「レークースー!」
ばたーん、と勢いよく開いた扉の音と。それに絡まる上機嫌な女の子の声に、質素な寝台の上で、ごろごろとくつろいでいたレクスは驚いて飛び起きた。そして、幾度も目を瞬かせる。
ふわり、白い色を纏ったその人物は、自身の力で淡く光を発しているように見えたのだ。幼い頃に、協会でよく説かれた聖書の一説のよう。神の子とともに、天より人々を救うために舞い降りる存在。
だが、明るい色をした髪、にこにこと柔和に微笑むその顔はよく知っている。レクスの、恋しさをかきたてる。
「な、ティ……ティア……?」
ひっくり返りそうな声をなんとか押さえ、レクスがその名を呼ぶと。占い横丁の質素な家に光臨したその天使――ティアは、ひときわ嬉しそうに笑った。
白い四枚の羽を背にはやし、白いドレスを着たティアの頭には、天使の輪の代わりなのか、秋には珍しい花で作られた花冠がある。ぱたぱたとドレスの裾を翻し、ティアがレクスの元へと駆け寄ってくる。
本当に天使が舞い降りたような錯覚に陥っていたレクスは、夢か現実かわからぬままに、ぎこちなく寝台から降りた。
どうして、そんな格好をしているのか。
そして、ふと思い出すローアンの街並み。カボチャや魔女や、悪魔や精霊。そういったものを模した飾りが増える季節。
父も母もいて、妹もいた頃には、必ず参加していた。幸せな世界が、と突如として消え去って以来、そんなもの、と毛嫌いしていた祭。いつも嫌だといったのに、それでもとティアは声をかけに来てくれる日。
そうだ、そうだった。今日は……。
「ね、レクス! ハロウィンにいこうよ!」
レクスの心などそ知らぬ顔で、ティアは思い出したことを裏付けるように元気よくそういった。どこまでも清らかな心をもつ天使の姿を模しているにもかかわらず、ティアの言動は相変わらずだ。こっちの都合などお構いなしの、天真爛漫さ。
「ハ、ハロウィンっておまえなあ……」
がしがしとかき回すように、レクスは頭を掻き毟る。
常にティアが気にかけてくれるのは嬉しい。嬉しいのだけれど。
幸せそうな連中をみるのが嫌で、目を逸らしている間に年月は過ぎていき――もう、自分は、そんなことに混ざろうと思えるような歳ではなくなってしまっている。
「ティア、おまえだってもうガキじゃねえんだからよ。お菓子せびりにいこうとすんなよ」
「ええー、別にお菓子だけが目当てじゃないもん!」
思わず口をついてでた言葉に、ティアがむうと頬を膨らませた。
「仮装して、皆であっちこっち回るのが楽しいんだよ!」
だから、とレクスの手をとってティアが笑う。
「レクスもいこうよ!」
一瞬、その輝かしさにつられるように、レクスは頷きかける。が、思い直して頭を振った。
「……あいにくとオレはおまえと違って、そんな準備してねぇからな。パスだ」
「ええ~……」
ぶーぶーとティアが唇を尖らせる。上目遣いでこちらをみてくるティアは素晴らしく可愛いが、仕方がないではないか。
「オレは、いかねえよ」
いくなら一人で行ってこい――そう続けて、ひらひらと手を左右に動かすと、ティアは滑るようにしてレクスの側を離れた。
「うん。わかった。じゃあまたね、レクス」
そういって、翼でそよ風を部屋の中に起こしながら、ティアはレクスに背を向けた。そして、家から飛び出していってしまう。
ぽかん、と口を開けてレクスはそれを見送る。視線の先で、むなしく扉が閉められた。しばらく見慣れた規則正しい木目を眺め。
「……ちっ、なんなんだよ」
あまりにもあっさりと引き下がったティアに、レクスは思わず舌打ちした。
もうちょっと粘るとかしてくれても、いいだろうに。
それが、すっかり甘えた意識であることには気付かずに、レクスはティアにむかって心の中で悪態をついた。
足音荒く寝台に近寄ると、大きな音をたてて再び寝転がる。腹にもやもやと溜まった感情から目を背けるように、目を閉じる。
ああ、それにしても可愛かった。
閉ざした瞼の暗さの中に、ティアの姿が浮かびあがる。
本当に天使が現れたと、思ったのだ。
そんな自分の感想に、レクスは口を噤んで頬を染めた。そんなロマンティックな考えをもっていた自分に驚く。馬鹿じゃねぇの、と自分でも思う。
でも、思ってしまったのは仕方ない。
だがそれは、レクスの一言で、遠くにいってしまった。
今頃、街の子供たちに混ざっている頃だろうか。
やっぱり、いけばよかったか……?
ぐるぐると迷路を彷徨う迷い人のように、一向に出口のみえない思考を繰り返す。
そうして、一体どれくらい時間が過ぎたのか。
とんとん、と扉を叩く音がして、レクスは目を見開き――がばっと身を起こした。
まさか。
再び、急かすように、確かめるように。とんとん、と小さな音がする。
いつもなら、勝手に飛び込んでくるくせに。
どきどきとはやる気持ちを抑えながら、レクスはゆっくりと寝台から降りた。そっと外の様子を伺うようにして、扉に近づく。古い扉の蝶番を軋ませて、開く。
真昼の光を切り離したような、白い輝きに思わず目を眇める。
「Trick or Treat!」
そういって、にこりと静かに微笑むのは予想通りの少女。さきほど帰ったはずの、ティアだった。
「お、おまえ……」
ハロウィンにいったんじゃないのか、とか。どうしてここに戻ってきたのか、と問う前に、ティアは元気よく手をあげた。
「っていうか、お菓子を届けにきました!」
武闘大会の開会式でもするかのような勢いで宣言して、ティアはするりとレクスの横を通って家にはいってくる。
「はあ!? お、おい、ティア!?!」
言っている意味が解らない。というか、自分には応える権利すらないのか。
もうどんな顔していいのかわからない。頭を抱えたい気分で、レクスはのろのろとその後を追う。冷たい夜気にティアが攫われてしまわぬように、そっと扉をしめてから。
「なんなんだよ……まったく」
いそいそと、テーブルの上にもってきたバスケットを降ろしているティアにぶっきらぼうにいう。しかし、自分でもわかるくらい、喜びが滲んでいる。格好悪いが、仕方ない。
「え、だってレクス、ハロウィンいかないんでしょ? 仮装もしないっていうし、だったら私が守ってあげないといけないでしょ?」
ぐっと両の拳を握り締め、ティアが任せろといわんばかりの笑顔でレクスにいう。
「だから、なんでそうなるんだよ」
「大丈夫だよ。ちゃんと天使が守っていれば、悪いものにとり憑かれたりなんてしないんだから」
ハロウィンの日は、魔界やあの世から、ひとならざるものが溢れ出す。そうしたものは、人に憑いて、悪運をもたらす――そんな、小さな頃にミーニャと震えながら聞いた伝承を思い出す。
薄い胸を精一杯に張りながら、「任せて」と言うティアに、とうとうレクスは噴出した。
今宵は、こんなに可愛い天使が自分を悪いものから守ってくれるのか。あの日、好きだと告げたとき、守ると誓ったのはこちらだというのに。
情けないような、嬉しいような、ありがたいような、なんとも不思議な感情が湧き上がる。でも、それは祭の後に訪れるだろう冬すらも凌げるほどに、あたたかかった。
でも、とレクスは笑みをおさめて首をかしげた。
「いかなくて、よかったのかよ?」
テーブルの側にたつティアに、レクスはゆっくりと近づいていく。もう行かせるつもりもないけれど。
「うん。いいの。私は、レクスと一緒にいたいから」
くらり、眩暈のような感覚に襲われて、レクスは堪えるように目を細めた。どうして、そこまでいってくれるのか、わかっているけど、答えがききたい。
「……なんでだよ」
そう思ったとき、言葉は口から飛び出していた。ティアが、わからないの? というように、わずかに驚いた顔をする。そして、照れくさそうに微笑むと、ティアのほうからレクスに一歩近づいてくる。
「だって、」
こそこそと、レクスの耳に手を当てて、誰にも聞かれたくない内緒話をいうように、ティアが呟く。
「レクスのことが、好きだもの」
その言葉は、しっとりと優しく甘く。レクスの鼓膜を心地よく、くすぐった。
消えていくその響きを逃がしたくないといわんばかりに、レクスは手を伸ばしていた。
そうして、感情のまま、ぎゅうと抱きしめても、ティアはほんのすこし驚いただけ。
すぐにゆるりと力を抜いて、レクスにぴったり寄り添ってくる。その温もりが、優しい心が、なによりも愛しい。レクスは泣きそうな想いを吐き出すように、息を吐いた。
ぽん、とそれを解かっていて宥めるように、ティアがレクスの背をひとつ叩く。
「ね、私、レクスのためにお菓子つくってきたんだよ。一緒に、食べよう?」
甘えるように、肩に顎を乗せたティアがいう。
「ああ。でも、その前にこっち、な?」
もっとずっと、欲しいものを。
君からほしい。君にあげたい。
ゆっくりと身を離し、ほんの少しの距離からティアの顔を覗き込む。
恥ずかしそうに頬が染まっていく。ようやく口付けにも慣れてきたティアが、しやすいように顔を傾けてくれる。
「こんなに嬉しくて楽しいハロウィンは、初めてだ……」
「……よかった」
伏せられていくティアの瞳が、優しく潤んだのがわかる。
「ありがとうな、ティア」
テーブルの上で香る菓子よりなお蕩ける空気に身を委ねながら、ようやく素直になった天邪鬼は、自分の腕に閉じ込めた天使と口付けを交わした。