雨上がりの空の下

 ぽつ

「あ……」
 ふいに鼻先に冷たい感覚が落ち。
 ティアは小さく声をあげ、慌てて空を見上げた。
 先ほどまで青く懐を広げていたそこに、にわかに垂れ込む黒い雲。
 からかうように、ひゅうと強い風が吹く。ティアは慌てて、ひっくりかえりそうになったスカートの裾を押さえた。
「どうした?」
 向かい合って会話を交わしていたアンワールが、ティアの様子に声をかけつつ、同じように天へと視線をあげて――む、と綺麗な眉を顰めた。
「今ね、鼻の頭に雨が落ちてきて……。降ってきそうだなぁ、って思っていたんだけど……あっ!」
 そういっている間に、ひとつ、またひとつと石畳へ雫が落ちはじめた。
 乾いていた石畳に、ぽってりとした雨が落ちて破れる。筆で絵の具を勢いよく散らすように、水玉模様が次々とできていく。
「わ、わわっ」
 ぱたぱたという散漫な音が、あっという間に激しく打ち鳴らされる太鼓のようになっていく。
 あたりに視線をめぐらせても、今、二人がいる裏通りに雨をしのげるところはない。
 思わずかざした手を、褐色の手が掴んだ。
「こちらだ、ティア」
「え、アンワール……!?」
 ぐい、と力強くひかれるまま、ティアは駆け出す。そのままアンワールとともに通りを抜ける。その奥にあるのは、今は無人となった屋敷だけだ。
「あ……! そっか!」
 アンワールの考えを理解したティアは、走る足に力を込めた。
 朽ちた門を横目に、アンワールが大きく開いた扉の奥へと、ティアは飛び込んだ。
 蝶番の軋む音とともに、背後で扉が閉じられる。ようやく、強い雨と風の吹き込まぬ屋内にたどり着いたティアは、ほっと肩を下げた。
「いきなり降ってくるんだもん。びっくりしちゃったね」
 走ったせいでわずかに上がった息を整えながらティアがそう言うと、アンワールが小さく頷いた。
「ああ、オレも驚いた。それよりも大丈夫か、ティア」
「うん、平気だよ。アンワールにここに連れてきてもらわなかったら、きっともっと濡れてたと思う」
 この季節、にわか雨はよくあることだ。いつもなら風の中にその気配を感じることもあるけれど、今回はアンワールとの会話に夢中で気付けなかった。
 ティアは、ぐるりと屋敷の中を見回した。
 ローアンの街が預言書の暴走に吸い込まれたとき、人々の避難場所として利用されていた場所は、あの頃とは違ってとても静かだ。
 室内には屋根を叩き、壁を伝い、窓を流れる雨の音だけが響いている。
 雨が、世界の音を打ち消してしまっているみたい。
 ティアはそんなことを考えながら、上着を脱いで水分を払い落とす。
 そうして放り出された布地が吸い込む前の水は、ぱらぱらとティアの足元を濡らした。
 上着のおかげで、その下はほとんど濡れていない。靴の先に少し泥が跳ねているだけだ。
 髪は、さすがに濡れてしまったが、こればっかりは致し方ない。
 ハンカチを取り出し、水分をふき取るティアの傍らで、バンダナを取り外したアンワールが、ぷるぷると頭を振った。
 前髪と後ろ髪の濡れた部分の水分が、周囲に飛び散っていく。
「ふふっ」
 その様子が、まるで水を嫌がり全身を持って毛を振るわせる猫のようで。ティアは思わず声を漏らす。
「なんだ?」
 額に張り付く前髪をかきあげたアンワールが、不思議そうに首をかしげた。つりあがった金色の瞳に、ますます猫が連想された。笑いが込み上げる。
「ううん、なんでもないよ」
 くすくすと、抑えようとしても抑えきれないものを零しながら、ティアは歩き出した。
 その先にあるテーブルに、そっと上着を広げておく。すぐに乾きはしないだろうが、ずっと持っていては他の服まで濡れてしまう。ついでに、肩から提げていた鞄もそこに置いておく。
「ほら、アンワールも」
「ああ」
 金の装飾や、バンダナ、丈の短い上着とマフラーをアンワールはひょいひょいと外して、ティアと同じように並べていく。
「乾くかなぁ」
「そうだな……随分と濡れているからな、難しいかもしれない」
 そう言うアンワールの髪の先に、小さな雫がぶら下がる。ティアはハンカチでそれをそっと拾いながら微笑んだ。
「じゃあ、雨がやんだらおうちに帰って……今日はあったかいスープでも作ろうか」
 きっとこのにわか雨のあとには、少し冷えた風が吹くだろうから。
 そう考えての提案に、ふわり、アンワールが笑った。
「それはいいな。楽しみだ」
 つられるように微笑みを深くしたティアは、ゆっくりと窓に向かって歩き出した。
「でも、すごい雨」
 そう長くは持たないと知っているけれど、このままずっと振り続けるのではないかと疑ってしまうくらいだ。
 ティアは、窓ガラスに手を添えて、ぼんやりとけぶる雨の景色をみつめる。
 窓の外は、もう天の恵みを与えられていないものなど、なにひとつとてない。夏の日差しに乾いていた大地には、いい潤いになったことだろう。
「それにしても……この国は、よく雨が降るな」
 どこか苦々しいものが混じった声に、ティアは同じように窓辺に並び立ったアンワールの横顔に視線を注ぐ。
「でも、雨ってすごく大事なんだよ?」
 木々を育て、作物を育て、生命の源となり、川を流れ海にたどり着き、空に昇って――やがてまた、大地に帰ってくる。巡り巡るその道筋は大切な自然現象だ。そして、潤沢な水とともに豊かな実りをもたらす大地に建つこの国に住むティアにとっては、それはごくごく当たり前のことだった。
「わかっている。砂漠では水はもっとも貴重なものだ。それがこんなにも空からもたらされるというのは、素晴らしい事だ。ただ……」
 ふ、とアンワールが瞳を伏せた。
「あまり肌にまとわりつくのは、好ましくない感覚だ」
 今、二人を濡らしているぐらいのわずかな水ならば、すぐに乾いてしまうあの太陽照りつける大地に、ティアは思いを馳せる。
 常に乾燥したそんなところで過ごしてきた、砂漠生まれの砂漠育ちであるアンワールには、衣服が肌にはりついたり、空気を重くする湿気というもの自体が馴染まないのだろう。
 理解しているけれども、この状態は困ったといわんばかりのその表情に、ティアは再び噴出しそうになる。
 やっぱり猫みたい、とティアは思う。
 ああ、そもそも猫自体が、野生では乾燥した地域に住んでいたというから仕方ないのかもしれない。
 口元に小さく笑みを浮かべながら、ティアはアンワールに寄り添った。
「アンワールは苦手でも、私は雨って結構好きだよ」
 少年らしく薄いけれど女の子とは違う骨格と、しなやかな筋肉のついたその肩へ、そっと頭を預ける。
「それに今日の雨は、アンワールとのこんな時間をくれたし……」
 ほんのりと頬を染め、恥ずかしくもそう伝えると、ティアの肩をアンワールの手が覆った。引き寄せられるままに、褐色の肌に頬を摺り寄せる。
 こうした何気ない、何もしない時間さえも、アンワールとならばとても愛おしいものになる。
 そんな想いが、触れあう熱から伝わるようにと、願いながら。
「そうだな、オレもティアとこうしていられるのは――嬉しい」
 まるでそれに応えるように、ティアの湿った前髪を、アンワールがそっと払う。息がかかるような間近さで視線を結び、どちらともなく瞳をふわりと和ませる。
 ティアはゆっくりと瞼を閉じて、アンワールに甘えるように体重を預けた。
 出会った頃に比べて、すこしずつ逞しくなってきた身体が、揺らぐことなくそれを受け止める。
 雨が降るまでたくさんおしゃべりをしていたというのに、今、二人の間でやりとりされる言葉は少なくて、今はもう沈黙だけが残っている。でも、それが心地よい。
 まるで、世界に二人だけしかいないような、そんな気持ちが心の底に降り積もっていく。
 それもいいなぁ、なんて思うのは自分がアンワールだけに恋している証拠のような気がして、ティアはくすぐったそうに微笑んだ。
 そうして、寄り添っていくばくかした頃。
 ざぁざぁと窓を叩き、滝のようにその表を洗う雨の音が遠ざかっていく。
 楚々となっていく音色は、もうそろそろ、雲に蓄えられていた雨が尽きることを告げるよう。

 ―ああ、もうちょっとだけ……こんな風に過ごしたかったな。

 はやく雨がやめばいいと思ったのは、本当。でも、そう思うのもまた、恋する少女の本心だった。
 そんなことを思うティアの心中を見透かしたように、ふと頬をすべる温かな感触。ティアは、ゆっくりと瞼をあげた。
 褐色の長い指が視界の片隅で動いて。ティアの顎を捕える。
「ティア……もう少し、このままでいたい」
 す、と顔を覗き込んできたアンワールが、ティアと同じことを考えているとすぐにわかる瞳で、そう囁く。
「うん、私もだよ」
 くす、と笑ったティアに吸い寄せられるように、アンワールが瞳を閉じて口付けをねだる。
 ほんの少し首を傾け、幾度重ねても心沸き立たせるぬくもりと、やわらかさと……その甘さを、受け止める。
 余韻にひたるような吐息を零しながら、二人は顔を離して互いの腕に力を込めた。
 恋人との抱擁の心地よさに浸りきったまま、ティアは瞳を開く。
 アンワールの肩に頬を置いて、いつの間にか光が差し込んでいた窓に視線を送る。
 ぱらぱらと、力をなくした雨が名残惜しそうに宴の終わりを知らせている。
 少しくもったガラス越し、黒い雲が割れていく。再び天から零れ落ちた光が、少しずつ近づいてくるのがわかる。
 青が溢れるように空を染めていくのにあわせるように、静々と姿を現すもの。
 それは、天と地を繋ぐ雨がもたらした、半円型の七色の橋。
 美しく儚く、光と水の妙によって作り出されるその虹を目にした瞬間、ティアは大きく瞳を開いた。
「あ……! アンワール、虹、虹が出てる!」
 ぱっと顔をあげ、興奮気味にアンワールへと告げる。
「にじ……?」
 砂漠ではきっとみることなどないだろう、それ。
 問い返すどこかあどけない声に、アンワールが目にしたことがないと、ティアは確信した。
 だから。
「うん! 虹、だよ!」
 さきほどまでの甘いひとときはどこへやら。
 ティアはここに来たときとは逆に、面食らった様子のアンワールの手をぎゅっと握って元気よく引いた。
 よろり、前にふみ出したアンワールににっこりと笑いかけ、気遣いながらも屋敷の出口に向かって駆け出す。
 雨からティアを守ろうとアンワールが開け放った扉を、今度はティアが開け放つ。
 さあっと走るように、光が屋敷の中を貫いた。
 その輝きの中、ティアは振り返る。
 きゅうと眩しそうに、アンワールの瞳が細くなる。
 この世界で一番大好きな人に、ティアは心からの笑みを贈りながら、繋いだ手に力を込めた。
 そうして、ティアはアンワールを導く。
 何かから守るためでなく、ただ共にみあげ――二人の記憶に、美しい思い出とするために。
 一緒に駆け出したローアンの街上空、大きな筆で半円を描いたようなその色彩に、きっとアンワールは驚くだろう。
 その無垢な心に空の色は鮮やかに残り、ティアはその表情を心に刻むことだろう。
 そうしたら、もしかしたら。

 雨をもう少し、好きになってくれるかも――?

 ティアは心弾ませながら、雨上がりの空の下、降り注ぐ太陽に柔らかに煌く街へと、足を踏み出した。