ローアンの街を取り囲むようにして流れる清らかな小川には、様々な生物が住んでいる。
占い横丁の西の作りかけの橋から見下ろす水面の底にも、いくつもの魚影が確認できる。
うららかな陽射しも心地よい午後のとある日。
ティアはそんな川辺で、レクスと一緒に釣り糸をたらしていた。
それはよく見られる光景だった。それなりに苦しい生活にある以上、自力で食料を調達するには、釣りはとても有効な手段なのだ。
だが、釣果は芳しくないようである。
「むー……」
「あいかわらず釣れねぇなあ、ティア?」
「ほんと……なんでかなぁ……」
にやにやと意地の悪い口調でそう言われ、ティアはかくりと肩を落とした。
二人で並んで座っているティアの傍らにあるバケツは空。
対するレクスのバケツには大きい魚が数匹。
比べるべくもない。差は一目瞭然である。
同じ場所で、同じ餌で、同じ釣竿を使っているというのにこの状況。ティアは、自分が釣りに向いていないことを改めて認識した。
「ティアはボーっとしてっからな、魚にまで馬鹿にされてんだろ」
「そ、そんなことないよ。……たぶん」
尻すぼみに小さく呟いたティアに、レクスは弾けるように笑った。
「ははは! しょっちゅう餌だけとられといてよくいうぜ……よっと」
遠慮も配慮もなくひとしきり笑った後。
ひゅん、と小さな音を立て釣竿を引き戻して、レクスは立ち上がった。
「あれ? レクスもうおしまい?」
それを見上げながら、ティアは首を傾げて問いかけた。
「まあな、誰かさんと違ってオレはばっちり釣れたからな」
ずい、と差し出されたバケツの中で泳ぐ魚に、ティアはぐっと言葉に詰まった。
「ちょいとデュランと約束もあるしな、オレはもういくぜ」
「うん、わかった」
またね、とティアが続けようとしたとき。
レクスは、自分のバケツからティアのバケツに魚を一匹放り込んだ。
「え?」
ティアは自分の小さなバケツでは窮屈そうなその魚をみつめ、ぱちぱちと目を瞬かせる。そして再びレクスを見上げる。
「なんだよ。こんなにいっぱいあっても食い切れねーだろ?」
ぶっきらぼうにそう言って、手の水を払いながらレクスはぷいと横を向いた。
「わけてやるから、夕飯に使えよ」
ティアの顔が、雲が晴れた空から光が差し込む大地のように明るくなっていく。この大きさなら、半身でも一人には十分なくらいだ。
「レクス、ありがとう!」
「おう」
満面の笑みで礼を言われて満更でもないのか、照れているのか。レクスは小さく笑って、頬をひとつかいた。
と、何かに気付いたのか、レクスは横丁の奥へと視線を送った。
「おーおー、お前のワンコロがきたみたいだぜ」
「え?」
さきほどとは違う、からかい気味の笑顔と台詞にティアは首を伸ばしてその方向を見た。
大きな剣を背負った紫の髪の少年が、小走りにこちらへやってくる。
「アンワール!」
大好きな人の姿に、ぱっとティアは顔を輝かせたが、レクスの発言に「ん?」と眉をひそめた。
「って、レクスったらなんてこというの!」
「なんだ? ほんとのことだろうが。いつもお前の後をちょろちょろついて回っててよ。犬だろ犬」
「もうっ、そんな風にいわないでってば!」
ティアは立ち上がって、レクスの言葉に対してさらに抗議を重ねる。
ふふん、と鼻を鳴らしたレクスとやいのやいの言い合っているうちに、アンワールは二人のもとへと到着した。
一見、何の感情も浮かんでいないようにみえるが、その口元はわずかに綻んでいる。
「ここにいたのか、ティア」
「うん。もしかして、探してくれてたの?」
そんなアンワールを、ティアは笑って出迎えた。
「ああ、会いたかった」
その笑顔に引き寄せられたように褐色の手が伸びてきて、ティアの頬を包み込んだ。
「ティア、ここでなにをしていた?」
「お魚釣りだよ。今日のお夕飯にでもしようと思ってはじめたんだけど。私じゃ、ぜんぜん釣れなくて」
伝わってくる暖かなぬくもりに、心地よさそうに目を細めてティアは続ける。
「今ね、レクスから大きいお魚一匹もらったの。ムニエルにでもするから、今日はお夕飯、一緒に食べよう?」
「ああ、そうしよう。楽しみだ」
誰の目にもわかるくらい、優しい微笑を浮かべたアンワールとティアの間に漂いはじめた甘ったるい空気に、レクスは呆れたようにため息をついた。恋人同士であることは知っているが、親友のラブラブっぷりをみせつけられて平静を装えるほど、レクスは大人ではないのである。
やはりアンワールに、ぱたぱたと振られる犬の尻尾がみえる気がする。幻にしても性質が悪い。
「あーあー、やっぱ犬とそれを甘やかす飼い主じゃねーか……ったく、勝手にしてくれ……」
げんなりとした様子でそういうと、レクスは竿を持ち直し、自分の家へと去っていく。
その背に向かって手を振りながら、ティアは言う。
「お魚、本当にありがとう! またね、レクス!」
ひらひらと振り返らずに手をひらめかせて遠ざかっていく背を二人で見送る。
そして、ティアはにこりとアンワールに笑いかけた。
「じゃあ、私の家にいこっか。下準備もしなきゃね」
そういって、左手に釣竿を持ち右手にバケツ――と、手を伸ばしたティアの目の前で、それは消えた。
ぱちぱちと目を瞬かせ、目標を横から持ち去ったアンワールを見つめる。
右手にバケツをぶらさげたアンワールが、笑う。柔らかな日の光の中に、ほどけてしまいそうに綻ぶ目元。
す、と手が差し出される。
「ティア」
当たり前のように、そこにある褐色の手が求めるもの。
そこへ迷うことなく自分の手を重ね、ティアは嬉しそうに笑った。
そして手をしっかりと繋ぎ、二人でゆっくりと歩き出す。
「今日、いい天気だね」
「ああ」
そこからぷっつりと会話は途切れてしまったが、その沈黙は決して嫌なものではない。
なんだか、なにをいわずとも通じ合うこの空気が心地よい。
ティアはアンワールには知られぬように、こっそりと笑った。
暖かく緩みきった雰囲気に浸りながら、ぷらぷらと家路を辿る。
そうして、ローアンの街外郭のわずかに木々が生い茂った場所に差し掛かった頃。
アンワールが、口を開いた。
「今日の釣りは……あいつと一緒で、楽しかったか?」
「え、うん。楽しかったよ。今日は全然お魚連れなかったけど」
レクスが聞いていたら、いつもだろと突っ込みが入りそうなことを、ティアはほんの少し眉を下げて笑いながら答えた。
「じゃあ、オレといるのは……楽しいか?」
「え?」
どこか切なげなアンワールの声にかすかに滲むのは、弱気と不安。
驚いてティアは顔を横に向けた。
正面を向いたままだったアンワールの視線が、いつの間にかこちらを向いている。ちくりと刺すようなそれに、ティアの胸がきゅっと音をたてた。
とくとくと、心臓がうつ早い鼓動を数えることが難しい。ティアをこんな風にときめかせるのは、アンワールだけなのだけれど。本人はわかっていないらしい。
ティアは笑う。恋を知った少女の笑みは、それを知らぬ頃よりずっと、ずっと大人びている。
その微笑に、アンワールの目がまぶしいものをみるように細くなった。
「アンワールといると、とっても楽しいよ。いろんなことが綺麗に見えるし、いろんなことがアンワールに繋がる。誰といても、アンワールの顔を思い浮かべるの。そうするとね、ここがすごく、どきどきしてくる」
釣竿をもった左手を、そっと胸に押し当てて。
「この奥が、あったかくなって――ほんとうに、幸せな気持ちになれるの」
視線を絡めたままそういえば、アンワールがティアの手を握りしめる力を強めた。ぴたり、と足を止める。
同じように歩むことをやめ、ティアは小さく首を傾げてアンワールをみつめ続けた。
「そうか。オレも、おまえといることがとても……幸せだと、思う」
ティアが、あれ? と思った次の瞬間。
「――ティア」
ふわり、と一息でアンワールがティアと距離を詰める。
当たり前のように顔を寄せられて、ティアは目を見開く。アンワールの求めているものがわかって、ぼっと音をたてるようにティアは頬を染めた。
思わず俯いてそれを避ければ、アンワールが眉を顰めた。ぼそぼそっと、ティアはそんなアンワールに抗議する。
「だ、だめだよ、誰かにみられちゃうよ……」
「誰もいない」
ばっさりとアンワールはティアの言葉を切り捨てて、ぐっと繋いだ手を引いた。よろよろとティアは一歩前に出る。
確かに、占い横丁から街入り口までのこの道に、いま人影はない。
だけど。
「だ、誰かくるかも……!」
「誰もこない」
「もう……!」
そういうことじゃない、といいたくて。ぱっと顔をあげてしまったが、最後。
ティアはアンワールの瞳に、絡みとられて動けなくなる。
鋭い眼差しにぼうっとしながら、ティアはそっと瞳を閉じてわずかに顔を傾げた。
誰かに見られたならば、それまでだ。もう、拒むほどの気力が湧かない。流される。
そんな様子に満足したように、風が動く。
それは熱い砂漠に吹く乾いた風のごとく、ティアに降りてくる。
ほんの一瞬だけ、触れあった唇に背筋が震えた。
そして、小さな音とともに訪れたときと同じように軽やかに去っていく。
目を開けると、この上もなく嬉しそうなアンワールがいる。
そんな顔をされては、なにかいうこともできやしない。
「むう……」
ティアは、思った。
レクスの言葉はやっぱり違う。
アンワールは犬なんかじゃない。
ばっちりしっかり――狼だ。
でも狼は、生涯をただ一頭の相手とのみ連れ添うという。仲睦まじく寄り添い、その愛情を伝えあい、確かな強い絆で結ばれる。
私たちも、そうあれたら。
熟れた果実のように真っ赤な顔をして微笑んで、ティアはアンワールの頬に口付ける。
いきなりなその行動を驚くこともなく受け入れて、アンワールは小さく言う。
「ティア――オレには、おまえだけだ」
「私も、アンワールだけだよ」
第三者が聞いていれば、恥ずかしいことこの上もない告白を贈りあう。
そうして、笑いあい手を繋ぎなおして歩き出す。
我が家はもうすぐ。
でも、もうちょっと。もうちょっとだけ。
ゆっくりいこう。
微笑みあうだけで想う心が伝わってくる二人だけのこの空間が、とっても心地いいから。
ティアとアンワールの優しい幸せに満ちた日々は、こうして今日も溢れんばかりの相手へ想いとともに過ぎてゆくのであった。