「……」
「……」
じっとりとした空気が、沈黙した二人の間に満ちている。
さほど大きくはないが、いつも温かい雰囲気であるはずの家は、今は真逆の重苦しさである。
その原因は、むすっと頬を膨らませた少女と、その向かいに座る困り果てた男だ。
互いに視線をわずかにずらす事もなく、真正面から向き合い続けて、小一時間はたっただろうか。
先に痺れを切らしたのは、男のほうだった。
「なあ、ティア。一体どうしたというんだ。なにもいわなければ、わかるはずもない」
「……」
ぷい、とティアが横を向く。拒絶された。しかし、その目が心なしか潤んでいる事に気付いて、ヒースは息を零した。
本当にどうしたのだろう。まったくもってわからない。
すでに夜も深けた。あと半時ほどで、日付が変わる。いつもなら、もう共に床についている時刻だというのに。
つらつらと、今日一日のことを思い出してみる。
朝からティアはやけにそわそわしていた。なにか用事でもあるのだろうかと思いつつ、ヒースはいつもの通りヴァルド皇子のもとに参じたので、その後のことは知らない。
夕食までには帰るつもりだったのが、本国からの書類の処理に手間取り、帰宅が随分と遅くなってしまったことが、今日最大の予想外な出来事だったくらいで。
そうして、そっと帰ってきた家の中、もう寝ているかと思ったティアは、これまた予想に反して起きていた。
ただいまと声をかけたものの、反応はなく。ただ、じっと椅子に座って膝のうえで小さな手を握る姿に、なにかあったのだと、察することまではできたのだが……。
しかし、いくら何を聞いても、ティアは真一文字に結んだ唇を解く事はない。
らちがあかない。ヒースは、ほとほと困り果てた。
こうなったら。
ヒースは、椅子を引いて立ち上がると、ずかずかとティアに近づいた。
びくりと体を震わせ、目を見開き、顔を上げたティアに、ぐいと顔を近づける。
「いい加減にしろ。ちょっとこい」
そう短くいって、ティアの脇に手を差し込み、ひょいと持ち上げる。
実力行使である。
「きゃ、きゃあっ! やだやだ、おろしてっ!」
そのまま扉に向かうと、一瞬だけぽかんとしたティアが、ばたばたと暴れだした。
「断る」
きっぱりとそう言い切って、ヒースはティアを抱えたまま家を出る。
さあっと夜空から吹き付ける風は、煮詰まった思考と二人の嫌な気配を、どこか遠くへ連れ去ってくれるようだった。
ぶるりと震えたティアをきつく抱きしめて、ヒースは自分の体で扉を閉めた。
そのまま、扉に背を預けて腰を下ろしていく。ティアを己の膝の上に座らせて、後ろから抱きかかえた。
「ティア、ほら顔をあげろ」
しばらくは顔を伏せたままのティアであったが、やがてのろのろと動き出す。
身を捻り、こちらを覗き込んでくるティアへ、上をみろと小声で告げる。
素直にいうことをきいたティアの、その身の空気が一変した。
「わ、あ……すごい……! 星が、たくさん……!」
どうやら、場所を変えるというヒースの判断は、間違ってなかったようだ。
「今日は新月だからな、よくみえるだろう」
街中と違い、街灯もほとんどない下町に、あえかな光の競演に水をさすものはほとんどない。カーテン越しに家からもれるランプの明かりくらいなものだが、たいしたものではない。
上質のビロードに、宝石を無秩序にばら撒いたような夜空を、二人で眺める。
あえかに、静かに。だが確かに輝く星たちの光が、冷静さを呼び起こす。それはティアにも同じ効果をもたらしたのか、暴れることなくヒースの腕の中におさまっている。
しばしその光景を無言で眺め、星がひとつふたつ流れ落ちた後。
ヒースは、ティアの小さな肩口に顎を乗せた。
「……で、今日は何があったんだ?」
改めて尋ねる。きゅ、と己の腕にかけられたティアの指先に、力がこもるのがわかる。
「……だって……」
「だって?」
気長に、優しく、答えを待つ。じっとしていたティアが、幾度も躊躇うのがわかる。
「だって……今日、私の……」
「私の?」
がば、とティアが顔をあげ、ヒースを必死な様子で見上げてくる。その勢いに目を大きく開くと、ティアの顔が、家からのわずかな光に照らされて泣きそうに歪んだ。
「私の、誕生日……だったのに……! ヒースさん、帰ってくるの、お、遅いし……! 何も言ってくれないし! だから……!」
ヒースは限界まで目を見開いた。
そして。
「君の誕生日……今日、だったのか?」
喉の奥から搾り出すようにそう零せば、きょとんとティアが目を瞬いた。
「あれ……?」
ヒースは初めて知ったその事実に驚き、ティアはその事実を初めて知ったヒースに驚いている。
かあっとティアが頬を染める。大きな瞳が彷徨う。自分の頬に指先を添えてティアが俯いた。
「あ、わ、私っ……、ヒースさんにいったこと、ありませんでしたっけ……!?」
「いや……。もし聞いていたなら、オレが忘れることなんてありえん」
君のことならば。
そう小さくつけたせば、赤かったティアの顔が、一気に青ざめた。
「や、やだ、私……! てっきり、いったことあるって思ってたから……!」
つまり、お祝いの言葉のひとつもくれなかったヒースに対して、ティアは腹を立てていたということなのだろう。
実際のところ、それを知らなかったヒースがなにかできるわけでもないので、これは完全なティアの早とちりの勘違いだ。
そう気付いたティアが、さきほどとは別の意味で泣きそうになっている。
「……は、はははっ! 君は、おもしろいな」
「あぅ……」
堪えられず笑い出したヒースに対し、もうどうしたらいいのかわからなくなったらしいティアが、その胸に顔を押し付けてくる。みないでほしいということか。
「いや、オレも悪かった。全然気付いていなかったし、そもそも訊いたことすらなかった、というのが問題だな」
恋人同士であるならば、それくらい把握していて当然だ。
だが、ヒースはティアとともに生きていけるという事実だけで、すっかり舞い上がり満足しきっていた。女の子とは、こうしたことを大事にするものだと、忘れてしまっていた。
恥ずかしさで体温のあがっていくティアを愛しく思いながら、ヒースはティアの髪ごしに口付けを落とす。
こんな可愛らしい生き物が、この世の中にいて、しかも自分の腕の中にいることが、たまらなく嬉しい。
「一日遅れになってしまってすまんが……明日、二人で出かけるか」
「!」
それまで縋り付いていたヒースの胸から、一瞬にして顔をあげたティアの期待に満ちたまなざしに、またしても噴出しそうになるのを堪え、その瞳を覗き込む。
「君に、何か贈らせてくれ。何がいい?」
ぷるぷるとティアが頭を振る。その必死な様子に、ヒースは首をかしげた。
「いえ、いいえ! あ、あの、私と一日一緒にいてくれれば……! それで!」
どこにいかずともいい。
ただ、その存在を傍らに置いていて欲しい。
無欲すぎるそんな言葉に、そういえばここ最近は忙しくて、一緒にいるということがあまりできていなかったな、と思う。
ヒースとて、ティアのそばにずっといられたらいいと、願っているのに。
愛くるしい恋人に、ヒースは笑いかける。
「わかった。じゃあ、久しぶりに二人でのんびりとするか」
言葉の届く場所にいるように、手の届く場所にいるように、すぐに抱きしめあえる場所にいるように。
「……はい!」
ヒースの言葉に、ティアが微笑む。
他愛のない、けれど尊い約束を交わし、二人抱きしめあう。
綺羅と輝く星たち瞬く空の下、それだけで、とてつもなく幸せだった。
ああ、だけれど。ちゃんと伝えなければ。
ヒースは、そっとティアの瞳を覗き込む。
「ティア」
「はい、なんですか?」
まだ何かあるのかと、帰宅したときとは全く違う、いきいきとした表情のティアが顔をあげ、首を傾げる。
泣きたくなるような、ほっと心が安堵するような、そんな感情を持て余しながら、ヒースは眉を下げて笑った。
「誕生日おめでとう、ティア。君が、生まれてきてくれて――よかった。ほんとうに、よかった」
それは、ヒースにとって、この世界で起きた最高の奇跡だ。
ティアが、みるみるうちに泣きそうになっていく。だがそれは、嬉しさに満ちている。
何か言おうとして、それでいて、何も言えそうにないティアへ。
ヒースはもう一度笑いながら、そっと唇を寄せた。
星がまたひとつ、空を流れた。