すやすや~、と安らかな寝息をたてる物体を見下ろして、ヒューバートは一度、ぎゅっと目蓋を閉じた。
 数秒後、ゆっくりとひらく。
 だが、見間違いなどの類であればいいと思った物体というか人体は、相変わらずそこにある。
 窓にかかる繊細なレースのカーテン越しに降り注ぐ柔らかな陽だまりが、寝台に形成されている。そのなかで、すらりとした手と足を投げ出し、銀と赤の髪をシーツに散らばらせ、緩みきった顔の口元にはよだれを垂らして――パスカルが眠っている。
 年頃の女がこれでいいのか、と微かな頭痛に苛まれつつ考える。だが、いくら考えても、よくないような気しかしない。いろいろとだめだろう、これは。
 いやまあ、「パスカルなら仕方ない」としかいいようがないのが、現状ではあるが。
「まったく……」
 額に手をあて、天を仰ぐ。
 地下遺跡の再調査を依頼されたというパスカルと、大統領からの親書をリチャード陛下に届けにきたヒューバートは、昼前にウインドルの首都バロニアで顔をあわせた。
 それぞれの仕事が与えられたのは偶然だが、その日程が重なったのは――誰かが画策したような匂いが漂う。
 それは、金の髪を持つ麗しいどこかの国王陛下だったり、温水供給施設の付設現場で指揮に当たっている天然タラシ教官だったり。
 いくら推察しても、それを裏付ける証拠も証言もでないだろうことは明らかなので、ヒューバートは考えることをやめた。
 つまり、そんなこんなで互いの仕事が終わったら食事でも、と約束して別れたのが数時間前。
 ヒューバートは、音を立てぬように気を配りながら一歩踏み出す。
 一体、いつからそうしているのか。少なくとも、ヒューバートより先に帰ってきたのであろうパスカルの幸せそうな寝顔に、やれやれと息を吐き出す。柔らかな苦笑いが、自然とこみ上げる。
 一ヶ月以上前、休暇を利用してパスカルに会いに行ったものの、やはり直に言葉を交わせることは嬉しいし、明るい笑顔には癒されるし、こうして穏やかな気持ちに――って、そうではなく!
 ヒューバートは、淡い恋色に染まりかけた己の思考を、頭を振って追い払う。
 そう、そうでした! なんで!
 自分のベッドに、大の字になり、あげく腹までだして!
 眠っているんですか、この人は! 無防備にもほどがある!
 握り締めた拳が、ぷるぷると震えた。
「パスカルさんっ!」
 気を遣うことを投げ捨て、つかつかと近寄り、丸みを帯びた両肩を掴みあげる。声を荒げて揺さぶる。
「パスカルさん!!?」
 一度、二度では届かないことくらい、承知のうえ。
「パスカルさん!!!」
 三度目。ご近所迷惑にならない程度の、精一杯の声。
 だらしなかった顔に、わずかな変化が現れる。むにゅむにゅと口元が動き、眉根が寄る。長い睫が、ふるりと羽ばたく。薄っすらと現れた琥珀色の瞳が、ヒューバートを捉えた。
 へらっと先ほどとはまた違う意味で、緩む顔。
「……あ、ヒューくんおっはよ~……」
 眠りの淵にまだ身を浸したままの、平和そのものといった様子に、ヒューバートは眦を鋭く細めた。
「おはよう、じゃないです! 今は太陽もまだ高い位置にある昼間です!」
 くわっと口を大きくあけて、パスカルの認識を正そうと試みる。
「ああうん、そうだね~……。おやすみ……」
 聞いているのか、聞いていないのか。理解できていないのか。どうでもいいのか。かくん、ともう一度夢の世界に旅立ちそうなパスカルを、ヒューバートはもう一度揺すった。
「寝ないでください! そもそも、なんであなたがぼくの部屋にいて、ぼくのベッドで寝ているんですか!」
 も~……、と声を漏らしたパスカルが、しぶしぶといった風に寝台の上で身を起こした。しぱしぱと目を瞬かせ、よだれを手の甲で拭っている。どこのオヤジだ。
 ぐぐっと背伸びをしたパスカルが、笑う。
「だってさ~。調査の下調べから帰ってきて、お昼寝しようと思ったら、隣の建物の影がちょうどかかってて、いまいち日当たり悪くってさ。ここが一番気持ちよさそうだったから、ちょっとお邪魔したんだよ。……ふ、ふあ~あ……」
 喉の奥までみえそうな大口をあけて、パスカルがあくびをする。
 ヒューバートはこれ以上自分が、感情に流されないよう必死で努力しながら、眼鏡を押し上げた。
「だからって勝手にはいって寝ないでください! って……」
 そういって、はたと気付く。
「そもそも、どうやってはいったんですか?」
 ちら、と視線を後方へ送る。
 宿にもどってきて受付で、預けていた鍵を受取った。部屋に入るとき、確かにそれを使った。その証拠に、部屋の入口の傍らに設えてある丸い小さなテーブルの上には、おいたばかりの鍵が、鈍く光っている。
「え、だってほら」
 そこ、とパスカルが指差した方向には、開け放たれた窓がひとつ。空気の入れ替えにと思って、ヒューバートが出かける前にあけたそこにかかる白いレースのカーテンが、ひらりと風に煽られる。
 そういえば、自分の部屋のとなりはパスカルの部屋。
 つまり。
「いいです、わかりました」
 指差された先の窓をみて、ヒューバートはすべてを察した。
 おそらく外壁伝いにこっちに来たに違いない。これは宿の防犯上の問題なような気もしたが、普通の神経ではこんなことはしまい。まったく、これが二十代前半の女がすることだろうか。
 しかもここは二階だ。危ないとは思わなかったのだろうか。いや、パスカルなら……。
 想像を越えるようなパスカルの行動に、こめかみがさらに痛んだ。
「とにかく、さっさと下りてください」
 ぐい、と細い腕を引くが、それに抗う力がかかる。ヒューバートは、むっと形のよい眉を歪めた。対するパスカルが、わずかに唇を尖らせる。
「えー、やだよー、まだ眠いし……。ヒューくんも眠いなら、一緒にひなたぼっこすればいいじゃん」
 それは、ひとつの寝台でともに寝ればいいということか。
 一瞬、そんな光景を想像して、ヒューバートはかっと頬を高潮させた。
「そんなことできるわけないでしょう?! っていうか、ぼくは眠たくなんてありません!」
「明日から本格的に遺跡調査だし、ちょっとくらいゆっくりしたっていいじゃん。ね?」
「それはそちらの都合でしょう?! ほら、起きてください!」
「や~だ~!」
 勝手に人の寝台を占領しているというのに、この言い草。
 ぎゃあぎゃあと大騒ぎしながら、再び横になろうとするパスカルの行動を、なんとか阻止する。パスカルには、男の部屋に無防備に入り込んだ自覚が圧倒的に足りない。
 ああ、もう!
「パスカルさん」
 わかってもらうにはどうしたらいいのか――ふいに込み上げた冷たく仄暗い考えに素直に従い、ヒューバートは手を離す。
 これ幸いとばかりに、パスカルが横になる。乱れたシースの白い波間に頬を埋め、ふにゃとパスカルが笑う。
「なにー?」
 害されることなど、微塵も想像していないことがわかる声。仕草。
 ヒューバートは、無言でその上に圧し掛かった。あたたかく、それでいて驚くような柔らかな質感に、背筋が身勝手にざわつくのを押さえ込む。
 自分が何をされているのかわかっていないのか。パスカルが、大きな瞳を瞬かせる。
 じっとそれを見つめ返すと、居心地悪そうにわずかに身じろぎする。
「ちょ、ヒューくん、重、「あまり、ぼくを――男をというものを、信用しないほうがいい」
 みなまでいわせず、パスカルの小さな耳に唇を近づけて、低くささやく。わずかに、パスカルの肩が震えたのがわかった。
 そうしながら再び手を伸ばし、パスカルの手首を捕らえる。そっと、だが振りほどけない程度の力をもって、それをシーツに押し付ける。
「ぼくだって男です」
 淡々と、そして苦々しく、告げる。ゆるゆると、小さな手のひらを人差し指でくすぐる。
「こんな風に、あなたの細い腕くらい、すぐに押さえられる」
 戦闘ともなれば、銃杖を華麗に取り扱ってはいるが、今それはない。
「詠唱だって、口を塞げばすぐにとめられる」
 魔物をいくども薙ぎ払ってきた威力のある煇術だって、発動させられなければ意味はない。
「あまり男というものを、かいかぶらないでください」
 これまでにない近いところに、パスカルの顔がある。その明るい色をした瞳は、揺らがない。ただ無心にヒューバートを映し出している。
 馬鹿馬鹿しい行為だとはわかっている。パスカルを怯えさせたいわけでも、脅したいわけでもない。
「自覚を持ってください。あなたは女性で、ぼくが――男であるということを。もっと明確に」
 知っていてほしい。害意だけでなく、過ぎた好意はそれと同じくらいに恐ろしいものだということ。
 でないと。いつか。
 ぐい、と顔を近づける。吐息が混ざり合うような至近距離。
「でないと……どうなっても、知りませんよ」
 本気を込めて、そういった。
 口を噤めば、この緊迫した空気を知らぬ外界で、ちちち、と小鳥の囀りが響いた。
 部屋には、二人の呼吸の音だけ。
 息が詰まるような沈黙に、少しずつヒューバートは冷静さを取り戻していった。
 ああ、本当に馬鹿らしい。平和になった世界の片隅で、こんな風に女性を押し倒すなんて。これがストラタの少佐がすることか。
「っ、――すみませ、」
 情けなさと不甲斐なさと、そしてこのままでいたいという愚かな欲と戦いながら、ヒューバートが謝罪しながら、パスカルの手を解放した瞬間。
 首に、するりと細い腕が絡まった。
 「ん」と、言いかけた言葉を飲み込む。
 パスカルの、琥珀色の瞳の深さが増しているような、そんな気がした。
「どうなるの?」
 幼子のようにあどけなく、パスカルが問いかけてくる。
 ぐ、と呼吸を止めていたせいか、思考が麻痺するだけでなく、心臓までもが機能不全になってしまいそうだ。
「どうって……それは、その、」
 自分で言ったくせに、その詳細を説明することができず、ヒューバートは口ごもる。あれこれ想像するのは、健全な青少年だから仕方ないとしても、それを告げたら変態である。
「い、いけない事態になります」
 顔を赤らめ、ふいとパスカルから視線をそらし、ようやっとそう言葉にする。
 それだけで、とんでもなくエネルギーを消費した。両肩に、疲れが圧し掛かる。からからに、口内が渇いていく。
「えー、それじゃわかんないな~」
 にやにや、とパスカルが笑っているのが視界の端でちらつく。
「う、わ……!」
 ぐい、と引き寄せられる。
 自分の体を支え、ぎりぎりの距離を作っていたヒューバートの腕が、下がる。
 もっと近くなったパスカルの顔に、もう、何がなんだか。
 ん、と瞼を閉じて唇をわずかに突き出すパスカルに、どっと汗が噴出した。
「い、ゃ……え、は、え……!?」
 ひっくり返った声で、ヒューバートはおろおろと意味のない言葉を繰り返す。
 さっきまでの勢いはどこへいったのやら。すっかり立場が反転している。いや、あいかわらず押し倒しているのは、ヒューバートなわけだが。
「しないの?」
 薄っすらと瞳を開いて、パスカルが言うから。
「っ、いえ、その……!」
「いいよ? ヒューくんなら、どうにかされても、さ」
 ヒューバートは、限界まで目を見開く。軽い口調とは裏腹に、パスカルの顔がわずかに艶めく。
 ごく、とヒューバートの喉が鳴る。吐息と、唾液と、そして決意を飲み込むように。
 ここまでしておいて、ここまできておいて、ここまでいわれて――ヒューバートは、腹をくくった。
 ぎくしゃくと、パスカルの頬に触れる。
「お、お邪魔します……」
 へんなの、と小さな声。
「それってストラタ流?」
 違う。
「……ほっといてください」
 けらけらとパスカルが笑う。ヒューバートはその色づいた唇に、震える指先で触れた。そうして黙らせて、見つめあったあと瞳を閉じる。
 数分前、こんなことを期待したわけじゃない。
 ちゃんと、パスカルに自分の行動の意味とか責任とか、引き起こすだろう事態を想定してほしかっただけのはずだ。
 それなのに、逆に誘われてそれに流される自分は、なんて滑稽なのだろう。
 いや、もしかしたらパスカルのほうが流されてくれたのだろうか。
 でも、まあ、なんというか――言ってみるものですね――と。そんなことを思いながら、ヒューバートはパスカルの唇を、やわらかに食んだ。

 美しく翠に輝く大煇石からの恩寵たる風が、はじめてぬくもりを分かち合う二人の髪を、そっとゆらした――とある午後の日。