「わん!」
「?」
いきなりあがった鳴き声に、アンワールは引き寄せられるように視線を落とした。
己の足元に、ふわふわとした丸っこい小さな生き物―― 子犬が、いた。
一体いつの間に、ここにきたというのだろう。気配には敏いアンワールであるが、まったく気付かなかった。周囲への警戒はあっても、敵意などない純粋無垢な子犬だからこその、なせるわざか。
まじまじと、そんなことをやってのけた子犬をみつめる。円らな黒い瞳には無邪気さが溢れ、明るい赤っぽい色合いをした毛は、ふかふかとしている。ちょこんとついた三角の耳が、ぴくっと動いた。
「わふっ」
人懐っこそうに尾を千切れんばかりに振りながら、もう一度声をあげてアンワールを呼ぶ。足にすがるように、よたよたと後ろ足で立ち上がり飛びかかろうとする。が、目測を誤ったのかアンワールの足にたどり着く前に、ぺしゃりと石畳の上に落ちた。驚いたのか、ほんの少し動きが止まる。
「おまえ、どこからきた? ひとりなのか?」
そう問い掛けながらしゃがみこみ、そっと指を伸ばす。小さな頭を指先でなでると、嫌がることなく、むしろ気持ちよさそうに擦り寄ってくる。そのまま、腹をみせるようにごろんと寝転がられる。ぽこりと膨れたそこを、ぽんとひとつ叩いてみると、今度は指先にじゃれつかれた。まったくもって、自分に危害が加えられるなんてこと、考えてもいないようだ。
この様子から考えるに、きっとどこかで飼われているのだろう。飼い主とはぐれたのか、家から逃げ出してきたのかまではわからないが。
アンワールは、石畳の上で全開の無防備さをみせる子犬の前足根元に手を差し入れる。ひょいと持ち上げてみると、驚くくらいの軽さと暖かさだった。
僅かに目を開いたアンワールの視線を受けながら、子犬は後ろ足をぷらぷらとさせ、宙に浮かせられているというのに、楽しそうに尻尾を左右に動かしている。きゅんきゅんと鼻にかかるせつない声をあげるので、呼ばれた気がしたアンワールが顔を近づけてみると、ぺろりと鼻先を舐められた。
「わん!」
淡い紅色の舌を覗かせて、子犬が三度目の鳴き声をあげる。
真っ直ぐな視線を正面から受け止めながら、ふと誰かに似ているな、と思う。
む、と首を傾げると、子犬が同じようにわずかに頭を傾けた。柔らかな毛が風に揺れる。犬に笑顔があるのかどうかわからないが、アンワールには子犬が嬉しそうに、笑っているように見えた。
それが、引き金。
「……ティア」
重ねる面影を確たるものとするように、そう呟く。
そう、ティアだ。この子犬はティアに似ている。
自分に対して恐れることも戸惑うこともなく近づいてきて、どこまでも澄んだ瞳で笑いかけてくれる、あの奇跡の塊のような少女を思い出す。
そっと犬を抱いて、頭を撫でる。
以前のアンワールであったなら、考えもしなかった行動だ。弱いものは切り捨てられて、死に逝くものだと砂漠の魔女に教え込まれていた自分が、労わり慈しむような、そんなことをしているのが不思議であった。
ちらちらと、からかうように指先を動かしてみる。子犬は、懸命に前足で褐色の指を押さえ噛み付こうとするが、うまくいかない。必死なその姿に、知れず、笑みが零れた。
ああ、こんな小さなことにだって、自分は楽しさを見出せるようになっている。ティアが動かしてくれた心は、日毎に世界の素晴らしさを見つけ出してくれるようになっている。そのことがたまらなく嬉しいと、アンワールは思った。
それにしても。
「おまえは誰と一緒にいた?」
たった一匹で、この大きな街を彷徨っていたとも思えないほどに綺麗な子犬は、小さく鼻を鳴らす。
「くぅん……」
人の言葉を解さぬ子犬が答えられるわけもない。ただ、首を左右に傾げるだけだ。ただ、少しだけ寂しそうにもみえる。アンワールの勝手な思い込みかもしれないが。
もし、このままだったら。もし、ひとりぼっちになってしまうのなら。
「おまえもティアに会ってみるか?」
「きゅうん?」
そうしたならば、道がひらけるかもしれない。ティアならば、自分には考えもつかないようなことを、思いつくに違いない。もし、そうならなかったとしても、アンワールは自分が子犬と一緒にいてもいいと、すこし思いはじめていた。
ほんのりと微笑んだアンワールが、どうだ? というように子犬の瞳を覗きこんだ瞬間、ぴくりと子犬が耳を動かした。そして、急に暴れだした。
「???」
しばしそうした後、これは離して欲しいという訴えなのではないかと、アンワールは気付いた。いままでにない必死な身の捩りようが、答えだ。アンワールは、そっと子犬を石畳の上に降ろしてやった。
すると、そのまま子犬は振り返ることなく中央通の方向へと駆けだした。よろめいた足取りだが、一生懸命に走って行く。かがめた背を伸ばしながら、アンワールはその様子を静かに見送る。
と。
きょろきょろとあたりを見回しながらこちらに来ていた少女が、駆け寄る小さな姿に気付いた。十にも満たぬだろうその少女の、泣きそうだった顔が明るく輝く。そして、自分の足元にたどり着いた子犬を、何事かいいながら抱き上げる。
ぎゅうと細い腕に抱きしめられた子犬は、さきほどのアンワールに対するものよりもなお嬉しげに鳴き、尾を振っている。
アンワールはその光景に、金色の瞳を細めた。
「そうか……」
仲間、否。家族が、迎えに来たらしい。そのまま、互いに想う心が伝わるような空気を滲ませて、一人と一匹が去っていく。
それはアンワールにはないもの。いや、なかったもの。
今は――……違う。ああして、大切に想えるものがある。
優しい風が吹く。ゆっくりと目を閉じる。全身を洗うようなその心地よさに身を任せれば、瞼の裏に暖かな笑みが映しだされる。それだけで、心が焦がれた。
あいたい――あの子に、会いたい。
身体が勝手に動いた。
アンワールは占い横丁への近道を、ひらりと飛び降りる。
ティアに、あいたい
木の先端ほどの高さから難なく身軽に地面へと降り立って、アンワールは駆け出す。さきほど、大切なものをみつけた子犬のように。一心不乱に、ただ大切な人の傍らを目指す。
占い横丁を一陣の風のように横切って、ローアンの街正面近辺に広がる下町へ。
まだ昼近く、街を出入りする人間の多い橋がみえてくる。そこを過ぎて少し行けば、ティアの家だ。今、いるだろうか。いないならば、彼女が行きそうなところをしらみつぶしにあたるしかない。
しかし、運命か、神の采配か、会いたいという願いが通じたのか――。
買い物帰りらしく大きな紙袋を抱えたティアが、街中から下町方面へと歩いているのに気付いた。ざわざわと行きかう人々の中、目ざとくその小柄な少女をみつけられたのは、ひとえにアンワールがティアに恋するがゆえだろう。
走る速度をあげる。わずかな距離のはずなのに、遠い。もどかしさに、アンワールはわずかに眉を顰めた。
くるりと左へと曲がり、ティアがこちらに背を向ける。
「ティア!」
大きく声を張り上げてその名を呼ぶ。待って欲しいという声音が、あたりに響いた。
「アンワール……?」
ふわりと髪を靡かせて、アンワールの何よりも大切な少女が振り返る。それだけで、幸せに胸が潰されそうになる。
「どうし……きゃあっ!」
何かいいかけるティアへ、飛びつくようにして抱きしめる。ティアの身体が強張った。
しばしの沈黙のあと。
「ちょ、ちょっと、あ、あ、あああ、あんわーるっ!?」
狼狽しきったティアの声があがった。その、どもった呼びかけに応えるように、頬を頬に摺り寄せる。そうすれば、あっという間に白い頬が熱を帯びた。
「きゃ……、も、どうしたの……! っていうか、や、ここ、街の入り口だよっ……!」
何事かといくつもの好奇の視線を浴びながら、ティアがこれ以上ないくらいに慌てふためく。人の多いところで抱きしめられている事実に、強い羞恥を覚えているようだ。
ティアの腕から、ぼたりと紙袋が落ちた。そこから、艶やかで綺麗なリンゴが、ころころと地面を歩いていく。
そんな赤い軌跡を目の端にとどめながら、アンワールはため息交じりに、言葉にする。
「ティアに、会いたくなった。だから、きた」
びく、とティアが震えた。それを押し込めるように、もっと近くにくるようにというように、アンワールは腕に力をこめる。
「う、うん、そ、それはわかったよ、わかったから……!」
離してぇぇぇぇ~……と、半泣きになって訴えるティアの顔をそっと覗き込む。
この存在がいてくれることに、心が安らいでいく。穏やかになる。ずっと一緒にいたいと、強く思う。
きっとこれが、大切に想っているということ――愛しいと、いうこと。
「ティアはオレの、恋人で……家族だ。何も問題はないだろう?」
さっきの少女と子犬だって、種が違えどもあんなにも仲が良かった。幸せそうだった。ならば同じ人間で、心を通じ合わせた自分たちがこうして抱き合っても、いいはずだ。
「はうっ」
そんな、思ったままのことを言葉にして微笑みかければ、アンワールがこの世界で一番大切にしている少女は、頬だけでなく身体全体を朱に染めた。
「な、なななんあな、なに……急に、どうしたのっ……?」
家族って、家族って――と、目をぐるぐるさせながら、それでも嬉しさは滲ませティアが繰り返している。
そのうちになんだか春の陽だまりでひなたぼっこをしているように、うっとりとした表情をみせる。
とろり、蜂蜜のようにとろけていきそうな甘さを帯びたその顔は、ひどく愛らしかった。
「ああ、ティアは、一番のオレの家族だ」
そう囁いて頬を摺り寄せれば、涙目のまま何事か口を開こうとしていたティアが、観念したようにアンワールの上着の裾を掴んだ。
耳までも赤く熟れさせて、ティアは俯く。
うん、と。ありがとう、と。アンワールだけにきこえるように、小さな声が届けられる。
その言葉に頷いて、アンワールはもう一度、ティアを抱く腕に力を込めた。
このすぐ後。
幸せに浸りきったアンワールとティアに、ひゅうひゅうと囃し立てられる声がかかり。
はっと我に返ったティアに、アンワールはティアの家へと連行され、お説教を受けることになるのだが。
当の本人はなぜそういわれるのかよくわからぬまま、ティアの勢いに押されて、ただ頷くだけだったという。