はっきりと、覚えている。
砂埃立つ砂漠の民の集落で、暑く眩しい太陽よりも、もっと輝く笑顔を浮かべた少女が自分に対して差し出してくれたもの。
攫ってきたその少女に己の名を教えたときよりもずっと、胸の奥がざわめいた。
砂漠の片隅にひっそりと咲いていたのだろう紫色の花。
「ありがとう……」
誘われるようにそれを手にして、無意識のうちにそう呟いたアンワールに、少女――ティアは、嬉しそうにはにかむと背を向けて駆け出した。
その後ろ姿を呆然と見送りながら、自分のどこかが優しく溶けていくのを、アンワールは感じていた。
あのとき自分の手の中で、乾いた風に吹かれて揺れた花は――
「ノコリガ、だったか」
もうすぐ昇る太陽を静かに待ちながら、アンワールはぽつりと呟いた。世界が目覚め始めるほんの少し前。明るい色に染まり始めた空は、刻々と色を変化させている。その色彩の中に、あの日の花の色がある。
砂漠の民の集落内にある遺跡をほんの少し登ったところに座り、同じように東の空をみつめていたティアが、二人一緒にすっぽりとかぶった防寒用のマントの下で小さく首を傾げた。
「え? なあに、なんて言ったの?」
アンワールの言葉を聞き漏らしたのが気になったのか、ティアが大きな瞳をじっと向けて問いかけてくる。その視線を受け止めて、アンワールはほのかに笑った。
「ティアと、出会ったばかりの頃を思い出していた」
ああ、とティアが頷いて笑った。
井戸の傍らになにをするでもなく立っていた自分に、ティアが懸命に話しかけてくれたこと。ふらふらと砂漠に出て行ったと思ったら、可愛らしい花を届けてくれたこと。アンワールは、そんなことを思い出していたのだが。
どうもティアが思い出したのは、出会った時のことそのものだったらしい。にこにこ、と無邪気に笑ってティアは言う。
「私の家の前で、アンワールが待ち伏せしてたときのことだね!」
そこか、と思ったものの、とやかくいえる立場じゃなくて。アンワールは黙り込んだ。
「いきなり気絶させられて、気づいたら砂漠へ向かう馬車の中なんだもの。扉もぜんぜん開かないし、呼びかけても誰も応えてくれないし。あの時はびっくりしちゃった」
微笑んだままのティアが、なんの悪気もなくアンワールとの出会いを語る。
確かに、それで間違いはないのだが。
殴られ気絶させられたあげく攫われたというのに、すべてひっくるめて「びっくりしちゃった」、で済ますティアは大物だ。
だが、本人はよくともアンワールにとっては、ちっともよくない。抜けない針が刺さったようなちくちくとした痛みが、胸を苛む。
「あのときはすまなかった……」
「え? どうして?」
あの頃、まだアンワールの心は空っぽで、乱暴を働いたことなんてなんとも思わなかったのに。今は、不思議そうにみつめてくるティアに申し訳なさが募る。そういえば、まともに謝ったことがなかった。
アンワールが目を伏せてしまったことに、ティアが驚く。おろおろと気遣わしげな視線を向けてくるティアを、アンワールはそっと覗き込んだ。
「お前に拳を向けてしまった。それに、無理やりオオリのもとへと連れ去った」
「うーん。それは、そうだけど……」
でも、と言ってティアは笑った。
「あれがなかったら、アンワールと出会ってなかったし。こうして一緒にいることもなかったと思うの。私にとっては、いい思い出だよ」
だから、謝らないで。優しい声でそう続けて、ティアはそっとアンワールに寄り添ってくる。ティアの薄い肩を引き寄せて、アンワールはほっと息をつく。そういわれると救われる。そう、確かにあんなことがなかったら、こうして二人そろって朝日を見ることもなかったのだ。不思議な、めぐりあわせ。
「オレも、ティアに出会えてよかった」
「えへへ。そういってもらえると嬉しいな」
あれ以来、たくさんのものをくれたティアは、最初に自分へ何を渡したか覚えているだろうか。ふとそんなことを考えて、アンワールは問いかける。
「ティアは、覚えているか? お前がはじめてオレへくれたものを」
「覚えてるよ。砂漠の片隅に咲いていたお花だよね」
当然、というようにティアはこたえた。そっと小さな手が伸びてきて、さらりとアンワールの前髪を梳いた。
「あのお花ね、アンワールの髪と同じ色だったでしょう? だから似合うだろうなぁって思って渡したの。それに砂漠のお花だから、きっと好きだろうって。喜んでもらえて、私も嬉しかったな」
「……オレは、喜んでいたか?」
「うん。ほんのちょっとだけどね、笑ってくれたよ」
そう言われて、アンワールは面食らった。あの頃はまだ、感情が表にでるようなことなんてなかったと思う。だが、ティアが嘘をつくはずもない。ならばそれは本当のことなのだろう。
「そうか」
「うん! あのときにね、アンワールともっと仲良くなりたいなって思ったんだ。そうしたら、いつも笑ってくれるんじゃないかなぁって」
髪に触れていた手が離れていくのが寂しくて。思わず引き止めるように握り締めると、ちょっとだけティアは目を見開いた後、笑ってくれた。
互いの手を握りながら、東の端を見る。
話している間に、地の線は赤々と燃えるように、輝きだしていた。
「そういえば、あのお花の花言葉って知ってる?」
夕焼けと見紛うような、鮮やかな赤と橙、黄の色の波をその頬に受け止めながら、ティアは問いかけてくる。
「いいや、知らない。どんな言葉だ?」
「取り残された時間っていうんだって。なんだか、ちょっと物悲しい感じがするよね。あのとき知っていたら、もっと別のものをアンワールにあげてたんだけど」
目を細め、昇る朝日を見つめながらどこか遠い目をしたティアは、そうこぼす。いつもは、花言葉に詳しい人に聞いてから人に手渡すことにしているらしいが、その人物はローアンの街に住んでいるから、あのときはできなかったらしい。
だが、とアンワールは思う。
『取り残された時間』という言葉をもつあの花ほど、あのときの自分にふさわしいものもなかっただろう、と。
オオリに唆されて、ナナイとともに宝砂の大剣を抜いた瞬間に、体とは切り離されてどこかに置いてきてしまった、自分の心。固く閉ざした過去にしまわれた、凍りついた時間といってもいい。
それを溶かして、己の心を動かしたのは、ティアの優しい笑顔だ。
どこまでも水を吸い込む砂漠のようだった自分に、飽きることなく諦めることもなく、声をかけ笑いかけてくれた。
そして、この乾いた心はやがて感情という名の水で満たされた。
そこにはじめて芽吹いたものが、ティアへの恋心だったなんて、なんてよくできた話だろう。いや、むしろ当然だったというべきなのか。
とくとくと、心地よい鼓動を刻む胸から甘いため息をこぼして、アンワールは言う。
「オレは、あれが一番記憶に残っている。お前が、はじめてくれたもの。オレの心が、動き始めた証」
ティアは、じっとアンワールの言葉に耳を傾けている。
きらきらと、朝日を浴びた砂漠の砂が、金に、銀に、煌いて踊る。そして、太陽が地の底から顔をのぞかせた次の瞬間、地表に走った光の道に二人は照らしだされ、思わず目を細めた。
金色の色彩の中、アンワールはティアの手を握る自分の指先に力をこめた。
「取り残してきたものも取り戻せるのだと、オレはお前に教えてもらった」
だから。
「あの花は、オレが一番好きな花だ」
「うん……。ありがとう、アンワール」
その言葉に、幸せそうに微笑むティアをみて、アンワールも同じように微笑んだ。
「今度はオレがティアに何か贈りたい。好きな花はあるか?」
アンワールがそう問いかけると、ティアが預けていたその身をゆっくりと離した。
さて、ティアはどんな花の名を言うだろう。どんなところに咲く花であろうとも、必ず手にしてこようとアンワールが考えていると。
ティアが微笑んだまま、わずかに頭を傾ける。日差しの中、金色を帯びた髪が、さらさらとこぼれた。見惚れたアンワールの目の前で、小さな唇がゆっくりと動く。
「アンワールがはじめてくれるお花が、私は大好きだよ」
「……!」
「そこにどんな意味があっても、ないとしても。あなたがくれるお花が、一番好きになるから」
楽しみにしてるね! そう耳元に囁いて、ティアがぎゅっと抱きしめてくる。その抱擁に応えながら、アンワールは眉間に皺を寄せた。
結局、ティアはどんな花でもそこに贈り主の想いがこもっていれば、それがいいのだといっている。そうアンワールは判断したが、それではこちらの気が済まない。
花の姿や、その意味をよく吟味してティアにふさわしいものを見つけ出す必要があるな――アンワールはふっと笑った。
ある意味、ティアは難しい課題を出した。だが、それを乗り越えてこそ恋人というもの。
「任せろ、ティア。必ず素晴らしい花をお前に渡す……!」
ぐぐ、と拳を握り締め、アンワールは太陽に誓うかのように真剣な口調で宣言する。
「えっ、あの、なんでそんなに力はいってるの……?」
やたらと熱い口調のアンワールに、ティアが戸惑いの声をあげつつ身を離す。わずかに開いたその距離を詰め、アンワールはティアの顔を覗き込む。
「大丈夫だ。どんな切り立った崖にあろうとも、どんな険しい山にあろうとも、どんな遠い森にあろうとも、お前にふさわしい花をオレがみつけだしてくる」
本気でそう言い切ると、ティアがぎょっと目を見開いた。
「ちょ……! そ、そこまでしなくていいよ?!」
あたふたとする姿も可愛らしいな、と思いつつ。
アンワールはローアンの街に住む小説家をまず捕まえようと、心に決めたのだった。
恋する少女のためならば、ただひたすらに突き進む。
純粋真っ直ぐ少年の行動力を、少女はすっかり忘れていたのであった。
花に詳しいがゆえに狙われる、小説家の運命やいかに。