今のティアの心境を、わかりやすくあらわすならばこれ。
嵐。
曇天の空を風が駆け巡り、大粒の雨が大地を叩き、天と地の狭間に轟く稲妻、木も家も根こそぎ吹き飛ばす――そんな大嵐。
そんな心の風景を顔には出さず、というより出せないまま、ティアは立ち尽くす。
にわかには信じられないものを目撃したせいか、微動だにできず、それを眺めた。
フランネル城の中庭からみえる、城内の廊下。そこでヒースが、誰かと語らっている。
それがたとえば、ヴァルドであったなら、すぐにでも駆け寄って挨拶しただろう。
それがたとえば、帝国の兵士であったなら、仕事の邪魔をしないよう背を向けただろう。
だが、そうではなかった。
ヒースは、とても美しい人と一緒だった。
ティアの記憶に、その姿はない。一度見たら、忘れることはないだろうくらいの人だ。
楽しげに笑い、ここからは聴こえないが何か言葉を紡ぐその女性は、すらりと背が高い。肩の上で切りそろえられた金の髪が、開け放たれた窓からの風に、たおやかに揺れる。
だが、身に纏っているものはドレスなどではなく、軍服だ。きっちりと着こなし、凛とした引き締まった印象を受けるが、決して威圧的ではない。
軍服は、カレイラ王国との国境先の砦に留まっている軍のそれとも、フランネル城で皇子やヒースの部下としてみかけるそれとも違う意匠。やや装飾的見えるのは、身に纏う人物の華やかさの影響だろうか。
そういえば、とティアは記憶を手繰り寄せる。帝国軍は東西南北に配置されており、それぞれに特色があるときいたことがある。ヒースと親しくしているということから、カレイラ王国と接する南部軍ではない、別の軍の人、なのかもしれない。
いつもなら、またあとでと思うところだし、もし声をかけられるようであれば、ヒースのもとへ向かっただろう。
だが、二人の間にある親密そうな、それでいてどこか緊張感もある不思議な空気が、それを許してはくれない。
ぼうっとしているうちに、するり、と長い女の指先がヒースの傷跡を辿り、艶やかに微笑む。そんなことをされても、ヒースは苦笑するだけだ。
そうして視線を交わしながら会話する二人は、なんというか――とっても、お似合いだった。
ヒースは女性に好意を寄せられやすい。格好いいし、頼りになるし、素敵だし、優しいし、ティアはそれをよくわかっている。
だけれど、あんなにも傍近くに女性が立ち入ることに、ヒースはあまりいい顔はしない。騎士として女性に対する振る舞いは心得ているから、無碍に扱うことはしないが、かといって必要以上に距離を詰めることはない。
なのに。
あんなにも簡単に自身に触れさせ、砕けた表情をみせるなんて。
ぎゅ、とティアは手を握り締める。
次の瞬間、湧き上がったのは、怒りやら悲しみやら寂しさやら、あらゆる忌避すべき感情がひとまとめにこねられてマーブル模様を描く『嫉妬』。
異性に対して初めて抱いた恋心。それが、楽しく幸せなものばかりをもたらすわけではないことを、ティアは思い知った。
問い詰めたい。
その人とはどういう関係なの、この人のことどう思っているの、と。
だけれどそれはあまりにも子供じみていないだろうか。
ヒースと彼女がただならぬ関係にみえたところで、それはあくまで『ティアには、そうみえる』というだけのことだ。
帝国軍のことはよくわからないし、あまり教えてもらったこともない。もしかしたら、軍内で普通に親しい間柄というだけなのかもしれない。
すう、はあ、とティアは呼吸を整える。
嫌な鼓動で胸を叩く心臓をおさえながら、唇を引き結ぶ。
大丈夫、大丈夫――ヒースさんは、そんな男の人じゃ、ないんだから。
うん、とティアは自分自身に言い聞かせ、お仕事の邪魔にならないようにと、その場から静かに立ち去る。
彼らから遠のく一歩一歩は、ひどく重く、冷たかった。
「……」
家のテーブルに突っ伏しながら、ティアはぷらぷらと足を動かしていた。
暇というか手持ち無沙汰というか――とにかく、いつもと違っていて調子がおかしい。
ほんとうなら、もうヒースは帰ってきていて、一緒にご飯を食べている時刻だ。当の昔に過ぎた日常は、ティアのお腹の減り具合が教えてくれる。
「もう、先にご飯食べちゃうよ……」
ティアは本気でそんなことするつもりはないけれど、そう言葉にしつつ唇を尖らせた。
今日はいいお肉が手に入ったから、一緒に焼いて食べるつもりだ。つけあわせやその他の料理と違って、肉は温めなおすと硬くなるから、できるなら一緒に食べたい。
いや、料理のことだけじゃなくて、他愛のない話をしながら、食事をしたい。誰でもない、大好きなヒースと、穏やかな時間を過ごしたい。
「食べればいいじゃねーか」
「もー、レンポってば乙女心がわかんないんだから」
「そんなもんわかるわけねーだろ」
共に帰りを待っていてくれるレンポとミエリがそんなやりとりをする横で、ティアはせつない溜息をつく。
「ヒースさん、遅くなるなんて、言ってなかったのに……」
こてん、と頭をテーブルに押し付けながら、ヒースを弱弱しく責める。
今朝方、いってらっしゃいの挨拶をしたら、小さなキスを贈ってくれて出かけていったヒースは、なにも言っていなかった。
何かありそうなら、そのとき必ず一言あるはずだ。会議や、会食、ヴァルドの護衛など、ことあるごとにティアの手間を省くと同時に、心配しないようにと教えてくれるのに。
「おいティア」
「?」
すぐ近くでレンポの声がして、ティアは顔をわずかに横に向ける。
テーブルの上に立ったレンポが、腰に手を当てて言う。
「腹減ってるんだろ? 先に食べちまえよ。何もあいつを待ってる必要なんかねぇだろうが。ったく、ひもじそうな顔しやがって」
怒っているような内容の言葉だが、語気はとても優しい。小さな手が伸びてきて、ティアの額を撫でてくる。
心配してくれてるとわかったティアは、くすぐったくなって笑う。
レンポの隣へと、ふわりと降り立ったミエリも、顎に長い指先を押し当てて言う。
「うーん、そうだよね。ね、私たちじゃ、あの人のかわりにならないかもしれないけど、一緒にご飯食べよう?」
二人のいうとおりかもしれない。きゅるきゅると鳴っていたお腹も、元気がなくなってきた。お腹が空いた、を通り越しつつある。
「ふふっ……ありがと。レンポ、ミエリ」
笑いながらお礼をいって、ティアはだらしなくテーブルに預けていた上半身を起こす。
せっかくヒースが帰ってきても、元気のない顔で出迎えるのもいやだ。
スープだけでも先にいただこう、と椅子から立ち上がる。
と。
何の前触れもなく、外へと続く扉が開いた。
そうして夜の闇を引きずるようにして、風とともに室内へとはいってきた大きな人影に、ティアは顔を輝かせた。
鬱々として澱んでいた空気が、一変する。この人がいるだけで、見慣れた家さえも素敵な世界にみえてくる。鮮やかになる。
「ヒースさんっ、おかえりなさい!」
ぱたぱたと子供のように軽い足音を響かせて近寄る。
「よかったね、ティア」
うふふ、と自分のことのように喜んでくれるミエリに頷いて返し、ティアはヒースに飛びついた。
なんなく受け止めてくれたヒースが、わずかに背をかがめてティアを覗き込んでくる。
申し訳なさそうに下がる眉に、ティアがちょっぴりの疑問を抱いたとき。
「ああ、ティア。すまんが、これからすぐまた出かける」
浮き上がっていた気持ちが、急激にしぼんで落ちてはじめた。それはティアの心の底に、ぶざまな音を立てて這いつくばる。
「……え?」
ティアの唇から、いいかけていたものすべてを押しのけて零れた言葉が、合図となる。
弾かれたような勢いでティアは背伸びをしてヒースに迫る。その厚い胸に手をついて、必死に高い位置にあるヒースの顔を見上げる。
「ど、どこにいくんですか?!」
あまりの剣幕に驚いたように固まったヒースだったが、それも一瞬のこと。
「昔馴染みがカレイラに来ていてな。飲みにいくことになってしまったんだ」
すぐに親しみの滲む笑顔で、そんなことをいう。どうやら、それだけ伝えに帰ってきたらしい。
「!」
瞬間、ティアの脳裏を駆け巡ったのは昼間の光景だ。
金の髪、紫の瞳の麗人。
あのとき生まれた感情と同じものが、じわりと心の端を侵食し始める。目の前が真っ暗になっていく。
「や……、だめ、です!」
引き攣る声を絞り出し、ティアはヒースの腕を掴む。そうしなければ、ぺたりと座り込んでしまいそうだった。
いやいや、と頭を振ると、ヒースが驚いた顔をする。
「ティア?」
どうした、と優しく訊ねてくるヒースの胸へとティアは縋る。
「いっちゃ、やだ……!」
全身でここにいてと訴えれば、いきなりそんなことを言われたヒースの困惑が、抱きついた身体から伝わってくる。
そっと頭から背を、流れるように何度も撫でられて、ティアはそろりと顔をあげた。
「――なにかあったか? 大事な話でもあるのか?」
気遣う青灰色の優しい瞳に、ティアはくちごもる。
訊ねてもいいのだろうか。
あの女性は誰なのか、いまからあの人とお酒を飲みにいくのか、どういう関係なのか――あの人のことが、好きなのか。
ふるり、全身が震える。ティアは、自分の中に浮かんでは消える問いに怯えた。
望む意外の言葉がヒースから返されると思うだけで、心臓が見えない手に潰されるように痛む。
「……ないです、けど……でも、」
でも、でも、としかいえないティアの顔を、影が覆う。あ、と思う間もなく熱く柔らかなものが唇を塞ぐ。
「ん、……っ、」
ヒースから教え込まれたとおり、キスを受けたティアは、反射的に瞳を閉じる。
逞しい腕を捕らえていたティアの手が緩むと、大きな手が包み込んでくる。指が絡めとられると同時に、ティアの小さな舌もヒースのそれに捕らえられる。
心地よく感じる部分を巧みにつつき、撫で啜られて、ティアの全身が、ゆっくりと緩んでいく。
好き、と泡のように胸に浮かぶ気持ちは、ティアの意識をどこか遠いところへ連れて行く。天にも昇るとは、まさにこういうことをいうのだろう。
そっと、夢見心地のティアを引き剥がし、ちゅ、とヒースが頬に口づけを落とす。それは、朝のいってきますの儀式と同じで、馴染み深いものだった。
「すまない。帰ってきたらちゃんと君の話をきこう。では、いってくる」
そういって、ヒースが身を翻す。
ぽーっと、深く甘い口づけに酔いしれていたティアが、はっと我を取り戻したとき、すでに扉はしまっていた。当然、ヒースの姿は影も形もない。
おいていかれた。
それを理解したとき、わなわなと、ティアは震えた。
ひ、ひ、とその名を呼びたいのか、ただ喉が引き攣っているのかわからぬ声を漏らして、ティアはぐっと下を向き――
「――ばかぁぁぁ!」
そして、天井に向かって叫びあげるようにして、この場から姿をくらましたヒースを、ティアは精一杯に罵倒した。
あーあー、というレンポとミエリの呆れたような困ったような二重奏を聞きながら、ぐすん、とティアは鼻を鳴らす。
ひどいひどい! いかないでって、いったのに!
うううう、と唇を噛み締め、涙を堪えていたティアの中で、ぷつんと何かが切れた。
「もうヒースさんなんか知らないんだから! ご飯食べよう、レンポ、ミエリ!」
足音荒く炊事場に向かうティアをみて、レンポとミエリが肩を落とした。
そして、ティアが二人分の夕食をヤケ食いしたその夜――ヒースは、帰ってこなかった。
「大丈夫ですか? ティア」
「うん、だいじょぶ……」
「……」
心配そうなウルの声に、半ばまで座った瞳で応えつつ、ティアがふらふらと歩いていけば、その後ろを心配そうにネアキが追う。
結局、朝まで待ち続けたというのに、ヒースは帰ってこなかった。なんたることか!
おかげさまで、目の下に隈ができてしまった。おまけに食べすぎで、ちょっと消化不良気味というありさま。
ちなみに、最後まで付き合ってくれたレンポとミエリは預言書の中で休んでもらっている。交代するように、今はウルとネアキがついてきてくれている。
溜息をつきつつ、疲労と不安を抱えつつ。ティアは、よろよろとまだ人もすくない早朝のローアンの街を抜け、フランネル城へと向かう。
家に帰ってこなくとも、仕事熱心なヒースなら、城に直接あがるだろうという考えである。
ティアの家にヒースが住むようになってからはあまり使われていないが、執務室の隣には寝室もあるし、小間使いに言えばたいていのものは用意してもらえる。ヒースがそこにいたってなんら不思議はない。
もしかしたら、街の中にある宿屋にいったかもしれないけれど――それは、あまり考えたくない。
誰と、なんて想像しはじめたら、悲しくてその場で蹲ってしまいそうだ。
こうなったら、ヒースさん捕まえてぜんぶきくんだから!
弱っている身体を、その決意を鞭にして奮い立たせ、ティアはゆく。
門番である兵士に挨拶をし、誰に咎められることもなく城内を進む。
もう、足が覚えてしまった道筋だ。忍び寄る睡魔に身体を引きずられるような感覚に抗い、それでも目的の場所にたどりつく。
ティアは、深呼吸をする。
気持ちを落ち着けて、小さな拳で扉を叩く。二度、三度。
だが、さっぱり反応がない。
ぺたりと、はしたなくも扉に耳を押し当てて中の様子を伺うが、声はなし。人の気配もないようだ。
どうやら、ヒースはいないらしい。ティアの細い両肩に、どっと疲れが押し寄せる。
ここでないというのなら、ほんとうに街の宿にでもいるのだろうか。
嫌な想像に押しつぶされそうになりながら、ティアは力なく回れ右をし、きた道をもどっていく。
「ヒースさん、どこいっちゃったんだろ……」
涙目で歩くティアの横へ、すい、とウルが近寄ってくる。
「あの御仁なら心配せずとも、帰ってくると思いますが。大体、そのあたりで眠っていても、風邪などもひきそうにない方ではありませんか」
「……ウル。そういうことじゃ、ない」
「違いましたか? 繊細なティアと違って、いろいろと健康そうな人間だと思っていたのですが」
帰ってこなかったヒースの身を単純に案じていると思っているらしいウルに、ネアキが頭を振る。
昨晩、何を見たのかどう思ったのかを洗いざらいぶちまけるように語ったミエリから、ネアキはいろいろと聞いたのだろう。
レンポもその場にいたはずだが、彼がウルにティアの恋愛ごとに関するものを喋るとは思えないので、ウルはいまいち事情を把握していないに違いなかった。不思議そうに首を捻っているのがその証拠だ。
「心配は心配なんだけど、ヒースさんの身体とかのことじゃなくてね……あ、それもちょっとはあるけど……なんていうか……」
知識ばかりを頭に詰め込んでいる精霊であるウルに、どうやったら人間の恋愛感情の機微を伝えられるのか。いまいちその方法が思いつかない。
はあああ、と溜息をつきながら廊下の角を曲がる。
と。
「ティア、あそこにおられるのがそうでは?」
はい? と思いながらウルをみれば、ほらあそこ、といわんばかりに手袋に包まれた手が彼方を指し示した。
そちらへと顔を向けたティアは、あ、と声を漏らした。
国内外からの来客用である貴賓室から、ふらりとした様子でヒースがでてくるところがみえた。
「ヒースさん……!」
ぱあ、と顔を輝かせて駆け寄ろうとする。が。
続いて出てきた人物にティアは目を見開く。
それはあの、綺麗な人だった。
挨拶がてら手をあげて去ろうとするヒースを引きとめ、その人が腕を伸ばす。
まるで新妻が夫を送り出すように、少し乱れたヒースの衣服を直しながら、その花のかんばせを綻ばせて笑う。
ヒースもまんざらでもないというか、その人に好きにさせながら、頷いている。
決定的な、光景だ。
「ティア……」
どうやらまずい場面に出くわしたことを理解したらしいネアキが、何の罪もないウルを睨みつけて押しのけつつ、ティアの傍へと身を寄せる。
だがいまは、その気遣いに応える余裕はない。
ヒースが帝国にいた頃、恋人やいい仲の女がいなかったとは限らない。それに、ティアは別にそれでもいいと思っていた。君だけだという言葉を信じていたから。
でもそれは、ヒースの身近に女の影を感じることがないから、何も知らないからこそ、そう思えていたのだ。
こうして初めて現実を突きつけられて、ティアの心は不安と恐怖に心のすべてを塗りつぶされそうだ。
ティアが青褪めた顔で震える手を握り締めているとも知らず、ヒースと麗しい人はまだ何か話している。
もうみていられない。
ティアは涙目できびすをかえし、走り出した。
「待ってください、ティア!」
「ティア……! あぶない、から……!」
ウルとネアキの声を振り切って、ティアは駆けていく。
しかし、涙のせいで視界不良。あげくに寝不足でふらふら。ティアの細い足は、いともたやすくもつれる。
「えうっ!」
結果として、べしゃり、と転んだティアは、赤くふかふかの絨毯に顔を埋めるはめになった。
「だ、大丈夫ですか、ティア?!」
「ティア!」
いつも冷静なウルとネアキが、慌てふためいて、倒れたティアに声をかけてくる。
力の入らない身体。言葉に表しようのない感情。ううう、とティアは身体も起こさず、呻いた。
情けない。恥ずかしい。
一体全体なんのか。昨日からいいことなんてなにもない。ヒースは見知らぬ美人と仲良くしていて、おまけにその人物の部屋から朝帰り。それをこの目で目撃するとか、神様なんてこの世界にいやしないに違いない。
ひぐ、と涙が零れないように、せめてもの意地で堪えていると。
「おはよう、ティア。そんなところにいると踏まれてしまうよ」
涼やかな声が、降ってきた。
のろのろと顔をあげると、すでに完璧に身支度を整えた一国の皇子たるにふさわしい輝きを放つヴァルドがいた。
いつの間に。
転んだところをみられたのだろうか。
「……皇子」
呆然とそれだけを口にする。
言いたいことがたくさんある。聞いて欲しいことがいっぱいある。でも、それが多すぎるせいか、ティアの小さな口の中で押し合いへし合い繰り返し、どれひとつとして形にならない。
「で、これはなんの遊びをしているのかな? 楽しいのかい?」
ティアの傍らにヴァルドが方膝をつく。本来なら、高貴な身分であるヴァルドがするべきことではない。
でも、自分のためにそうしてくれることが、嬉しい。たとえ、からかうような色を含んだ瞳を向けられていても。
「た、たのしく……ないですぅぅ~!」
貯水池が決壊したように、ティアはぼろぼろと涙を零しながら、そう叫ぶ。
そんなティアに、すっと差し伸べられる手がある。
絨毯を握り締めていた手を、ティアはそこへと重ねた。優しく握られて、その穏やかな温かさにまた涙がこみあげる。
「そう。では、立ちたまえ。なにがあったかは知らないが、おいしいお茶でも飲んでいくといい。朝食がまだなら瑞々しい果物でも用意させよう――君は元気に、笑っているべき人なのだから」
「ふ、う……おうじ、おうじぃー!」
びええええ、と子供のように勢いよく泣きはじめたティアの頭を、よしよしとヴァルドが撫でる。
ウルとネアキにもなでられて、ティアはますます泣いた。
珍しい。
起きぬけのぼんやりとした頭で、ティアはそんなことを思った。
自分の家ではありえないふかふかの寝台に横たわったまま、部屋にただひとつの出入り口を眺める。
そこには、肩を上下に揺すり、汗だくになったヒースがいる。
いつも、彼の姿を一目見たなら、胸の中に花がいくつも咲くような、高揚した気分になるのだが、今回ばかりは違った。
むか。
むかむか。
どうやらたっぷりの睡眠をとったとはいえ、まだまだ腹の虫がおさまることはないらしい。
ティアは、ぶすっと頬を膨らませて、ヒースを厳しい視線で一瞥したあと、もぞもぞとシーツと毛布の狭間へと戻った。布一枚程度の抵抗であるが、立てこもりの気分である。断固拒否の姿勢をみせる。
「ティア……、ここに、いたの、か」
珍しく乱れた呼吸をくりかえし、どこか乾いた声でヒースが言う。
「……寝不足っていったら、皇子が部屋を用意してくれたので」
足音と気配で近寄ってきていることを察し、涙声にならないように気をつけながら、つん、とした声で応える。
ヒースが端に腰掛けたらしく、わずかな音とともに、寝台が揺れた。
「探したぞ」
「……」
そんなのは、ヒースの様子をみればわかった。く、とティアは唇を噛み締める。
「……どうして」
本当に、どうしてだろう。なんでそんなに自分のことを必死に探してくれたのだろう。自分なんて、もういなくてもいいくせに。あの人と、仲良くやっていればいいくせに。
目にした現実を反芻し、くすん、と鼻を鳴らす。
「家にいっても君の姿がなくてな。昨夜、話をきくと約束しただろう」
覚えていてくれたのかと、わずかに驚く。了承したわけではない一方的なヒースからの約束だったけれど、ちゃんと果たしにくる律儀さに、胸がきゅうと締め付けられる。
しかし、それだけではティアの信頼は回復などしない。
ただただ、こんなに誠実な人が、どうしてあんなことを、と責めたてる材料に変わっていく。
「街を確認して、城にもどったところで皇子からここにいくようにいわれてな……土下座して謝るようにと、冷たくいわれたよ」
ふう、と重い吐息が部屋に広がる。
どうやら、ヒースへの非難と文句と、そんなことを思う自分の情けなさを、せつせつと語ったヴァルドからの計らいで、ヒースはここへきたようだ。
こっぴどく怒られはしなかったのだろうが、きっと、凍りついた湖に吹く風が肌を刺すような痛さで何事か言われたのだろう。
どこかげっそりとした雰囲気に、そんなことを感じとる。
「なあ、ティア。なにを、そんなにむくれているんだ。オレは、君に何をしてしまった?」
「……!」
ティアの喉が、大きく引き攣る。
ひどい。
こんなになっているのは、あんなひどいことをしたヒースのせいなのに。
一言じゃなく、たっぷりと文句を浴びせてやろうと、ティアは毛布をずり下げる。
「ティア……」
が、顔を出したとたん、ほっと安堵し顔を優しく綻ばせるヒースをみて、言葉が引っ込む。
ずるい!
そんな子供みたいな顔をみせられたら、怒るに怒れない。ううう、とティアは眉根を寄せる。
慕う気持ちを隠さずにみつめられて、あやうく絆されそうになる。それじゃいけないってわかっているのに、ティアの恋心はやはりヒースだけに向いていて、感情の天秤はヒースに有利なほうへと傾いていこうとする。
結局、怒鳴ってでも伝えたかったことは、ずるずると喉を通って、お腹へと消えていった。
ちら、とティアはヒースを見上げる。
あの、あのですね、と小さな前を置きを繰り返して、言う。
「これからずっと、ヒースさんのお仕事に、ついていっちゃ、だめ、ですか……?」
ようやくでたのは、そんなお願いだった。ヒースが、わずかに目元を険しくする。
「……その話か」
確かに、前にも、こんなことをいったことがある。だがそのときは、まだまだ情勢は不安定で、魔物の大量発生も頻繁で、ただひたすらにヒースの身が心配だった。
だがいまはそうじゃない。
一日中、一緒にいられたなら、ヒースを疑わずに済む。だから。
「だって……!」
さらに言葉を重ねたくとも、なんといっていいかわからない。
ヒースが大きな手で、ティアの額を撫で、頬に触れる。じっと、真摯な光を宿す瞳にみつめられ、ティアは口をつぐんだ。
「オレは魔物ごときに遅れはとらんし、事務でも機密性のあるものを取り扱うこともある。それに、ティアが出入りすることを快く思わないものもいる。君に、害を及ぼす可能性はなるべく排除したい」
「……」
それは、前にもいわれたことだった。
危険なものから、大切なものを遠ざけたいというのは、理解できる。ティアだってそうだった。そうした思いで、お願いした。
でも、いまの脅威は魔物でも、政事の思惑でもない。
たった一人の、ヒースの心を奪っていきかねない、美しい人なのだ。
今、ほんの少し考えただけで、胸が痛い。痛くて、死んじゃいそうだ。
そんなことをまったく思いもしないのだろうヒースが、柔らかに微笑む。言い聞かせようとしてくる。
「わかってくれるな?」
ティアは、ひぐ、と喉を鳴らした。
「……わかり、ません」
熱くなってきた目頭に力を込めて、ヒースを懸命に睨む。
いままでにありえないような頑なさをみせるティアに呆れたのか、ふ、とヒースが息をつき、立ち上がる。
ティアは弾かれたように上半身を起こし、さらに高い位置に移動したヒースの顔を見上げる。
「オレはいないほうがいいようだな。一人で、もう一度オレのいったことをよく考えてみるといい。今日は、オレも城に泊まるから――」
「っ、?!」
城に泊まる。
それを聞いた瞬間、ティアの目の前に今朝方の光景が、鮮やかに蘇った。そして、そのとき抱いていた気持ちも。それは、熱く全身を焼け焦がしていく。
ティアは無我夢中で立ち上がると、手元の枕を素早く引き寄せ、全力でもってしてヒースの顔面へと投げつけた。
ばふん!
それは見事にヒースに直撃した。ひらり、漏れでた白い羽毛が舞う。
ずる、と落ちた枕の向こうから現れたヒースの顔は、とても驚いていた。
なにも自分に非などないと、何かをしてしまったのではと思うことすらもないその様子に、肩を大きく揺らしたティアの感情が爆発した。
「う、浮気ものー!」
「?!!」
部屋いっぱいに響いた声に、びくっとさすがのヒースも肩を跳ねさせる。予想外の言葉をぶつけられたせいか、目を白黒させている。
「ま、またあの人のところにいくつもりですか?! お泊りするんですか?!」
「ちょ、おい、ティア、あの人?! 誰のことだ!」
かーっとティアの頭にますます血が上っていく。わかっているのに止められない。口から飛び出す言葉も、いってはいけないと思うのに、次から次へと沸いて出る。さきほど消えたはずのものが、また息を吹き返してきた。
「あ、ああああ、あんな綺麗な人といて、しらばっくれるんですか!? でれでれしてたくせに!」
顔に触れられ、衣服を整えられていたときのヒースを思い出し、ティアは叫ぶ。
「でれ……?! いやまてなにを言っている。オレは別に――」
さっぱりわけがわかっていないヒースは、混乱しきりのようで、おろおろと目に見えてうろたえる。
「だってあの人、すごい美人じゃないですか! わ、私とは全然違ってて……おとな、で……っ、う、うぇっく、ふ、ふぇぇん~……!」
まったくもって思い至らないということは、ヒースにとってかの人との浮気はさしたることではないのかもしれない。浮気にあたるとすら、思っていないのかもしれない。
「いや待て、だから誰のことをいっている?! って、……あ、あいつか?!」
ようやくピン、ときたらしく、ヒースの顔色があからさまに変わる。
「あいつを見たのか? たしかに綺麗だと思うし、まあなんというか美人だとは思うが……」
「っ、」
ぴくっとティアは頬を引き攣らせた。
今、ヒースが『美人』っていった!
やっぱりそう思っているんだと知り、ティアの視界が怒りに赤く染まった。
「だがな、あいつは――」
「うわぁぁぁん!」
ティアを宥めようと近寄ってきたヒースへと、ティアは手を振り上げた。
「っ?!」
ばちん!
猛る気持ちの全てを込めて、ティアはヒースを引っ叩く。徒手流派の免許皆伝に至ったティアからのふいうちは、さしものヒースにも避けられるものではなかった。
「何をする! いい加減に……!」
「だって!」
眉根を寄せて目を吊り上げるヒースの叫びを、ティアはぴしゃりと封じた。
息を飲むヒースの目を、涙で滲む瞳でひたりと見据える。
「だって、好きなんですもん!」
大きく口をひらいて、ティアはいう。
「ヒースさんのこと、す、好きなんですから、し、しかたないじゃ、仕方ないじゃないですか!」
ヒースに平手を食らわせた手を、ティアは胸元で抱きしめた。
戦き震える手を、押さえ込む。
しん、と室内が静まる。響くのは、ティアの荒い息遣いだけ。
「いかないで、ください……! あの綺麗な人のところになんて、いかないで……!」
ひぅ、と顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげる。
「我侭だって、わかってる、し……嫉妬なんて、みっともないって、わかってます、けど……、でも!」
ひっくひっくと涙を零しながら気持ちを吐露すれば、ヒースに無言で抱きしめられた。
力強さが少しだけ苦しい。だけど、愛しい。
「わ、私だけみていてくださ……、おねがい……! あの人の話も、しないで……!」
自分から言い出したことだとはわかっているが、いわずにはいられない。矛盾している。
ちゅ、と額に口づけたヒースが、苦笑する。
「オレは、君以外は眼中にない」
「うそっ……」
ぽか、と力なくヒースの胸を叩いて抗議する。それならどうして、あの人と一緒にいたというのか。
「これ以上ないくらいだぞ?」
両頬を大きな手で包み込まれて、ティアはぽろぽろと涙を零す。
「君は、辛いのだろうな。あいつと一緒にいるところをみられているとも、そこまで思いつめているとも、思いもよらなかった。だが……すまん、なんというか、オレは、今とても嬉しい」
すり、と頬を寄せられて、ティアはぴくんと体を震わせた。
「嫉妬されることが、こんなに嬉しいとはな……知らなかった」
かすかに震える声で、ヒースがそんなことをいう。
優しく、唇をティアの顔に降らせたヒースが、にこりと笑う。
「君の心配は杞憂だぞ、ティア。あれは浮気などではない」
「っ、ど、して……そんなこと、いえる、んですか……?!」
思い違いといわれても信じられるはずがない。ティアは、この目でみたのだ。
うーむ、とヒースが困ったように眉を下げる。
「どうしてもと、いわれてもな。今は弁解するすべがない」
だが、とヒースが続ける。
「信じてくれ。オレが愛するのは君だけだ。神にでも魔王にでも、なんにでも誓ってみせてもいい」
ティアの鼻先に小さな口づけ。
「魔術でオレを縛るか? それで君が心安らかにいられるなら、それでもいい」
頬にすべる涙を受け止めた唇が、そら恐ろしい提案をしてくる。
「この目を渡すか? 他のものをみるなというならそれでもいい」
視線を解くことを許さないという強さを宿す瞳は、真剣だ。
「どうしたら、信じてくれる? 君の心を、オレで満たせる?」
ぞく、とティアは背筋を震わせる。ヒースは、本気でそう思っていると直感した。
ティアは、睫毛を伏せる。
剥き出しにして注がれるヒースの心は、砂漠を彷徨うものを干乾びさせる太陽のように熱い。直視すると、目から体内のすべてを焼かれてしまうと錯覚するくらいに。
「……私、ヒースさんでいっぱい、です」
こんなにも、こんなにも、ヒースに振り回されている。嬉しいも、楽しいも、愛しいも、そして寂しいも、悲しいも、悔しいも。すべて、ヒースが心の中心にいるからこそ、感じるものだ。
「そんなことはないだろう。誰かにとられると焦るということは、オレは完全に君のものではないということだ」
「……」
そうなのだろうか。完全に自分のものになったなら、ヒースのことで一喜一憂することはなくなるのだろうか。
「なにを望む? オレの髪一筋さえ、君の好きにしていい」
ふと、ヒースのすべてを管理する様を思い浮かべる。
朝から晩まで、なにからなにまでヒースのすべてを自分が決める。それはそれで、魅力的だと思わないでもない。
でもそれでは、人形をかまうことと何が違うのだろう。
好きなものを好きにできるのは楽しい。だがそれは、こちらの一方的な気持ちを押し付け、反映させているだけの、虚しい行為だ。
子供であるなら、そんな遊びをするのもいいだろう。
だが、ヒースは子供じゃない。そしてそんなヒースが愛していると言ってくれる自分もまた、子供では、ない。
「ごめ、ん、なさい……。私が、我侭でした……。ヒースさんは、ヒースさんのままが一番格好いい、です」
ティアが好きなヒースは、このままのヒースだ。無理に何かをしてもらわなくてもいい。
実直で誠実で、ときに信じたもののために躊躇いなく命を懸けられる強さが好き。
「そうか」
に、とヒースがいつもの調子で笑う。その笑顔に、うまくいいくるめられたというような気もして、ティアは唇を尖らせる。
考えてみたら、浮気の疑惑はまだ晴れてはいないのだ。
唇をわずかに重ね、ヒースはまた笑う。ティアの思考をもう理解したのだろう。
「君のいう人物となにもなかったと証明すれば、ひとまず安心できるだろう? オレを信じて任せてくれ……――あまり君を、あいつの前につれていきたくはないんだがな」
後半の声が小さくてあまりよく聞こえなかったティアであったが、前半の言葉はそのとおりだと思った。
「それは、そうです、けど。どうやって……うひゃっ……!」
きちんと納得させてくれる方法を、ヒースは知っているようだが、ティアはさっぱりわからない。また不安に支配されそうになるティアを、ヒースがさらにその懐深くへいざなう。
「とにかく、君は、ずっと一緒にいてオレだけをみていてくれればいい。そうすればわかってもらえるはずだ。どこにもいくな。明日は休暇だしな」
ティアは、目を丸くする。つまり、それは丸一日、ティアと一緒に過ごしたいといってくれているということだ。
幾度も触れるだけのキスをしながら、ヒースは悪戯っぽく瞳を輝かせる。それはまるで、少年のように。
「そう思うのは、好きならば仕方ないんだろう?」
「……」
先ほどの自分の言葉を言い返されて、ティアはぐうの音もでない。
するり、ヒースの太い首に細い腕をまきつける。
「いつも一緒にいたいのは、君ばかりじゃない」
蕩けるような甘い笑みを浮かべるヒースに、頬が火照る。
「愛しているのは君だけだ、ティア。……誰よりも何よりも、愛している」
はふ、とティアは息をつく。
ヒースの言葉と行動が、凍りついた心を熱く溶かしていく。
ほんとうにすべてとけて、ひとつになれればいいのに。そうしたら、なにも心配なんてしなくてもいいのに。
深海に眠る貝が抱くような大粒の涙を零しながら、ティアはゆっくりと瞳を閉じた。
ティアは緊張した面持ちで、ヒースとともに帝国の国境にある砦まで赴いていた。
もともとヒースが視察にくる予定だったのでそれについてきたというのが正しい表現だろう。
きいたところによると、例の麗人は砦にしばらく滞在することになったらしい。
帝国砦の守備や周辺の治安維持が、今後は帝国における各軍持ち回りになるかもしれないとのことで、今回、かの人がカレイラ王国を訪れているは試験的なものとのことだった。
ちゃんとヴァルドからの許可も得ていることだし、咎められる心配はない。ものめずらしくてきょろきょろしているうちに、兵士数人に指示を出している人影をみつける。
「おい、ルー!」
ヒースが声をかけると、おや、と名を呼ばれた人――ルーが、こちらを向いた。その拍子に、さらりとなびく髪。向けられた紫色の瞳は日の光の下で、あやしくも美しく煌いた。
そして、今まで話していた兵士達には、柔らかに微笑み頷く。
ぽーっとした様子の彼らは、受けた命を果たすため、ふらりと散っていった。
「かようなところまで、わざわざお越しくださるとは。なにか引き継ぎに不手際でもございましたでしょうか、ヒース将軍」
上品かつ慇懃、物腰丁寧に訊ねてくるルーに、ヒースは一瞬だけ嫌そうな顔をみせた。
「ああいや、そうじゃない。紹介したい者が、いるんだ」
「こ、こんにちは。えと、はじめまし、て」
おずおずとヒースの影から顔を覗かせ、ティアはぎくしゃくと挨拶をする。
おや、とルーと呼ばれた人物が目を見開く。希少な宝石に似た色の瞳の底が、一瞬だけギラリと光った気がして、ティアは次の言葉を飲み込んでしまった。
いまのは一体?
それが何かを考えるまえに、にこりとした美しい笑みを向けられて、胸の鼓動が一気に高まる。
ヒースの浮気相手という疑惑を抱いたせいもあるが、これほど綺麗な人だと別の意味で緊張してしまう。
「これはこれは、可愛らしいお嬢さん。もしかして、ティア嬢でしょうか? お噂はかねがね……」
どうやらこの人も、ティアがカレイラの英雄として名を馳せていることを知っているらしい。とはいえ帝国の軍人であるならば、それは当然のことかもしれない。
すい、と滑らかに手をとられる。たったそれだけのことなのに、ティアの肌があわ立つ。
「はじめまして、私、ルードヴィッヒと申します。ヴァイゼン帝国で西軍を率いる将軍の任についております。以後お見知りおきを」
ということは、ヒースさんと同じ将軍さんなんだ……と思いつつも、ん? とティアは頭を捻る。
なにかひっかかる。なにって、ヒースと同じ将軍っていう点じゃない。そこよりもうちょっと手前。
「ルー……? え、あれ……? ルード、ヴィッヒ、さん……?」
それは、男の人の名前じゃないでしょうか。
ティアに呼ばれ、その顔が大輪の花のような笑みを浮かべる。
「はい。ルーとおよびください」
「……ええと、ヒースさん」
ティアの手を握ったまま、にこにこと笑うルーことルードヴィッヒから、視線を外しヒースを見上げる。
言いたいことがわかったのだろう。ヒースが重々しく頷いた。
「どうだ。相手が男だとわかった今の心境は」
「……男の、ひと……?!?!?!」
自分自信に言い聞かせるように言葉にしたティアの心境たるや、とても形容できるものではない。
そして、当然だがティアは混乱した。
「ああ、もしかして私を女性と勘違いされたのですか? よくあることですからお気になさらず」
「は、ええっ、お、とこ、の……?! うそ、だって、そんなわけ……?!」
恐慌に陥る一歩手前でなんとか踏みとどまりながら、ティアがそんなはずはないと否定すると、ルードヴィッヒが艶やかに微笑んだ。
「では、これでいかがでしょう」
そんなことをいったルードヴィッヒの手が、素早く緩められた軍服の下へと、ティアの小さな手を導く。
「?!?!」
感じるものは、人の体温。人の柔らかくしなやかな身体。
が。
「おい、ルー!」
「このほうが、誤解を解くのがはやいでしょう?」
血相を変えるヒースと、余裕綽々のルードヴィッヒの会話を、遠いところから流れてくる音楽のように聞きながら、ティアは無言で手の平に意識を集中させる。
華奢にみえるけど、着痩せでもするのか、がっしりとした体つき。想像していたような、柔らかな膨らみの存在などありえないと主張している胸。
「う、そ……?! え、だって、なん、で……?」
あるべきはずのものが、ない。
なんでなんでと繰り返すティアの顎が、ふいに持ち上げられる。
「可憐な肢体の女性、というわけではありませんからね? それとも、こちらも触ってみますか……?」
「?!?!!」
く、とティアの顔をもう片方の手でもちあげ、覗きこみながら悪戯っぽく微笑んでくるルードヴィッヒに、わずかに手を下へとずらされて、ティアは声にならない悲鳴をあげる。
だってもう一箇所、男だと判断するには十分な箇所がある。たしかにあるけど、あるけれど!
「いい加減にしろ」
「おや残念」
固まったティアを、ひょいとヒースが抱き上げた。ルードヴィッヒを見つめる顔は険しく、声も厳しい。
「おいしっかりしろ」
「……あ」
易々と片腕でティアを抱き上げるヒースに、ぺち、と軽く頬を叩かれて、はっとする。
どうだ、といわんばかりのヒースと、にこにこと笑っているルードヴィッヒを、ティアは丁寧に見比べて。
「――で、でも、でも! 男の人とだって、そういうことありえるんですよね!?」
自分でもそれはどうなの、と思わないでもないことを、ティアは思わず叫んでいた。
それをきいたヒースが顔色を変える。
とんでもない方向から浮気を疑われ、気持ちの悪いことをいうな、とヒースがかぶりをふって否定する。青褪めた顔からは、それだけ必死だということが読み取れた。
「オレにそういう趣味はない! どこでそんなことを覚えてくるんだ!?」
ヒースの言い分はもっともだ。
「だってぇぇぇ~!」
だがそうでもなければ、勝手に嫉妬して、勝手に落ち込んで、勝手に八つ当たりして、爆発してしまったティアの立場は一体。
いや、実際にヒースがそういう人であってほしいわけでは決してない。断じてない。
ただあまりにも、自分が情けないからそんなことを考えてしまっただけだ。
ああ、このまま消えてしまいたいと、ティアはそんなことを思う。
ぎゃーぎゃーと、みっともなくティアとヒースが言い合っていると、ルードヴィッヒが上品に笑った。
「ほんとうに、可愛いらしいお方だ。あなたのようなお嬢さんに巡り合えて、望外の喜びです。できるなら、ヒースばかりをみていてほしくはないな……妬いてしまいそうだ」
「え」
つ、とティアの手の甲を、艶めいた仕草でルーの指先が撫でる。
潤んだ紫の瞳にみつめられて、ティアは息を忘れた。
「無骨なヒースにはもったいないような可憐なお嬢さん。あなたさえよければ、私と親しくしていただけませんか? ぜひ一度、あなたをエスコートさせていただきたい」
思わず、ぜひともお願いしますと応えてしまいそうな魅力的な誘惑に、ぼうっと頭の芯が痺れる。
「ああ、ほんとうに愛らしい……。あなたの前では、人をかどわかす妖精も、恥じて身を隠してしまうに違いない」
ティアの反応に気をよくしたのか、押せばいけるとでも思ったのか、ルードヴィッヒが言葉を重ねて顔を寄せてくる。
「やめろ」
とうとう不機嫌さを隠すことを放棄したヒースの声が響く。
ぺい、とヒースが汚らしいものでも払うようにルーの手をティアから引き剥がしつつ、数歩退く。
「……!」
そこまでされて、ティアは我を取り戻した。ルードヴィッヒが王子様で、自分がお姫様にでもなったような――まるで、絵本の世界へと引きずり込まれたような不思議な心地が抜けなくて、目を瞬かせる。ルードヴィッヒの言葉を紡ぐ声が、絶妙な間が、まだ鼓膜を甘く揺らした余韻が残っている。
ティアの本当の王子様であるヒースが、いつになく険しい顔で言う。
「だから、お前に会わせたくなかったんだ。ティア、頬を染めるんじゃない」
「え、や、だって……! ふ、ふぇぇぇ……」
ティアは思わず自分の頬を両手で押さえた。どうやら指摘されたとおり、いつのまにか顔を赤らめていたらしい。
心底嫌そうに、ヒースが微笑むルードヴィッヒを見遣る。いや、むしろ睨みつける。
「こんな顔してるが、こいつ以上の女好きを、オレはみたことがない。腕はたつし、仕事はできるし、信頼もしているが――そこだけが最大かつ最悪の問題点だ」
実も蓋もないヒースからの評価に、ルードヴィッヒが楽しげに肩を震わせる。
「ははは、ひどいですねヒース。私は、この世界すべての女性の下僕であることを身上としているだけです。で、どうですか、ティア嬢。これから、私の部屋でお茶でも。もちろん二人きりで、ね……?」
「あ……え、ひ、ヒースさんっ」
またしても誘ってくるルードヴィッヒから逃れるように、ティアはヒースの首にかじりついて顔を埋めた。
「おや。ふられてしまいましたね」
「当たり前だ」
宥めるようにヒースに背をなでられて、ティアはそろそろと顔をあげる。
「ふふふ。まあ今はいいでしょう。そのうちヒースに内緒で、デートしましょうね、ティア嬢」
魅力たっぷりに片目を瞑って、そんなことをいうルードヴィッヒに、ティアはさらに顔を真っ赤にした。
返答に窮していると、ぎろりとヒースに睨まれた。申し訳なくて、思わず目を伏せる。
あうあうと、ティアは言葉にならない声を漏らす。
ヒースのことは大好きだけど、これは胸が高鳴る。まずい類のものだと、理解した。
天然のタラシがヒースなら、ルードヴィッヒは自分のことをよく知った上での性質の悪いタラシだ。言い方はとっても悪いけど。
「いかせてたまるものか」
「男の嫉妬は醜いですよヒース」
狩りがいのある獲物をみつけた肉食獣のように、わくわくとした期待を前面にだしているルードヴィッヒに、ヒースは顔を歪めた。
「……だから嫌だったんだ」
「ふふ、私は嬉しいですよ。今日という日を気分よく過ごせそうだ。ティア嬢を紹介してくださってありがとうございました、ヒース」
それにしても、とまるで舞台で謳う俳優のように芝居がかった仕草で両手を広げたルードヴィッヒが言う。
「カレイラはいい国ですね! 心躍る素敵な女性が多い。仕事にも精が出ます」
どうやら根っからの女好きらしい。ティアは、その情報を脳裏にこれでもかと深く刻み込む。優しい幼馴染や美しい女友達たちに、忠告が必要かもしれない。
「そうか。ならさっさといってくれ」
しっし、と犬でも追い払うように邪険に扱うヒースに対し、ルードヴィッヒが肩を竦めて笑う。
「声をかけてきたのはそちらでしょうに。では、これ以上は斬られかねませんので、失礼します。では、また」
もう一度ティアにめくばせして、ルードヴィッヒは機嫌よさそうに去っていった。
「……」
「……」
沈黙がとっても痛い。
「すみませんでした……」
心の底から、ティアは謝った。
「わかってもらえればいい」
疲れきった様子でヒースが答える。
「いいか、あいつから誘いがあっても決して乗るなよ」
「……はーい」
だけど、もしもルードヴィッヒさんとお出かけしたら、ヒースさんはどんな顔をするんだろう?
ちょっとだけそんな小悪魔的な誘惑に傾きそうになった、ティアであった。