ふいに、抱きしめたくなる。
それは嵐のような衝動のときもあれば、柔らかな陽だまりにうずくまるような穏やかなときもある。
――つい先日までは、側にいられるだけでよかったのに……困ったものですね。
日に日に貪欲になっていく自分を自覚して、ウルは自嘲気味に小さく笑った。
溢れんばかりに愛情を注がれているというのに、心はいつでも渇きを訴える。ティアには申し訳ないが、植物も魔物さえも生きられぬ不毛の砂漠にでもなったようだ。いや、ティアへの想いだけは急速に膨れ上がって、隙あらば彼女に手を伸ばそうとしているのだから――余計に性質が悪いのだろうか。
つらつらと、そんなことを考えていると。
「ウル、どうかしたの?」
さきほどまで使っていた茶器を食器棚に片付けていたティアが、棚の扉を閉めながら、ウルを見上げた。ぱたり、と小さな音が響く。
気付けば、手伝いで茶器一式を持っていたウルの手の中にはなにもない。いつのまにか、すべてティアに手渡していたようだ。
「いいえ。なんでもありませんよ、ティア」
大きな瞳をみつめかえし、そう告げたウルはゆっくりと指を伸ばした。
小さな肩。すんなりとした手足、髪がかかる細い首筋。柔らかな色合いの頬。これまでの世界で価値あるものを預言書に記し続けたウルが、もっとも貴いと思う。
触れる、触れない。そんなもどかしい距離に達した瞬間。
パチッ!
「っ!」
「ティア!?」
何かが弾けるような鋭い音が鳴った。指先に軽い衝撃をうけ、慌てて引っ込める。
と、同時に、ティアがぎゅっと目をつぶってウルの手から身を引いた。その勢いのまま、したたかに棚に背をぶつけた。棚が揺れ、中の食器が触れ合う音が響いた。
あっという間の出来事だった。
何が起こったのかわからず、二人の間が緊張と沈黙に満たされる。
ウルは、その切れ長の瞳を二度三度と瞬かせた。
どうしたというのか、その冷静明晰な頭脳をもってしても、なにがなんだかわからなかった。
言葉につまり、行動も起せず、途方にくれそうになった頃、そーっとティアが片目を開く。そして、何事もなかったことがわかったらしく、ほっと息をついた。その様子に、さして大きな事態になっていないことを、ウルは察した。
「ふあ……びっくりしたぁ!」
わずかに髪の先を跳ねさせたティアが、照れたように笑った。どうやら過剰な反応をしてしまったことを恥ずかしく思っているらしい。
「私も、です」
ティアが無事であったことに安堵のため息をつきながら、ウルは自分の手を見下ろした。表、裏と意味もなくひっくり返して確認する。
わずかに残る雷の霊元素。
どうやら乾燥した空気のせいか、普段よりも多く自分の表面に電気を帯びていたらしい。それが、ティアとの間で勝手に放電されたようだ。
いつもなら、霊力を帯びた元素はウルの意志で操っている。だから、こんなことありえるはずもない。しかし、普段から無意識で行っていることさえもおしのけるくらい、ティアに夢中になっていたようだ。
落ち着いてきた思考で、ウルはそう結論付けた。
意図せず起きてしまったこととはいえ、自分の手がティアを傷つけるまでとはいかずとも驚かせてしまったという事実に後悔し、ウルはきつく奥歯を噛み締める。
その様子には気付いていないティアが、わずかに前にでる。
「まだパチってするかな?」
そろそろ~……、とティアが手を伸ばしてくる。ウルは咄嗟に、手の霊元素を抑えた。もうあんなことは起きないはずだが、用心するにこしたことはない。
きゅ、と小さな手がウルの指をつかむ。
弾ける感覚は起きなかった。よかった。ほ、と小さく息をつく。 「あ、だいじょうぶみたい」
えへへ、とティアが安心した顔をする。にぎにぎと、掴んだウルの指を楽しそうに、握ったり離したりしている。
ウルは、掴まれていない方の手で、そっとティアの頬を撫でた。頬に張り付いた髪をそっと払う。
「すみません、ティア。私の不注意でした」
「ううん、ウルが悪いわけじゃないもの。わざとじゃないんでしょ?」
それはそうだが、ウルが注意さえしていれば防げたことなのだ。長い睫を伏せて、ウルはティアの手を握り返して口元まで持ち上げた。
ごくごく小さな雷の弾けた指先を、慈しみ労わるように、そっと唇で触れる。ティアの大きな瞳が恥ずかしいというように、優しく細くなる。
「いいえ。これからは十二分に気をつけます。許してください」
「ふふっ、もう大丈夫だってば」
ティアはそういうものの、ウルのほうが大丈夫ではない。
あんなふうに驚いて顔をしかめられて逃げられるなんて、たまったものではない。
人間のように心臓があるわけではないけれど。時間が止まったように、思った。ぽっかりとこの胸に穴が開いたようだった。思考さえもままならぬほど、それは衝撃的な光景だったのだ。
「ティア……」
「わ、」
母に甘える子のように。子を慈しむ父のように。きゅう、とティアを抱きしめる。ティアはされるがままに、ウルの腕の中に深くおさまってくれた。ゆるゆると力が抜けていく細い身体に、心安らかに幸福を噛み締めているのは、果たして自分かティアのどちらなのだろうと、ウルは思う。
判断はつかぬまま、ティアの額に口付けを二度三度と落とす。
そうしながら、まだ残る霊元素を取り去るように、柔らかく明るい色をした髪を撫で、雷の元素を身体の奥底へと押し込める。
雷の大精霊であるからこそ、世界と契約を結び預言書を通じてティアにこうして出会った。そのティアの手助けをして、ティアに恋をして、その愛を幸運にも得たわけだが、このときばかりは自分の性質が恨めしく思えた。
レンポであれば、ミエリであれば、ネアキであれば――こんな風にはならなかったのではなかろうか。そんなことを考える。
ティアを傷つけるのは本位ではない。ティアの様々な表情を堪能したくて、ついつい意地悪なことをするときもあるけれど。それは恋人としての特権を、あますところなく甘受しているだけのこと。そうしてその思い出を、誰にも見えぬ心の奥で、繊細なガラス細工のように積み上げて大切にしてきたのに。
だが、そうして作り上げてきたものも、ティアに怯えられ距離を置かれただけで、あっという間に瓦解してしまった。
ウルはそれを取り戻すかのように、ティアを抱きしめる腕に力を込めた。
そのまましばし時間が流れ。
「……ウ、ウル、そろそろ離して? もう大丈夫だし、それにこれから町長のところにいかなきゃいけないし、ね?」
「いやです」
苦しげに、もぞりと動いたティアがそう訴えてくるが、ウルはにべもなく却下する。今はこの胸の穴を塞ぐのが先だ。それにはティアの温もりと柔らかさと、優しい匂いが一番効果がある。まだもう少し足りない。だからティアを離すことなどできない。
ウルは、すりとティアの頬に頬を寄せた。
「ん、もう……」
くすぐったそうに、困ったように、それを受け取るティアの顔を覗き込む。
茶色の澄んだ大きな瞳に、ウルがどうしたいのかわからないための困惑と、約束に間に合わなくなっては、という焦燥。そして、抱きしめられる心地よさへの名残惜しさ、そういったものが次から次へと現れては消えていく。
「ウル、お願いだから」
「そうですね……」
ティアの心を綺麗に映しだす瞳をみつめながら、ウルは艶やかに微笑んだ。
可愛いらしく告げられた、そのお願いを叶えたい。だけども、まだティアを離せない。ならばどうするべきか。
ウルはティアの耳に唇を寄せた。
「どうすれば私が離れるか、なんて。ティアならば、わかるのではありませんか?」
抱きしめあうよりも、もっと急速にこの空ろな身を埋めるに相応しい行為。それをねだる。ウルは、催促するようにティアの柔らかな耳たぶに、唇を触れさせた。
「……む、むー……ウルの、あまえんぼ」
すぐに思い当たったらしいティアからのそんな言葉に、ウルは笑った。滅多にすることはないけれど、確かに今の自分はべたべたに甘えている。
「ティアは、恋人を甘えさせてはくれないのですか?」
白磁に紅色をさっと刷いたような顔色をしたティアを、再度覗き込む。
あの一瞬だけで、こうなってしまった自分が愚かなような気もするし、ティア相手だから仕方のないような気もする。でも、今はこうさせてほしかった。
「こんなことあんまりないもんね。ふふ、もちろん……いいよ?」
どこか嬉しさを滲ませながら、こくん、とティアが頷く。そして、ウルの胸に手を添えて、目を伏せ赤い顔を近づけるために背伸びをしてくる。
だが、ウルはそのまま受け入れることはしなかった。くす、と知らずに笑みが零れる。
ティアが、わずかに眉根を寄せる。どうやら気付いたらしい。
頑張っても、触れそうなのに触れることができないのは――ティアからウルが遠ざかるように身を起していっているからだ。
不満そうな熟れた顔の、その可愛らしさに抑えられない声を漏らして笑うと、伏せていた目を開いてティアが唇を尖らせた。
「……なんで逃げるのっ」
こんな恥ずかしいことをさせようとしているくせにずるい、とティアがふくれ面を見せてウルに抗議してくる。
「逃げてなんかいませんよ?」
ただ、ティアを見つめていたかっただけ。自分だけがみられるその表情を、記憶に刻みたかっただけ。
まったくもって説得力のない顔をしているだろうと自覚しつつ、ウルはしれっとそんなことをいう。
「もう……!」
痺れを切らしたティアが、ウルの首へと手をかける。ぐい、と引き寄せられて距離が近くなる。これで逃げられないよ、といわんばかりにティアが得意そうな顔をする。
不満そうにしていたと思えば一転、そんな顔をしてみたり。ティアは、やはり見ていて飽きない。これからもずっと、そうなのだろうとウルは思う。
「ね、ウル。ちょっとだけ、かがんで……?」
本人にそのつもりはないのだろうが、背丈の差でティアは上目遣いになっている。ほかの人間の女にされたところで、まったく心動かぬ仕草だが、ティアならば話は別。誘う声は、小鳥のさえずりのように耳に心地よい。
ウルはうっとりと微笑んで頷いた。
「はい」
そして、ゆっくりと高い背をティアに向かって折る。顔を傾け、触れてこようとする、柔らかそうなティアの唇を迎え入れるように、わずかに己の唇を開いた。
ひどくゆっくりと近づいてくるティアの動きに、ためらいが残ってみえる。あの小さな雷の音と痛さを、覚えているせいだろう。
だが、はじめて口付けを交わしたときのように、かすかに震え戸惑うようなその仕草は、胸が熱く焼けつくほどに可愛い。
自分が想いのままに、ティアを食べるように口付けることのほうが、圧倒的に多いけれど。
こういうのも、いいものですね――
もしかしたら、このひとときを望んだ自分の知らぬ自分が、ティアとの間で小さな雷をはじけさせたのかもしれない。そんな現象、理解しがたいが……それならそれでいいだろうと、ウルは思った。泣きたくなるほどに、幸せだから。
ゆっくりと、赤と青の瞳を閉じていく。
そうしてティアから贈られた、ぽっかり開いた胸の穴を埋める口付けは、ぴりりと思考を痺れさせる恋の味がした。