焼け落ちて残るもの 前編

 夕暮れに染まる占い横丁に、都の魔女と名高い占い師の館から、小柄な少女と人あらざるものが出てくる。
 通りに風が吹くたび、ざわざわ木の影が踊る。黄昏時ということもあってか、ひどく人を追い立てるような、切なさを呼び起こすようなその風景の中に、ティアはそっと足をつけた。
 朱色の光が、その足元に長い影を描く。大地に写るもうひとりのティアは、持ち主に付き従いその身を揺らめかせた。
「長居しちゃったね。さ、帰ろうよ、レンポ」
「おう……っておい、ティア」
 いそいそと、ローアンの街南の下町に位置する我が家へ向かうべく歩き出したティアの目の前を、レンポがすっと横切った。
 思わず足を止めたティアの胸元を、レンポの封じられた腕が示す。
「それ、ほどけそうだぞ」
「あ、ほんとだ。ごめんね、ちょっと待って」
 指摘されたとおり、いつもしている黄色いスカーフが、緩んでいる。慌てて指をかけていったん解き、結びなおそうとした次の瞬間。
「うわっぷ!」
「きゃあっ」
 ごう、と一際強い風が通りを駆け抜けた。両者ともに声をあげ、空気の壁にぶつかったような感覚に、身体を強張らせる。顔を庇うように反射的にあげた腕を下ろし、ティアは目を瞬かせた。
「ふわぁ……すごかったね、今の」
「おー、ちょっとびっくりしたぜ」
 流石に吹き飛ばされるとまではいかなかったものの、驚いた。ティアは乱された髪を撫でつけ、レンポはぷるぷると頭を振っている。
「あれ?」
 そして、ふと気付く。手にしていたものが、ない。同じことに思い至ったのか、レンポが鋭く空をさした。
「ティア、あれ!」
 ひらり、ひらり。一枚の布が赤く焼けた空を飛んでゆく。
「わわっ、待って待って!」
 ティアは声をあげ、風に巻き上げられたスカーフを追いかける。
 やがて勢いを失ったそれが、くるくると落ちていく――占い横丁裏手の、林へと。
 僅かな音をたて、スカーフが生い茂る葉の上に身を横たえる。が、そこはティアには若干手の届かない微妙な位置だった。
「ど、どうしよう……」
 手を伸ばしても、背伸びをしても、飛び跳ねたところでその端に爪すらかけられないだろう。かといって、昇るにはその木は細すぎる。どうしたものかと、ティアがおろおろと胸元で手を握り締めると、レンポが笑って空に舞い上がった。
「なぁに、オレ様に任せとけって!」
 あっという間にスカーフのもとまでいくと、レンポは触れることを禁じられた手を駆使しはじめる。
 ひっかかった枝から、柔らかな布を破かぬように注意し、四苦八苦しながら外そうとするその姿を、ティアはハラハラと地上から見守った。
 やがて。
「よし! 落とすぜ、ティア」
「うん!」
 レンポの声のすぐ後に、ふわりとティアの目の前へとそれが落ちてくる。もう手放すことのないように、ぎゅうと握り締めてティアは笑った。
「ありがとう、レンポ!」
「ったく、ティアはオレ様がいないと駄目だな!」
「もぉ~」
 ティアはスカーフを手早く首元で結びながら、快活に笑うレンポを見上げて唇を尖らせる。だが、今回ばかりはそのとおりなので、それ以上の反論の余地はない。
「さ、今度こそ帰ろう、よ……――?」
 くるり、来た道を戻ろうとしたところで、ティアはその視界の隅に、林に差し込む夕暮れ色と、それが呼び寄せる色濃い影の色彩に混じって、違う別の何かがあることに気付いた。なんだろう、と近づいてみる。
 それに目を凝らし、それが何かを認識し。そして、それが何をしているのか理解して――ティアは、息を呑んで身を強張らせる。

 う、うわわ……!

 火照る頬を自覚しながらも、ティアは縫いとめられたように、その場から動けなくなってしまった。
 逸らせない視線の先、林の奥まった方向。そこに人がいる。それは見知らぬ若い男女だった。二人は抱きしめあって、深く唇を重ねている。
 他人のキスシーンをみたことなど、ティアにあるはずもなく。せいぜい、挨拶程度に頬へと落とされるものをみたことくらいだ。こんなの、知らない。
 みてはいけないと理性が訴える。
 と。
「なんだ? あいつら何してんだ?」
 ティアの肩付近に戻ってきていたレンポが、同じものを怪訝そうに見つめながら、割と大きめの声でそんなことをいうものだから。
「ちょ、ちょっとレンポ、しーっ!」
 あまりのことに、精霊の声は普通の人間には聞こえないという前提すら忘れてしまったティアは、慌てた声をあげた。が、自分の声の方が大きいことに気付いて、はっとして口元を押さえる。
 もう一度、ちらりと甘く繰り広げられる景色に視線を送る。しかし、すっかり夢中になっているらしい恋人たちを包むハート柄の空気には、いささかのひびもはいっていない。
 それを確認したティアは、ぐいとレンポの腕を掴むと。
「うわ、なにすんだよ、ティア!」
 のろのろぎくしゃく。身体を動かし、なんとか林の中から脱出した。

「びっくりした~……」
 ナナイの館前まで戻ってきたティアは、がっしりと掴んでいたレンポの腕を解放し、ほっと一息ついた。
 その傍らでは、レンポがひっぱられた肩を回している。きょろりとその瞳がめぐる。
「なあ、あれって一体なにしてたんだ?」
「!」
 レンポの何気ないその問いに、ぴくっとティアは肩を跳ね上げた。
 素直に疑問に思っているのだろうレンポの、綺麗な黄金の瞳からの視線が痛い。
 手のひらに汗をかきながら、ティアはしどろもどろになりつつ口を開く。
「あ、あれは、その……キスって、いうもので……えっと、好きな人同士がするものなんだよ」
 へえ、と零したレンポが首を傾げる。
「じゃあ、なんであんなことするんだ?」
 なんてことを訊いてくるのか。ティアは、頭を抱えたくなった。だが、答えてくれると信じきった表情で見上げてくるレンポの期待は、裏切れない。
「……お、お互いの気持ちを伝え合うため、かなぁ」
 ティアはいままで読んだ小説や、年頃の少女たちと交わした会話の中から、それらしい言葉を選んでそういった。
 わけがわからないといわんばかりに、レンポが片目を眇める。
「なんだそれ。そんなの、ちゃんと言葉にすればいいだろうが」
「ん、ん~……それとこれとは別なんだよ、きっと」
 唇に指先をあて、経験のないティアは憶測を口にする。それでも納得いかないらしく、レンポが枷のついた腕を振る。
「よくわかんねーなぁ。なんか、まどろっこしいじゃねぇか」
「でもね。特別な人と、特別なことをするって……考えるだけでも、ちょっとどきどきしない?」
 そんなことをいいながら、ふと自分とレンポに置き換えてみる。
 誰ともしない、自分とレンポだけの特別なこと。それはティアの胸を軽やかに高鳴らせる。それは、ティアがレンポを特別な存在だと認識しているからだ。
 預言書の精霊と持ち主というだけではなくて、ティアはレンポがとても好きだ。
 だが、人でない精霊にそんな感情を求めることはできない。
 なんだか急に胸へと込み上げたせつなさに、ティアが眉を下げて小さく笑うと。まだよくわかりかねるという顔をしているレンポが、ティアをみあげて口を開く。
「じゃあ、やろうぜ」
「え?」
 レンポがあっさりと告げた言葉に、ティアは動きをとめた。
「だって、特別なもん同士がするんだろ? オレとティアなら問題ねーじゃねぇか」
 ずい、と顔を突き合わせるようにティアの目線まで飛び上がったレンポが笑う。
「な、な、なにいって……!」
 真っ白になりそうな意識を懸命に繋ぎとめ、ティアは裏返った声をあげた。
「違うってーのかよ?」
 預言書の精霊と、と預言書の主。確かに、この世界でそんな特別な絆をもつものは、自分たち以外にはいない。
「あー……うー……」
 違うといえば違うし。違わないといえば違わない。ぐるぐると小川の流れに弄ばれる葉のように、ティアは意識を回転させる。考えれば考えるほど、焦りが募る。
 むむむ、とティアは唇を引き結ぶ。真っ赤な顔は、きっと夕焼けでわからないだろう。

 で、でも。叶わないのなら、思い出のひとつくらいは、欲しい……かな……。

 意を決したティアは、すっとレンポに顔を寄せ――レンポの頬へと、幼い口付けを一瞬だけ落として。ティアは、ぱっと離れて視線を逸らした。
「なんか、あの人間たちのとちがくねぇ?」
「い、いいの! これは、その、親しい人とする挨拶みたいなものだけど、キ、キ、キスには、間違いないしっ」
 どこか不満そうなレンポに対し、ティアは早口で告げると歩きだす。それを追いかけてくるレンポがまだ何かいいたそうなのを察して、さらに言葉を重ねる。
「それに、あの人たちがしていた、あ、あれは特別なもので……つ、つまり、愛しあってる人たち限定なのっ」
 そうまくしたてると、レンポがきょとんと目を瞬かせた。
 ざあっともう一度強い風が吹いて、ティアは思わず髪を押さえて視界を細める。そんな狭まった景色の中、一際赤く燃え立つように存在するレンポの唇が、揺らいだ。
「じゃあ、もっと問題ないだろうが。オレはティアのこと、――げっ!」
 何か言いかけたレンポが、ふいに小さな炎に姿を変えて、ひゅっとティアの後ろにまわりこむ。
「ちょ、ちょっと、レンポ? どうしたの?」
 飲み込んだものが胃に落ちていかないような感覚に、続きを聞こうとしたティアは、自分の背中に隠れたレンポに振り返ろうとして――。
「お姉ちゃん!」
 次の瞬間、足もとにまとわりついた小さな人影。
 駆け寄ってきたその人物を見下ろして、ティアは柔らかに破顔した。
「ミーニャ! こんにちは!」
「こんにちはっ! ん~、今日もあのお兄ちゃんはいないの?」
 きょろきょろあたりを見回すミーニャに、初めてここで出会ったときのことを思い出す。きっと、レンポのことを言っているのだろう。魔王ごっこのときにも、探していた。
「う、うん。ごめんね。お兄ちゃんも、忙しいみたいで……」
 あはは、とティア笑う。
「ううん、いいの! だってお姉ちゃんがお話してくれるもん! ね!」
 そういって微笑むミーニャの頭に、ティアは優しく手を置いた。
 このローアンで、ミーニャの声を聞けるのは今のところティアだけだ。ほんの少ししゃがみ、ティアは幼い少女と目線を合わせる。
 そうして、ミーニャと他愛のない言葉を交わしながら、ふと思う。
 レンポってばミーニャが苦手だから、逃げたんだね――すっかり黙り込んでしまった炎が、背中へと与えるぬくもりを感じながら、ティアは心の中で苦笑した。