わたしの勇者さま

AVALONCODE3周年企画作品 マリモ様よりのリクエスト

 ティアの恋人は勇者である。
 その前に『自称』がつくだろうと、彼を知る者は親しげに笑いながら、からかい混じりに口をそろえてそういうだろうけれど。
 彼の剣の腕は以前よりずっとあがっているし、柔和な笑みと優しさで、人を気遣い助けている。ローアンの治安を守るためのパトロールは欠かさないし、住民が困っていれば些細なことでも積極的に手を貸している。
 その姿を間近でみて、ティアは思うのだ。
 ともすれば無謀とされる勇ばかりを讃えられるのが勇者というわけではないはずだ、と。
 分け隔てなく慈しむ勇気を持つものもまた、勇者と讃えられてしかるべき。
 だから、ティアの恋人は勇者である。

 みんなの――勇者である。

 

 

「いってきまーす」
 誰からの応えもないけれど、ティアは出かけるとき、必ずそう言うことにしている。そうすることで気持ちを切り替えるのだ。
 少し冷たいけれど、爽やかな風が吹く中、ぱ、ぱ、とスカートとコートの裾を払い、自分の全身を見回す。そして、斜め上に浮かぶミエリを見上げ、訊ねる。
「ね、おかしなところはない?」
「だいじょうぶ! 今日もティアは可愛いよ」
 まろやかな雰囲気を纏う美しき森の精霊――ミエリが、愛らしくほがらかな笑顔で頷く。そして、握りこぶしをつくりながら、太鼓判を押してくれた。
 ありがとう、と同じように笑顔で返し、ティアは下町の道を東方面へと進み始める。
 ティアが手ずから作ったお菓子がはいった袋を落とさないように、形を崩さないように気をつけながら。
 この道をたどれば、諸国に名高い剣の使い手、東剣のグスタフが開いた道場がある。用があるのはそこに隣接した家だ。
 ふんふん、とミエリと鼻歌を重ねながら歩いていく。ほどなく目的の場所へとたどり着き、道場前にいる弟子の人たちに会釈しながら、ティアは家へ一直線。
 小さな手でドアを叩くも、反応がない。
「おかしいな……」
 いつもならすぐにあの優しい笑顔が出迎えてくれるのに。ティアの会いたい人物――すなわち、この家の主たるグスタフの息子であり、そしてティアの恋人でもあるデュランは、一体どこにいったのだろう。
 んー……、と何ともいえない声を漏らすティアの傍らに、すい、とミエリが降りてくる。
「パトロールにいったとか?」
「でも、いつもよりはやい時間だよ」
 こそこそと人には見えないミエリに応えながら、ティアは首を傾げる。
 確かに、ミエリの言うとおりあと半時もすれば、デュランがパトロールにいく時間になる。その頃合を見計らって、お菓子を焼いた。
 パトロール後に食べてもらってもよし、パトロールに同行して公園で食べてもらってもよし。そんなふうに考えてのことだった。
 だが、さっきも言ったように、まだ余裕はあったはずなのだ。
 なにかあったのかな、と僅かに不安を覚える。と。
「ティアちゃんティアちゃん!」
「はい?」
 名前を呼ばれ振り返ると、道場の弟子たちが手招きしているのがみえた。
 とてとてと近づくと、がっしりとした鍛えられた体躯で、背の高い彼等を見上げることになる。空の青さがまぶしくて、ティアは目を細めた。
「デュラン君なら、家にはいないよ」
「え、もうパトロールにいったんですか?」
 ティアの問いかけに、ひとりが手を振った。
「いや、ついさっき子供がデュラン君を呼びにきてね。なんでも助けて欲しいことがあるとかでさ。急いでここまで走ってきたみたいだったなあ」
「そうなんですか。そっか、なるほどー……」
 それなら納得だ。仲の良い子供たちに助けを求められれば、デュランが断れるわけがない。
「デュランたち、どこへいったかわかりますか?」
「公園方面じゃないかな? あそこはよく子供たちが遊んでいるし。いってみたらどうだい?」
「はい、そうします。ありがとうございます」
 弟子の一人の言葉に、にっこりと笑いながらお礼をいえば、へらっと彼らの顔が同時に緩んだ。
 その瞬間。
「いつまで休憩しているのだ! はやく稽古にもどらんかっ!!」
 雷が落ちたと錯覚するような怒声が、道場前に轟いた。
 あまりの声量と怒気に、ミエリが小さな悲鳴をあげて鞄にしまった預言書に飛び込み、ティアは肩を跳ねさせる。
 弟子たちはいっそ哀れなくらい顔を青褪めさせ、わたわたと道場へと戻っていく。
 一瞬にして、穏やかな空気を破り捨てた男――いつのまにか道場の入り口で仁王立ちしていた、ここの主たるグスタフを、ティアは首を竦めたまま見上げる。
「こ、こんにちは。グスタフ師匠」
「ふん。珍しく剣の稽古にでもきたかと思ったが……。また、あのバカ息子に会いにきたのか。飽きもせず毎日毎日よく来るものだ」
「え」
 また、といわれるくらいに自分はデュランのもとへきているだろうか。
 わずかに眉をひそめ、思い出してみる。そういえば、ほぼ毎日彼とともに過ごしている。彼に告白され、その気持ちを受け入れた二週間ほど前から、ずっと。
「あ……」
 いまさらながらに気づき、そしてそれをグスタフに指摘されたことに、ティアは頬を染めた。はっきりと言葉にされてはいないが、どれだけデュランが好きなのか、どれだけ浮かれているのかと、糾弾された気分である。
 ティアの様子を一瞥したグスタフが、きびすをかえす。
「……ふん。はやくデュランのところへいくがいい。おまえがいては弟子たちの気がそがれる」
「は、はいっ! 失礼します!」
 困っていたティアを助けてくれた彼らが責められるのはしのびない。
 背を向けているグスタフに深く一礼し、さきほどの弟子たちほどではないが、ティアも慌てて道場前から駆け出した。
 下町からローアンの中心へ向かう小路の階段をあがりきったところで、ティアはゆっくりと息を吐き出した。
「はー、びっくりした……。ごめんね、ミエリ」
 いきなりの大音響に驚き姿を隠してしまったミエリに謝りながら、ティアは街の住人たちが行き交う中へと足を踏み出す。
 露店商と値引き交渉をしている客、荷物を運搬している者、楽しげに街角で談笑している婦人たち――戦争の影がなくなり、活気づくローアンの街。
 もちろん、魔物がすべていなくなったわけではないし、滅びへの運命も変わったわけではないけれど、こうして人々の笑顔をみていると、頑張ってよかったと思う。
 そして、デュランもまた、こうした人々の笑顔のために頑張っている。
 それを少しでも、応援できたらいい。そうできたら、嬉しい。
 優しいデュランの笑顔を胸に抱いて、ティアは小さく微笑みながら、公園を目指して歩いていく。はやく、デュランに会いたくてたまらなかった。
 ほどなくして、公園へあがる階段が見えてくる。
「あ! デュラ、ン……?」
 手をあげて、名を呼ぼうとし――ティアはゆっくりと、足を止めた。そこに広がっている光景に、心臓の音が自然と速くなる。
 ようやくみつけた恋人。そのデュランが、花の中にいる。
 正確にいうならば、花と見紛うような少女たちの中心にいる。
 季節に咲き綻ぶ花の妖精のように、花びらを重ねたような美しい衣をまとい、綺麗な声で笑いさざめき、デュランの手をとり、また笑う。
 古来から、勇者は自然や妖精に愛されたという伝説が多い。その勇気を、優しさをたたえ、力を貸し与えたという物語。
 ティアの脳裏に、一瞬だけ、いつか絵本でみた挿絵が浮かび上がった。それが目の前の光景に重なる。
 同年代のティアからみても彼女たちは、可愛らしいとしかいいようがない。
 きっと、上流階級の少女たちなのだろう。何の苦労も知らず、何の不自由もなく、親の愛情をもってして大切に育てられたからこその、天真爛漫さがにじみ出ている。
「ありがとうございました、デュラン様」
「いや。とりもどせてよかったよ」
「一時はどうなることかと思いましたわ」
「そうだね。次もなにかあれば、遠慮なく僕をよんでくれてかまわないから」
「まあ! なんて頼もしい!」
 きゃあきゃあと歓声混じりに、彼女たちはデュランとの会話を楽しんでいる。
「ね、デュランは助けてくれたでしょう?」
 デュランのそば近くにいた子供が、得意げにいう。ティアもよく知っている男の子。デュランと仲がよく、ときおりパトロールにもついてくる。
 きっと彼が、デュランを呼びにきたという子供だろう。
「ええ、ありがとう。あなたも立派な勇者さまね」
 そっと頭を撫でられて、子供が照れくさそうに笑う。
 なんだか近寄りがたい雰囲気が、当事者たちを包み込んでいる。ティアの知らない事実を知っているがゆえの共有感は、それに関われなかったティアには疎外感を与えるものだった。
 少女の一人が、しずしずとデュランに歩み寄る。
「あの、ほんとうにありがとうございました。祖母の形見をなくすところでしたわ」
「気にしないで。これも勇者の務めだからね」
 心から感謝していることがわかる綺麗な声に応えて、デュランが爽やかに微笑む。
「……はい」
 うっとりと、薔薇色に染めた頬に白い指先をあてて、少女が吐息をつく。
 その熱に浮かされたような顔を、ティアはみたことがある。
 デュランのことを想っているときに、ふとみた鏡の中の自分に、とてもよく似ている。
 ちくりと心臓に肺に、針が刺されたような気がした。
 ティアは無意識のうちに、胸元を手で押さえる。だが、痛みはひかない。鋭い針先に突かれるたび、身体の奥にたまるもの。この気持ちをティアは知らない。今までに抱いたことのないそれは、心に虚ろな穴をあけていく。
 誰かをたすけられる勇者になること。
 そうデュランが望み、努力してきたからこそ、今のこの光景がある。
 だから、よかったねと一緒に喜ぶべきところであるはずなのに、そういった感情はティアの中に生まれてこない。もっと違う別の何かは、静かにどろりと這い出してきているが。
 こんなのは、知らない。
「……?」
 わけがわからなくなってきて、ゆっくりと瞳を瞬かせながら、ティアは俯く。
 息が苦しい。口を動かせばいいだけなのに、なかなか空気がはいってきてくれない。
 私、どうしたの?
 怖さに震える手を握りしめたとき。
「あ、ティアおねーちゃん!」
 ティアの存在に気づいたらしい子供が、ぱたぱたと軽い足音を連れて駆け寄ってくる。
「ねえねえきいてきいて!」
「あ、わ、わわっ……!」
 ほめて欲しいといわんばかりに纏わりつかれ、面食らうティアの手が、ぐいぐいと前に引っ張られる。
 はからずしもデュランと少女たちのまえに連れてこられたティアは、小さくなって会釈した。そういうわけではないけれど、まるで覗き見していたのをみつけられたような、ばつの悪さを覚える。
 そんなティアの複雑な心境はわからぬようで、デュランが顔を輝かせた。
「ティア!」
「こ、こんにちは……」
 デュランと少女たちを順繰りに見やりつつ、ティアはいつものような元気を添えることはできずとも、きちんと挨拶をした。
「ごきげんよう、ティア様」
「まあ、カレイラの英雄にお会いできるなんて」
「今日は、デュラン様にくわえてティア様にもお会いできるなんて、ねえ」
 うふふ、と小鳥たちが梢で囀るように、彼女たちは礼儀をふまえて、言葉を発する。ふわりと彼女たちのほうから吹く風は、花の香り。
 それだけのことなのに、自分とは全然違う生き物のように、ティアには思えた。
 ティアは、このカレイラ王国の英雄としてもてはやされ、フランネル城に自由に出入りすることも許されている。彼女たちが出たことのないような、国同士の交流の場へと参加したことだってあるし、王族とだって言葉を交わせる。
 しかしそれは、貴族や裕福な商家とは違う位置。自分にいつのまにかついていた『英雄』という特殊な立場ゆえのもの。
 ティアは彼女たちとは違う。幼い頃に両親はいなくなり、たったひとりで生きてきた。恥じるような暮らしはしていないが、余裕はなかった。
 そして今は、預言書の力を借りているとはいえ、剣に槌、飛刀、爆弾、あげくには拳で魔物を退ける。蝶よ花よと育てられた彼女たちとは、まったく異なる。
 いままで、こんなことを考えたことなんてなかったのに。
 ティアは、こみ上げてくる恥ずかしさを堪えるために、再び手を握り締める。彼女たちの、白い柔肌に包まれた穢れを知らぬ指先とは違う自分のそれを、みられたくなかった。
 ぽす、とティアの腰辺りに子供が抱きついてくる。
「ティアおねーちゃん、あのね、デュランがね、カラスからブローチを取り返してくれたんだよ!」
「ブローチ?」
「私のものですわ」
 ティアの疑問に答えるように、少女がそっと手の平の上に乗せたそれをみせてくれる。大粒の緑石を中央に据えた、年代を感じさせるが可愛いらしい凝った意匠のブローチ。複雑なカットがされたそれは、きらきらと太陽の下で輝いている。
 それを、少女はぎゅっと胸に抱く。嬉しそうに、幸せそうに。
「祖母の形見の品なのです。たまたま取り外した際に、近くに居たカラスに奪われてしまって……どうやって巣からとりもどそうかと困っていたところを、この子とデュラン様が助けてくださったのですわ」
「あはは、僕は最後に木から落っこちたから、そんなに格好いいものじゃなかったけどね」
 照れくさそうに、デュランが首に手を置きながら苦笑する。
「いいえ、そんなことありませんわ。私のために頑張ってくださった姿は、とても格好よかった……!」
「あ、ありがとう」
 さきほど以上に頬を染めた少女の賛辞に、デュランも頬を染めた。
 ずきん、とまた胸の奥が疼いた。
 デュランの目指すものに、一歩近づいたはずなのに、どうしてこんなにも胸が痛いのだろう。
 これって、もしかして。もしかして――。
 ふと思い当たる感情の名。気付いた事実に、愕然とする。
 まさか自分が、そんなことに支配されかかるようになるなんて。
 大好きな人と、恋人として結ばれて、幸せなはずなのに。
「そういえば、ティアはどうしてここに?」
「え」
 わずかに唇をかみ締めていたティアが、ぱ、と顔をあげると、いくつもの瞳がティアを注視していた。
「あ、ええと、お菓子……焼いたから、デュランにって思って。そうしたら、でかけたって聞いたから……その、」
 もご、と口ごもると一層デュランの顔が輝いた。
「追いかけてきてくれたのかい? 嬉しいな。実は、君に会いたいなって思っていたんだ。想いが通じたんだね!」
 にこ、とデュランが笑えば、先ほどとはまた違う胸の痛みがティアを苛む。頬が熱く火照る。
 これは知っている。デュランのことが好きだから、ときめいているのだ。せつなくなるほどの恋しさ。
 少女たちがデュランとティアのやりとりをみて、目を丸くしている。自分たちが恋人という特殊な関係にあることを知っている者はそう多くない。
 デュランに、柔らかな熱がこもった視線を向けていた少女が、ひどく驚いていることに気づいて、ティアはことさら顔を赤くした。
 今この場に彼女たちといることの居たたまれなさが、限界をこえる。
「じゃあ、これ……! あ、あとでよかったら食べて!」
「わ、わ! え、ちょ、ティア?!」
 さきほどまで形を崩さないようにと気をつけていたお菓子が入った紙袋をデュランに無理やり押し付け、ティアはその場から逃げ出した。
 切る風に、まだ彼女たちの花の香りがするような気がする。そんなことないはずなのに。
 このあまい匂いがしない場所へ行きたくて、ティアは夢中で走った。
 ローアンの裏町に入り、ひらりと下町へと飛び降りる。
 家の間を駆け抜けて、ティアは作りかけで放置されている橋の先端に立ち尽くす。
 息を整えるために大きく繰り返す呼吸。そうして取り込む大気の中に、花の匂いはしない。あるのは、水と緑と、わずかな埃っぽさだけ。
 ほ、と肩から力を抜いて、ティアは崩れるようにそこに座り込んだ。
「う……」
 ぺたり、腰を落ち着けた瞬間、我慢していた感情が押し上げたのか、ティアの頬を涙が叩いた。ひっく、としゃくりあげながら指先で雫を払うが、ぽろぽろとティアの意思に逆らいこぼれてくる。
 もう、いいや。
 さっきは堪えたのだから、誰もいないここでなら、気にせず泣ける。ティアは立てた膝に、顔を押し当てた。小さく身体を震わせて、流れるままに任せる。大声がでないのは幸いだ。ひっそりと泣いて、すっきりしたら、家に帰ろう。きっと涙と一緒に、嫌な気持ちも流れて消える。
 そんな希望を胸に、すん、と鼻を鳴らした瞬間。
「!」
 ふわりと花の香りがティアを背後から包んだ。
「は、はぁ……、ティア、君、ほんと足速い、ね……はは、は、僕も、もっと鍛えなきゃ、」
「デュラン……!」
 慌てて振り返った先には、肩で息をするデュランがいた。
 私を、おいかけてきてくれたの?
 唇から出したかった言葉は、また鼻腔をくすぐった香りに、喉の奥で押し留められた。
 川面を渡る風が連れて遊ぶ、花のにおい。
 一瞬にして、少女たちに囲まれていたデュランの姿を思い出す。
 またじんわりと目元に涙が浮かんだ。みられたくなくて、コートの裾を、それを吸い込ませるために押し当てる。
 顔をうずめたティアの耳に、砂利を踏みしめ、木造の橋を鳴らす硬質な足音が届く。それは、ティアの背後でぴたりと止まった。
「――ティア、どうして泣いているの?」
 様子がおかしいことに気づいているらしいデュランに、ティアは頭を振った。
 なんでもない、といわなければいけないのに、あの夢物語のような記憶が、ティアを追い詰める。
 少女たちに囲まれて、楽しそうに笑っていたデュラン。
 そんなデュランに、恋色の視線を向けていた可憐な少女。
 ティアは、彼女たちのような妖精にはなれない。デュランの物語に花を添えられない。
 震える唇で息を吐き、吸う。苦しさに眉根を寄せて、ティアは言う。
「お、お花……に、ちょっとだけ、酔った、みたい……で……あの、だいじょうぶ、だから、」
 こんなの本当のことじゃない。香りになんて酔っていない。気分が悪くなったわけでもない。ほんとうは、大丈夫なんかじゃ、ない。
 ぐす、とティアは鼻を鳴らす。
 自分は何をやっているのだろう。せっかく追いかけてきてくれたデュランに背を向け、わけのわからないことを言っている。『花』が『あの少女たち』を意味しているなんて、デュランにわかるはずがないのに。自己嫌悪に陥りそうだ。
 こつ、と靴音を鳴らしてデュランが動いた。
 気配が近づき、ティアの隣に立つのがわかる。
 だが、何も言われない。
 沈黙が怖いし、それ以上に不思議で、ティアはそろりと顔をあげた。
 いつの間にか帽子を脱いでいたデュランが、真剣な眼差しで指を伸ばしているのがみえた。飾られている、白く美しい花が引き抜かれる。
 それは、デュランが朝早くに森にいって、毎日摘んできている花。彼が大好きな花。彼の誓いが込められた大事な花。
 次の行動が予想できないティアが放心したように見上げる先で、デュランはそれを小川へと放った。
 あ、とティアが声を漏らしたところで、それを止められるわけがない。
 ひらり、清楚な姿をしたユウシャノハナが水面に落ち、素直な流れに抱かれ去っていく。
 言葉もなく、目を大きく見開いたティアが固まって動けないうちに、花はすべて下流へと消えていった。
 花のない帽子をかぶり直し、隣に座ったデュランが、ティアの顔を覗き込みながら、あたたかさの滲む笑顔を浮かべる。
「ごめんね、気づかなくて。あの香りが、体調の悪いティアには、辛かったんだね?」
 そっと、ティアの頬を心配そうに、デュランが撫でる。
「ティア、無理しないで家に帰ろう? 僕が、送っていくから」
 そうじゃない。具合なんて悪くない。身体のどこにも不調はない。違うけれど、デュランが心配してくれることが、嬉しくて。それがさらに申し訳なくて。
「~~~っ、」
 ぼろぼろと、ティアは顔を歪めて涙する。
「ちがうの、ちがう、の……! ごめん、デュラン、そうじゃないの、私が悪いの……!」
 何も知らないが故に我儘だけを言う子供のようにぐずるティアの顔に、真っ白で柔らかなハンカチが優しく触れる。涙を拭いながら、デュランはティアの言葉に耳を傾けてくれている。
 あのね、あのね、としゃくりあげながら、ティアはその優しさに応えるために、懸命に伝えようとする。
「デュランがね、勇者として頑張ったこと、わかっているのに……お、女の子たちと仲良くしてるのみて、私、勝手に寂しくなっちゃって悲しくなっちゃって――」
 ふるり、ティアは頭を振った。ぎゅ、と目を閉じる。どうか嫌わないで、と言えない願いをひた隠しに、唇をわななかせる。

「私ね――嫉妬、したの」

 デュランはどんな顔をしているのか、怖くてみられない。やさしい心の持ち主だから、ティアが傷つくようなそぶりはきっとみせはしないだろうけど、それでも、みられない。
「っふ、ふぇ……ごめん、ごめんなさいぃ~!」
 これまで知らなかった感情を吐露し、ティアは子供のように、わんわんと泣き始める。
 彼の夢をおもえば、抱くはずのないもの。抱いてはいけないもの。
 そんな感情は、みんなの勇者たろうとするデュランの気持ちを、踏みにじるものであるような気がした。
 恋を知る前なら、デュランの気持ちを与えられる前ならば、こんなことにならなかったのに。知らなかったのに。
「泣かないで、ティア」
 やわらかなハンカチに頬を撫でられて、くすぐったい。小さく鼻を鳴らしながら、ティアはされるがままに目を閉じてそれを受け入れる。
「でも……わた、私……こんな嫌な子で……デュランには……きっと、」
 ふさわしくない、といいかけた唇を、温かなものが封じる。ゆっくりと瞼を持ち上げると、人差し指でティアの言葉を抑えたデュランが、どこか幸せそうに笑っていた。
 わけがわからない。
 ぱち、と瞬きをすれば、睫毛に引っかかっていた雫が弾けた。その向こうで、デュランがゆっくりと頬を染めていく。
「そんなことないよ。ティアは嫌な子なんかじゃない」
「どうして?!」
 そんなはずがないと、くってかかるティアを宥めるように、デュランは涙を掬ってくれる。
「だって、君は彼女たちを傷つけることを言っていない。それに僕は、嬉しいから」
「なんで?!」
 ぎゅ、とデュランの上着に、ティアは指をかけて握り締めた。
「それだけティアが、僕にそばに居て欲しいって思ってくれてるってことだからさ」
 爽やかな笑顔でそう言われても、ティアは納得できない。
「……」
 ひぐ、とティアは口をへの字に曲げた。
「だ、だからっ、そ、それがぁぁ~……みんなの勇者になりたいデュランには……!」
 誰かのために尽くすことを望む彼を独り占めして、がんじがらめにしようなんて、そんなのいけないことだ。
 そう訴えるティアに、あれ? と、デュランが首を傾げた。他愛ない失敗を愛嬌で誤魔化すように、デュランが眉を下げた。
「いってなかったかな……? 勇者は勇者でも、僕が目指すものはちょっと変わったんだ」
「どういう、こと?」
 人々の期待に応え、その力をいかんなく発揮する者のことを、勇者と呼ぶのではないのだろうか。違う勇者があるのだろうか。
 デュランが、目を細める。ティアの頬を撫で、幼さが残る少年の顔に、大人っぽい微笑みをのせて、言う。
「ティアの勇者になりたいってこと」
「……わたしの、勇者さま……?」
「うん」
 どこか呆然としながら繰り返すティアに、間違いないとデュランは頷く。
「預言書に選ばれたティアの隣に立っていても、おかしくない勇者になる」
 決意の光が、優しい瞳の奥に消えぬ灯火として煌いているようにみえて、ティアは見惚れた。
 ほう、とため息をついたところで、はっと我に返る。小さく頭を振り、俯きながら言う。
「わ、私なんて、そんなふうにいってもらえるような人間じゃないよ……!」
「そんなことないよ。ティアは、カレイラの英雄じゃないか」
 くすくすと、デュランが軽い口調でからかってくる。
 そういわれればそうだけれど、それは決してティア自身が望んだことではない。知ってるくせに。
「も、もう!」
「ふふ、ごめん。でも、ほんとうのことだから。君は、すごい女の子なんだ。僕の目標だよ」
 心酔しきったような顔をして、うっとりとそんなことを言うデュランを、ティアは上目遣いにみつめる。
「でも……デュランは、それでいいの?」
 今まで、ローアンの人たちのために、と頑張ってきていたのに。たった一人のための勇者になったりして、いいのだろうか。
 そんなティアの考えを杞憂だというように、なんのかげりもない顔で、デュランが力強く頷いた。
「もちろん」
 優しく優しく頬を撫でられて、ティアは背を震わせる。
「だってティアは、いつも誰かのために頑張っているじゃないか。勇者と英雄と、付けられた名前は違うけど、僕たちのやっていること、やろうとしていることは、同じだよ」
 物語の勇者に励まされる人とは、きっとこんな気持ちなのだろう。ぽかぽかと陽だまりに降り注ぐ光のような、恋しい人の言葉を、ティアはその胸に積み重ねていく。
「だから、そんな君だけの勇者になれるように努力したなら、きっと僕は誰にだって手を差し伸べられる、ほんとうの勇者になっているはずだ」
 凛々しいデュランをみつめられながら、ティアはゆっくりと瞳を閉じていく。
「いつかティアに追いついてみせるから、目指すその先を君はそのまま歩いていて」
 ティアの小さな耳朶を擽り、鼓膜を甘く震わせる音に聞き入る。
「ふさわしいとか、ふさわしくないとかじゃなくて、お互いに胸を張って隣あれるように――そんな勇者に、僕は、なりたいんだ」
 うん、とティアは素直に頷く。そして、ぱちりと視界をあけて、そこに広がる笑顔に負けぬよう、笑った。
 だって、その言葉を無条件に信じられる。それくらい、デュランの顔は晴れやかで、決意に満ちていた。その輝きが、眩しくて格好いい。
 ティアの脳裏に、未来の自分たちのことが、ふいによぎった。
 次の世界が、預言書に従い産まれたならば、世界の創造主たるものを守る勇者の伝説もまた、生まれるのかもしれない。そんな、思いつきでもあり、未来予知に近い確信に、胸をくすぐられながら、ティアはデュランの額に、自分のそれを額をあわせた。
 一瞬だけ、肩を震わせて戸惑ったデュランだったが、すぐに自ら擦り合わせてくれる。
「待っていてとはいわないよ。僕は必ず、君に追いつくからね」
「……うん!」
 ぎゅ、とティアはデュランの首に腕をまわし、力いっぱい抱きしめる。
「わ、わ、ティア……!」
 さすがに慌てるデュランを逃がさないように、もっと腕に力を込める。
 照れているのか、動揺しきりのデュランが、とってもとっても愛おしい。
 濡れていて申し訳ないけれど、頬をぎゅっとくっつけた。

「大好き――私の勇者さま」

 妙な声をあげていたデュランの動きが、ぴたりと止まり。
 ぐ、と力強く抱きしめ返されて、ティアは小さな胸から空気をすべて吐き出す羽目になった。
 苦しいけれど、心地よい。懸命に大気を食み、大きな声を出すべく口を開く。
「私、やっぱりデュランがだーいすき!」
 相手の気持ちがききたいと思って伝えた気持ちではなかったが、デュランはちゃんとくみ取ってくれたらしい。
 わずかにティアを離し、真剣な顔――もちろん、夕焼けの空のような真っ赤さ――で、視線を重ねてくれる。
「僕だってティアが一番、大好きだから!」
 今まさに、教えてもらった彼の愛にすっぽり包まれた気分で、ティアは頬を染めた。
 えへへ、と互いに照れくさく笑いあい、そしてまた、きつく抱きしめあう。
 好きな人の体温が心地よい。自分が、この場所以外に寄り添うところはない。ティアが、うっとりと目を細めた瞬間。
「いい加減にしろ、おまえら! そういうことは帰ってからやりやがれ! オレの家の近くでするんじゃねえ!」
「「!」」
 いちゃいちゃしている二人に我慢できなくなったのか、共通の友人であるレクスが、苦虫を噛み潰したような顔をして、家から飛び出してきた。
「ごめん、レクス!」
「ごめん~!」
 憤懣やるかたないレクスの表情に、謝罪しながら文字通り飛び上った二人は、わたわたとその場から逃げだす。
 そんな中、するりとデュランが手をとってくれる。
 ティアが驚いて視線を送ると、帽子が飛ばないよう片手で押えたデュランが、笑っていた。
 その姿が格好よくて、どきどきして。こみ上げるたまらない恋しさに、ティアはまた泣きそうになりながら、その手を強く握り返す。
 そして、道を駆けていく。
 高く青い空にどこまでも響けと、楽しい笑い声を重ねながら。