AVALONCODE3周年企画作品 梅花様よりのリクエスト
世界が眩しい。
蒼穹から降り注ぐ太陽の光に目を細めながら、ヒースは機嫌よくローアンの街を南下していく。
今日はヒースにはあまり縁のない休暇の日。なので、いつもの鎧姿ではなく一般市民とさしてかわらぬ格好で、ヒースは足取り軽く歩いていく。
商店街を横切り、街へと続く石造りの橋をこえ――下町にある小さな家へと迷うことなく突き進む。
慣れた様子で扉を三度ノックして、ヒースはドアノブに手をかける。普通ならば失礼きわまりない。しかし、ここに住む少女とヒースが、恋人という親密な関係であることが、それを許してくれる。
「ティア、邪魔するぞ……って、うおっ?!」
家主の返事をきくまでもなく、扉を開いた次の瞬間。
ごう、と顔面に向かって飛んできた火の玉に、ヒースは声をあげながら、体を素早く横へと移動させた。空気を焦がしながら飛んでいった火は、そのままの勢いで家の前の道へと落ち、消えていった。あとに残るは黒い跡。
不意打ちではあるけれど、伊達に帝国将軍職を預かる身ではない。徒手流派の伝承者としても、これくらいかわせなければ弟子の手前、示しがつかない。
だが、これはいくらなんでもあんまりだろう。このような仕打ちを受ける覚えがヒースにはない。
おそらくティアのもつ預言書に宿る火の大精霊の仕業であろうが、ティアの命令がなければそんなことはしないはずだ。
「おい、ティア?! いったいどういうつもり……! ……ん?」
次の攻撃がないことを確認し、ヒースは家の中に一歩踏み出し、眉を潜めた。
妙な違和感を覚える。
人の気配はあるのに、肝心のティアの姿がみえない。
何度かティアの手料理をごちそうになった小さなテーブルの上には、大事な預言書がひらきっぱなしで置いてある。
何かあったと推測するにはじゅうぶんすぎる光景である。
声はきこえないけれど、ざわざわとした困ったような気配も満ちていて――精霊たちも戸惑っているような気がする。
霊感や魔力といったものを一般人程度にしか持ち合わせていないヒースではあるが、ティアと共にすごすうちに、なんとなくではあるが、それくらいは感じることができるようになっている。
もしかして、さきほどの火は何かを知らせようとしていたのか。それとも由々しき事態ゆえに何者かわからぬ訪問者から、大切なものを守ろうとした行為だったのか。
「――ティア?! どこだ?!」
嫌な予感に、ヒースは荒い足音をたてながら室内へと踏み込む。
と。
「あい!」
「……?」
甲高く可愛らしい声が響いた。聞き覚えはない。聞き覚えはないが――知っている、ような気がする。
ヒースはテーブルを回り込む。そして気付く。床に上に、何かがいる。赤いコートの下、もぞもぞと動いている。その傍には、蓋があきっぱなしの小さな小瓶。
ん? 赤いコート?
よく知っているそれが、どうして床に落ちているのか。と、いうか、よくみればスカートも。まさかティアが素っ裸でどこかにいったとでも? まさか、それは考えにくい。
怪訝に思いつつ、ヒースはゆっくりとしゃがみこみ、そのコートに手をかけてめくった。
ぱち、と大きな瞳と目があう。
明るい色をした髪。秋の実りをそのまま宿したかのような目の色、やわらかそうな白い肌、ほんのりと色づいた頬、ふっくらとした唇。
小さな女の子――ヒースにとってなによりも愛しいティアを、そのまま縮ませたような女の子が、そこにいた。
「やん!」
思わず、ぼふ、とコートをもとに戻せば、可愛らしい小さな悲鳴があがった。
いやいや、落ち着け。ひとまず落ち着け。どういうことだ。まさかまだ、自分は夢の中にでもいるというのか?
そんなふうにヒースが軽く現実逃避をしたところで、押さえつけるようにしている存在が消えるわけではない。むしろさきほどよりも、うごうごとした動きは大きくなっている。
もう一度コートをもちあげる。ぷは、と大きく息を吸い込む小さな女の子。間違いなく、ここにいる。夢などではない。
ティアそっくりな小さな子。ティアの衣服。ティアだけが使える預言書。おそらくそれから取り出したとおぼしき小瓶。
色濃くなった嫌な予感に、ごく、とヒースの喉が鳴る。
「……ティア?」
恐る恐る問いかける。 こちらの頬を緩ませるような、満面の天使の笑顔が浮かぶ。それを素直に可愛いと思う余裕もないヒースに向かって、幼子は力いっぱい頷いた。
「あい!」
「……」
ヒースは青ざめた。どうやら間違いないらしい。
「どういうことだ……」
難題ならこれまでにもいくつか遭遇してきた。どうしようもない、不可能とさえいわれたものであっても、成し遂げてきた。だが、今回ばかりはどうしたらいいのか。
「ん?」
もぞもぞと動いていたティアが、なんとか立ち上がりヒースに一歩近づく。そして、こて、と首を傾げながら、ふむふむと鼻を動かす。
「おかし?」
「ああ、これか」
ティアにと思って買ってきていた焼き菓子の香りにつられたらしい。お腹が空いているのだろうかと考え、ヒースはひとまず小さくなったティアを抱き上げる。軽さに驚く間もなく、ずるりと落ちる、コート、スカート、ベスト――それに下着。
「……」
体にあっていないのだろうから仕方がないが……。
ひとまずブラウスに着られている状態のティアを、椅子に座らせる。スカートやらなんやらは、そっとひとまとめにして寝台のうえへと置いておく。
そしてティアの目の前に菓子を出すと、きらきらと瞳が輝いた。そわそわと、お菓子とヒースを交互にみつめる。
「たべていい?」
「好きにしていいぞ」
「わぁい!」
ちゃんと尋ねるあたり、躾が行き届いている。
あむあむとクッキーをほおばる小さな子供を見下ろしながら、ヒースは途方にくれた。
とりあえず、テーブルの上にある預言書を覗き込んでみるが――
「……うむ、わからん」
というか、預言書の主でもないヒースに読めるわけがない。
どういう理由でこうなったのか、さっぱり検討がつかない。精霊たちに尋ねることができるならすぐにわかろうものだが、あいにくと姿は見えない声も聞こえない存在と、意思疎通する術をヒースはもっていない。
ティアならば、わかるだろうか。そもそも、自分のことを認識しているのだろうか。
「なあ、ティア」
「?」
やっと食べ物にありついた小動物のように、もくもくと口を動かしているティアに声をかける。
「オレが、誰だかわかるか?」
「おかしくれたひと!」
んく、と口のものを飲み込んだティアの無邪気な言葉に、ヒースはがっくりと肩を落とした。
どうやら、ヒースが何者であるのか理解していないらしい。となると、体と共に記憶も、その時間が巻き戻されたということか。まずい、非常にまずい。
「その、なんだ……君のまわりに、何かいないか?」
「?」
「おそらく、こう、小さな人のようなものが浮いたり飛んだりしていると思うんだが」
しどろもどろなヒースの説明に、ティアはわけがわからぬように何度か首をかしげたあと、おもむろに空中に手を伸ばした。小さな手が、透明な何かを鷲掴みにしたような仕草をみせる。意外に素早い。おそらく、精霊のうち誰かが捕まったに違いない。
「ん?」
「あ、ああ、それのことなんだが、何か言っていないか?」
ずい、と目の前にだされても、ヒースには見えない。それ、といってしまうのは申し訳ないが、誰がどうなっているかわからない以上、そう言うしかない。
じーっと、自分の手を見つめていたティアが、ぽよぽよとした眉を潜める。やがて、うる、と大きな瞳が水気を帯びた。ヒースは、ぎょっと目を見開く。
「よげ、よげん……? ……う……わ、わかんない……っ、ひっく……ぅ、っ」
「ああ、オレが悪かった! 頼む、泣かんでくれ!」
今にも泣き出しそうなティアを、ヒースは慌てながら宥める。
「もうちょっと、子供にわかりやすい言葉でいってやってくれ!」
見えぬ精霊たちに悲痛な声でそう訴える。
「ぐすっ、うん……んー……?」
相変わらず掴みっぱなしの精霊と、時折り空中にいるらしい精霊たちを交互に見遣るティアの、断片的な言葉をなんとか繋ぎあわせると、つまりこういうことらしい――
預言書に新しく取り込んだ『価値あるもの』が薬であったため、実際使わないことにはその真の価値を記せない。ということで、ティア自身が使ってみたところ、幼児になってしまった。いつ戻るのかは不明。そもそも元に戻るのかすらわからない、とのこと。
――どうしてこうなった!
ヒースが頭を抱えても、しようのない状況である。
「時の流れを逆行させる、か。夢物語の若返りの薬のようなものだろうが記憶まで退行してはあまり意味がないな。ひとまず一晩は様子をみてみるか……」
今朝採れたばかりなのだろう牛乳とコップを勝手に拝借し、お菓子に喉を詰まらせかけた小さなティアに飲ませながら、ヒースは嘆息した。
ぷは、と大きく息を吐き出し、口の周りに牛乳をつけたまま、ティアがきょろきょろとあたりを見回す。
「パパ、ママ……? どこ……?」
ようやく、自分を庇護する存在がいないことに気付いたらしい。
じ、と不安げな無垢な瞳に見つめられ、ヒースは「う」とたじろいだ。正直に言っても理解はされないだろう。ということは、心苦しいが誤魔化すしかない。ごしごしとティアの口元を拭いながら、言う。
「……君のパパとママはちょっとでかけているんだ。戻ってくるまで、いい子にしていられるな?」
「ん、ん~……」
きゅ、と表情が固まる。何かを考えるような、耐えるようなそんな顔。泣かれでもしたらたまらないと、ヒースは普段あまり使わない顔の筋肉を総動員して、満面の笑みを浮かべた。
「それまで、オレが一緒にいるんじゃ駄目か?」
そんなヒースを、ティアはしばらくじっとみつめた後。
「……んーん。いいよ」
ふるふると頭をふって、小さな手を懸命に伸ばしてくる。
応えるように、ヒースがわずかに身をかがめると、きゅ、と服の胸元がつかまれる。ヒースを見上げたティアが、にこ、と笑う。
その瞬間、ぶわ、とヒースの体全体に、これまで体験したことのない感覚が満ちた。
「だっこ」
請われるがまま、ヒースは無言でティアを抱き上げた。可愛らしい歓声とともに、安心しきったように身を預けてくるティアに対して、守ってやりたいと強く思う。
これが父性愛というものだろうか、と。
子供をもったことがないというのに、ヒースはすっかり父親気分で、頬を緩ませる。そこへ容赦なく、ティアが手のひらをぺちぺちと押し付ける。
「おなまえおしえてください」
きりりとませた様子でそういうティアに、ヒースは思わず笑う。しっかりしている。
「ん、ああ、そうか。オレはヒースだ。ヒース」
言い聞かせるように、名を教えてみる。が。
「ひーしゅ」
「ヒース、だ」
「ひーしゅ」
「……」
どうやら、「す」の発音がうまくできないらしい。ひーしゅ、と繰り返しては、ティアは不思議そうな顔をしている。
「まあいい。呼びやすいいのならばそれで」
直させるということを早々に放棄し、ヒースは表情を引き締めた。いつまでも幸せ気分に浸っているわけにはいかない。
「さて、どうしたものか」
ティアを腕一本で支えながら、ヒースは思案する。
いつか戻るかもしれないという可能性を信じるにしても、ティアをこのままの格好でいさせるわけにはいかないと、ひとまず考える。では、誰に頼むか。むろん、自分などは最初から除外である。そんなものわかるわけがない。
瞳を閉じて、ぐるぐるとヒースは考える。ぐい、むに、と髪を引っ張られたり頬をつねられたりするが、我慢我慢。
脳裏をよぎったのはティアの友人たちだ。
占い師のナナイ――何をいわれるかわかったものではないし、何をされるかもわからない。ナナイに頼るのは最終手段だ。ひとまず却下。
町長の娘シルフィ――とてもじゃないが、人間の幼子の扱いはできそうにない。むしろあちらが困るだろう。しかたないので却下。
王国の王女ドロテアは――小間使いが世話に関わるだろうし、そんな無関係な者にいろいろと知られたくはない。とりあえず却下。
と、なると。
「ファナ、か」
最終的にはここしかない。ティアの幼馴染、穏やかで優しい喋り方、子供たちにぬいぐるみを贈っているという点からみても、これ以上の適任はない。多少なりとも預言書に対して理解もある。
「よし、ひとまずティアの服をどうにかせんとな」
「ふく? おでかけするの?」
「ああ、でかけるからな。おとなしくしているんだぞ」
「はぁい」
あまったブラウスの裾でくるむようにして、ティアを抱き直す。
預言書をとじようとすると、そこにあったしおりに精霊の姿が浮かび上がったのが見えた。もどったのだろうかと思いつつ、それも小脇に抱える。
そしてヒースは小さく気合をいれて、足早にティアの家をあとにした。
が、すぐにいたたまれない気分に襲われることになった。
視線が痛いのだ。
すれ違う住民たちがもれなくヒースを注視している。こそこそと井戸端会議に興じていたご婦人方が、「あれ……」「まあ……」などとやっている。
ティアの家からファナの家までは、そんなに遠くはない。だが、ファナの家はローアンの街中で、周囲には家々が立ち並び市場も近い。つまり、人の往来がある。
そんな中を、大きな男が、ぶかぶかのブラウス一枚を着た子供を抱いて歩いていれば、怪訝かつ好奇の目で見られるのは当然である。しかも、ヒースはそれなりに有名人である。
帝国に置いてきた子供をつれてきたのか、それともどこかの女に手を出したあげく子供を押し付けられたのか。
数多の視線に、ついついそんなことを噂されているのではないかと邪推してしまう。 幼児化したティアのことで頭がいっぱいだったが、なかなかどうして、こんな視線に晒されると堪える。
気持ちはわかる。気持ちはわかるが――そんな目で、オレをみないでくれ!
ヒースは自分の背に突き刺さる視線に耐えながら、なんとかたどり着いたファナの家の扉を、穏やかにノックした。
はやくでてくれ、というヒースの切羽詰った願いに応じるように、屋内から柔らかな返事があった。
「どちらさまですか?」
少女の性格をあらわすような、優しい問いかけとともに扉が開かれ――ファナが、ヒースを見上げて目を丸くした。
「ヒース将軍? それに、その子……!」
なんと説明すればよいのか逡巡しているヒースの腕の中、ティアがきょとんと目を瞬かせている。
まあ、と息を漏らしながら、ファナが口もとに白い指を添えた。
「すまない、君に頼みが――」
「ティアとの子ですか?! かわいい!」
ぱあ、と顔を輝かせたファナが、ティアに向かって手を伸ばす。
「違うっ」
ヒースは、半泣き気分で叫んだ。
ファナにまでそんなことを言われてしまったら、もうどうしたらいいのか。
焦るヒースがよほどおかしかったのか、ファナがころころと笑う。
「ふふ、冗談ですよ。わぁ、かわいい……! こんにちは、私はファナよ」
「ふぁなー? こんにちは!」
「こんにちは。お名前、なんていうのかな?」
ひょい、とヒースの腕から自分を取り上げたファナへ、ティアが目を瞬かせながら小さな手を伸ばす。ぺたぺたと不思議そうにファナの頬を触ったあと、にぱっと笑う。
「ティア!」
ファナの表情が、さすがに固まった。
「……え?」
ぎぎぎ、と視線がぎこちなくヒースに向けられる。
君が今抱いている驚愕は、さきほど自分も味わったというように、ヒースは沈痛な面持ちで重々しく頷いた。
思った以上にあっさりと、ファナは現状を受け入れてくれた。
かつてティアと預言書の力によって、奇跡の花を得、健康になったというのだから、それも当然だろう。
ちなみに、祖母にあたるヘレンは、教会にでかけているそうで、不在だった。二人の人間に、この状況を説明するにはヒースの精神は磨耗しきっていたので、すこぶるありがたかった。
人選に間違いはなかったと、出されたお茶を啜りながら、ヒースはようやく一息ついていた。
二階からは、きゃっきゃと楽しげな少女と幼女の声が聞こえてくる。
ファナの独断と趣味でいいからとお金を渡し、子供服を買いにいってもらって――今は、着せ替え人形よろしく、ティアはお着替え中である。男には入り込めない世界だ。
と。
玄関の扉が叩かれる。どうやら来客のようだ。
「すみません、お願いできますかー?」
「わかった」
二階からのファナの声に、ヒースは了承の意を返す。
ティアのことで世話になっている以上、これくらいしなければ、と玄関をあける。そこにいたのは、城の兵士だった。
「おお! ほんとうにこちらにおられましたか! 探しましたぞヒース将軍!」
ほっとした様子をみせる兵士に、ヒースは自分に用があったのだと理解した。
「よくここがわかったな」
「ええ、街の者に尋ねたところ、見知らぬ幼女を連れたヒース将軍がこちらに逃げこんだと……失礼しました、こちらを訪ねられているとの情報を得まして」
「……」
ひく、とヒースの頬が引きつったのをみたのか、兵士が慌てて言い直すが――ばっちり聞こえているぞ、この野郎。
やはり、街中で噂になってしまっているらしい。
こめかみに指をあて、ヒースは眉をしかめた。
人間にとって噂話とは酒の肴、お茶会の菓子のようなものである。なくてもいいが、あったらあったですこぶる楽しい。盛り上がる。そんなものだ。これはしばらく、おさまりそうにもない。頭痛の種がひとつ増えた。
「……で、オレに何か用件があるのだろう?」
さっさと話せと、苛立ち混じりに告げれば、兵士が背筋を正した。
「はっ! 失礼いたしました! ヴァルド皇子より伝言を預かってまいりました! 午後の鐘が鳴り次第、登城するようにとの仰せであります!」
ヒースは顎に手をあてた。休暇の身であるが、皇子からの命に逆らうことなどできようはずもない。
「わかった。必ず皇子の下に参ずるとお伝えしてくれ」
「はっ! では、失礼いたします!」
鎧の触れ合う金属音を響かせ、一礼した兵士は去っていった。
扉を閉め、立ったまま、ヒースは顎を撫でた。すぐに来いというわけではないのだから、そこまで切羽詰った案件ではないが、今日中にはヒースに知らせたい、もしくは頼みたいことがあるということだろう。
あれこれと、把握している帝国の情勢などの記憶を引っ張り出して考え込んでいるうちに、階段を下りる足音がきこえてくる。
振り向けば、ファナとティアの姿がみえた。
「すみません、ヒース将軍。どなたでしたか?」
「ああ、オレを訪ねてきた兵士だった。気にしないでくれ」
「そうですか」
自分への来客でなかったことに頷いたファナが、そっと足元にいるティアの背を押した。
「ほら、ティア」
「あい!」
ててて、と小走りに前へ出たティアは、もうブラウス一枚という格好ではなくなっていた。
水色のふんわりとしたスカートに、白いブラウス、その上にフリルのついたエプロンドレスを重ねている。白いリボンを髪につけてもらったティアに、ヒースは目を細めた。
「うむ、似合うな」
「ティア、かあいい?」
くる、とおぼつかなく回り、ヒースに期待に満ちた瞳を向けてくるさまは、ほんとうに可愛い。
「ああ、可愛いぞ」
「えへへー」
ヒースの言葉に満足したのか、きゃーと声をあげながらティアがヒースの足にしがみつく。
よしよしと髪を乱さぬように気をつけながら、その小さな頭を撫でつつ、微笑ましそうに笑っているファナへと、ヒースは視線を向けた。
「ファナ、すまんがティアのことを頼めるか?」
「なにかありましたか?」
ヒースは小さく頷いた。
「急な話で申し訳ないが、皇子からの呼び出しがかかってな、城にいかねばならなくなった」
「そうですか……。じゃあ、ティアは私と一緒にお留守番してましょうね」
ゆっくりと足にへばりついたままのティアを引き剥がし、ファナへと預ける。
「ひーしゅ、どっかいくの?」
「仕事でな、ちょっと出かけてくる。いい子にしてるんだぞ」
「しご……?」
「仕事よ。人の役にたちにいくのですって」
ティアにそう教えつつ抱っこするファナに後を託し、ヒースは城に向かうべく家の扉をあける。
「では」
「ほら、ティア、いってらっしゃーいって」
だが、ティアはその言葉をなぞろうとしない。ファナに抱かれたまま、目を見開いていく。最後にひとつその頭を撫でて、ヒースがローアンの街に歩き出して数歩もしないうちに。
「あ、や……!」
「ティア?」
戸惑うファナの声に続いて――
「やあぁぁぁ!!!」
盛大な悲鳴が、あたりに響き渡った。
「うお?!」
「きゃっ?」
ヒースとファナの驚きの声が重なる。
「やー! やー! ひーしゅ、やー! いっちゃやー!」
思わず振り返ると、じたばたとティアが力いっぱいファナの腕の中で暴れていた。
そうしながらも、去ろうとするヒースに手を伸ばしている。
甲高い声が、ファナの家の前の道いっぱいに満ちる。誰しもが、何事かと顔を向ける。この小ささで、どうやったらこんな声が出せるのか。
慌ててかけより、宥めようと手を伸ばした瞬間。
「ぱぱぁぁああ!!!」
とどめだった。一斉に、強い眼差しがヒースに突き刺さる。そのほとんどが非難がましいものである。
青ざめたヒースに、ティアが飛びつくようにして懸命にすがり付いてくるので、思わず抱く。石畳の上に落っことすわけにもいかない。
ヒースは無言のまま、盛大に泣き続けるティアと目を丸くしたファナをつれ、家の中へといったん戻った。
「まいった……」
これで完全に、ヒースの子であることは確定されたも同然だ。頭を抱えてうずくまりたいところである。
おそらく、反射的に父親に助けを求めた言葉だったのだろうが、あの現状ではヒースにいわれたものと解釈するほうが自然である。実情を知らぬものなら、そう考える。
「困りましたね……。ほら、ティア、こっちにきて一緒にお菓子たべましょう?」
「や! ひーしゅ、パパとママかえってくるまで一緒にいてくれるって、いったもん! ……う、ぅっく、……ひっく……」
「あー……」
そういえば、ティアの家で自分は確かにそう言った。とはいえ、城にこんな状態のティアを連れて行くわけにもいかない。
しかしながら、ぎゅ、とヒースにすがりついて肩に顔を埋め、小さく体を震わせているティアを引き剥がすというのは、なかなかに勇気がいる作業である。
「こうなったらしかたありません」
なんとかティアと視線をあわせようとしていたファナが顔をあげる。凛、と見据えられて、情けないことにヒースは気後れした。
「ヒース将軍、ティアを連れて行ってください」
「なにっ?!」
ヒースは顔色をかえた。今この状態で出て行けば、噂を真実として固めるようなものだ。
「あなたがそばにいれば、ティアはこんなに泣いたりしませんよ。いい子ですから」
「いや、だが、オレはこれから皇子のもとへ……!」
「ヒース将軍?」
にこ、とファナが微笑む。たおやかな笑顔なのに、強い風に倒れてしまいそうな風情なのに、有無をいわせぬ何かがある。
「こんなにティアが泣いてて、可哀想だとは思わないんですか……?」
静かな口調に滲む気迫。これが最近まで病床に臥せっていた少女が持つものだろうか。
「お、おもう……が、それと……これとは……」
だらだらとヒースは冷や汗を背に流す。この感じは、澄ました顔で自分に無理難題をふっかけてくるヴァルドのそれに、恐ろしいくらいよく似ていた。
「連れて行って、あげますよね……?」
ヒースは、かくんと頭を下げた。
「……ああ」
今日は、厄日だ。