天高く馬肥ゆる

 今日も朝は爽やかにやってきた。窓辺から差し込む秋の光に目を細め、のろのろと寝台を降りて伸びをして。ゆっくりと体をほぐす。そして、顔を洗って髪を整え、寝間着からいつも服に着替えようとして――。
「ん? ……あれ……?」
 ベストのボタンをかけようとして、ティアは眉を微かに寄せた。
 ――苦しい。
 ふとそんな感想を抱いた。ついこの前まで、そんなことなかったのに。
 そういえば、心なしか腰周りも……。むっちりしているというか、すこしきついような。
「!!!」
 ティアはがぁん、と脳裏で金属のバケツを激しく叩きつけたような音が鳴ったのを、確かに聞いた。その音に乗せて、ぐるぐるとここ最近のことが脳裏を駆け足で過ぎていく。
 ドロテアと一緒に食べた生クリームたっぷりのケーキのこと。
 ヘレンが焼いてくれた甘い菓子パンのこと。
 シルフィが甘いものは苦手だからとくれた、クッキーの詰め合わせのこと。
 そして、実りの秋にふさわしく市場に溢れる美味しいものの数々。
 カレイラの英雄と呼ばれるようになってから、街の住民たちが以前にも増して気軽に試食してみろとわけてくれるようになり、その好意に甘えきっていた日々。
 きつくなった服は、そうしたことの結果として、確実に己の体重が増えたことを表しているのではなかろうか――。
 そこまで考えたティアの顔から、さーっと血の気が引いていく。元々白い肌だが、今は蒼白とさえいってもいい。
 くらり、眩暈がする。思わず、テーブルに手をついた。なんだか、気が遠くなっていく。

 ――天高く馬肥ゆる秋――

 少女の切ない悲鳴が、小さな家に響き渡った。

 

 秋の空は、冬に向かって日に日に高くなっていく。燦々と降り注ぐ太陽は暖かく、少し目に眩しい。周囲の木々の揺れる梢もすっかり秋色に染まり、美しく色づいているというのに。魚の鱗を並べたような空の下、ティアは、と小さく鳴るお腹を撫でつつ、ローアンの街を歩いていた。
「はあ……なんか、ちょっとせつない」
 とぼとぼとしたその足取りは、その言葉どおりにせつなさを見るものに与えるのだが、ティアは気づいていない。
 露店の並ぶ街の中心部も、今はひたすらに目の毒だ。美味しい匂いで誘惑をしてくる屋台も、きっと心を挫けさせるに違いない。しばらくいろいろと我慢しようと誓ったティアにとっては、いま最も辛さを覚える場所だった。
 親切心から、住人たちに声をかけられるとなかなか断れないのは経験でわかっている。だから、そういったことに遭遇しないよう、足早に街並みを通り過ぎる。そして、歩く距離を稼ごうと占い横丁へと足を向けた。
 これもひとえに減量のため。
 少しでも増えた肉を落としたい。それは乙女心をもつ少女にとっては、死活問題にも近い切実な悩みであった。古今東西、それは変わりはしないのだろう。
「あら、ティア」
「ナナイ、こんにちは~……」
 ちょうど館から出てきたナナイと出くわし、ティアは微笑みながらいつものように挨拶をした。つもりだった。
 だが、ナナイの顔がその様子をみて曇る。
「どうしたの? なにがあったの?」
「ふぇ?」
 いきなり口早に尋ねられ、ティアは掠れた声で答えた。
「元気ないじゃないの。肌の色艶だって……あらやだ、髪も……」
「ちょ、ちょっとナナイ……」
 近寄ってきたナナイに、ぺたぺたと頬を触られ髪を撫でられ、ティアは焦った。
「足だってふらついているじゃない」
「え、そう……?」
 指摘に、ティアは目を瞬かせた。そんなつもりはなかったのだが、ナナイがいうからには間違いないだろう。
「なんだか体温も低いみたいだし、ちょっとうちで休んでいきなさい」
「え、あ、ナ、ナナイっ」
 がっしりと肩を捕まれ、ずるずるとティアは魔女の館へと連行される。いつもは出せる力がはいらなくて、ティアは為す術もなく大きな扉をくぐった。
 どたどたと部屋に入っていくと、魔術の道具がごろごろと置かれている室内の片隅、預言を記した石版の前に立っていた少年が振り向いた。紫紺色の髪と、金色の瞳、褐色の肌、背丈ほどもある宝砂の大剣を背負った砂漠の民――アンワール。ティアの、恋人。
「ティア?」
「あ、お帰りなさい……、アンワール」
 エエリの頼みにより、サミアドに彼が出かけたのが一週間のこと。できれば、帰ってくるその前に、ちゃんと体重を減らしたかったのだが、無理だったようだ。でも、会えて嬉しい。
 へらり、ティアがナナイに捕えられたまま笑って挨拶をすると、いつもは静かなその面が微かに歪んだ。あれ? と思っている間に、つかつかとアンワールが近寄ってくる。
「どうした、ティア。具合が悪いのか」
「えええ……」
 どうしてこう、この砂漠の民組は察しがよいのだろう。
 先ほど言われたことと同じことをいうアンワールに目を白黒させていると、ナナイがようやくティアを離した。
「アンワールにもそうみえるわよね」
 そういいながら、手早くお茶を淹れていく。魔術で作ったというポットは常にお湯が沸いている状態らしく、すぐにふわりとハーブティーの香りが室内に漂う。
「ほら座って。これ飲んで」
 ナナイに言われるまま椅子に腰掛け、手渡されたティーカップにティアは口を付けた。喉を落ちるお茶の熱さと甘い香りに、ティアはほっと息をついた。
「あたし、ちょっと用事があるからでかけるけど、すぐに戻ってくるから、ゆっくりしてなさい」
 そんなティアの様子を眺めていたナナイは、ティアの頭をひとつ撫で、外套を翻した。
「はぁい……」
 安心したような気の抜けた返事に頷いたナナイが、館を後にするのをぼんやりと見送る。きっと日課になっている、街の結界張りだ。もともと、そのために出かけようとしていたところで、出くわしたのだろう。
 そんなことを考えていると、ゆっくりと近づいてきたアンワールが、少し身を屈めながらティアの顔を覗き込んできた。
「ティア、落ち着いたか?」
「うん。心配かけちゃって、ごめんね」
 ラウカメイヤの家で心身を癒していたときのように、アンワールが心から心配してくれているのが伝わってきて、ティアは微笑んだ。ほんとうにアンワールは優しい。
「なら、いいのだが……」
 する、と頬を撫でられてくすぐったい。
「ローアンに戻ってきたとき、やはり一番にティアを探すべきだった」
「あ、ごめんね。私、王様に呼ばれて朝からお城にいっていたから……」
 どうやら、入れ違いになっていたらしい。そういわれれば、いつもどこかにでかけたときは、一番にティアに顔をみせに来てくれるのがアンワールという少年だった。
「そうだ」
「?」
 何かを思いついたらしく、アンワールが歩いていく。部屋の隅に置かれていた荷物から、ごそごそとひとつの袋を取り出して、すぐそばにあった皿にその中身をあけている。
 位置が悪くそれが何なのかよく見えなくて、ティアは首を傾げた。
 そして、アンワールがゆっくりと皿を手に近づいてくる。
「ティア、これを。確か以前に好きだといってただろう。エエリ様からいただいてきた。これを食べて、元気を出せ」
 黒から褐色の小さな粒が、こぼれを落ちそうなほど、積みあがっている。それは、ティアもよく知っている。砂漠に生息する背の高い樹木の果実を、砂糖漬けにしたもの。前にもらったとき、「甘くておいしい!」と大絶賛したのだから忘れるはずもない。
「うぅっ」
 ティアは呻いた。サミアド地方でよく食されるその食材は、ティアは確かに大好きだ。そのまま食べても、お菓子に混ぜて焼いてもいい。
 だが、大好きだからこそ困った。今は、堪えなければいけない。また太ってしまう。
「どうした? ティア」
 全く持って動かず、ただぎこちなく視線を横に落としたティアに、アンワールが不思議そうに声をかける。ただ、純粋な好意から差し出してくれたものを、受け取れないのはティアもつらい。
「う、ううん。ちょっとお腹いっぱいで……」
 ティアは、あはは、となんとか誤魔化すように笑おうとして――くう、と腹の虫を鳴らせた。
 空気を読まぬ自分の身体の正直さに、ティアは真っ赤になって俯いた。
「……ティア」
「じ、じ実は、ね、その……! 私、太っちゃったみたいなの!」
 アンワールの声にかぶせるように、ティアは白状した。
「だってだって、この季節美味しいものいっぱいあるし、お菓子とかもいっぱいもらっちゃったし、食べないともったいないし!」
 内容を聞くと深刻さはなにもないが、ティアに悲痛な声音で訴えられて、きょとん、とアンワールは目を瞬かせた。
 そして、その金色の視線がティアの身体をなぞっていく。だが、いやらしい感じは全くない。他意などまったくない、ただひたすらに観察するようなそれは、しかし、ティアにとっては居た堪れないものであった。
「だから、食べないのか?」
「うん……。痩せなきゃって、思ってて……ごめんね?」
 しゅん、と頭を下げてティアが謝ると、アンワールがテーブルの上に皿を置いた。そのまま、つかつかと近寄ってくる姿をみつめていると、するりと脇の下に手をいれられた。
「ひゃあっ」
 ぐい、と一気に体が浮いた。褐色の肌に覆われた少年らしい腕に、ティアは慌てて手を置いた。こんなに細い腕のどこにこんな力があるのだろう!
「やだ、おろして! 私、重いから! アンワールってば!」
 ティアは懸命に足を動かしつつ身を捩ってみるが、アンワールはまったく意に介していない。ティアの体を上下させ、不思議そうに眉をひそめた。
「ティア、どこが重いんだ……?」
「やだもう、おろして~~!」
 軽々とティアを持ち上げたまま、そう呟いたアンワールには答えず、ティアは思いっきり眉を下げた。じんわりと、瞳に涙すら滲んでくる。
 大好きな男の子に、荷物のように持ち上げられて重さを量られるなんて、恥ずかしすぎる。
 しばらくじたばたとしていると、一番高いところまで持ち上げられる。ふぇ~ん、と情けない声を上げた瞬間、唐突に支えがなくなった。アンワールの手が離れたのだと、そこまで意識を回す暇はない。ティアは目を見開いた。重力に従って、かくんと落ちる感覚だけが、理解できた。
「きゃ、や……!」
 焦ったティアは、すぐそこにあったアンワールの頭にすがりついた。その体を受け止めて、アンワールが笑う。いつの間にか腕はティアの腰辺りを支え、もう片方の手が背に添えられていた。
「ティアは、まるで羽のように軽い」
 少女の胸元に顔を寄せて、少年が笑いながらそういう。
 どうやら落とそうとしたのではなく、ティアを抱きしめようとしたらしい。それにしたって、やりかたが急すぎるというか、雑すぎる。
 羞恥のせいだけでなく高まった心音をあますことなく胸元のアンワールに伝えながら、ティアは鼓動を整えようと大きな息を繰り返した。
 やがて、ようやく落ち着いた頃。ティアはアンワールの肩に手を置き、恋しい人を見下ろした。
「うう、でも……アンワールだって、太った子なんて嫌でしょ……?」
「ティアならば何の問題もない」
「嘘」
「嘘ではない」
 ごにょごにょもぞもぞ、そんなやりとりを繰り返す。
「だってもう、胸元とか……結構きついんだもん。服入らなくなったら、困るもん」
「ならば、服を新しくすればいいだけだ」
「でも……」
 駄々を捏ねる幼子のような口調で、ティアがいかに減量すべき理由があるかを述べていると。
「なにやってるの、あなたたち……」
 呆れの色をたっぷりと含んだ、艶やかな声が響いた。
 ひぅ、と息をつめ、ティアは肩を跳ねさせた。慌てて首をめぐらせると、いつの間にか帰ってきていたナナイが立っていた。生暖かい視線が突き刺さる。
 豊かな胸元にしなやかに手を当てて、ナナイがにんまりと笑ってその赤い唇を動かす。
「ラブシーンをするのは恋人同士だし、いいと思うけれど……あたしの家ではちょっとやめてくれるかしら?」
「ち、ちちち、違うよっ!」
 真っ赤になって慌てるティアとは対照的に、アンワールはまったくもって冷静だ。
「戻ったのか、ナナイ」
「ええ、これでやっとティアの話をゆっくり聞けると思ったのだけれど……」
 なにがあったの? と、緑の双眸がいっている。なんと応えようかとティアが逡巡した一瞬が、命取りだった。
「ティアは、体重が増えたといって悩んでいるらしい」
「アンワールっ」
 ずば、とアンワールに先を越されて言われてしまい、ティアは思わず叫んだ。
「服がきつくなってきているそうだ」
「ああ、なるほど……。もしかして、それでまともにご飯食べてなったのかしら?」
 まったくもってその通り。
 言い当てられて、ティアはしょぼしょぼと身を縮こまらせた。
 ナナイが綺麗な爪を細い顎に押し当てた。とん、とん、と。二度三度その指を動かして、おもむろに口を開く。
「ねえ、ティア。それは、太ったのではなくて、ティアの体が成長しているんじゃないの?」
 ナナイの言葉に、はた、とティアは固まった。
「へ……?」
 それは考えていなかった。と、いうか。
「ええええ!? だ、だって、しばらく全然変わってなかった……のに」
「急に成長するものよ、あなたくらいの年頃なら」
 私だって、そういったことがあって今の美しさがあるのだもの。
 妖艶に微笑み、髪をかきあげるナナイに、ティアはさらに顔だけでなく首まで朱を刷いた。
 そして、もふ、と胸元で動かれる感覚に、ぎょっとティアは前を向いた。
 そういえば、いまだにアンワールに抱えられたままだった。
 アンワールは頬を押し付けるようにじっとして動かなかったが、やがて小さく頷いた。
「なるほど」
 確かめられた。
「~~~っ!」
 とうとう、ティアは涙目になってアンワールの髪を引っ張った。
「ティア、痛い」
「もぉぉ、おーろーしーてー!」
 本格的に暴れだしたティアには対抗できなかったらしく、アンワールはそっとティアのつま先を床に下ろした。
 なんだか久しぶりな気がする床の感触にティアがほっとするまもなく、ナナイがするりと近づいてきていう。
「あまり過激な減量は、身体によくないわよ。ちゃんと食べないと、肌も髪も荒れちゃうわ」
 そして、こっそりと耳打ちしてくる。ティアだけに、聞こえるように。
「今度、服と一緒に下着も買いに行きましょ。お姉さんがティアに似合うの、選んであ・げ・る」
「う、えぇぇ!?」
 やたらと楽しそうなナナイに、ティアはぎこちなく視線を向けた。
「大丈夫よ、アンワールが好きそうなの、ちゃんと一緒に考えてあげるから」
 ほほほ、と機嫌よく笑い、そんなことをいうだけいったナナイは「お茶、淹れなおすわ」と、部屋の隅へと歩いていった。
「な、な、な……!」
 言われたことが衝撃的過ぎて、思考がついていけない。ぱくぱくと、ティア口を開け閉めしていると、女同士の秘密のやりとりは聞こえていなかったらしいアンワールが、テーブルに置きっぱなしであったナツメヤシの砂糖漬けが入ったお皿を手に取った。
「ティア」
 そして、一粒を指で摘み、ティアの口が開いた瞬間にそれを放り込んでくる。
「ん」
 もぐ、とティアは思わずそれを噛んだ。
 じんわりと舌の上に広がる久しぶりの甘味に、自分の身体が喜ぶのがティアにはわかった。どうやら思った以上に、体は甘いものを求めていたらしい。もぐもぐと小さく口を動かして、ティアはそれを味わう。
「もう、食べてもいいだろう?」
 アンワールが、笑う。でも、ほんの少し、その黄金の中に翳りが落ちる。ティアはそんな瞳を、ただ見つめ返した。
「元気のないおまえの姿をみるのは辛い。もう無理はしないと、約束してくれ」
「……アンワール」
 ん、とティアは頷いた。そして、目を伏せつつ、アンワールの上着の裾を掴んだ。
「心配かけて、ごめんなさい。……ありがとう、アンワール」
 自分が大好きな人で、そして自分を大好きでいてくるこの人に、そんな思いをさせたいわけじゃなかったのに。自分の浅はかさに、ティアは穴があったら入りたいくらいだった。
 ふる、とアンワールが小さく首を振る。
「オレは、ティアが健康でいてくれて、いつも笑っていてくれる、それだけでいい」
 それが一番の幸せなのだからと、無邪気に微笑み、もうひとつナツメヤシを差し出すアンワールの心遣いごといただくように。
「うん」
 幸せそうに微笑んだティアは、そっと恋人の指先に唇を寄せた。

 

「まったく、すぐに二人の世界にはいっちゃうんだから……」
 すでにナナイのことなど眼中にないあどけない恋人たちを見つめながら、呆れたような目をしつつ――都の魔女は、堪えきれない笑みを零しながら、そっとお茶を注いでいく。