒースに驚いたのはティアだけではない。
「ヒースって、帝国の将軍? ……あの?!」
 まだ歳若い貴族の青年は、カレイラ王国にも名を轟かせる帝国将軍の登場に、戸惑う。
 彼の手の力が緩んだ隙を見逃さず、ヒースはティアの肩を抱いて引き寄せた。
「申し訳ありません、カレイラの英雄殿に少々お話がありまして。彼女をお借りしたいのですが、よろしいですか?」
 じっと青年の目を見つめながら、将軍を勤めるうちにいやおうなしに身につけた慇懃な口調でそう言う。歴戦の戦士たるヒースの鋭い視線など、戦などからは縁遠い貴族が耐えられるわけもない。
 彼が息を呑んで黙り込んだのを確認して、対外用の笑みを浮かべ軽く会釈したヒースは、おろおろするティアを連れて歩き出した。

 

「やれやれ。このあたりならば落ち着けるか」
 半ば強引にティアを連れ出したヒースは、中庭の噴水近くで息をついた。
 空は濃紺。青白い月と散りばめられた星たちが、静かに天球をめぐりゆく。ぬくもりのない光に照らされた中庭は、昼とは違う落ち着いた色彩に満たされている。人々のさざめきも、シャンデリアの眩い光も、今は遠い。
 吹く夜風は冷たく、喧騒にまみれていた身体の熱を奪っていく。その心地よさに目を細め、そっと肩に回した手を離すと、ティアが小さく震えた。
「大丈夫だったか?」
「う、うん……」
 もじもじと頬を赤らめ、せわしなく視線を動かしていたティアは、やがてほんのりとはにかむと、ヒースを見上げた。
「来てくれて、ありがとう。どうしようかなって、困っていたところだったの」
「そうか、余計なことかとも思ったんだがな」
 ヒースの言葉にふるふると頭を振って、ティアは笑った。
「なんだかね、絵本にでてくるようなお姫様になった気分だったよ」
「オレは、悪党にさらわれそうになったお姫様を救い出した騎士というところか?」
「うん。でも騎士じゃなくて、正真正銘の将軍なんだよね」
「まあな」
 顔を見合わせた二人の快活な笑い声が、静かな中庭に満ちた。
 悪者にされてしまった貴族の青年には申し訳ないが、ティアに頼もしく思ってもらえたのならば素直に嬉しい。
「それにしても……よく似合ってるぞ」
「そ、そうかな? ありがとう」
 会場内ではじっくりと見る暇などなかったその姿に、ヒースは顎に手を当てて目を細めた。ようやく邪魔もなくティアを見つめることができる。
 月の光に洗われた白い石畳の上にたつティアは、浮かび上がるように輝いている。
 細い腰を強調するようなふわりとふくらんだスカート、白いレースの手袋、華奢なつくりの靴。薄く紅のひかれた唇はいつもより艶めき、栗色の髪に留められた生花と銀細工の髪飾りが月光をきらりと弾く。ティアが照れて小さく首を傾げれば、垂れ下がった幾筋もの銀の鎖が、繊細なその姿に似合った澄んだ音をたてた。
 妖精や天使などと言ったら、さすがに気障すぎて笑われそうだ。自分のそんな思考に口元に笑みを刻みながら、ヒースはその部分はいわないことにして言葉を重ねる。
「本当に綺麗だ」
「可愛いじゃなくて?」
「ああ、綺麗だ」
 ヒースのはっきりと言い切るその口調に、えへへとティアは笑った。
「皆可愛いっていってくれたけど……綺麗っていってくれたのはヒース将軍がはじめてだよ」
「そうか」
 まあ、この年のころの少女には可愛いというのが一番適当かもしれない。だがヒースにはこの上もなく美しくみえるのだから、やはり「綺麗」という言葉がふさわしい。
「でも、こんなドレスもらっちゃってほんとによかったのかなぁ」
「気にする必要はないだろう。ただ、王女のご厚意に感謝すればいい」
 ひょい、と噴水の縁に腰掛けたヒースにそういわれても、ティアは戸惑ったまま。
「んー、それでいいのかな」
 なんともいえない表情で、ヒースの隣に腰掛けた。
「まあ、少なくともオレは感謝しているぞ」
「どうして?」
 ドレスを贈られた自分ならわかるけど……。そんな色をありありと浮かべたティアを横目に、ヒースは笑う。
「君の、着飾ったこんな姿をみることができたのだからな」
 そういって手を伸ばし、柔らかな頬を触れる。さらりと髪を払うと、小さな耳につけられた真珠のイヤリングが見えた。
「好いた女の美しい姿をみるのは、男として楽しいものだぞ」
 ティアの頬が朱に染まっていく。それを満足そうに眺めるヒースの視線から逃れるように、ティアはふいっと顔を背けた。照れた顔をみられたくないのだろうが、そんな仕草はヒースの心を震わせるだけだ。
「あんまり、こういうのは好きじゃないと思ってた……」
「まあな。だが君ならば話は別だ」
 実際、我も我もと詰め寄ってきて甲高い声で意味のないことをさえずり続ける派手な鳥は好まない。しかし、清楚可憐に可愛らしい声で控え目に歌う小鳥だけは、どんな場所でもどんな姿であろうとも愛さぬ理由はないだろう。
「本当なら、オレが贈りたいところだったんだがな。まあ、また機会もあるだろう。そのときにはオレが君にドレスを贈ろう」
 そう言えば、ぱあっと顔を輝かせたティアが勢いよく振り返った。
「いいの?」
「ああ。まあ、あまりそういったことに詳しくはないんだが、見立てることくらいはなんとかなるだろう。似合う、似合わんの感覚くらいならある」
「ありがとう……ヒース」
 ティアが嬉しそうに顔を綻ばせる。その笑みに誘われるように、もう一度頬を撫でてやれば、伸ばした手にそっとティアの指先が重ねられた。慈しむように、目尻の辺りに親指を滑らせると、くすくすと声が漏れる。
 沈黙のまま見つめあい、両者が蜜のように甘い気分に浸りかけた頃。
 ごぉん、と鐘の音が厳かに鳴り響く。
 夜も深けたことを知らせるそれに、ティアは顔をあげた。
「あ、そろそろ帰らなきゃ……」
「そうか。では家まで送ろう」
「え? いいよ、いいよ! 一人で帰れるよ!」
 どこか残念そうな響きを気に留めつつ、ヒースが当たり前のように申し出ると、ティアが慌てて手を振る。
「まあ、そういうな」
 喉の奥で声を転がしながらヒースはゆっくりと立ち上がり、ティアへ手を差し伸べる。
「お手をどうぞ、我が姫」
 月を背に立つヒースを見上げ、ティアは目を丸くした。そして、うっとりと微笑んで指先をヒースの手に置く。
「なんだか……夢みたい」
 手を引かれ立ち上がったティアが、瞳を伏せて小さなため息とともに呟いた。
「夢?」
「うん。だって、こんなドレス着て、お城にいて、ヒースがいて。お姫様っていわれて、こんな風にしてもらって……ほんとに……」
 ティアは、もしかしたらその夢の続きに、まだまどろんでいたいのだろうか。
「帰りたくないのか?」
「……うん……ちょっとだけ」
 ぽーっと熱に浮かされたまま、ティアはヒースの問いを肯定する。
 まさに夢見心地になっているティアのそんな様子に、僅かに悪戯心が湧き上がる。
「じゃあ、オレの部屋にくるか? 一応これでも帝国からの客人なんでな、部屋を用意してもらっている」
 そういって、ヒースはにやりと笑ってみせた。
 きっと、すごい勢いで真っ赤になったティアが必死に否定するに決まっている。ヒースはそう思った。そうしたら、そのまま手を引いて彼女を家まで送り届ければいいだけだ。
 ヒースの予想どおりに、告げられた言葉を理解したティアが、ぱっと顔色を変えた。息を詰まらせ、おろおろと視線を彷徨わせる。ふっくらとした唇をかすかに震わせながら、胸の前できゅっと手を握る。
 そして。
 小さく、こくんと頷いた。
「っ!」
 これには流石のヒースもうろたえる。
 冗談だったと、からかうつもりだったのだとも言い出せない。なぜならば、ほんのわずかな期待が、あの問いかけには確かに混ざっていたからだ。
 耳まで赤く染めたティアの熱が伝染してくる。ヒースの鼓動が僅かに速まる。
 うぶな少年でもあるまいし、なんでこんなに照れなければいけないのかと思うが、この少女相手なら仕方のないような気もする。
 ああ、いっそ酒のせいにでもしてしまえたら。だが、たった一杯で酔うほど弱くもない自分にとって、それは言い訳にはならないだろう。でも。
 酩酊したときと同じように、意識が揺らぐ。胸の奥が熱くて溶けそうだ。
 身体全体を茹らせたように赤くしたティアが、とんでもなく愛らしい。
「ティア」
 ホールから連れ出したときと同じように、ティアの肩に手を置いてヒースはその名を呼んで顔を覗き込む。
「ヒース、あの、私、私……」
「取り消しは、なしだ」
 小さく震えながら、逃げるように顔を背けるティアの頬に手を添えて、潤んだ瞳の傍へなだめるように唇を落とす。
「……うん」
 零された吐息の熱さに誘われるように、ティアを胸元へ引き寄せる。ヒースの胸に添えられた手には、抗う力など一欠けらもない。
 見下ろせば、ぎゅっと瞳を閉じてわずかに顎をあげたティアがいる。ヒースは小さく笑って、迷うことなく顔を寄せた。
 啄ばむ小さな唇は柔らかくて温かい。もっと求めたいと湧き上がる素直な欲を押さえ込んで離れれば、ティアがとろんとした瞳で見上げてくる。煽られそうになるのを堪え、ティアを無言で抱き上げると、ヒースは歩き出す。
 向かう先はもちろん、ティアの家でもホールでもない。ヒースに与えられた客間だ。いま心底、帝国の要人でよかったと思う。
「あ、でも、あっちはもういいのかな?」
 いまさら焦ったように、遠ざかる会場に視線をやりながら気遣うティアにヒースは笑った。
「オレも君もほぼ挨拶は済ませている。あとはああいう場が得意な者たちにまかせておけばいい。――それとも、戻りたいか?」
 熟れた耳へ直接息を落とすようにそう低く囁くと、ティアは首を竦めつつ頭を振った。
「……ううん」
 ティアが腕を回し、力をこめてすがりつく。
「ヒースと、一緒にいる」
 ヒースの首元に顔をうずめて、甘えるように鼻先を摺り寄せてくる。そうされると、日ごろの少女のものとは違う、花のような香りが鼻腔をくすぐった。それはホールで押し寄せてきた香水の波と似ているのに、あれらとは違いなぜか苦にならない。ティアだから、といってしまえばそれまでだ。
 ああ、やはり惚れた女であるならば、何であっても愛おしい。
 ティアの言葉に応えるように、そっと額に口付ける。
 あまりにわかりやすい自分に苦笑いをしながら、ヒースは城内に足を踏み入れた。
 さて、今宵手に入れたこの奇跡を、どうしてくれよう。
 少年の頃にもどったような心境をもてあましつつ、ヒースは幸福のため息を大きく零した。

 月明かりに照らされた青い中庭をあとにした二人のその後は――誰も、知らない。