夕方、ミーニャと別れ、家に戻ってご飯を食べて一息ついて。
すっかり静まったその日の夜、ランプの明かりの下で預言書を開いて、ティアは先日みつけたメタライズのひとつと向き合っていた。目下解読中であるが、なかなか解けそうにない。
こうしたことは、いつのまにか日課となっていた。ティアは次の世界のために、預言書の価値を少しでも高めなくてはならないからだ。
価値あるものを記し、世界の謎をひとつでも多く。この世界が滅びる前に、できる限りのことをしたいと、ティアは思っている。
そうして真剣な眼差しを預言書に注ぐティアの傍らには、解読に付き合っていたものの途中で眠くなってしまったらしいレンポが、机の隅で大の字に寝転んでいる。
さきほどまで、暇を持て余してぱたぱたと手足を動かしていたのに。ふいに、安らかな寝息が聞こえてきて、そちらへ意識をもっていかれてしまったティアは、小さく笑った。
炎の大精霊様が、こんなに可愛らしくていいのかな。
そんなことを考えながら、一息つこうと、音をたてないように気をつけて、背伸びをする。背骨の間が広がり、固まっていた筋肉に血が通うような感覚が、心地いい。
胸の奥から息を吐き出し後、じっとレンポをみつめる。机の上には無造作に、束ねられた髪が投げ出されている。
その赤さに誘われるように、そーっと上から覗き込むと、ティアが好きなその目は穏やかに閉じられていた。少し丸い頬の輪郭が、ランプの明かりを受けて、ほのかな輝きを帯びている。
そんなレンポの様子をみて、ティアは顔を赤らめた。
夕暮れにまぎれて、そこへ触れた感覚が蘇る。そして、ミーニャの登場によってさえぎられた、レンポが言いかけた言葉の続きは、結局何だったんだろうと考える。
そのあとに補完されることもなかったもの。
知りたいけれど、その内容はレンポにしかわからない。
炎そのままの気性と真っ直ぐさ。それでいて、哀しさも虚しさもちゃんと知っているレンポ。幾度世界の滅びと再生に立ち会ったかわからぬ精霊の心は、きっとティアには推し量ることができないほどに広く深い。
でも、それでも。わかることができずとも、ティアはレンポが好きだ。そんな遠く感じるほどの気宇さも。自分の傍らで温かく、ときに熱いほどに励ましてくれる近さも。焼け死ぬとしても、火の輝きに近寄らずにはいられない虫のように、魅せられてやまない。
きょろ、とあたりを見回す。しかし一人暮らしなのだから、当然誰もいるはずない。精霊の皆もすでに預言書に戻り休んでいる。今は、この空間に二人っきり。
ティアはそっと、そっーと。あのときのように、レンポへと唇を寄せて目を伏せた。
聞く者はおらず、届けたい者は眠りにうちにある。
ふと、今このときならば。この気持ちを言葉にできるような気がした。
「――……レンポ、好きだよ」
人とは違う、エルフのように尖ったその耳もとにそう囁く。
睫を震わせたティアは、満足げに一瞬微笑むものの。その面を、すぐに翳りで覆った。
ふ、と。幸せそうに寄り添っていた恋人たちを思い出してしまったからだ。どこの誰だかは知らないけれど。お互いの隙間などできないように抱きしめあい、口付けを交わしていた。
とても、羨ましかった。
あんなふうに、求め、求められる関係を築けるあの人たちが。
自分とレンポは同じ世界にいるけれど、立ち居地が違う、人間と精霊だ。だから、結ばれることなんてきっとない。
それに。
レンポは人間の女はキライって、いってたもんね……――
それは、ティアがレンポに対して一歩踏み出せぬ最大の理由だ。
ティア自身はレンポに嫌われてはいないと思うが、そんなことをいっていたのは彼自身なのだから、仕方がない。
ティアは自分の心に点った恋心と言う名の灯火は、ずっと秘めたままにしておこうと改めて思う。きっとレンポは困るだろう。すごく優しいから。
ただ、ずきん、と胸が痛むのはどうしようもない。そっと服の上から、少しでも和らぐようにと押さえた。
でも、届いてはいないとはいえ、想いを口にしたことにすっきりとした。どこか晴れやかな気持ちで、ティアは瞳を開く。
すると。
ぱちりと開いた綺麗な瞳が、こちらをみていた。それが、きゅうと細くなる。
「おう、あんがとな」
「!!!!!」
ばっとティアは顔を離した。がたがたと椅子が音をたてる。見開いた視界の先で、レンポが身を起こす。
「っ、え、あ……! お、起きてたの……!?」
「あ? 寝てると思ってたのか?」
きょとん、としたレンポの顔をみてティアは頭を抱えた。なんてことだろう。
てっきり眠っているものだとばかり思っていたから、告げたというのに!
「う、わー……あの、あのね、レンポ。今のは、その……」
考えのまとまらない頭を懸命に働かせながら、なんとか言い訳しようとするものの、うまく言葉がでてこない。
そんなティアに向かって、すいと影が動く。
ティアがわずかに息を吸い込んだ瞬間。その空気の流れを追いかけるように、レンポの唇がティアのそれに触れた。
近すぎて焦点の合わないぼやけた視界に、レンポの髪が炎のように揺れている。
固まってしまったティアから離れたレンポが、にかっと笑う。
「特別で、好きで、愛し合ってたら、こうしていいんだろ?」
確かに、ティアはそういった。そういったけれど。
「え、え……? でも、だって……!」
おろおろと哀れなくらいに混乱し、泣き出しそうになっているティアへと、小鳥が木の実を啄ばむように、もう一度レンポが口付ける。
「ティア、さっきいってたじゃねぇか。オレのこと好きだって」
「ぁぅ……」
それも確かにそうなので、ティアは何もいえなくなる。
魚のように口を開け閉めしていると、レンポが夏の晴れ渡る青空を思わせるような笑顔を浮かべて、言う。
「オレもティアのことが好きだぜ。だから、これでいいんだろ?」
特別ってのはいいもんだな――そんな音をどこか遠くで聞きながら、心臓が止まるというのはきっとこういう状態のことなんだろう、とティアはぼんやりと考える。
腹から胸にかけて、自分の一番奥深いところが、やけに熱い。
そこで、レンポが何か思い出したように、「あ」と声を漏らした。
「そういや、オレあのとき言いかけたんだった――ま、どうでもいいか。今日じゃなくてもいつか絶対言ってたしな!」
届けるつもりのなかった言葉、伝えるはずのなかった己の想いへと返された、その言葉たちを何とか理解して。
真っ赤な顔の口元に手を当てたティアは、ゆるゆると俯いた。
「でも、……わ、私、人間なんだよ……?」
何を今さら、とレンポが首を傾げた。
「んなこたぁ知ってる。そんなこと言い出したら、オレは精霊だぜ?」
「だ、だって……レンポ、人間の女はキライだって……!」
一瞬、ばつの悪そうな表情が浮かぶが、それもすぐに消え去る。そして、ティアの不安をすべて燃やし尽くすように、レンポが笑った。
「まあ、そう言ったことも、あったけどよ。だけど、どうしようもねぇだろ。オレの心をこんなに燃やすのは、ティアだけなんだから」
その存在を求めるように伸ばされてくる腕。黒い枷に覆われているそこに、誘われるように震える指を触れあわせて、ティアは目を細める。それは不思議と冷たさではなく、口付けられたときとおなじ、心地よさを伝えてくる。
「そんな消えねえ炎をオレに寄越したのは、ティアがはじめてだ」
レンポが、心からそういってくれているのが、わかる。ティアも、同じものを胸の内に抱えているからこそ、わかる。
「ティアだって、同じなんだろ?」
「うん……うん。ずっと、あの丘でレンポにあったときから、消えることなんて一度もなかったよ……」
魔物を払う苛烈にして聖なる炎は、あの瞬間に小さな火種となってティアの心に落ち、今やときに激しく燃え立つほどに育ってしまった。
ほろ、と頬に零れた雫を拭うことなくティアは泣き笑う。嬉しくて涙がでるなんて、初めてのことだった。
「ティアの好きってのと、オレのこれが同じかどうかなんてのは、わかんねぇけど。こんなに一緒にいたいって思うのは、やっぱ好きってことだろ、な?」
「……うん!」
それでいい。そういってもらえることが、そう自分に対して思ってくれることが、ティアにとっては何より大切なこと。
ティアが嬉しくて蕩けるような笑みを浮かべた目の前で、レンポが一瞬で人間の少年くらいの大きさに変じる。
「わ、わわっ……!」
ふいのことに驚いて、反射的に身を引こうとするティアを、レンポは覗き込む。
「ティア」
炎の大精霊に絡めとられる視線。そして、奪い去られるそばから募る恋心に、ティアは目を見開き、せつない吐息を漏らした。
「好きだっていってくれて、あんがとな。すっげぇ嬉しかったぜ」
ティアの意識を優しく焼いていくレンポの声に、眩暈がする。いつになく穏やかなそれに、全身へと電流が走る。枷のある手で懸命に与えられる優しい抱擁に、また涙が零れた。
耐え切れずに瞳を閉じて、ゆるゆるとティアはため息を零す。
「私も、だよ」
そんな囁きが空気に交じり合う前に、レンポが口付けてくる。
くすぐったく触れてくる幾たびもの感覚は、まるで夢のようだった。
ああ、どうか。
滅びの炎にこの身が焼け落ちて灰となるときがこようとも、この想いだけは愛しい精霊の胸に残りますように。
互いの身の内に燻るものを伝えあいながら――ティアはそう、願った。
心を結び合った二人を世界が認め、レンポの両腕から枷が消え去るのは、この忘れえぬ夜が明けた日、あのはじまりの丘でのこととなる。