清々しい朝の光が、窓辺から差し込んでくる小さな家の中。
朝食およびそのほかの家事も終えたティアを前にして、ウルは赤と蒼の瞳を瞬かせた。そして、ついさきほどティアから告げられたことを、心の中で反芻する。
だが、どうにも聞き間違いだったような気がしてならない。
「ええと、申し訳ありませんが、もう一度、仰っていただけますか?」
「んと、だからね、」
懸命な様子で自分を見上げ、わずかに踵を持ち上げて背伸びをするティアを、ウルはじっと見下ろし、その続きを待つ。
「今日は、ウルと出会ってちょうど一年目でしょう?」
確かにそれはそうだ。ウルは肯定するように、ひとつ頷く。
自分たちが砂漠に埋もれた古代の遺跡で出会った日。彼女が自分を見つけ、自分が彼女のその清らかな声を初めて聴いた日。忘れることなどできようはずもない。
ただ、ふと思う。そうか、あれからもうひととせ、時間は巡ったですね――と。
ウルが過去に思いを馳せて、ほんの少し目を細めると、ティアがはにかむように微笑んだ。僅かに色づいた柔らかなそうな頬に、ウルは無意識のうちに指を伸ばし触れていた。
くすぐったそうに、でも嫌がることはなく。撫でられる感触を、ティアはごく自然に受け取っている。
「だからね、今日はウルのお願いをなんでもきいてあげる!」
どうやら自分の耳は正しく機能していたらしい。記憶どおりの言葉が、ティアの唇からもう一度発せられたのを確認して、ウルは小さく息を呑んだ。
「あ、なんか違うよね……ええっと――そう、お願いをきいてあげたいの! ね、ウルは何がして欲しい?」
ほんの少し言葉尻を訂正するものの、大筋言っていることに変わりはない。柔らかなティアのその笑顔は、あなたのために自分ができることを教えて欲しいと、無邪気にそう語りかけている。
「それは、私たちが出会った日だから、ということですか?」
「うん。だって、ウルたちには誕生日はないってきいたから。その日を大切にしようって決めたの」
なるほど、とウルは頷いた。そういえば、他の精霊たちもティアからなにかしらしてもらっていた。レンポには炎のクッキーを贈っていたし、ミエリとは一緒に花を育てている。ついこの間、ネアキには雪の結晶を象った髪飾りをあげていた。
つまり、順番的には次は自分ということだ。
「そういうことですか」
「うん。実はね、いろいろ考えてみたんだけど―――ウルは何がいいのか、どうしても思いつかなくて」
恋人であるというのに望むものがわからないことを、眉を下げて謝るティアへとウルは笑いかけた。
「いいえ、私のためにそんな風に悩んでいただけて、幸せですよ」
そういって慰めれば、ぱぁっとティアの顔が輝いた。よかった、と胸を撫で下ろすティアがいじらしい。
「ね、じゃあ、ウルは何をして欲しい?」
本題にもどったところで、ふむ、とウルは顎に手を当てる。
そういってくれるのは、とても有難い。自分を喜ばせようとしてくれることは、素直に嬉しい。だが。
正直言って、これといってしてほしいことがない。
自分の言うことをなんでもきいてくれるという申し出は、非常に魅力的なものだ。それは間違いない。だが、ウルにしてみれば、嫌がったり、恥らうティアに、どうにかしていうことをきいてもらうというか、きかせるほうが楽しいわけで――いやいや。
自分の想像が、あまりにも今日の純粋無垢なティアにそぐわないと、ウルは頭を振った。
ウルのそんなとんでもない心の内などなんにもわかっていないティアは、その行動を不思議そうにみつめている。恋人に疑いを持つような少女でなくてよかった。
「そうですね……」
雷の大精霊は煩悩塗れの自分の意識を霧散させ、切れ長の瞳を閉じる。むむむ、と美しい弧を描く眉を顰めて悩むこと数秒。
ぽんと脳裏に灯った己の考えに、ウルは視界を開いた。すぐそこにある、ティアの期待に満ち満ちた顔を注視する。
ああ、これならば、きっと自分もティアも幸せでしょう――そう思いながら、ウルは綺麗に微笑んだ。
「では、ひとつお願いすることにします」
「決まったんだね?」
静かに頷けば、ティアがひどく嬉しそうに笑った。
「ええ、是非ティアに叶えてほしいと思います」
ウルは爽やかな微笑をその面に刻んだまま、ティアをそっと引き寄せる。
心の準備ができていなかったのか。あ、と小さな声をあげて胸へと落ちてきた少女を、ふわりと抱きしめて言う。
「どうか、今日一日 ――― ティアを、甘やかさせてください」
ウルの胸に頬を寄せていたティアが、目にわかるほどその身を強張らせた。一瞬の後、瞳を限界まで見開いたティアが、慌てた様子でウルの胸に手をついて顔をあげた。
「ち、違うよ! 今日はウルのお願いを……!」
微笑を絶やさぬまま、ウルはティアの額へと唇を寄せる。その行動に、首をすくめたティアの言葉が途切れる。その隙を逃がさぬように、ウルは小さな耳へと囁く。できる限り甘く、ティアの全身に染み渡っていくように。
「ええ、ですから。ティアの願いを叶えさせてほしいのです。大切なあなたをこれ以上なく甘やかしてみたい。それが、私の望みです」
必要なときには、ティアは必ず自分たちを頼ってくれる。けれど、自分でできる範囲のことは、なんとしても頑張りとおすティアに、ウルは僅かな不満を覚えていた。
もっと、我侭をいってくれればいい。迷惑をかけてしまうなんて、考えなくていい。ただ、ただ、その心のうちをさらけ出してほしい。 甘えることが、どこか不器用な少女を優しく包んで安心させたい。自分の腕の中が、この世界でなによりも心地よい場所なのだと、思ってほしい。そんな自分の想いを知ってほしい。
だから、ティアを甘やかさせてほしいと、ウルはいう。
「そ、そんなのずるいよ~!」
予想外の願いに、今にも泣き出しそうに眉を下げたティアの抗議を可愛らしいものだとあしらいながら、ウルはその茶水晶のような澄んだ瞳を、色を含む視線でもって射抜くように覗き込む。そうすれば、ティアが動けなくなることを知っている。
ほら、これまでの経験が裏打ちするその知識のとおり、ティアは口を噤んで息をのんでしまっている。はう、と漏らされる小さな声が、鈴のように可憐だ。
「ねぇ、ティア? 今日は、なんでも……私のいうことをきいてくれるのでしょう?」
ひどく優しく、追い詰めるようにそう確認すれば。まだどこか不満そうな色を残しつつも、ゆっくりとティアは頷いた。
「ありがとうございます、ティア」
その様子があんまりにも愛しさをかきたてるものだから――ウルはそっと薔薇色の頬に口付ける。
睫を忙しなく羽ばたかせ、ティアは恥ずかしそうに唇を尖らせた。色々いいたいことはあるけれど、こうなってしまったウルをどうにかするなどとても無理だと、ティアも経験で知っているから、何も言ってこない。
「さて、ではまず何をして欲しいですか?」
うきうきとした気分と口調を隠すことなくウルが訊けば、ティアがかくりと頭を垂れた。
「うう……やっぱり、これってなんか違うような気がする……」
ぶつぶつとそう呟くティアの耳に、頬に零れる髪をかけてやる。
「そういわないでください。なんでもいいのですよ。ティアのためならば、私はどのようなことでもしてみせましょう」
たとえば、もしティアが世界を滅ぼせといったなら、自分はそれに従うだろう。まあ、そんなことティアがいうはずもないのはわかってはいるけれど……それくらい、今のウルはなんでもするつもりになっていた。
「ぅ、んん~、そうだなあ……じゃあ、ちょっと喉が渇いたから、一緒にお茶でも飲もうよ」
しばし悩んだあと、ティアは随分と質素な願いを口にした。
予想通りの可愛らしさに、ウルは小さく微笑みながらその身体を解放する。
「わかりました。ではそういたしましょう」
「うん、じゃあちょっと待っててね」
そうして、いつものようにお茶を淹れに行こうとするティアの肩をおし留める。
「今日は、私が淹れましょう」
「え」
ぱち、とティアが目を瞬かせる。
「大丈夫ですよ。ここは私にまかせて、ティアは座って待っていてください」
「でも、」
「甘やかさせてくれるのでしょう? さ、こちらへどうぞ」
言葉に詰まったティアに笑いかけたウルは、いつも少女が座っている椅子をそっとひいてそこへ座るように促す。
「あ、ありがとう」
そんなことをされたことがあまりないティアは、面食らった様子をみせながらも、ちょこんとそこに腰掛けて、ウルに向かって礼を述べた。
「さて、では少々お待ちください」
茶葉やティーカップがまとめて入れられている棚に近づき、その扉をあけて目についたものに、ウルは振り返った。
「せっかくですから、姫から頂いた茶葉を使ってもよろしいでしょうか?」
「うん、いいよ」
「ありがとうございます」
ティアがこくこくと頷いて了承してくれたことに微笑んで、ウルは手際よく準備をすすめていく。
退屈しないようにと、他愛のない話題をふってティアと会話を交わしながら、湯を沸かし。それを用いて、ころりと丸いポットと飾り気のないカップを温めて、必要な分量の茶葉をティースプーンで測る。
湯を捨てたポットに茶葉をいれて、湯を高い位置から注ぎ淹れれば、湯気に絡まった紅茶の香りが沸き立った。それを封じ込めるように蓋をかぶせて、待つことしばし。
どこかぼんやりと、その一連の動きを眺めているティアに、にこりと笑いかけてやると、ぱっと頬に朱を散らして目を伏せる。
「どうしたのですか?」
ぷるぷるとティアは頭を振るだけで、答えてくれる様子はない。
「ふふ、そうですか。残念、私に見惚れていてくれたなら、嬉しかったのですが」
「はぅ……」
図星だったらしく、声を漏らしたティアが耳まで染めて、テーブルの上に突っ伏した。大方、いつもとは違うウルの姿にときめきを覚えていたのだろう。
その様子にくすくすと笑いながら、ウルはカップの湯を捨て、茶が均一になるようにポットの中を一かきする。
茶漉しを用いて、最後の一滴まで逃さぬようカップに注げば、器の中でうねる紅茶が、室内の空気をかぐわしいものに染めかえた。
「さあ、どうぞ」
すべて流れるようにこなしたウルが淹れた、その紅茶の香りを吸い込んで、ティアがほうと息をついた。
そして、ゆっくりとカップを手にして口を付ける。
ひとくち含み、飲み込めば。大きな瞳が見開かれた。
「――おいしい!」
「そうですか、それはよかった。さすがに、よい茶葉ですね」
「ううん! ウルが淹れるの上手だからだよ! 私のと全然違う! いつ覚えたの!?」
「前に、ティアと一緒に本屋へいったとき、その手のものを少々読みましたし――城にお邪魔したときにも、こうやって女官の方が淹れていましたから、そこで覚えました」
「ふわぁ、すごいなぁ……」
ティアは、しきりに関心しながら紅茶を味わっている。
これもどうぞ、とウルがクッキーを勧めると、ティアが目を細めた。
向かい合うようにテーブルについて、自分も紅茶を口にする。さっきもいったが、茶葉のおかげもあるけれど、我ながらなかなかなよくできた。
おいしい、おいしい、としきりに関心するティアが、あっという間に飲み干してくれるくらいには。
頃合を見計らって、ウルはティアに語りかける。
「さて、次は何をして欲しいですか」
「えっと、うんと……じゃあね……」
まだ少し戸惑いは残っているが、ティアは素直にウルにしてほしいことを口にしようとしている。
ああ、いつか、それが当然のようになってくれれば。
そんなことを思いながら、ウルはティアの願いを聞き漏らさないように、耳を澄ませる。
そして、ティアの言葉を叶えるたびに、身に余るほどの感謝と、胸から溢れる嬉しさそのままの笑顔を向けられて、ウルは幸せを噛み締める。
そうしたことを重ねていけば、いつの間にやら日は暮れて――
「はい、できましたよ」
「ありがとう、ウル」
すっかり夜も更けた部屋の片隅。寝台の上で、ティアの髪を梳いていたウルが、手を離してそう告げると。気持ちよさそうに身を任せていたティアが、頷いた。
「さて。時間的に、次が最後のお願いになりそうですね」
丁寧に櫛を通された髪はいつにも増して艶やかだ。満足げにそれをひとつ撫でたウルへと、ティアが向き直るように座りなおした。
「うん、そうだね。えっと、その前に……今日はありがとう、ウル」
「いいえ、私のほうこそ願いをきいてくれて、ありがとうございました。楽しかったですよ」
互いに、温かな言葉を交わしあう。
「なんだか私、ウルがいないと生きていけなくなっちゃいそうだったよ」
今日一日のウルのからの奉仕の心地よさを思い出したのか、ふふふ、と冗談っぽくティアが笑った。
その言葉に同じように笑って返しながらも、ウルはすうと目を細めた。
はやくそうなってくれればいいんですけどね――
そんな想いはおくびにも出さす、ウルはティアの髪先を弄ぶ。ティアが長い睫を伏せて、その手が離れていかないように、そっと捕まえてくる。逃げる事をせず、ティアのしたいように任せたまま、ウルは小さく首を傾げて声を添えずに尋ねる。
あなたの願いは?
それを感じ取ったらしいティアが、頬を染めて熱を帯びた吐息を漏らす。
「えっと、じゃあ……最後のお願い、きいてくれる?」
室内を照らすランプの光が、優しく揺れる。淡い影をまとったティアから滲み出る甘さに、その味を知っているウルは思わず喉を鳴らした。そして。
「――もちろんです」
ウルが笑って頷くと、蕩けるように微笑んだティアが、ゆっくりと目を閉じていく。
ん、と持ち上げられた顎に、僅かに開いたふっくらとした唇。己の手にかけられた、小さな爪のついた指が、急かすように微かに動く。
言葉にされずとも、わかる。
これが本日最後のお願い。
ウルは自分を誘う少女が纏う色の中へ、溺れるように身を屈める。
滑らかな肌に覆われた頬に空いた手を添え、優しく、優しく――ティアの唇を塞いで。
ウルは冷たいシーツを二人の熱で暖めまどろむため、ゆっくりと愛しい人に、落ちていった。