「すみません、ヒースさん」
先日、静かな口調だが、熱烈な愛の告白を受け、晴れて恋人となった年上の男――徒手流派の師匠でもあるヒースを見上げ、ティアは申し訳なさに眉を下げた。
逞しい腕には買い物袋が下がっている。つまり、荷物もちをしてもらっているのだ。自分が必要としているものなのに、ヒースに持ってもらうとは。
「いいや、気にするな」
ふ、と精悍な顔に浮かぶ微笑に、速くなっていた心臓が、さらに飛び跳ねてしまい、ティアは苦しさから逃れるために、あわてて視線をそらした。
くつくつと、その様子がおかしいのか、ヒースが笑っている。
もう……。
ヒースは慣れているのだろうけど、ティアはそうではない。恋しい人が傍らにいて、自分に笑いかけてくれる幸せは、甘くて心地よくて、なにもかも忘れて、酔ってしまいそうだ。
ティアは、熱くなった頬に指先を添えながら、ちら、と横をみる。
気持ちのよい風に、ヒースの頬にかかった髪が揺れる。くすぐったかったのか、大きな手がそれをかきあげる。
それだけなのに、心臓の音が耳元で鳴り響く。
私、そろそろ死んじゃうかもしれないなぁ……。
ティアはこっそり、幸せな悩みに、ため息をつく。
それは、ざわざわと人が行きかうローアンの街角に、誰にも気づかれることなく、淡く消えていった。
今日は、ヒースの休日だ。仕事で忙しいヒースにとっては、貴重な一日である。
せっかくだから、体を休めて欲しいとティアは思っていたのだけれど、ちょっと日用品の買出しに行ってくるといったら、荷物もちに付き合うと言われてしまった。
思ってもいなかった言葉に、ティアは面くらい、あせった。
大丈夫です、着いていく、という不毛な押し問答の末――君と少しでも一緒にいたいんだ、と、少し悲しげに言われて、ティアはあっけなく陥落した。
今思えば、絶対にわかっててやっていた。大人の男が、あんな顔をするなんて、卑怯だ。ずるい。あんなのをみせられたら、自分だけにそんな顔をみせてくれるんだと勘違いして、恋に不慣れな自分は舞い上がるに決まっている。
むー、とわずかに胸のうちで鎌首をもたげた不満を抱えたまま、ティアは視線を険しくした。
シャツにズボンという街の人とさして変わらぬ格好だが、鍛え上げられた体の存在感は隠せない。ヒース自身が有名ということもあるだろうが、好奇の視線――主に年頃の女性たちからの――は、常に注がれていて、それもまた、ティアに不満を募らせた。
ヒースさんは、私のなのに。
そう思うと同時に、悲しくなる。
誰かを自分のものだと主張することは、その人に失礼だと思っていたティアだったが、ヒースに恋して、ヒースに恋されて、そうして恋人になった今となっては、その気持ちがよくわかるのだ。
独占欲が表に噴出しそうで、なんて嫌な子になったのだろうと、さきほどとは違う意味で、再び溜息をつく。
こんなふうに思っていると知られたら、ヒースは呆れるに違いない。
ああ、もう。
恋ってどうして、こんなに厄介なのだろう。恋に憧れていたころは、こんな気持ちばかり抱くなんて、夢にも思わなかった。
「ティア、どうした」
「……!」
ヒースが足を止め、滑らかに身をかがめる。
す、と視線をあわされて、ティアは一瞬で真っ赤になった。いつのまにか、じっくりとヒースのことをみつめていたらしい。
「な、なんでもありません……」
強調するように、ぷるぷると頭を振る。
「そうか? ぼーっとしていて、どこかに飛んでいきそうだったぞ」
からかうような口調に、ティアは少しだけ唇を尖らせる。
子供扱いして!
「どこかなんていきません! 飛びません!」
「あやしいもんだ」
「もー! ……ぁ、」
本格的に抗議してやろうと思った矢先、ひょいと手を握られて、ティアは肩を跳ねさせた。指を絡ませるような繋ぎ方は、街を行きかう恋人たちがやっているのおなじ。
驚いて、手とヒースの顔と矢継ぎ早に交互にみる。に、とヒースが笑った。
「どこかにいかれたら困るからな。いくぞ」
「うぁ、は、はいっ」
楽しげなヒースに促され、ティアはぎくしゃくと歩き出した。
なんだろう。ヒースが、すごく上機嫌だ。だから、ティアもまた機嫌よく歩ける。
好きな人が楽しかったり、幸せだったりすることが、自分にとっての幸福だと、ティアは思う。
そうして、二人でぶらりとローアンの街を歩いていて、ある店の前を通りかかったティアは、縫い付けられたように足を止めた。
視界に広がる眩さに、惹かれる。視線が、釘付けになる。
「わ、あ……!」
綺麗。
その一言が、鮮烈に脳裏をよぎる。
それ以外に、言葉がしばらく浮かばない。
そこは、ティアがたまに外から覗いていた店だ。はいったことはないが、女物の衣服を取り扱うところで、オーダーメイドも受けているときく。
小さな店構えだが、ショーウインドウの奥で飾られるドレスは丁寧につくられていて、ときに可愛らしく、ときに妖艶で、女性の夢を形にしていると感じていた。
そんな店の、通りに面した硝子の向こうに、ドレスがひとつ展示されている。
オフホワイトの、光をなめらかに弾く絹が、人形の腰から床までふわりと落ちている。あちこちに、ふんだんにつけられた繊細なレースが愛らしい。風を紡いだような軽やかなヴェールが、頭部から背後へと優美に流れていた。
すべてが真っ白で、美しい。
「いいなあ、すてき……!」
ティアは、顔を輝かせて魅入った。どうやら、この店では、花嫁衣裳も取り扱うらしい。そういえば、とティアは思い出す。
今は、結婚と出産を司り、家庭や女性、そして子供を守護するといわれる女神の力が、もっとも強いとされる月。
女性たちは、その力に少しでもあやかりたいと、ここぞとばかりにこの月に式をあげる。教会などは、ひっきりなしに鐘が鳴るものだ。
冒険などで、もうそんな季節であることを、すっかり失念していた。
ティアの隣にたち、同じようにドレスを上から下まで一瞥したヒースが、わずかに目を細める。
「ふむ……?」
男のヒースには、ティアが感じたようなものは、わからないのかもしれない。
くすくすと、ティアは笑う。真剣な顔をして、ヒースがドレスを眺めているのが、なんだかおかしかった。
「ティアは、こういうのが好きなのか?」
「はい、好きです。ウエディングドレスって、女の子の憧れそのものですし」
白い衣装に身を包み、愛しい人と、永遠を誓う。まだ恋を知らぬ少女でも、夢見ることは一度くらいあるはず。
そして、ティアは今まさにヒースに恋している。二人の結婚式を、本当に夢にみたことだって一度や二度じゃない。
目覚めたときの落胆と、穴があったら入りたいくらいの羞恥に、寝台の上を盛大に転がっては精霊たちに不思議そうな顔をされたものだ。
思い出したら、恥ずかしくなってきた。
ティアは、夢中になっているふりをして、ドレスを眺め続けた。
「憧れ、か」
ん、と小さくティアは頷いた。
そのまま、二人で口を閉ざす。
なんともいえない沈黙が、二人とドレスの間に広がる。
あたたかく降り注ぐ陽光のせいじゃなく、ティアの全身が熱くなってくる。
何か言って欲しい。居た堪れないんですけれども。
その熱をもてあまし、わずかに身じろぎする。それが、手を外そうとしているように感じたのか、ヒースの手の力が一層強くなった。
ウエディングドレスを前にして、かたく手を結んでいるこの状態が、ものすごく恥ずかしくなってきた頃。
「買うか」
「え」
なんの脈略もなく落とされた、突拍子もない台詞に、ティアは驚いて横を向く。疑問系じゃなく、そうすると決めてかかっている声音だ。
ヒースは相変わらず、真剣に硝子越しのドレスをみつめている。自分が何を言ったのか、理解しているのか、疑問に思った瞬間、手をひかれた。
「わぁぁ! ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
そのまま、当然のように店に入っていこうとするヒースを、あわてて止める。
「なんだ? 金のことなら心配いらんぞ?」
それはまあ、一国の将軍ともなれば、ある程度の財はあるんでしょうけど!
「なんだじゃなくて……! そうじゃなくて……!」
ぐいぐいと、ヒースの太い腕を懸命に引っ張る。だが、ヒースは動かない。当たり前といえば当たり前だ。体格がまるっきり違う。
「欲しいんじゃないのか?」
「えっ、いえ、あの、欲しくないというわけでないです、けど……」
ごにょごにょと、ティアは口ごもる。かといって買ってください、なんてすぐいえるようなものでもない。
っていうか、いくらするの、これ。それに、それより先の問題がある。
「えっと、あ、でも……私、その……結婚の予定とか、その……まだ、ない、ですし」
予定もないのに、そんなものを買ってどうするというのか。
ティアは、せつない気持ちで、睫を伏せる。ヒースとは、恋人になったばかりなのだ。その先なんて、わからない。
ヒースからの告白は、結婚の申し出ともとれるようなものだったけれど、肝心の言葉はなかった。
ずっとずっと、ヒースといられたらいいと、ティアは願っているけれど――。
「ティア」
抵抗していた力―――ヒースにとっては抵抗程度のものでもなかったのかもしれないが――を緩め、ヒースが背をかがめる。
「なんでオレが買うといったか、理由を言わんとわからんか?」
物分りの悪い子供を諭すような、穏やかな口調。だがその奥に、確かな愛しさが息づいていることを、ティアは感じた。可愛いと言われていないのに、そういわれているような、そんな錯覚を起して、ティアは真っ赤になった。
「……あ、でも、あのっ、その」
言葉の裏を考えれば、ヒースはそのつもりでいてくれているということだ。
じっと見つめられて顔が熱くなっていく。ヒースの視線や言葉には、自分を恥ずかしくさせる効果でもあるに違いない。
もじもじとしてなにも言わないティアに業を煮やしたのか、ヒースが再び口を開いた。
「オレは、君をどこかにいかせるつもりは毛頭ない。君がいるべきところは、オレの側だけだ」
握られた手が、言葉のひとつひとつが、ヒースの纏う空気が、どれひとつティアを離すことをよしとしていない。そんなことは許さないと、つきつけてくる。優しいけれど、強固な枷をかけられたティアは、ほう、と甘い息をついた。
「オレとしては、今すぐに教会にいってもいいんだぞ」
「……!」
喉が、驚きにひきつる。
「だが、女にはいろいろと準備があると聞くしな。こういうドレスも、必要なんだろう? ――それとも、オレ以外に結婚したいやつがいるのか?」
「い、いません! そんなひと!」
とうとうヒースの口から飛び出した「結婚」という言葉に、ティアは飛び上がりながら否定した。
ヒース以外に、いるわけがない!
そんな風にいわれるのは、心外だった。
「ならばいいだろう」
ティアの言葉に満足したらしいヒースが、会心の笑みを浮かべる。
「だけど……!」
まだ何か言おうと口を開いてみるが。
あ、でも。
脳裏で雷光のようにひらめき、華ひらいた考えに、ティアはぴくりと肩を震わせた。
「そっか……結婚したら、ヒースさん、私の旦那様になりますもんね……そうですよね……」
ティアはぼうっとしながら、独り言を零すようにつぶやく。そうなった場合のことを、確認するように。
結婚すれば、名実ともに、この人が自分の生涯の伴侶なのだと、自分があえていわずとも、皆が認めてくれるようになる。
お互いに、薬指に指輪もするようになるだろうし、そうしたら、思い悩むことは減るに違いない。
それは、いい。
常に胸の奥に存在するもやもやが、夫婦になった未来を思い描くだけで薄れていく。
ティアが自分の考えに陶酔しかけているのとは正反対に、ヒースは不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「――オレは今でもじゅうぶん、君のものだと思っていたんだがな」
違うのか? と、小さな声が付け加わる。
今まで見たことのない、あまりにも子供じみた様子で、ヒースがそんなことをいうものだから。
「ぷ、」
ティアは思わす噴出した。ヒースの眉が跳ねるのをみて、あわてて口元を手で押さえる。
「笑うな」
「ご、ごめんなさい……、ふ、ふふっ、あはは!」
ひとしきり笑ったあと、ティアは目じりに浮かんだ涙をぬぐい、ヒースを愛おしく見上げた。
「そうなったら。ヒースさんと結婚できたら、すごく素敵です。嬉しいです」
きっと、生まれて一番の、幸せだろう。ヒースの顔に広がる、安堵と当然という感情が入り混じる不思議な表情に、ティアは瞳をなごませた。
「だけど、もうちょっとだけ……」
続けられる言葉に、ヒースが首を傾げる。
「もうちょっとだけ、恋人同士でも、いたいです」
ティアは、照れながら柔らかに笑う。
夫婦になるということは、長い人生の中の一区切り。新たなはじまり。だからその前に、恋人同士であることを、もう少し味わいたい。
結婚しても、一緒に出かけたり、手をつないだりするだろうけど、今だけ感じられるものも、きっとあるはずだから。
ヒースが、蕩けるように微笑む。
「……そうだな。急ぐ必要は、なかったか」
「でも私、ヒースさんがそう考えてくれていることがわかって、うれしいです!」
手をつないだまま、できるだけ身を寄せる。
「オレも嫌がられないでよかった」
「もしかして、不安でした?」
さきほどの微妙な表情を読み取っていたティアが、期待半分面白半分にきいてみると、ヒースがふいっと横を向いた。
「……」
口の端を下げ、ばつが悪そうにしている姿に、ティアの胸が鳴いた。きゅんときた。
「ヒースさんて――かわいいですね!」
ティアの素直さは美徳ね、と幼馴染にいわれたことがあったが、あまりに素直すぎるのもよくないのかな、と。
みるみる曇り、引きつっていくヒースの顔に、そんなことを考えながらも、はしゃぐ心はとめられなかった。
「可愛いのは、君だろうに」
お互いが、お互いをそう思っているなら、世話はない。
顔を見合わせ、くすくすと笑いあう。
と。
「あのー……。お話、まとまりました?」
開けられた硝子窓の向こうから、店員が顔を覗かせていた。まじめそうな顔を取り繕っているが、やりとりをみていたのだろう。あからさまに、にやけている。微笑ましいものをみたと、その瞳がいっている。
「っ!」
みられていたことに気づいたティアは、足先から頭の先まで真っ赤になった。思わず、ぎゅっとヒースの腕を力任せに掴む。
「ああ、終わった」
そういうヒースは、どうやら気づいていたらしい。
わかっていたならいってくれればいいのに!
悲鳴をなんとか押し殺し、ティアは俯いた。恥ずかしいことこのうえない。
「では、将来のために、ぜひ生地のひとつでも当店でみていってください。お嬢さんに似合いそうな、ヴェール用レースがありますよ」
いずれオーダーをうちに、と言葉の裏にしたたかな商売魂を感じながら、ティアはヒースを見上げた。ヒースもまた同時に、ティアを見下ろした。
「まあ、とりあえず、はいるとするか。いずれ用意するものだからな」
小さく頷いたティアは、ふわりと微笑んだ。
「……はい!」
頷き、重ねた手はそのままに、二人で店の扉をくぐる。
次に、この季節が廻った頃。
こんな風に、この人と教会をゆく日が訪れるのだろう。
白い色彩の洪水に包まれながら、未来の花嫁は眩しげに、目を細めた。