さっぱりすっぱり

 手入れの行き届いた綺麗な部屋の開け放たれた窓から、風がカーテンを揺らして迷い込んでは、またひらりと出て行く。
 快適にすごせるよう家主の少女が工夫をしているおかげで、広いとは決していえないが、人が住むには充分。
 いつの間にかその空間にすっかり溶け込めるようになったアンワールは、甘く香るクッキーをひとつ頬張った。さくさくとした歯ごたえと甘さがちょうどよい。
 くるり視線をめぐらせる。
 故郷の砂漠にある陽射しの差し込まぬテントとは違う、木造のぬくもりと大気の動きを感じられるこの家が、アンワールはとても好きだった。
 今は、ティアが作ったお菓子を楽しみながら、お茶を飲みつつ他愛のない話をしているところだ。
 テーブルを挟んだ向こう側で、姫からもらったという涼しげな硝子の器に、冷やした茶を注いだティアが顔をあげ――ふと、眼を瞬かせた。
「あ……」
 意味の伴わない、だけれどなにかに気付いたことを知らせるティアの声に、アンワールは疑問符を頭に浮かべた。
「あ、ちょっと動かないで」
 そういわれれば、静止するしかない。
 じっとしていると、お茶を淹れたポットをテーブルに置いたティアが、その指先を伸ばしてくる。そのまま、さらりと前髪を横に流されて、アンワールは目を瞬かせた。
 ティアが心配そうに眉をほんの少しさげて、言う。
「アンワール、髪伸びたよね。目に入ったりしてない? 大丈夫?」
 そういわれれば、確かに長くなったような気がする。
 ティアの手が離れたことで再び落ちてきた前髪を自分でもかきあげながら、ふとそんなことを考える。
 後ろもそのままにしてあるから、随分と長くなってしまっているだろう。いつも結わえてしまうのでそこまで気にしたことはなかったが、そろそろ切るべきか。
「大丈夫だが、邪魔といえば邪魔だな」
 前髪を摘みつつそういうと、席を立ったティアがアンワールのもとへと近づいてくる。
 アンワールの背後にまわり、背へと流した髪の束を手に取り確かめながら、ティアが言う。
「後ろのほうも、ちょっと毛先痛んでるみたい。切り揃えたほうが、いいんじゃないかなぁ」
 ひょこ、と左横から顔を覗かせたティアと、近い場所で視線が絡む。ティアが首を傾げると、さらさらと明るい色の髪が流れた。
「ね、いつもはどうしてるの?」
「自分で切っている」
「え?」
 ティアが目を見開く。
「自分でって……ど、どうやって?」
 どうといわれても。
「小刀をあてて、そのまま適当に切る」
 これまでしてきたように、ばっさりと切り落とすような仕草をすると、ティアが青い顔をする。その様子を想像でもしたのだろう。
「だ、だめだよ。危ないし、それじゃ綺麗にならないよ」
「女でもあるまいし、そこまでする必要がない」
 男であるアンワールには、とくに己の髪に対してこだわりなどない。しかし、女であるティアは感覚が違うらしい。
「だめ! ちゃんとしなくちゃ!」
「……そうか」
 いつになく強い口調でそういわれ、アンワールはちょっと声を落として頷いた。
 そして、ぱっとティアが顔を輝かせ、ぽんと両手を可愛らしく打ち鳴らす。
「そうだ、レクスに頼んでみようか? 手先が器用だから、すごく上手に切ってくれるよ?」
 いいことを思いついたといわんばかりに、ティアが笑顔でそう告げる。
 アンワールの脳裏に、占い横丁に住む、青い髪をもつどこか皮肉げな雰囲気の少年が描き出される。
 確か、ティアの親友だと豪語して憚らぬ輩であったはず。二人でいるところも何度か見たことがある。そのときの、ティアをみるあの目――あれはきっと、自分と同じ想いを孕んでいる。
 思い出した光景に、胸の奥が不快にざわめく。アンワールは、ティアにはわからぬくらいに、わずかに眉を顰めた。
 それに気付かぬまま、ティアが笑う。
「私、いつもお願いしてるんだ。さっぱりして気持ちいいよ?」
 肩の上で綺麗に切りそろえられた髪に手を添えて、だから大丈夫だよというティアに、腹の底が熱くうねる。
 その髪に、あの男が触れたのかと思うと、たまらなく不愉快だった。
「断る」
 それが嫉妬というものとは気付かぬまま、アンワールは即答した。
「え」
 きっぱりといいきられ、一瞬目を大きく見開いたティアが、ううーんと悩むように腕を組んだ。
「ええと、じゃあ他に誰かいたかなぁ……」
 いるではないか、目の前に適任者が。
「ティアがいる」
「え、わ、私?」
 ひどく驚いた様子で己を指差し、声をあげるティアに向かって。こくり、とアンワールは頷いた。
「ティアならば、いい。やってくれないか」
 ティアが大きく手を振る。
「無理だよ! 私なんかじゃ失敗しちゃう!」
「では、ナイフを貸してくれ。いつものように、自分で切る」
 ティアがやってくれないのならば、自分でやるという選択肢しか、アンワールの中には残されない。
 ぎょ、とティアが目を見開いた後、腕を組み可愛らしい様子で悩みだす。
 そして、しばしの後。
「……ん~、わかった! 私が切ってあげる!」
 ナイフを持ち出して、ばっさりと切るよりはいいと判断したらしい。
 そう宣言したティアは、いつも切ってもらうときに使うという道具を、手際よくあちこちから出し始めた。
「じゃあ、お天気もいいし外でやろうか?」
「わかった」
 その椅子を持ってきてといわれ、手近にあった丸椅子を手にする。すぐ手の届く範囲にある己の剣を携えて、ティアの後を追いかけるように、アンワールは開けられた扉からゆっくりとした歩みで外に出た。
 高価な染料をふんだんに使っても、こうも青くはならないだろう高い空から、何の混じりけもない太陽の光が降り注ぐ。それは砂漠の苛烈なものとは違い、どこか優しい。
 家の前、背の短い草の上に大きな布をひいて、ティアが丸椅子をそこへ置くように指示する。椅子を言われるままに下ろしたアンワールに、ティアが言う。
「あ、その剣はあっちに置いてくれる? 邪魔になっちゃうから」
「……わかった」
 何の思惑もない澄んだティアの瞳を見返して、アンワールは小さく了承の言葉を零した。
 そっと倒れぬように家の壁へと立てかける。
 そんなアンワールの横で、ティアがもう一枚布を広げた。ふわり、それが風に煽られる。
「はい。じゃあ、座って」
 促され、アンワールはようやく椅子へと腰掛ける。
 先ほど風をはらんで膨らんでいた、ティアが好きそうな柔らかな色合いの布が、アンワールの全身を覆うようにかけられる。
 ようやく準備が終わったところで、ぐっとティアが拳を握り締めた。
「よし、じっとしててね、アンワール!」
 なぜそんなにも気合がはいっているのか。
 ふとしたそんな疑問は顔にでていたのか、ティアがほんの少し眉をさげて、困ったように笑った。
「私ね、してもらったことはあるけど……してあげるのは、初めてだから……」
「なるほど」
 納得し、アンワールは小さく顎を引いた。だが、そこまで気負う必要はない。
「ティアの好きなように切ってくれて構わない。いずれ、髪はまた伸びる」
 気にしないようにといったつもりだったが、ティアはとんでもない! といわんばかりに頭を振った。
「だめだよ、せっかくこんなに綺麗なんだから。任せて、私ちゃんとやるからね!」
 そのまま、ティアはアンワールの背後へと回り込んでいく。まずは後ろ髪から、ということらしい。
「あ、いきなり動いたりしないでね、危ないから」
「わかった」
 素直に頷くと、バンダナと金の装身具が外され、髪を結わえていた紐がほどかれる。
 アンワールの足元に置かれた小さな籠にそれを丁寧に入れたあと、ティアが櫛を手に取った。
 一定の調子をもって、先端、中ほど、髪の根元の順に優しく梳られていく。そうして全体に櫛が通される感覚に、アンワールは小さく息をついた。他人にこんなことをされるのは初めてで、なんだかくすぐったい。
「痛んでる毛先から、ちょっと上のほうで切るね」
「もっと短くてもいいが?」
「私が長いほうがいいの」
 小さく笑ってアンワールの言葉を却下したティアが、ハサミを手に取る。
「じゃあ、いくよー」
「頼む」
 そうして、金属の触れ合う冷たい音と、髪が切り落とされる微かな音が交じり合い、二人を包む。
 長さを確かめるように触れるティアの指先。幾度も櫛を通される感覚。真剣で懸命なティアの気配。
 そのすべてがとても心地よくて、アンワールはゆっくりと身体から力を抜いた。
 本当なら、背後をとられ刃物を突きつけられるなど、剣士としてはあるまじきことだが、安堵してしまう。今、首元に刃をつきたてられたら、抵抗する間もなく自分は死ぬかもしれないというのに。
 ちらり、アンワールは視線を横に流す。
 家の壁に立掛けた大剣をみつめる。すぐそこにあるとはいえ、その柄に手をかけるまでには少なからず時間はかかる。その一瞬の遅れが死を招くのをわかっていても手放したのは、ティアがそんなことをしないと知っているから。
 だが、それもいいだろう。
 宝砂の大剣の声が再び頭に響き、心を失いそうになったあのとき。その手にかけてほしいと願った少女に命を絶たれるならば、いい。
 自分の心にいつの間にか住みついて、笑顔と安堵というものを教えてくれた彼女なら。死という絶対の、誰しもに訪れる終わりをいますぐに与えられたとしても構わない。
 ほんの少し風が吹く。見上げる今日の空のような穏やかさが広がる心で、そんなことを思う。

 すべては――ティアだからこそ、許される。

 ティアに惹かれ恋をして、彼女もまた自分に惹かれて恋してくれた。互いに、互いだけを愛する心がある。それは、この世界で最高の幸せだ。
 他のやつならば、こんなこと絶対にさせはしない。こんな状況になることすらありえない。ティアがいったレクス、という男などとんでもない。ティアの髪に触れたということを差し引いても、こうして自分の弱い部分をさらけ出すなど、できるわけがない。
 己の考えにうむ、と小さく頷くと。いきなり動かれて驚いたらしいティアが、「わわっ、動いちゃだめだってば~!」と声をあげる。
 すまない、と謝ったアンワールは、今度はそんなことがないように、獲物を狙い草陰に身を潜める野生動物のようにじっとする。
「えっと。あとはこっちを整えて……」
 そんなアンワールの後ろで、ぶつぶつと呟きながら、気を取り直したティアが一生懸に手を動かしていく。
 すこしずつ、すこしずつ。だけれど確かに軽くなっていく髪。
 それは自分の一部が失われていくことだけれど、それ以上にアンワールの心に温かな感情が降り積もっていく。
 やがて前に回りこんできたティアに瞳を覗き込まれ、ふいにせまったその可愛いらしい顔に、とくんと心臓が甘く跳ねた。
「じゃあ、今度は前髪切るから、目を閉じてくれる?」
「わかった」
 そっと目を閉じる。影に覆われた視界の中、ふとアンワールの口元に笑みが浮かぶ。
 勝手にそうなるのは、きっと。今、自分がとても大きな幸せを感じているから。
 そう思えるようになったのも、すべてはティアのおかげだ。
 いつの間に、自分の中心はティアになってしまっていたのだろう。不思議だけれど、嬉しく思う。
「ティア」
「な、なぁに、アンワール? もうちょっとだから、我慢してね……!」
 だから、そっとそーっと前髪にハサミをあてるティアの真剣な姿を思い浮かべながら、アンワールは言う。
 この気持ちを表す言葉。きっとそれでも足りない、伝えきれないけれど、その言葉しかないのだから。
「愛している」
「っ!」

 じょきん

 声にした瞬間に、盛大に響く何かが断ち切られる音。
 ふ、と目を開けると、遮るもののなくなった明瞭な視界の中、頬を染めたティアの時間が止まっていた。
 ひゅうと空から吹き降ろす風に、さらさらと切り落とされた髪が舞って飛んでいく。
 どうやら、ふいうちの愛の告白に、驚いて手がすべったらしい。
 いつもいっているのに、どうして慣れないのか。いや、それがティアらしいのか。
 ちらり、視線を持ち上げると、すぐそこに髪がみえた。斜めに切られた髪の先が、風に静かに靡いている。
 根元から切られたわけではないようだ。どちらにしろ、髪に執着のないアンワールにとっては、何も問題はない。一番短い部分にあわせて適当に揃えてもらえれば、目にもはいらず丁度いいだろう。アンワールにとっては、それくらいの感覚であったのだが。
 目の前の恋しい少女にとっては、そうでないらしい。
 時間がたち、現状を理解していくにつれ、すぅー……っと、その赤みを帯びた健康的な肌から色が失われていく。
 かたかたと指とハサミが震えだす。
 そして。
「っ……! きゃぁぁぁぁー!!」
 青くなったティアの絹を裂くような悲鳴が、高い蒼穹の下に響き渡った。

 

 その後、ローアンの街中では、大失敗にひどく落ち込むティアを、「大丈夫だ、気にするな」と慰める続けるアンワールの姿がみられた。
 そして、その前髪はティアと同じぐらいに、すっぱりと綺麗に横一線に切り揃えられていたという。