いつかきっと

Caution!!
ティアがおばあちゃんです。そして死にます。ウルがよく泣きます。でも希望はきっとあります。管理人の独自解釈+勝手設定全開です。いろいろとおかしい上に長く、明るいお話ではありません。多少でも躊躇いを覚えた方は読まないことを強くお勧めします。読後の苦情は一切御受け致しかねます。なお、ティアとウルが過ごした家や庭のイメージは「ターシャの庭」です。

 

 

 柔らかな光が満ちた庭に、多様な色合いをみせる緑が生い茂り、鮮やかな花たちが揺れている。その色彩を眺めながら、ウルは目を細めた。
 ここ数年、管理する家主の体力がもたず、少しずつ小さくされてきた庭。とはいえ、ここに住み始めてからずっと美しく、観る者の心を和ませてくれるのは変わらない。
 自然に溶け込みつつも、人の手がなければ維持できぬ楽園に、ひらひらと一匹の白い蝶が飛んでいる。
 庭に面したテラスは、明るい影に満たされて、涼しい風が時折吹き抜けていく。
 その風に、前髪を揺らした家主が、腰掛けた椅子をかすかに鳴らして目を覚ました。
 気配に気付いて、ウルはそっとその顔を覗き込む。
 ゆるりと持ち上がる瞼の奥にある、愛してやまない澄んだ瞳が、ウルを映した。
「おはようございます、ティア」
「ふふ、私……ちょっと寝てたね。ごめんね。せっかくお話してくれていたのに」
 おや、とウルは思う。どこかあどけなさの滲むその口調は、ウルとティアが初めて出会った頃を思い起こさせる。
 もしかしたら、夢にでもみていたのだろうか。その記憶に引きずられているのだろうか。
 でも、悪い気はしない。
 にこりと笑って、ウルは小さく頭を振った。
「いいえ。ここは、とても心地よい。仕方がないでしょう」
 少し掠れた声で、ティアがくすくすと笑う。
 ずり落ちかけたひざ掛けを、ウルがそっとなおしてやれば、ありがとうとティアが呟く。
 こうして、ここでともに暮らしはじめてから随分と時間がたったというのに、ごく自然に感謝の言葉を口にするところは、昔と同じ。してもらうことを当たり前と思わない、そんな彼女の心が、ウルは好きだった。
 ティアが、ゆっくりと視線をめぐらせる。
「今日は、ほんとうに静かね」
「ええ。ですが、明日にはまたあの子たちも来るでしょうから、賑やかになりますよ」
 ウルがいうあの子たち、というのは、少し離れた場所にある家の、子供たちのことだった。血のつながりなどはまったくないけれど、その家族はティアにとてもよくしてくれる。
 その家に住む若夫婦の間に生まれた幼い子供たちも、ティアによくなついてくれていた。確か、今日は一家で町のほうまで出かけるといっていたはずだ。
 夕方ごろにはもどるかもしれないが、今日訪れてくれるとは限らない。ただ明日には、またいつものように遊びにきて、町での思い出をティアに語ってくれるだろうと、ウルは思った。
「そうだね……」
 ティアも同じことを思ったのか、ほんのりと微笑んだ。こちらまでもが元気なるような、あの快活さに思いを馳せているのだろう。
 ずっと一人で暮らしているとはいえ、明るく優しく、誰にでも分け隔てなく接するティアの周囲には、そんな優しい人々がいる。
 クレルヴォとは異なり、どこまでも人を信じ、また人から信じられる関係をティアは築いた。そうして過ごしてきた時間はとても穏やかで、幸福に満ちた人生といえるだろう。
「――なんだか、すごく……皆に会いたいな」
 「皆」という言葉の響きに、普段接する人々だけではなく――もう、二度と会えぬものたちも含まれていると察したウルは口ごもる。そういえば、あの頃も自分たちの周囲は別のものたちで、賑やかだった。
「ティア、それは……」
「うん、わかってるよ。レンポもミエリもネアキも……みんな眠っちゃってること。私、ちゃんとわかってるよ」
 彼女の傍らには、ともにあった仲間の姿はもうない。ウルと同じく世界と契約を交わした偉大なる精霊たちは、預言書のうちにあり姿をみせることはない。
 その多大な原因はウルにあった。
 預言書の精霊は、世界の滅びと再生に立ち会うのが役目。それが終われば、再び世界のどこかで眠りにつかなければならない。
 だが、新たな世界がつくられ、その務めを終えてなお、預言書の持ち主たるティアの傍らに残りたいとウルは願った。
 それは、世界との契約に真っ向から逆らうことだった。
 精霊に肉体はない。己の魔力で属する霊元素――ウルの場合は雷となる――を集め、その存在を構成している。つまりこの世界で存在し続けるには、魔力がなければいけない。
 よって、世界は契約違反をおかすウルから、存在できるぎりぎりまで魔力を奪い、強制的に眠りにつかせようとした。
 だが、ウルとて半端な覚悟で世界に逆らったわけではない。手の内から零れていく水のように失われていく魔力の流れを、懸命に押し留め続けた。
 だがそれも、長くは持たないだろうと悟っていた。
 しかし、たとえ自分が消えてしまうことになろうとも、ティアの側にいることを選ぶという決意を固めたとき――そんなウルを見かねて、仲間の精霊たちが協力すると申し出てくれた。
 あの日のことは、鮮明に覚えている。
 託すように自らの魔力を渡しながら、彼らは言った。

 ――どうか、ティアと幸せに暮らすように。一緒に、いろんなものを見て、感じて、記憶するように。その思い出を、次に出会うときにはひとつ漏らさずきかせるように――

 そんなことを、笑いながらウルに約束させた彼らは今、栞に身を変じて滅びの時を一足先に待っている。
 そうしてウルは、ティアのもとに残ることができた。
 三人の精霊の姿が消えたことに沈んだ表情をみせるティアには、「彼らは契約に従い眠りにつき、もう会えない。そして自分は、世界をよりよいものにしようとするティアのため、残るようにいわれたのだ」と――嘘ではないが、真実でもない説明をした。
 本当は、預言書の持ち主であるならば、眠りについた精霊とも、ある程度は意思の疎通が可能なはずだった。クレルヴォのときも、そうしてしばらくは理想の世界を創る彼への手伝いをしていたものだった。
 だが、それは世界に封じられてしまった。それが、世界に逆らうウルに味方した三人への、罰であった。預言書の中で、魔力の回復を図らねばならない三人が、その力に抗えるわけもない。
「ねえ、ウル」
「は、はい。なんですか、ティア」
 名を呼ばれ、はっとウルは過去に飛ばしていた意識を取り戻し、ティアを見た。
 にこ、とティアが笑う。あの頃のように可憐に。
 何故だか胸がざわついた。どうして、そんな透明な笑みをみせるのか。
「私たち、皆にたくさんたくさん助けてもらっちゃったね」
「……そうですね、感謝しなければ」
「次に皆に会ったら、ちゃんとお礼をいっておいてね。お願いよ」
「……はい」
 そんな時がきたならば、きっとティアはもうそこにいない。だから、そんなことをいわないでほしいのに。なぜ、そんな話をするのだろう。どうして。そんな思いが過ぎる。
 どくどくと嫌な鼓動が、胸をたたく。
 世界に逆らい続ける自分は、どうしようもなく愚かな精霊だ。世界中の者にそう罵られようとも、それでも一瞬でも長くティアの側にいたいと心から願うウルにとって、それは考えたくないことだった。
 さらりと風が吹いた。冷たさをはらむその流れに、老いた身体を気遣い視線をめぐらせると、ティアが凪いだ海のように穏やかな瞳でウルを見つめた。
 その視線に潜む密やかな強さに、ウルは知らず息を呑む。
 時の流れを確かに刻んだティアの口元が動く光景は、やけにゆっくりとウルの記憶に焼け付いた。

「あのね、ウル――私、もうすぐ死ぬわ」

 明日か明後日か、一週間後かまではわからないけど、と。なんてことない日常会話のように。今日の天気を語るような気軽さで、ティアは言った。
 その言葉に、ウルの時間が止まった。全身の感覚が凍りつく。
 嘘だ、冗談だと思う心のある一方で、とうとうそのときがきたのかと思う自分も、確かにいた。
「そう、ですか……」
 そんな言葉しかでてこない。ぎゅうとウルは両手を握り締めた。
「うん。やっぱりね、自分のことだからよくわかるの」
 ほんの少し眉をさげ、ティアが困ったように微笑んだ。
「わかりました。では、私は――」
 最後まで、あなたとともに――そういいかけたウルの言葉を遮るように、ティアが笑う。
「だから、ウルは預言書に戻って。そうして、次の世界のために力を蓄えて。いつか、正しい世界に辿りつくために、ウルの力は必要なんだから」
「……っ!」
 赤と青の瞳を見開き、ウルは胸に手を当てて声を荒げた。
「いいえ、いいえ! 私は、最後まであなたの側にいます!」
「ううん、それは駄目。私は、私が生きているうちにちゃんと、さようならをいいたいの。それにね、私が死んでいくところを、ウルの記憶に残したくない。だからね、お別れには、今が一番いいの」
 己の死を悟ったティアは、いっそ憎らしく思えるほどに落ち着いている。
 それとは逆に、常に冷静なウルの意識が弾け飛ぶ。
「今だなんて、そんな……急すぎます!」
 時間をください。心の整理をつけさせて欲しい――そう訴えかけるウルに、ティアは微笑む。
「それも無理だよ。だって、ウルはもう……限界でしょう?」
「……!」
 世界に抗うには、どれだけの魔力があっても足りはしない。たとえ大精霊三人分の魔力があったとしても、だ。
 すでに、三人から託されたものは底をつき、今はウル自身の魔力を絞るようにして、どうにかこうしてティアとの時間を過ごせているのが実情だ。
 そんなこと、ウル自身がよく知っている。
 心配をかけぬために、決して悟られないよう努めていたが、ティアにはお見通しだったらしい。いつから気付いていたのかはウルにはわからなかったが、歳経たもののみがもつ瞳が、そう語りかけてくる。
 日に日に失われていく魔力を懸命に制御して、自分という存在を世界に留める。それは、ティアの側にいたいというウルの強い意志が呼び起こした、奇跡だった。
 だが、それももう続かない。わかっている、わかっている――。
 もう一息で、自分のという存在の灯火が消えてしまうところにいることくらい、わかっている!
 だが理解をしても、納得できるはずがない。ティアの側を離れたくない。
「私は、ウルに消えて欲しくない。私のために、ウルがいなくなるなんて、絶対に嫌だから。だから、」
 お別れだよ――そういって、ティアが胸の奥底から、震える息を吐き出す。
 落ちた沈黙が、なんと虚しいことか。
 はく、と薄い唇をなんとか動かそうとするウルの目の前で、ゆるゆると緩慢にティアが俯いた。
「ごめんね、ウル。無理ばっかりさせてきて、ごめんね」
 ぽた、と枯れかけた手の甲に落ちる雫が滲む。
「でも、私もできる限りウルと一緒にいたかった。そのくせ、こんなお別れしかできなくて……我侭ばっかりで、ごめんなさい」
 悲痛な声で「ごめんなさい」と繰り返すティアに、ウルはもうなにも言えなかった。
 奥歯を噛み締め、瞳を伏せたウルの視界の中、ティアが細い腕をそっと持ち上げた。
 す、と開かれたティアの両手の空間に、滲み出るように現れる預言書。
 その無限ともいえるページの大部分はすでにこの世界の礎となるべく、散らばってしまっている。それらはかつてのように、また滅びに際したとき、メタライズとして次の預言書の持ち主の力となるのだろう。
「ティア……!」
「ありがとう、ウル」
 よろけながら近寄り、椅子の傍らに膝をついたウルに、ティアは笑う。
 すでに、預言書の奇跡を行使するのもままならぬはずのティアの手が、すぐそこにあるウルの目元を覆う。
 かさついた手のひらの下、伝わるぬくもりに、ウルの瞳から涙がこぼれた。
 それは、ティアとの別れのためか。もう、年老いた彼女の手をどかすほどの力さえ残っていない、自分への苛立ちのためか。いろんな感情がないまぜになって、涙は次から次へと溢れた。
 刻一刻と迫り来る最後に、もうどうしようもできないことを。ウルは悟った。
 ティアの決意は硬い。一度決めたことを貫くその心を愛したウルには、それが痛いほどにわかった。
 ならば、ウルができることはもう、たった一つしか残されていない。ティアのいうとおりに――彼女と別れ、再び預言書の精霊としての役目に戻ることだけ。
 そう考えた途端、流れを抑えていた魔力が、堰が決壊したように流れ出す。
 そんな様子を見計らったように、じゃらりと重たげな鎖の音が響く。
 するりと頭にまかれる冷たい感触に、ウルは息をついた。忘れるはずもない。これは、世界と契約を交わしたときに、己に与えられたもの。
 ティアの手が目元から外されたときにはもう、ウルの両目は封じられていた。
「本当は、ずっと目がみえるようにしていてあげたかった。いろんな綺麗なものを、もっと一緒に見たかった」
 ウルの頬に添えられたティアの手が震えている。ウルもまた、震える指をそこに重ねた。
「でも、もう無理なの……ウルと私との絆は、ここで失われるから」
「――そうですね。そうすれば再びこの目を、この枷が覆うのも道理です」
 預言書の持ち主と精霊が心通わせたとき、その真の力をふるうことを世界が許す。だがその相手が世界よりいなくなるというのならば、その力はまた封じられて然り。
 ただ、ティアの手によるものということが、せめてもの救いだった。
「それが、あなたの手によるものならば、私は喜んで受け入れましょう……」
 額を触れ合わせ、二人、泣く。
 もう闇色の視界にその姿を映すことはできないけれど、ティアが子供のように、ぼろぼろと泣いているのがわかる。漏れる嗚咽に混ざる悲哀の色に、ウルも声をあげた。喉が潰れたように、しゃがれた音があたりに響く。
 やがて、重ねていた額と頬のぬくもりが離れていく。
 追いかけようとするけれど、もう空に近しい魔力では、触れることすらままならない。
 きっと、ティアの目には、自分の姿がほどけ消えゆくようにみえているだろう。
「――おやすみなさい、ウル……そして、さようなら。あなたのこと、愛してる」
「――私もです、ティア。星の数よりなお多く世界を繰り返そうとも、私が愛するのは……あなただけですよ」
 最後の魔力が、世界へと零れ落ちていく。もう、ここまでだ。預言書に吸い込まれる。
 一度、預言書に取り込まれたあとに、他の精霊とともにウルは世界のどこかへと飛び散り、また滅びのときまでを待つことになる。
 どれほど経験したのか数えるのも難しいそれは、ティアと出会う前は受け入れることができていた。それが当たり前だった。
 だけれど今は、口惜しくてたまらない。自分が精霊であることさえも、呪わしい。愛しい人と、ともにいられないことが悲しかった。
 そんな風に精霊の思考さえ変えてしまった、この恋に、愛に。ウルは喘いだ。

 ――ティア、愛しています。愛しています。あいして、います――

 もうきっと、この言葉も声になってはいない。
 ティアが好きだといってくれた声すら届けられぬ自分が、ただひたすらに情けなかった。
 ああ、せめて。どうか、どうか。
 たった一人で逝くのだろう愛する人の心が、せめて最後のときまで、幾度伝えても足りぬこの想いに満たされているように。
 ウルはそう願いながら、一枚の栞にその身を写した。

 

 

 ひらり、雷の精霊を象徴する黄色の栞が預言書に吸い込まれる。
 今まで閉じられていた預言書の瞳が大きく開かれて、ぎょろりとティアをみつめた。そっと、紙でなく革でもなく金属でもないその表紙を撫でる。
 くるくると脳裏を行き来する記憶。ティアは涙を拭いながら、にこりと預言書に笑いかけた。
 初めてこの本を手にした日のこと。
 レンポに出会い。ミエリを探し。ネアキを見つけ。
 ――ウルに、恋した。
 そうして、家族ともいえる皆とくぐりぬけた冒険の日々を忘れたことはない。
 ウルに愛され、自分も精一杯にウルを愛した素晴らしい日々を、覚えている。
 二度、三度指先を滑らせる。
 やがて、預言書の瞳がまどろむように、静かに閉じられていく。落とされたその瞼が次に開かれるのは、ティアが大切な精霊たちと創りあげたこの世界が滅びるときだ。
 するり、四枚の栞が本の間から抜け出て、さよならを伝えるように、ティアの目の前に並んだ。
 そしてわずかな時間の後。
 流星のように一条の光となって、精霊たちは広い世界へと飛び去っていった。
 別れは、いつも一瞬だ。

 そういえば、ローアンの街で預言書が暴走したときも、こんな風に皆いなくなったっけ。

 そんなことを思い出し、ティアは笑った。今はなにもかも遠く、尊い思い出になってしまった。
 あのときは、皆を取り戻すことに必死になったものだ。だがもう、そうすることはない。追いかけることも、この老いた足では、できやしない。
 ティアはゆっくりと、椅子のせもたれに身を寄せた。
 これで、本当に一人っきり。
 世界に選ばれる頃より前の状態に、戻っただけ。
 長かった。いや、短かったのか。それすらももう、よくわからない。
 膝の上においていた預言書をわずかに持ち上げる。さらさらと、その形が端から崩れていく。役目を終えたこの本もまた、世界へと還ってゆく。

 ――私を選んでくれて。こんなにも大切に思える存在にめぐり合わせてくれて、

「ありがとう……」
 そう、つぶやいたと同時に。
 預言書の最後のひとかけらは、虹色の輝きをティアの目に残して、消え去った。
 ティアは静かに、重くなってきたまぶたを閉じていく。久しぶりに奇跡を使った反動だろうか。
 視界を閉ざす瞬間に、庭を舞っていた白い蝶が、ひらりひらりと、いずこかへ飛んでいくのが見えた。
 さあ、これからどうしようか。
 そんなことを考えれば、瞼越しの明るい闇が、どんどん暗くなっていく。
 なんだかとても眠い。ならばほんの少しだけ、午睡にまどろんで……それから考えてもいいだろう。
 だってもう。今のティアが、ここでしたいことはない。
 昼寝をしていても起こしてくれる者はなく、目を覚ましたときに笑いかけてくれる者もない。好きなだけ寝ていても、優しく諌める愛しい人もいない。
 そんな事実に直面しているというのに、不思議とティアは心穏やかだった。
 精霊である彼は、きっと忘れることはないのだろう。
 永遠に、その心に自分の面影はあり続けるのだろう。
 あの美しい心に、自分というちっぽけな人間のことを深く刻み付けた。
 それは、なんて蜜のように甘く、心躍る罪だろう。
 すこし心苦しい。だけれど、同時にこの上なく嬉しいから、ティアは寂しくはなかった。
 ティアは、人間でしかいられない。だから、これは二人が心の端を結んだときに、決まっていたことだ。時間の流れも、その存在のあり方も、何もかも違う二人がたどり着く場所はここ以外にありえなかった。
 それをわかっていてなおウルを求めた自分は、もしかしたら世界に疎まれているかもしれない。
 だが、それでも構わない。
 子供のころは「死」というものは、恐ろしいものだとばかり思っていたけれど、今のティアはそんな風には思わない。
 死んだ後、自分というものはどうなるかわからないけれど、ウルが好きだといってくれたこの魂をもって成し遂げたいことがある。だから、怖いだなんていっていられない。
 ウルがその存在をかけて世界に抗ってくれたように。次は自分が、この心に決めたことを、なんとしても果たしてみせる。
 諦めることだけは、できない。したくない。
 そう強く思うのは、愛しい人がいるからだ。彼との日々が、幸せだったからだ。
 きっと、この想いがあれば、どこまでもいけるとティアは信じている。

「私、幸せだったよ、ウル」

 もう受け取る人は傍らにはいないけれど、自分の想いを口にする。
 自分を見失ってしまってしまうくらいの遠い未来に、必ず届くだろう言葉。
 ティアは光にほどけそうなほど、優しく優しく微笑んで――ゆっくりと永の眠りに落ちていった。

 

 

 千や万、億と数えることに意味すら見出せぬほどの長い時間、数多の世界が滅びと再生を繰り返す。
 様々なものと出会い、その数だけまた別れ。その度ごとに、世界はすこしづつ前へと進む。
 それは、一歩と言うにはあまりに小さい。だが、精霊はその胸のうちにだけ生きる愛しい人とともに、静かにその奇跡を積み上げていく。
 そうしてその果てに、精霊は辿り着く。
 道を乱すものはなく。世界が認める、正しき「世界」に。

 

 

 ざあ、と風が渡っていく音がする。遠く響く感覚に、広く開かれた場所に降り立ったと悟ったウルは、小さく息をついた。
 それは預言書の主も同じだったようで。ほっと肩の力を抜いて、きょろきょろとあたりを見回している気配がした。
「ここが、新しい世界……!」
「おうよ、そんでもって終着点でもあるんだぜ!」
 レンポの声が、明るく告げる。それも仕方のないことだろう。
 ウルは何かを感じとるように、頭をめぐらせた。みえずとも、ここが今までの世界を積み重ねて、ようやく築き上げられた素晴らしい世界だとわかる。
「ここに至るまで、どれだけの世界があったんだろうね。君たちは知っているんだろうけれど、僕にはちょっと想像つかないや」
 ははは、と笑う少年に続くように軽やかな声があがった。
「ほんと、長かったよー! でも、ようやくこれでおしまいね!」
「(きゃっ……!)」
 ミエリが素直に喜びの声をあげ、おろおろとしているネアキの音なき声がそれに重なる。
 大方、ミエリに抱きつかれでもしているのだろう。ウルはそんな光景を想像して、小さく口元に笑みを刻んだ。
「さて、と。じゃあ、これはもういらないよね」
 そう、少年が告げると同時に、ぱちりとひとつ乾いた音が鳴り。一瞬にして視界が開けた。
「……え」
 枷に覆われていた瞳に、明るい太陽の光が差し込んできたことに、驚く。きゅうとウルは眩しさに目を細めた。
「おおおお!」
「わあ!」
「……これ、は……」
 慌てて、ウルは当代の奇跡の使い手へと振り返る。他の精霊たちも同じだったようで、一気に浴びせられた四つの視線にもひるむことなく、栗色の髪の小柄な少年は微笑んだ。
 その傍らには、つい今まで精霊たちと世界を繋いでいた枷が四つ、浮かび上がっている。
 仲間の精霊たちは、呆然とその光景をみつめ。そして、各々動き出す。
 レンポは手を開いたり握ったり。ミエリは白い足を恐る恐る動かして。ネアキは喉元に指先を押し当て、小さく声を漏らした。
 ウルもまた、己の瞳の前に手をかざした。そして、勢いよく顔をあげて周囲を見回す。
 小高い丘の上から見晴るかす世界は、愛する少女の顔をはじめてこの瞳に映した場所に、とてもよく似ていた。
「これで君たちの、世界との契約もおしまい。君たちは、自由だ」
 少年の声が、心にかかっていた最後の鎖を断ち切るように、響く。
 一瞬の沈黙のあと、わぁっとレンポとミエリが声をあげた。ネアキがその輪に引きずり込まれるのを見送って……ウルはゆるゆると、両手で顔を覆った。
 そうか。
 ここが終わり。ならば、もはや預言書を介して世界と契約を結ぶ必要もないのだ。
 綻びかけていたとはいえ、その契約の解除を指先ひとつで成しえた主の力に感嘆しつつ、ウルは閉じた瞼の裏に、愛しい人を思い浮かべる。

 やっと、私はここに来ましたよ。ティア――

 いつまでも色褪せることのない、自分という存在を支え続けるティアの面影へと語りかける。
 ふいに、「あ」と驚いた声が聞こえてきて、ウルはゆっくりと瞳を開いた。
 それぞれの枷を預言書に戻そうとしていたらしい少年が、じいっとウルの枷の裏面をみつめている。そして、くすぐったそうに微笑んだかと思うと、ウルへと振り返る。
「ウル、ちょっとこっちにきて」
「はい。何でしょうか」
 ある程度近づいたところで、ぽい、と枷が放り投げられる。ティアにより与えられてから一度も外れたことなどなかったもの。難なくそれを受け止めて、ウルは目を瞬かせる。
 そして、手のうちにあるそれを見下ろして、その動きをとめた。
「それ、君あての言葉だよね? だから、返しておくよ」
 そう語る少年の声が、どこか遠い。
 枷の裏面。丁度、目に触れる部分に刻まれているものをみて、心が大きく揺れた。
 それには見覚えがある。いや、忘れることなどできはしない。
 少しクセのある、どこか可愛らしさの滲む文字が、綴るもの。

 ―――なたを、愛しています――

 そんな言葉と、「ティア」という名。
 一体、いつの間にこんなことをしたのだろう。
 どうしようもなく込み上げる愛しさに、胸を潰しそうになりながら、ぎゅう、とウルは枷を強く抱きしめた。
 今このときまで知らなかった。
 ずっとずっと、自分は彼女の想いと共にあったこと。
 あの別れの日、ティアはどんな気持ちでこの枷を自分に与えたのだろう。どんな気持ちで、この文字を刻んだのだろう。
 自分の感情が抑えきれない。できるなら今すぐ、恥も外聞もなく声をあげたかった。
 ああ、そういえばあの日から、涙を零したことなど一度もなかった。枯渇した泉に、再び水が戻るように、目頭が熱くなっていく。
「それ、ウルの恋人から?」
 そんな様子を静かに見守っていた少年からの問い掛けに、ウルは幾度も頷いた。
「はい……はい……これは、私が、唯一愛している人からのものです」
 長い長い時と、いくつもの世界を越えて届けられた言葉に、声も身体も震えが止まらなかった。
「あーあー、そんなんじゃ、これ読んだらもっと大変なことになりそうだな?」
 レンポのからかうような、だけれど暖かなものを宿した声に、ウルは顔をあげた。
「え……これは……?」
 そして、すっと差し出されたものに目を見張る。それは一通の白い封筒――手紙だった。
「これね、ティアから私たちが預かっていたものなの」
 ひゅうと喉を鳴らして、ウルはミエリをみつめる。どういうことか、わからなかった。そんなこと、ティアは一言もいっていなかった。
「……どう、して?」
 知識深い精霊にはふさわしくない、子供のような問い掛けを繰り返す。
 もっともなウルの疑問に、レンポがふと懐かしむような、照れくさそうな顔をした。手紙を持つ手とは逆の尖った指先が、頬をひとつ掻く。
「オレたちがお前に魔力をやる前にな、こっそり渡されたんだよ」
 こくりとミエリが頷く。そんな彼女に浮かぶ微笑は、すべてを知っている慈悲深き聖母の面差し。迷い子を導くような声が囁く。
「ずっと、ずっと。預言書の中で、私たちがウルに内緒で保管していたの。ウルだって自分の魔力のこと、ティアに内緒にしてたんだから、おあいこだよ」
 くすくすと、柔和に零される言葉。
「では、つまり……ティアは、最初から私の魔力が失われていっていることを、知っていたということですか」
 そうだよ、とミエリは肯定する。
「……最後の世界にたどり着いたら……ウルに渡して欲しいって、ティアはいっていた。だから、」
 曇りなき眼でひたすらにウルをみつめながら、ネアキが言う。
「これは……今、ウルが読まなければ、いけないもの」
 三人が、同時に頷く。その後ろで、今の主が微笑んでいる。無言の仲間たちに後押しされて。その手紙を、ウルは震える手で受け取った。
 だが、どうすればいいのだろう。
 手紙という形をとっている以上、これはきっと自分に対して伝えたいことが記されているに違いない。
 だけど。開くのが何故か躊躇われる。
 戸惑うウルに察するところがあったのか、少年がひとつ手を叩いた。
「さてと、じゃあ、僕たちは先にいこうか。確か家があるはずだよね」
「おお、そうだな!」
「じゃあ、またあとでね、ウル」
「……また」
 口々にそういって、じゃれあいながら去っていく仲間を、どこか呆けた気分で見送って。
 その姿が完全に見えなくなった頃。
 ウルは手にした手紙をそっと返した。そこには丁寧に施された封蝋がある。ティアが、若い頃に好んで使っていたものだと、膨大な記憶がすぐに教えてくれた。
 気をつけてそれを外したウルは、長い指先で取り出した手紙を、恭しい手つきで開いた。
 そこには、枷にあるものと同じ文字が羅列されていた。
 ゆっくりと目を通していく。

 

 

 

大好きなウルへ

 この手紙をウルが読んでいるってことは、私はもうウルのそばにいないってことだよね。ごめんね、ずっとずっと側にいたかったけど。先にいなくなっちゃって、本当にごめんなさい。
 皆が頑張って、最後に創りあげた世界はどうですか? きっと、素晴らしい世界なんだろうね。長い間ほんとうにお疲れ様。できることなら、一緒に喜びたかったけど……ごめんなさい。
 あ、ごめんなさいばっかりじゃ、つまらないよね。書きたいことはたくさんあるんだけど……何から書けばいいのか、わからなくなってきちゃった。なんか、かしこまっちゃって不思議な感じ。緊張してるのかな。
 そうそう、ウルはどうしてこんな手紙があるのか、わからないよね。じつはね、皆が教えてくれたの。ウルが危ないって。本当だったら無理やりにでも封印してやるところだけど、私のためにもウルのためにも、それはしたくないから、協力してやるって。あ、これはレンポの言葉だけど、ミエリもネアキも笑っていたから、きっと同じ気持ちだったんだと思うよ。
 私ね、そんなことをしたら、皆がすごくつらくなるんだって、ちゃんとわかってた。特に、ウルは。でも、私はウルと一緒にいたかったから、悩んだけどお願いすることにしたの。そして、私はそのことは知らないってことにしてもらったよ。だって、ウルが私に心配かけないようにしてるのも、わかってたから。
 あとね、この手紙を託したいこともいいました。今、皆が書き終わるのを待っててくれてるの。そういえば、「我侭ばっかりいってんじゃねーぞ」、ってレンポには笑いながら小突かれちゃった。あ、いろいろと黙っていた皆のことは、怒らないであげてね。
 次に、どうしてこんな手紙を書いたかっていうことなんだけど。ウルのことが心配だから、っていうわけじゃないの。だって、ウルは私のことを忘れないでしょう? ちゃんと覚えていて思い出してくれるでしょう? その胸の中に、私はいるでしょう? だから、心配はしないよ。ウルのこと、信じてるもの。
 私は、ただ伝えたかったの。私が幸せでいること。これまでも、いまも。そして、これからも、ずっとずーっと幸せだよってこと。ウルとさよならしても、それに終わりはないの。おばあちゃんになっても、絶対にそう思ってるはずだよ。後悔だってしていないよ。するつもりもないもの。
 ウルが好きだよ。愛してる。なんかこうやって文字にすると、すごく照れくさいね。でも、私の中にあるものすべてウルのものだから、それを伝えようとしたら、やっぱりその言葉しかないみたい。
 うーん、なんだか、とりとめのないことばっかり書いてるね。ところどころおかしいところもあるだろうけど、呆れないでね、絶対だよ!
 あとそれからね、もうひとつ。
 私、きっと、今ウルが立っているその世界にたどり着いてみせるから。何回だって生まれ変わって、そこにいくから。絶対、ウルに会いにいくから。待っていて。
 そうして、またウルを抱きしめたい。ウルに、抱きしめられたいです。
 だから。
 また、会おうね。

 

 

 

 零れては大地に吸い込まれる、頬を伝うもの。歪む景色と締め上げられるような胸の痛み。喉の奥が焼け付いたように熱い。
 ああ、だから。皆がいるとき、この手紙をあけたくないと思ったのだ。必ず泣くと、無意識のうちにわかっていたから。
 きっとティアとの別れのときのように、自分は今泣いているのだろうと思う。
 手紙には、皺の一つもつけたくないというのに、指先に勝手に力がこもる。
 にこりと笑う、ティアの姿が見えた気がした。
 がくりと膝の力が抜けた。そのまま、枷と手紙を抱いて柔らかな草の上に蹲る。堪えられず、不規則に肩を揺らし、引きつった音を零した。
 誰もいない草原に、ウルの嗚咽が響いては、渡る風がそれをかき消していく。そのことが、無性にありがたかった。
 覚えている。ティアが幸せだったこと――自分が、幸せであること。
 わかっている。ティアに愛されていたこと――自分が、ティアを愛していること。
 知っている。後悔はお互いに、微塵もしていないこと。
 そして、彼女はその想いを抱いて、自分を追いかけてきてくれているのかもしれない。いや、もしかしたらもう、たどり着いているのかもしれない。
 ならば、ウルがするべきことは決まっていた。
 それがいつ叶うかなんてわからない。広大な砂漠の中におとされた、たった一粒の金剛石をみつけるような、途方もない挑戦だとはわかっている。
 だけれど、誓わずにはいられない。
「――ティア……私が、あなたをみつけます。必ず、必ず……!」
 そうして、いつかきっと、力いっぱいあなたを抱きしめよう。二人が引き裂かれることのない、この世界のどこかで、決して離れることのないように。
 愛する人を探すために旅立つことを告げれば、きっと仲間たちは、笑いながら励ましの言葉とともに、自分を送り出してくれることだろう。
 だけれど、今はただ、泣きたかった。涙を止めるつもりも、なかった。
 生まれ落ちたばかりの世界の片隅で。
 雷の精霊は、無垢な赤子のように声をあげ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 木漏れ日の下、くるりと小柄な影が振り返る。その腕の中には、つい今しがたまで摘んでいた色とりどりの花がある。
 明るい色をした髪が、一拍遅れてその肩の上で揺らめいた。
 あどけなさの残る可愛らしい面差し。優しくも強い意思の光が宿る瞳。そして、目の見えなかった精霊が、惹かれてやまなかった魂の輝き。
 精霊は込み上げる喜びや懐かしさ、切なさに翻弄されながら、小さく息をついて一歩前にでた。
 ふいに現れた者を怖がって声をあげるでもなく、不審げに眉を顰めるでもなく。ただひたすらに、注がれる視線。
 その表情は、きょとんとしていて現状を理解できていないように思えた。
 間違いないと思うのに、もしかしたらという嫌な予感も拭えない。
 様々な想いに胸がいっぱいで、言葉がでてこない。
 何か言わなければと思うのに、淡い光に包まれた目の前の存在を見下ろすだけで、精一杯だった。
 と。
 ふわ、と笑顔が浮かぶ。それは春の陽射しに綻ぶ、新芽のようで。精霊の胸に鮮やかに届いて弾けた。
 そして、なんの躊躇いもなく両の腕が伸ばされる。はらはらと、抱えていた花が舞い散って、大地を飾った。
 華奢なその身体から、喜びが溢れ零れるのを。精霊は、ただ呆然と眺めた。
 可憐な声が、何かを紡いでいる。それはとても、とても嬉しい言葉に聞こえた。
 それを理解する前に、精霊は衝動的に向かい合う愛しい存在を抱きしめていた。軽やかな歓声が、耳のすぐそばであがる。
 かつてと同じそのぬくもりと、精霊を魅了するその綺麗な心に触れれば、遙か遠い昔、愛する人にだけ向けていた笑顔が自然と浮かんだ。
 想いを告げる互いの声が重なり、美しい和音となる。
 それは、再びめぐりあった恋人たちの、長い旅の終わりを告げる神聖な鐘の音のように、世界へと響いていった。