ローアンの街、ひいてはカレイラ王国は古い。かつての広大な版図は、いまや縮小してしまったが、その伝統や文化は古の頃より色濃く人々の生活に根付いている。
今を生きるものたちに、その由来や理由を知るものは少ないけれど、受け継がれてきているものが確かにある。それが歴史であり、金品をいくら積もうと容易には得られないものだ。
そして、そうした歴史が記されたものが集められた場所がある。天空塔を抱えた、荘厳華麗なフランネル城の一角にある図書館だ。そこは、長きに渡り少しずつ少しずつ世界より集められ、それと同じように少しずつ少しずつその存在を忘れられて久しい本たちが収められた書庫を、いくつも有している。
ティアは、初めて足を踏み入れた場所に、ほうと息をついた。どこを見ても、本、本、本。本の海。
ローアンの街の本屋には、小さな頃から入り浸っているけれど、ここまでの蔵書をみたことはなかった。
すこし冷えた館内の空気は、古い紙やインクの匂いとほんの少しの埃臭さに満たされている。きょろきょろと、あたりを興味深く見回していると。
「ここから先が、例の場所ですわ」
「あ、はい。ここが一番古い書庫なんですね」
自分の前を歩いていた紺色の制服をまとう司書の女性が、振り返ってそう伝えてくる。城に使える小間使いのひとたちとはまた違う、この大書庫の管理を任されるにふさわしい、切れ長の知的な光を宿す瞳を見返し、ティアは頷いた。
「ええ。開けますわね、ティア様」
そういって、腰に吊るしていた鍵の束を手にとり、古びた鍵穴へと選んで差し込む。ゆっくりと回すと、かちりと小さな音がした。司書がドアノブに触れると、するりと自ら開くように扉が動いた。
「ふわぁー……、すごい……」
開いた先は薄暗いが、大きな書棚がいくつも並んでいるのがみてとれる。内部の装飾も、一変している。時代を感じさせる柱、書棚、床の模様。ここまでも驚きだったが、こちらのほうがよほどすごい。
ティアの感嘆の声に、にこり、と上品に司書が微笑む。
「ここに集められた英知は、いまや読むものもなく、語るものもいない、忘れ去れた過去の遺産です。これらをすべて読み解くことが私の夢なのですけれど――」
眉を下げ、くすくすと司書が笑う。
「きっと、おばあちゃんになっても無理ですわね」
「あはは……」
それは充分にありえる。なにせこの場所にくるまでにも、驚くぐらいの未整理の蔵書が積まれていたのだ。あれを管理するだけでも大変だろうに、その上ここまで手を伸ばすのは難しいだろう。
それにしても、訪れるものもいないというわりには、埃も積もっていないし、かび臭さもあまりない。きっと司書の誰かが、手入れだけはしているのだろう。
「ティア様、ここをご覧ください」
室内に入った司書についていくと、壁の一部に小さな突起があった。
「これに触れますと、明かりがつきます」
「わ」
そういって、司書が壁の模様の一部にそっと押すと、ぱぁっと室内が柔らかに照らしだされる。光は、壁や柱、書棚に備え付けてあるブロックのようなもの自体から発せられていた。どういう仕組みなのだろう。
「この照明の構造も、もう失われた技術らしいですわ。なんでも、本を傷めることのない魔法の明かりなのだとか……」
「へえええー」
自分が知る由もない大昔、ここで誰がどんな風に本を手に取っていたのだろう。どんな人がこの仕掛けを作ったんだろう。とても不思議だ。
この照明、預言書に取り込めたりしないかな――そんなことをぼんやりと考えたとき。
「では、私はこれでもどりますが、なにかありましたら遠慮なくお申し付けください」
「はい、ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げて礼を述べると、柔和に微笑んだまま司書はその場を後にした。その姿が扉の向こうに消えたあと、ティアはあたりを見回しながら踵を持ち上げた。
「ふわぁ……、でもほんとすごい。ね、ウル」
「ええ、これは素晴らしい……!」
ティアの声に応えるように。すい、とそれまで預言書の栞に潜んでいたウルが、どこか上擦った声を上げながら姿を現した。そのまま、浮かび上がってティアよりも高い位置にある本の背表紙をまじまじとみつめる。
「異国の建国記もありますね……。もう、今では滅びてしまった国のものですよ。おや、これも珍しい……!」
子供のように歓声をあげることはないけれど、あからさまにウルの態度が違っている。なんだか可愛くて、ティアは小さく声を転がした。
こんなウルをみていると、ドロテアにここへの出入り許可をお願いしてよかった、と思う。
普段は街の書店に出入りして、普通の人間には姿がみられないという点をこれでもかと活用し、興味のあるものを勝手に読んでいるウルだが、そこにある本にも限界はあるもので。ここ最近は、いかがわしいものにまで手をだそうとしていて、それを慌てて止めたことは、もう数え切れないくらいだ。
だがウルはまだ本を読みたいという。預言書の精霊の中で最も知識深いウルだが、歴史書などへの興味は尽きないらしい。
では、どうしよう。
そんな風に悩むティアの耳にはいったのが、フランネル城にあるという大書庫のことだった。ここならしばらくの間、ウルは本に塗れた時間を過ごせる。そう思って、ウルにその話を持ちかけると、とても喜んでくれた。
もちろん、ウルのためというのもあるけれど、預言書の担い手として価値のある魔道書の一冊でも運よくでてこないだろうか、とティアは考えている。もしかしたら、メタライズもどこかに隠されているかもしれない。
「ウル、どこからみようか……って、あれっ?」
ついさっきまでそこにいたのに、忽然とウルの姿が消えていて、ティアは驚いてあたりを見回す。書棚をなぞるように視線を奥に向けると、真剣な眼差しで黙々と手にした本のページをめくっているウルがいた。
「もう」
ティアも、本は好きだ。だからすぐに夢中になる気持ちもよくわかる。ととと、と傍らまで近寄って、端整な顔を下から覗き込むも、赤と青の瞳は古い紙面の古い文字を追い続けている。
「ねえ、ウルってば」
くいくいと服の裾をひっぱると、ようやくウルがティアのほうを向いた。
「はい、なんでしょうかティア」
「このあたりから読むの?」
「そうですね、ここは比較的新しいもののようですが……興味深いものばかりです」
にこ、と僅かに頬を染めて微笑むウルは、おもちゃを目の前にうずたかく積まれた子供のようだ。
ティアは、くすっと微笑んで頷いた。
「じゃあ、私もここの読んでみようかな」
「ええ、きっとティアのためになることでしょう」
「うんっ」
そういって、ティアも書棚に一歩近づく。古めかしい字体の背表紙を眺め、興味をひかれたものを手に取り、ぱらぱらとめくってみる。
それは、他国の文化を伝えるものだった。聞いたことのない遠い国の古いお話。もう滅びてしまった国に住んでいた人たちの生活が垣間見えるもの。
面白そう。
ティアは微笑んで、近くに置いてあった可動式になっている階段状の脚立に腰を下ろす。
ゆっくりと頁に指をかける。本の中には驚くような伝統・風習が記載されていて、ティアはすぐにその文字の羅列に魅せられていった。
一体、どのくらいの時間だったのか。窓の少ないこの場所で、正確にそれを計るのは難しい。
「……ふぅ」
ティアは、ぱたりと本を閉じた。
ところどころ、古い言い回しでわからないところがあったり、なんと読むものなのかわからなかったり、単語の意味がわからなかったりしたものの、概ね前後の文から意味を推測し読み終えたその表紙を撫でる。
どこまで本当のことか。真実を知る術を、ティアは持ち合わせていない。だが、面白かったと思う。
そのことを伝えようとティアは顔をあげて、恋人を探し頭をめぐらせる。
すぐに、その秀麗な姿が視界に映る。いつの間にか移動したらしく、やや離れた場所に立っている。
端整な白い横顔、深く赤い瞳は伏せがちに、薄い唇は静かに引き結ばれている。やわらかな室内の照明を、秋の夕焼けに輝く雲のような金の髪が弾いていた。
綺麗だなぁ、とつくづく思う。ため息が漏れる。
熱心に本を読むその姿を、自分だけがみられるのは気分がいい。頬が、ほんのりと熱をもつ。
この絵画のような風景を、声をかけることで崩れてしまうのは惜しい。ティアは、黙ったまま。そっと本を書棚に戻した。
お話するのは、また後でいいもんね。
うん、と自分に言い聞かせるように頷いて、ティアは次の本を探すことにする。
ちょっとだけ、こっちに見向きもしないウルをみて、寂しさを覚えたり、本が羨ましく思えたことは秘密である。ちら、と視線を向けてくれるだけでも、嬉しいのに。
ウルの邪魔になったりしないよう、慎重に脚立をひとつひとつゆっくりとあがっていく。一番上にきたところで、『世界の花々』という題名が見えた。
ティアは本も好きだが、花も好きだ。まあ、カムイほどの知識はないのだけれど。
知らないお花の絵とか、描いてあったりするのかなぁ――そんなことを思いながら、脚立の上に立ち、やや背伸びをしてその本に指をかける。ぐっと力をこめた瞬間。
「きゃあっ……っと、っと……!」
ぎっしりと詰め込まれたその姿とは裏腹に、すぽんと本が勢いよく抜けた。驚いて、ティアはバランスを崩す。
手を振り、放物線を描いて重力に従う本をなんとか引き寄せて。傾ぐ体を押し留めようとつま先を後ろに下げる。が、そこに固い感触はない。というか、そもそも脚立上部がそんなに広いわけがないのだ。焦ったティアは、それを失念していた。
落ちる、と思って強く目を閉じる。
しかし、落下する浮遊感も、叩きつけられる衝撃もない。ただやんわりとした感触が、自分を包み込んでいるのがわかった。
そろり、と目を開くと脚立と書棚が見えた。足先は、すでに脚立から両足ともに離れている。
「大丈夫ですか、ティア」
静かなウルの声が、頭の上から降ってくる。己の体に回された腕に、ティアはぎゅっと縋った。どうやら、落っこちる寸前に、ウルに後ろから抱きかかえられたらしい。おかげで、床に四肢を投げだし痛みに耐えるという事態を避けることができた。
「う、うん。へーき……でも、びっくりしたぁ……」
いまさらになって、心臓がばくばくと激しい鼓動を打ち鳴らす。ひっくりかえったそのときから今まで、止まっていた血潮が再び巡りだしたと錯覚するような、感覚に体が軋む。
ゆるゆると、ティアを抱きかかえたまま、ウルが降りる。
とん、とつま先が堅い床に着いて、ティアは溜まっていた緊張を吐き出すようなため息をこぼした。降り立ったというのに、ウルはまだティアを離そうとしない。萎縮した体がほぐれるまで、まだ少しかかりそうだったので、ティアはそれを嬉しく思った。
「高いところの本が気になるのでしたら、私に声をかけてください」
精霊であるウルならば、浮かび上がってどんなところのものでも手にとれる。だから、次は危ない真似をしないように、と伝えられてティアは頷いた。
「うん。ごめんね、心配かけて。助けてくれてありがとう、ウル」
落ち着いた口調でいいながらも、赤と青の瞳を僅かに揺らしているウルに、にこりと笑って礼をいう。
「それにしても、すごいね。どうして間に合ったの?」
ウルのいた場所から、ここまではそれなりに距離があった。なにより、ウルは手にしていた本に集中していたから自分の動きなどわかっていなかったはずなのに。
ティアの素朴な疑問に、ウルはそんなことですか、と微笑んだ。
「私は雷の精霊ですから、移動速度でいえば、他の精霊たちよりもずっと速いのです」
ふと、秋の空を蛇のように連なり駆け抜ける稲妻をティアは思い浮かべた。確かに、あっという間に現れては消えていく。その尋常ならざる動きを考えれば、納得の答えだ。
「それにティアのことですから」
「ふぇ?」
ぱち、とティアが目を瞬かせて背後のウルを見上げると、ふわりと切れ長の瞳が和んだ。ぎゅ、と腰に回っていたウルのしなやかな腕に力がこもる。
「ちゃんとみています。大切な、あなたのことですから」
ぽ、とティアは頬を染めた。
「あ、あんなに集中してたのに?」
本が好きで、知識を得ることが大好きで。他の何があろうと、集中していたら見向きもしそうになかったのに。
心外です、と澄ました顔をしてウルがいう。
「私の意識を一心に向けるのは、この世界でティア、あなたしかいない」
どんなに興味深いものが目の前にあろうとも、それが覆ることはない。目を離しているようにみえても、ちゃんとわかっている。
きっぱりはっきりとウルが言う。それが当然だろうといわんばかりの美しい笑みに、ティアの顔全体が薔薇色を帯びる。
――いつもどんなときも、あなただけに夢中です
そんなウルの心が伝わってくるようで、気恥ずかしい。
「……う、ぅ~」
だけど、たまらなくこみあげる愛しさがあるのも事実で。ティアは、なんとか体を捻ると、ぎゅっとウルに抱きつく。ほんの少しでも寂しいと思った自分が、情けなくさえ思えた。
ごめんね、と小さく呟く。それを聞き逃すことのない耳をもつウルが、本を持っていないほうの手で、ティアの背を優しく撫でる。
「何を謝る必要があるのです?」
「……だって。そんなの知らなくて、ちょっとだけ、ほんとにちょっとだけだよ? ……寂しいなぁって思っちゃったから」
ウルの胸に、ティアは顔を押し付けながらそういった。くすくすと笑いながら、ウルがティアに頬を摺り寄せてくる。もともとわかっていたのだろう。聡い精霊なのだから。
「では、こうしましょうか」
え? と、ティアが顔をあげたそこには、一層楽しげに笑ったウルがいる。ふいに身を離したと思うと、ティアを横抱きに抱え上げ、脚立の中ほどの段にひょいと腰を下ろした。そのまま膝の上に降ろされたティアは、驚きに目を瞬かせながらウルをみあげる。
「一緒に、同じ本を読みましょう」
それならティアは寂しくない。そして、ウルもまた楽しく、かつ心配をしないですむ。
珍しく、子供のように無邪気な提案をしてくるウルに、ティアは目を細めた。
「うん、そうしよっか!」
蕩けるような心のままに微笑んで、そっとすぐそこにあるウルの白磁のような肌に覆われた頬へと口付ける。満足して、ゆっくり顔を離すと、お返しとばかりに額にキスが落とされた。くすぐったさに首をすくめながら、ティアは言う。
「じゃあ、ウルの読みかけのから先に読んじゃおうか」
「そうですね。もう少しですし。わからないことがあれば、遠慮なくきいてください」
「うんっ」
ちゅ、と今度は唇をひとつ重ねた後、ティアは、ウルが開く本を覗き込む。
誰も来ない。知る人もほとんどいないだろう、この知識の海の中。
誰にも知られぬキスを時折交わしながら、愛しい精霊と二人一緒に、同じ本の文字を追う。それだけのことなのに、なんだかとても胸が高鳴る。
ティアは、えへへと小さく笑いながら、ページをめくるウルの長く綺麗な指先をみつめた。
数分後。
「……さっぱりわかんない」
もう何がわからないのかすら、わからない。途中から読んでいるということもあるだろうが……否、最初から読んでもわかるまい。
経済について編纂されたというその本の内容に目を回しながら、ティアは苦渋に満ちた声でそう訴えた。ウルが、首を傾げる。
「そうですか? このあたりの経済に関する記述などは、当時の物流機能や貨幣制度の変遷、経済学の基礎について詳細に記してあって楽しいですよ」
「う、う~ん? そ、そっかぁ」
「ええ」
真剣な眼差しで、ウルはティアを抱きかかえたまま頷く。
このままウルと一緒に本を読んでいたら、賢くなる前に知恵熱が出そう――ティアは、自分の膝の上においた花の本に指先を重ねたまま、そんなことを考える。ともに眺める瞬間が待ち遠しい。
でも、こうしていられるのは、とっても幸せだから。
ティアはにっこり、微笑んだ。