彼の知りたいこと

 なんでもない日だった。
 世界は少しずつ滅びに向かっているけれど、それはまだ当分先のことで、穏やかといえる時間が過ぎていく他愛のない、とある一日。
 ちょっとだけ陽射しが強くて暑かったから、裏通りの少し奥まったところで、二人で木箱に腰掛けて、世間話をしていただけだ。
 それなのに、どうしてだろう。
 どうしてこんなことになっているのだろう。
 暖かな陽気のせいだけでない汗をかいた手を握り締め、ティアは頬を赤らめて俯いた。同じように木箱に座っている少年のまなざしが、自分に注がれているのがわかる。
 ティアの恋人である少年――アンワールは、しゃらりと金の装身具を鳴らしながら首を傾げた。
「ティア、だめなのか?」
「いや、あのね……だめってわけじゃ、なくて……」
 尻すぼみになっていく言葉にアンワールは頷いた。
「では、いいんだな」
「っ!」
 す、と伸びてきた手がティアの肩を掴んで引き寄せる。と、同時にアンワールの顔が近づく。
 そのいきなりの行動に、ぴゃっと肩を跳ねさせたティアは、反射的にアンワールの口元を手で覆ってその動きを封じた。
 急接近しようとしていたアンワールがその行動に眉根を寄せて、もごもごと何か言っている。手のひらのくすぐったさをこらえて、ティアは泣き声交じりに訴えた。
「ちょ、ちょっと待って……!」
 心の準備もさせてくれない恋人に、ティアはどうしたらいいのかと考えながら深呼吸を繰り返す。
 そんな様子を数瞬みつめたアンワールは、ティアの手首を掴んで己の口元から手をどけさせて目を伏せた。
「ティア、オレは何かやり方を間違えているのか?」
「ううん、そんなことない……と思う」
 囚われたままの手首が、どんどん熱くなっていく。ティアは逃れることもできず、指先を僅かに動かしながら答える。
「ならば、なぜ妨げる」
「……」
 純真無垢な瞳は、素直に「どうして?」と問いかけている。ちくちくと刺さるその視線が痛い。
 だって、だって……、とティアは繰り返す。
 どうしたらいいのかわからない!
 そもそも、いきなりへんなことを言い出したアンワールが悪いのではないか!
 僅か数分前に交わしていた会話の途中で、さも世間話のひとつとばかりにアンワールが口にした言葉がよみがえる。

 ――キス、というものを恋人同士はするらしい。ティア、してもいいか?――

 思い出して真っ赤な顔で唸るティアに対して、アンワールは冷静だ。なぜそんなに落ち着いているのか、問い詰めてやりたい。
「ティア、これはそんなにおかしいことなのか?」
「ううっ」
 そう問いかけつつ、アンワールはティアを再び覗き込んでくる。
 誰だ。アンワールにこんな興味を持たせたのは。
 困り果てたティアは、見知らぬ誰かをほんの少し恨んだ。
「そうか、ティアは……オレとするのが嫌、なのだな」
 さすがに不安になってきたのか、アンワールがあからさまに落ち込んだ。その様子に、ティアは慌てて手を振った。
「そ、そんなことないよ? 急だったからびっくりしちゃって……その、どうしたのかなって思っただけで!」
 しどろもどろにティアがそういうと、アンワールは「なるほど」と小さく頷いて理由を語りだす。
「前に、公園の片隅でおなじようなことをしている二人をみかけた」
 ああ~……、とティアは心の中で声を漏らした。いつものように人の観察をしていたアンワールは、その行為に疑問をもったに違いない。
「そのときに、ちょうど通りすがった老人から、あれは恋人同士ならばあたりまえの行為なのだといわれた」
 だが、とアンワールは続ける。
「その意味までは教えてもらえなかった。それは恋人としてみればわかると……心で感じろ、といっていた。だから、」
「いきなりあんなこと言い出したんだね……」
 ティアがアンワールの言葉に続いてどことなく疲れたようにそういえば、アンワールは素直に頷いた。
 どうしよう。
 ティアはアンワールが好きだ。大会の前日に告白されて、恋人になって。預言書の暴走で彼の姿がこの世界から消えてしまっても、預言書を奪われ戦う術を失っても、諦めることなく前へ進むことを選べたのは、この目の前にいる少年を取り戻したかったから。きっと還ってきて、笑いかけてくれると信じたから。
 アンワールのいったとおり、自分たちは恋人同士であるわけだし、キスしたって何の不思議もない。
 ――むしろ、ちょっと興味があったりするわけで。
 自分のそんな思考にさらに頬を熱くして、ティアは握られていない方の手で、顔を覆った。
 ただ、そう。ティアの身を満たす感情はひとつだけだ。それが一番の問題だ。
「恥ずかしい……」
 ぽつん、とそう零せば、それを聞き漏らさなかったアンワールは目を瞬かせた。
「これは恥ずかしいことなのか?」
「!」
 本気でそう問いかけてくるアンワールの声に、ティアは固まった。
 ひとつの行いに対してこんなに感情が噛み合わないとは。いや、でもアンワールならば仕方ない。いままでそういったことに縁遠いというか、まったく興味もなかったのだろうから。
 前髪をくしゃりと掴んだティアは、えっと、だの。うーん、だの。
 なんともいえない言葉を繰り返す。感覚が違うのだから説明のしようがない。
 悩むティアの手をアンワールは引き寄せた。すり、と頬を寄せてくる。
「あの老人がいっていた。ふと、好きな相手に触れたくなる瞬間はある、と」
 指先にともるような相手のぬくもりに、ティアはゆっくりと顔をあげる。
「それが、たとえば指先だったり」
 柔らかなアンワールの頬の感触。
「髪だったり」
 髪を撫でていく手のひらの感触。
「唇だったりするのだと」
 滑るように近づいて、唇の端にわずかに触れて離れていく綺麗な指先を、ティアはぼうっと視線で追いかける。
「そんな想いのまま触れることで、わかることがあるのだろう? それがキスの意味という答えのはずだ。それを求めるのは、恥ずかしいことなのか?」
 瞳と瞳をあわせた瞬間、ティアの胸が甘く疼く。
 枯れぬ泉の清らかな水が溢れるがごとく、世界でたった一人の大切な人へだけ流れていく想いに、ティアは眉を下げて小さく照れ笑う。
 ようやく笑みを浮かべたティアに、アンワールも微笑んで、ほんの少し身を寄せてくる。
「オレは、それをティアと一緒に知りたいと思う」
 ただひたすら純粋に、そう思ってくれているのがわかる。
「……うん、そうだね。私も、知りたい」
 キスの意味なんて、経験のないティアにだってわからない。でも、今ならわかりそうな気がした。
 きっとそれは、相手への溢れるようなこの想いを、伝えるため。この熱が少しでも届くようにと願いなら、交わすもの。
 触れあうことで、自分のそんな考えは伝わるだろうか?
 ティアはそんなことを思いながら、覚悟を決めた。
「……アンワールとなら、いいよ」
 恥ずかしさをぎゅっと心の奥に押し込めて、ティアは目をゆるりと閉じながらそう告げる。
 狭まる視界の先、アンワールが顔を寄せてくる。ちょうど、すべてが瞼に隠された瞬間に――口付けは、そっと落ちた。
 心地よい熱が伝わってくる。それは、うっとりするような柔らかさで、わずかなティアの唇を啄ばむよう。
 重ねただけの感触がくすぐったくて、ティアは思わず声を漏らした。
 その小さな笑い声に、影がゆっくりと離れていく。ティアは、ゆるりと瞼を持ち上げた。
 すぐ傍に、わずかに上気して小さく息を吐く、少年の瞳がある。そこに浮かぶ、揺らめく感情の色がとても綺麗だ。
 なにか得るものがあったのか、アンワールは睫をせわしなく上下させて、ティアからほんのすこし距離を置いた。
 指先で己の唇をなぞるアンワールの仕草に、ことさら胸が跳ねる。
 そんな風にして思い出さなくても……。
 頭のてっぺんから湯気を出すような勢いで身を火照らせたティアは、アンワールから視線を外して、自由になった手をもじもじと擦り合わせた。
 それから特に何を言うわけでもなく、アンワールは何か考え込んでいる。
 感想が欲しいわけではないけれど、こう黙られてしまうと心配になってくる。
 ちらちらとティアが視線を送っていると、アンワールは一際大きく頷いた。
「なるほどな……」
 そして、どこか甘さを含んだ笑みを浮かべてティアを見遣る。いつもの、見る側も優しい気持ちになる無邪気な笑顔とは少し、違う。
 なんだか、別人のように急に大人っぽく見えてしまう。
 ふわり、と路地を駆け抜ける涼やかな風に髪を遊ばせて微笑むアンワールに、ぽーっと見惚れてしまったティアへ、届けられる言葉。
「ティアの想いを、もらったような気がする。キスとは、とても幸せな気持ちになるものだな」
 こくん、と同意するように、ティアも顎を引いた。
「触れたくなるのは、幸せになりたいから。そう思うのは、その相手が好きだから」
 にこ、とアンワールがいっそう笑みを深くする。
「そして、自分と相手の想いを交わす――キスをするとは、つまりそういうことか」
「うん、私もそう思うよ」
 同じ結論に達したアンワールに、ティアは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう、ティア。やはりおまえは、いろんなものをオレに教えてくれる。与えてくれる」
 それはこっちだって同じことだ。
 でも、そういってもらえることは嬉しい。ティアの心がぽかぽかと温まっていく。
「そうだ、ティア。もうひとつ教えてくれ」
「?」
 これ以上何があるのだろう、とティアは首を傾げる。対する質問者は、至極真面目な顔で言う。
「キスのときは、目を閉じるものなのか? そういえば、公園で見た二人も目を閉じていたのだが」
 どうやら、あの瞬間のティアの様子をみて疑問に思ったようだ。
「……そのほうがいい、かな」
 ティアは困ったように眉を下げて答える。
 だって、自分は恥ずかしくて目を開けられないのに、アンワールだけがこちらの表情を見るなんてずるいではないか。
 そんな理由は言葉にせずに、小さな声でそう答える。
「わかった」
 アンワールは、それ以上はなにも言わず、ふむふむと頷く。
 そんな彼をみつめつつ。
 次がいつになるかはわからないけど今度はもっと雰囲気があるといいな。
 そんなことをティアが考えた次の瞬間。
 す、とアンワールが目を閉じた顔を寄せて、小さな音とともにもう一度ティアにキスをする。まるで、引き付け合う磁石のような正確さで触れてきた唇に、ティアは息を詰まらせた。
「!!!」
 びくり、と身体を震わせたティアの視界いっぱいに、目を閉じたアンワールがいる。
 あまりのことに思考を真っ白に染めたティアから、ゆっくりと顔を離してアンワールは言う。
「つまり、こういうことだな?」
「ア、ア、アンワールっ……!」
「ティアの顔をみられないのは残念だが、おまえがそう望むなら、これからは目を閉じよう」
 あっさりと二回目を奪い去った少年は、慌てふためくティアに対していつものように笑った。
 なんの混じり気もない、無垢なその姿が、とっても幸せそうだから。
 ティアは、もごもごと口ごもり。
 こくん、と小さく頷くことしか、できなかった。