酔っ払い事件簿

 なぜ。

 ずり落ちた眼鏡を直すことも忘れ、ヒューバートはそんなことを考える。
 ユ・リベルテの静かな街角。豪奢な住宅が立ち並び、乾燥した夜空の下、ヒューバートは生垣の間から二本生えた足を凝視する。
 どうしてこんなところに足が生える? 木から人間の足が生えるはずがないではないか。
 しかも、その足先を包むのはどこかでみたことがあるブーツ。というか、そういうレベルでなくよく知っている。ただ、深く考えたくなかっただけだ。
 このまま見なかったことにして、立ち去るべきか。それともその足の源を辿るべきか。どちらにしても、ろくなことにならないような気がして頭が痛む。
 オズウェル家に用があって、訪れて。思ったよりもそれに時間がかかってしまい、すでに夜も更けた頃合だ。仲間の待つ宿へ帰ろうとしていた矢先の、不可解かつ理解したくない現象に、どうするべきか本気でヒューバートは悩む。
「う~ん、ふひっ、ふ、ふへへへ、ぅぇ~っく……」
「っ、」
 がさがさと生垣が揺れて、足先がばたつく。上機嫌に奏でられる歌のような、何を言いたいのかわからぬ獣のうめき声のような、そんな声が聞こえてきて数歩後退する。この怪しさなら、放置しておいてもすぐに警備の兵にみつかって保護されるに違いない。
 しかし、翌日この人物を引き取りにいったとき、自分が関係者だと思われるのは ――ごめんこうむりたい。
 結論。
 いまここで、自分がどうにかするしかない。
「どうしてぼくが……!」
 歯軋りしたい気分で、ぷらぷらと揺れる足に近づく。がさりと生垣をかきわける。形のよい足の根元には、細くしなやかな身体とよく見知った女の、赤らんで緩んだ顔がついていた。
「パスカルさん……」
 深く息をつく。予想的中である。
「ひぃっく、うひ、おっとうとく~ん、み~っけ!」
 ヒューバートを指差しながら、パスカルがけたけたと笑う。大口開けて、人を指して、とても妙齢の女性がするべきことではない。
 こんなことをする女性には、養父に引き取られる前も後も、お目にかかったことなどない。
 そも、世界でもっとも繁栄しているとさえいわれるこのユ・リベルテでは、裕福であればあるほど女性は上品さと優雅さを身につけるように教育される。当然、富豪であるオズウェル家の養子となったヒューバートは、自然とそういう女性と接点を持つことが多かった。だから、このパスカルの泥酔した姿は、とても奇異なものに映る。
 だが、そんなことを今いいだしても仕方がない。
「違うでしょう。ぼくがあなたをみつけたんですよ。偶然にね」
「ええ~……ひっくぅ! あたしはぁ、弟くん探してたもん。だぁら、あたしがみつけたのー!」
 違う違うと、駄々っ子のようにパスカルは手足を振り回す。それをひょいと避けながら、ヒューバートはこめかみに指先をあてた。ゆっくりと揉み解しながら言う。
「なんでもかまいませんよ、もう。ほら、手を貸しますから」
 言葉と一緒に手をだせば、ん、と素直に頷いたパスカルが腕をのろのろと持ち上げた。手袋に包まれたそれを掴み、ヒューバートはゆっくりとパスカルを引き起こす。
「パスカルさん、ちゃんと立ってください」
「立ってるよおぉ~」
 そうはいうものの、パスカルの足は使い物にならないらしく。
「どこがですか!」
 陸に打ち上げられた軟体動物のように、くにゃくにゃと地べたを這いつくばくるパスカルに、ヒューバートは声を荒げる。察するに、重力がどこからきているのかすら、もうわかっていないようだ。
 人は、人でなくなるくらいに酔っ払えるものなのか。
 無脊椎動物のようになっているパスカルを見下ろしながら、これだけが例外だと思いたかった。
「はあ、しょうがないですね……」
 うつぶせたまま、平泳ぎのような動きをみせているパスカルの側にしゃがみこむ。薄い肩を掴み、表に返す。細い体に手を回して引き起こそうとしたところで、にゅるりと伸びた二本の腕が、ヒューバートの首に絡まった。
「うわっ」
「うひひひっ、おとうとくんつっかまえたー!」
「ちょ、パスカルさんっ」
 近い。顔が近い。そしてとても酒臭い。
 顔を仰け反らせて避けようとするものの、パスカルはそれを許そうとしない。ぎりぎりと腕に力が込められる。
「どうやったらこんなに酔っ払えるんですか! お酒くさいですよ!」
「だってぇ、お酒飲んだもぉ~ん」
 ごもっとも。
 いやいや。納得しかけた自分を叱咤するように、ヒューバートは頭を振った。このまま馬鹿げたことを繰り返していては、らちがあかない。
「今回だけですからね」
 そう短く告げて、ヒューバートはパスカルの両足膝裏へと腕を伸ばした。
「うひょぉ?!」
 素っ頓狂な声をあげるパスカルを、きちんと抱えなおす。
 横抱きにしたパスカルは、ひどく軽い。見た目からも明らかなことだが、ちゃんと食べているのだろうかと少し心配になる。そういえば、ここ最近、バナナばかり口にしているような。どれだけ好物なのか。
「ふおおお、おとうとくんってばたっくましいぃぃ~!」
「あなたが軽いんですよ」
 子供のようにはしゃぐパスカルに、ため息しかでてこない。
 パスカルの軽さに多少驚いたものの、いつまでもこうしているわけにはいかない。ヒューバートは足早に歩き出す。なるべく知人に見つかりませんように。そんなことを祈る。こんなところをみられては、たまったものじゃない。
 商業区の西側にユ・リベルテの宿はある。一直線にそこへ向かう。
 橋をこえて店が立ち並ぶ場所を抜ける。いくつかはまだ店があいているようだが、この時間帯のためか人が出てくる気配はない。わずかにほっとする。
 夜に包まれ静かになりつつある街に、パスカルの意味不明な声だけが響いていく。
 やがて、他国に比べて造りも規模も装飾もかなり違う宿がみえてくる。大きな扉を体全体で押し開けるようにして、ヒューバートはパスカルごと屋内へとはいった。
「はあ……」
 身体的に疲れたわけではないが、精神的に疲れた。
「たっだいまぁぁぁ~、もど、ひっく、もどったよぉぉ、うひひっ」
 そんなヒューバートのことなどさっぱりわからぬパスカルが、上機嫌に手を振る。
 カウンター奥の宿の従業員が、不思議そうな顔をする。しかし、ヒューバートの腕の中にいるパスカルの様子をまじまじと眺めた後。「ああ……」と納得したように頷いた。みるからに酔っ払いな女を、なんとか連れて帰ってきたと思ったのだろう。お疲れ様です、というような労りの視線が痛い。
 苦虫を噛み潰したような顔を隠すこともせず、ヒューバートはパスカルをかかえてあてがわれた部屋に向かう。たしか、パスカルの部屋は階段を上がった二階の、一番奥であったはず。自分たちの男部屋はその少し手前だ。
「まったく、しっかりしてください! あなたぼくより年上の、大人なんじゃなかったんですか!」
 もう、この街に住む知人や部下の一般兵などに見られるという危機はないと判断し、ヒューバートは階段を上がりながら、語気荒くパスカルを問い詰めた。
「えっへ、うっひ、へっへぇ……大人だよぉ~ん!」
 どこがだ。
 へらりへらりと真っ赤な顔がことさら緩む。にらみつけても、パスカルはまったく意に介さない。
「今度はこんなになるくらいに飲まないでください」
「ええええ~、だってここのワインって美味しいしぃぃ~、あたしってばおとなだしぃぃぃ」
 そこにあったら飲むべきだよ! という、わけのわからない主張をされ、疲れはさらに増していく。
「大体、なんでぼくを探していたんですか」
「え~? だって、」
 階段を上がりきったとき、急におとなしくなったパスカルが囁く。ぎゅ、と首に回された腕に力が込められたような気がした。
「どこにも……いなかった、から」
 一呼吸おいたあとの静かなその言葉は、とん、とヒューバートの胸を叩いた。
 どうしてそんなことを気にしたのか、とはきけない。きかない。過度な期待は身を滅ぼすと知っているヒューバートは、唇を噛み締めた。
 いけない、いけない。パスカルのペースに乗せられてはいけない。
「ぼくは子供ではありません。ちゃんと帰ってこられます」
 冷静にそう返しながら、ヒューバートは廊下を歩き出した。
「んー……そりゃそうだよねぇぇ!」
 笑いキノコでも食べたかのような勢いで、パスカルが笑いだす。一瞬みせたしおらしさはどこにいった。
「はあ……」
 ばしばしと叩かれる背中が痛い。やはり余計なことを考えてはいけないのだ。とくに、パスカルに関しては。
 賑やかにアスベルとマリクがいるはずの男部屋の前を通り過ぎ、ヒューバートは女性陣が寝静まっているはずの部屋の前へとたどり着いた。
「つきましたよ」
 そういって、パスカルをそっと下ろす。よろよろとしながらも、今度はなんとか細い足がふんばりをみせる。
 倒れぬよう腕を貸し、パスカルを支えながらその顔を覗き込む。とろん、と瞳の半分まで瞼がさがっている。どうやら少し、眠気がでてきたらしい。
「いいですか、ちゃんとブーツを脱いでベッドにはいってください」
 ごしごしと目元を拭うパスカルに、子供に言い聞かせるように言う。もう大丈夫だろうと、ヒューバートはそっと離れようとする。
「ん~……わかったぁ。ね、おとーとくん」
「はい?」
 こくこくと頷いたパスカルに呼び止められて、ヒューバートは首を傾げた。
 ぐい、と上着の胸元が掴まれる。ひきおろされる服の動きに逆らえず、ヒューバートの顔が下がる。
 あ、と声を漏らす間もなく。
 ちゅう、と唇に柔らかく吸い付いてくる感触。
 パスカルの顔が。ひどく近くて、ぼやけてみえた。
「ふへへっ……うばっちゃった~」
 パスカルは奇声をあげながら、すりすりと頬を摺り寄せてくる。パスカルは楽しそうだがヒューバートにとってはそれどころではない。眼鏡がずれた。
 一瞬だったはずなのに、触れていた時間だけがやけに長く感じられた。何が起きたかわかっているのに、事実を理解しても感情が追いつかない。
「こんどどっかいくときはぁ、ちゃんとぉ、ひっく……言うように! わかった~?」
 石のように固まったまま、ヒューバートがなされるがままにされていると。やがて落ち着いたのか満足したのか飽きたのか。パスカルはふいっと離れていった。
「んじゃここまでありがとねぇ~、おやすみぃ~~、うひっ、へっへぇ~……」
 そういって、ふらふらとパスカルが回れ右をする。僅かに開いた扉の向こうに、のろのろとその姿が消えていく。
 ヒューバートは、後ずさった。だが、そう広くはない廊下だ。すぐに背は壁にたどり着く。体を壁に預けた瞬間、ぱたりと目の前の部屋の扉が閉められる軽い音がした。
 そのまま、ずるずると腰を落としていく。床に座り込んだヒューバートは、呆然としながら口元を手で覆った。
 今、触れた。
 何がって、パスカルの唇だ。
 どこにって、自分の唇にだ。
 つまりつまり ――キスをした。というか、された。
 順序だてて考えて。
 かあああ、とヒューバートは赤くなっていた頬をさらに染めた。
 性質が悪い、性質が悪い!
 人の親切をあだで返すようなことをするなど!
 どんどんと手荒く響くノックのように、心臓が胸を叩くのが痛くて、息ができない。目頭がなぜが熱を帯びる。
 怒っていいはずだ。自分は、怒髪天をつく勢いで、怒っていいはずだ。
 なのに、なのに。
 どうして許してしまいそうなのか ――心の片隅が、こんなにもあたたかいのか。
 まるで、パスカルのやわらかな感触とともに与えられた熱が、そこにそっとしまわれてしまったかのようだ。
 どうしてそうなったのか、考えようとするほど意識は混乱してくる。疲れが、いきなりな刺激に吹っ飛んでしまった。
「だ、だから……! だから、酔っ払いは嫌いなんですよ……!」
 精一杯に、そんなことを吐き出して。ヒューバートは膝を抱えた。そこに、額をごつんと押しあてる。
 探してくれたというパスカルと、探してもらった自分との間に、何かが確かに繋がりかけている――ふと、そんな気がした。

 それは、静かな夜に起きた、これからの未来を左右する、小さくも大きな事件。