酒精の落し物

「――ん……、んん……?」
 ガタゴトと、遠いところで音がする。
 むにゃ、と口元を動かしてティアは意識をなんとか浮上させようと試みる。まだいいじゃないか、いかないで、と夢の世界が引きとめようとするのを、なんとか逃れて目を開く。
 真っ暗。
 ぱち、ぱち。ゆっくりと二回瞬きをしてみても、目に映るものは真っ暗。
 そうして思う。
 ああ、夜だ。まだ夜の夜中だ。ほんとうならまだ眠っていてもいい時間だ。むしろ寝ていなければいけない時間だ。
 だが、ガタンゴトンという音はまだ響いている。それは、ティアに眠りの世界へと戻ることを許してはくれない。もそり、ティアは身体を起こした。どうやら、それは戸口近辺からしているようだ。
 ここでようやく、ティアの目は覚めた。
 怪しい。こんな下町の質素な家にまさか泥棒がくるとは思えない。仮にそうだとしても、忍ぶ様子がまったくみられないのが不思議だ。
 ティアは不審そうに眉根を寄せながら、そっとベッドの右にある窓にかかるカーテンを開く。さあっと明るい月の光が差し込んで、ほんのりと家の中を青白く浮かび上がらせた。外の景色に変わりはない。強い風でも吹いているなら、近所のバケツでも飛んできたかと思うところだが、あいにくとその想像を裏付けるような自然現象はみられない。
 ティアは傍らに置いていた預言書に手をかけた。はらりと手馴れた様子で盾のページを開く。そこから常用しているイージスの盾を取り出しつつ寝台から足を下ろすと、するりと赤い栞からレンポが眠たげな顔を覗かせた。
「……どーしたんだよ、ティア」
 つりあがった瞳が、しぱしぱとせわしなく上下する。こちらもぐっすりお休み状態だったのだろうに。わざわざ顔を覗かせてくれたようだ。
「うん、なんだか、変な音がするからちょっと見てこようと思って」
 起こしてしまったのを申し訳なく思いつつ、小声でそういったティアは、寝間着姿で盾を構える。これならば襲われても初撃は防げる。また、全く違う別の何かであっても、驚いた拍子につい攻撃してしまうことも防げるだろう。
 きゅ、と口元を引き締めて、意を決したティアがそろりそろり扉に向かうと、レンポが後をついてきた。
「……開けるね」
「おう」
 いつの間にやらすっかり音はしなくなっているが、警戒するにこしたことはない。ティアはレンポに声をかけ、そっとノブに手をかけた。ゆっくりと回したところで。
「わわっ!」
 いつもとは違い、やけに重い扉がガクンと開いた。どうやら、なにかが寄りかかっていたようだ。
 あわや扉に顔面を強打しかけたティアは、慌てて後ろに飛びのいた。今しがたティアが立っていたところに、ごん、という鈍い音をたて大きな何かが転がる。
 ティアとレンポは顔を見合わせ、それを覗き込む。
「おい、コイツ……」
 扉の向こうからの月明かりに照らされた逞しい身体、撫で付けられた髪は少し乱れ、左目を横切る古い傷跡が、真新しいもののように冷たく光を帯びている。いつも雄雄しく、それでいてふいに朗らかな笑顔を浮かべる顔は、今はしまりなく緩み赤らんでいる。
 それは、ヴァイゼン帝国の将軍にして、ティアの徒手流派の師匠でもあり――そしてなにより、ティアが恋してやまぬ人。
 いつもの鎧姿ではなく、飾り気のないシャツとズボンを身に纏っている。彼が愛用しているジェネラルソードだけが、常と同じくその傍らにあった。
「ヒ、ヒースさんっ!?」
 目を丸くし、素っ頓狂な声でティアがその名を呼ぶと。
「……よぉ、ティア」
 にへら、と笑ったヒースが、そんな間の抜けた挨拶を返す。
「ど、どうしたんですか!」
 イージスの盾を傍らにおいて、ティアはヒースに駆け寄った。その瞬間、ふわりと鼻をくすぐり通り抜けたのは、酒の香り。しかも、かなり濃厚な。
 思わず「う」と息を詰まらせる。普段のヒースからは考えられない姿に戸惑いながら、ティアは上半身を起こそうとしている男の傍らに膝をついて、支えるようにその背に手を添える。
「んー……ティア?」
 とろんとした青灰色の瞳が、不思議そうにティアを映し出す。小さく首を傾げるヒースにつられるように、ティアも頭を傾けた。
「は、はい?」
「なんで……ここに……いるんだ……?」
「なんでって……」
 そんなの、ここが私の家だからに決まってる。
 ううーん、と悩むように考えるそぶりをするヒースに、ティアは眉を下げた。自分でここまでやってきたくせに、よくわかっていないらしい。ぶつぶつと、「オレは酒場に……んん……?」などといっている。現在と過去が、記憶のなかでごちゃまぜになっているのかもしれない。
「と、とにかく中にはいってください」
 夜風も冷たい屋外に、長い足を伸ばしっぱなしのヒースにそういう。
 んー……と、なんともいえない声をだし、ヒースが立ち上がり家の中へとふらりふらりとはいってくる。ティアはそんなヒースを横目に手を伸ばし、扉をそっと閉める。ふうと息をつき、ヒースの様子を伺おうと振り返ろうとした瞬間。
「わ……きゃ、ヒースさんっ!?」
「……ティア……」
 ふいにぎゅうと後ろから抱きしめられて、ティアはまたも頭の天辺から声を出す羽目になった。
「や、ちょっと……どうしたんですか、もー!」
 じたばたともがいてみるが、その戒めは強固で破れそうにない。
 すい、と近づいてきたレンポが眠気に落ちかけた目をしたままで言う。
「なあ、そいつ、すっげー酔っ払ってんじゃねえ?」
「そんなのみればわかるよー!」
 ここまでくれば、ティアにだってわかる。「やーん」と情けない声をあげてみるものの、できあがってしまっているヒースは、何がそんなに楽しいのか、げらげらと笑いながらティアの髪に鼻先を押し付けてくるだけだ。
 この酔っ払いー! 息が物凄くお酒臭いー! そんなことを思いつつ、しばらくもがもがと暴れていると、いきなりヒースの抱擁が緩んだ。ぜぇぜぇと息をつき、優しくなった腕の中で振り仰ぐようにティアはヒースを見上げる。ぼう、と熱に浮かされたようなヒースの潤んだ瞳が、青白い光を透かし、ティアだけをみている。
「ティア……」
 やけにかすれた声で名前を呼ばれ、ティアはびくんと身体を硬直させた。まずい、と思った短い間隔のあと、ヒースがゆっくりと顔を近づけてくる。このままではぶつかる。何がってそれは――。
「やだ、もう! なに考えてるんですかっ! しっかりしてくださいっ」
 迫るヒースの口もとへ両手を押し付けて、真っ赤になったティアは叫ぶ。恋人になってから口付けを交わしたことは数あるけれど、これ以上、酔っ払いにいいようにされてはたまらない。
 ぎりぎりと押し返し続けていると、今度は何を思ったのか、ヒースがずるずるとティアを引きずって歩き出した。ごとんと音をたてて、ヒースの剣が床に転がった。
「どこいくんですかー!」
 さきほどから、ティアは叫びっぱなしである。だが、いくら声をあげようとも、大の男に小柄な少女が勝てるわけもない。ティアはあれよあれよと言う間に、寝台へと連れ込まれてしまう。
「っ、きゃあ!」
 ごろりとヒースと一緒に横になったティアは、慌てて身体を起こした。このまま押し倒されてしまうわけにはいかない。が、ヒースはそれ以上何かするつもりはないらしく、長い手足を投げ出して、ゆっくりと呼吸を繰り返している。時折漏れる笑い声が、そこはかとなく、ティアを苛立たせる。
 急におとなしくなったヒースをしばし見下ろし、動かないことを確認したのち、ティアは深々と息を落とした。いい大人がなにを……と思う反面、いい大人だからこそこの体たらくなのかもしれないと思う。
 傍らに飛んできたレンポを見上げる。
「……レンポ、おこしちゃってごめんね」
 こんな酔っ払いがきているとは夢にも思わなかったティアは、そう侘びた。不審者といえば不審者だが、ヒースを責める気はなかった。だって、酔っ払いに何を言ったって無駄なのだから。
「まあ、敵とかじゃなくてよかったじゃねーか……」
 くあ、と大きな口をあけてあくびをするレンポに、ティアは力なく笑った。
「そうだね。ここはもういいから、レンポは預言書に戻ってゆっくり休んでね」
 レンポがこくりと頷く。
「おう、そうさせてもらうぜ……じゃあな、ティア」
「おやすみなさい、レンポ」
 レンポが預言書に戻るのを見送って、ティアはゆっくりと視線を下ろした。そこには性質の悪い幻などではなく、性質の悪い酔っ払いが確かに存在している。
 さて、これをどうしてくれよう。
 そういえば、今日は帝国から派遣された使節団がやってきた日ではなかったか。そして、「その中に旧知の友人がいるんだ。まあ、いわゆる悪友ってやつなんだがな」などと、楽しそうに笑ったヒースの顔が、ふと思い出された。
 むむ、とティアは腕を組んで考える。
 つまり、その人と一緒に今の今まで飲んでいて、泥酔した挙句、その足でここまでやってきたのだろう。何のためかはわからないが。
 まったく、なんてはた迷惑な……。でも、まあ、香水の香りとかしないだけ、いいのかも?
 ヒースがそういう店を好まないのは知っているが、友人がそうとは限らない。綺麗なお姉さんをはべらせて、お酒をあおるヒースを想像し、実際にそんなことはなかったとわかっているのに嫉妬心が込み上げた。
 ティアは、ベッドを占領したヒースの鼻をぎゅっと摘む。ふが、と情けない声を漏らし、赤子のようにむずがるヒースの姿に思わず噴出す。わずかに込み上げた嫌な気持ちが、それだけでふわりと霧散していく。自分の現金さに笑いながら、ティアは優しく問いかける。
「ヒースさん、お水でも飲みますか?」
 ひげに包まれた顎が、提案を受け入れるように下がる。それをみたティアは、寝台から降りようとして――がっちりと抱き込むように腰に回された太い腕に困り果てた。
「ヒースさん、ヒースさん」
「ぅ、ん……。ティア……どこに、いく……?」
「えっと、ですから、お水持ってきますから。ね?」
 支離滅裂な言動は、今の状態なら仕方がないもの。ティアは諭すようにヒースに言い聞かせた。
「う、そうか……みず、ぅー……」
 いってほしくないくせに、水も欲しいらしい。迷うように、ひどくゆっくりとほどけていく腕に、ティアは知らずに微笑む。お酒臭いのは勘弁して欲しいが、甘えられているようで、ちょっとだけ嬉しく思うなんて、ほだされすぎだろうか。でも、いつも大人然としたヒースとはまったく違うこの姿は、きっと貴重なもののはず。
 そんなことを思いつつ、部屋の真ん中にあるテーブルの上にある水差しからコップに水を汲むと、ティアは零さないように気をつけながら寝台へと戻る。
「はい、お水です。ヒースさん、起き上がれますか?」
「ああ……すまん……」
 のろのろと身を起こしたヒースの隣に座り、その大きな背をさきほどと同じように支え、ティアはコップを差し出した。剣を振るうにふさわしいがっちりとした手が、それを受け取る。仰け反らせた喉を鳴らし、今にも落ちそうなまぶたと懸命に戦いながら水を飲むヒースに、ティアは小さな笑いをかみ殺す。
 喉を潤し一息ついたヒースが、じっとティアをみつめた。
 もう一杯欲しいのかな? と、首を傾げてその瞳を覗き込むと、灰色を帯びた青い瞳が切なげに揺れた。中身を飲み干されたコップが、ぽと、と寝台に落ちた。
 それがやけにゆっくりと目に焼きついて、あ、とティアが思った次の瞬間。
「……ティア……」
 小さな声をともに、するりと伸びてきた腕が、ティアを包みこんだ。崩れ落ちるように身を屈めたヒースが、頬をすりよせてくる。まるで幼子のようだ。
 一瞬驚いたものの、ゆっくりと身体の力を抜いたティアは、ヒースの頭を引き寄せた。見た目よりずっと柔らかなその髪を梳く。
「……ティア、ティア……」
「はい、なんですか?」
 心臓の音を確かめるように、胸に耳が押し当てられてくすぐったい。そよ風に揺れる木の葉のような、ささやかな笑みを浮かべてティアは問い返す。

「……好きだ……」

 はあ、と深い息をついて、ヒースがそんなことをいう。
 いつもの、ティアのすべてを包むような響きはそこにない。むしろ引きとめようと、繋ぎとめようとするような音だけがそこにある。ヒースの震える心がみえるような気がして、ティアはうっとりと目を細めた。もうひとつ、男の髪に指を潜らせる。
「ヒースさんったら……急に、どうしたんですか……?」
 絹のようなまろやかな声が、自然と落ちた。ティアが、自分でも不思議に思うほど、それは慈しみに溢れていた。
「……いつか、」
 ぐい、とさらに沈むようにティアの胸に顔を押し付けたヒースが、僅かな沈黙のあと口を開く。
「君が……どこかへ、いくかもしれない、と」
「?」
 何のことかまったく意味がわからない。どうして自分がどこかにいくということと、好きという言葉が繋がるのか。
「あいつが……。そんなに、いい子なら……鳥のよう、に、」
 ヒースのいう「あいつ」とは、今日来た友人のことかな、とティアはあたりをつける。酒の席で、自分のことでも話していたのかもしれない。
「いつ、どこに飛んでいっても、おかしく……ない、と」
 たどたどしいヒースの語りに、ティアは眉を下げて困ったように笑った。悪友、と評されていたヒースの友人は、なんだかとんでもないことを吹き込んでくれたようだ。
「……そう、だ……だから……オレは、」

 君を、捕まえにきたんだ――

 ぞく、とティアの背筋が震える。なんだか、涙が出てしまいそうなくらい、胸がせつなさを訴えてくる。
「どこにも、いくな……離れるな……」
 己に縋るヒースを抱く腕に、ティアはわずかに力を込める。
「オレの側にずっと……なあ、ティア……」
 そういったあとは、「好きだ」と、それしか言葉を知らぬように繰り返すヒースを抱きしめ、ティアは笑った。
 可愛い人。
 ふと、そんな言葉が心に浮かんで消えていく。
 なにを話していたのかは知らない。どうしてたきつけられたかも知らない。
 だが、酒を酌み交わす友人との会話に、急に不安になったのだろうヒースが。ティアの存在を確かめずにはいられなかったのだろうヒースが――とても、愛おしいと思う。
 ティアだって、ヒースが自分のもとからいつか去るのではないかという、嫌な想像をしたことがある。とんでもなく幸せで、こんなにもヒースが好きだからこそ、不安になった。だが、ヒースはティアの数歩前を歩いていて、当たり前のように導く手を差し出してくれているから、そんなこと考えるわけも不安になるわけもないと、勝手に思っていた。
 でも違った。同じ――同じだ。
 だから、ティアは言葉にしようと思う。ヒースが望む言葉を、紡ごうと思う。少しでも、その心が温かなもので包まれるようにと、願いながら。
「はい。ずっと、ここにいます。ヒースさんの側にいます。ヒースさんが嫌っていっても、絶対に離れてなんかあげませんから。だから、」
 すう、と息を吸い込む。吐き出す。

「だいじょうぶ、ですよ」

 ぴくりと肩を跳ねさせたヒースが、ゆるゆると顔を上げた。
 いつもとは違い、ティアはヒースを見下ろし、ヒースはティアを見上げる。ありったけの好きという気持ちを込めて微笑むと、ヒースの顔が少年のように綻んだ。
 どちらからともなく、顔を寄せ、唇を重ねる。柔らかく、笑みを交えて幾度も、幾度も。痺れるような舌先の感覚は、お酒だろうか。甘くて、どこかくせになるような、もっと欲しくなるような。交じる吐息に濃密に含まれる酒の匂いに、ティアは酔いそうになりながらヒースに応え続けた。
 そのうちに、ヒースの動きがすこしずつ鈍くなる。ティアのほうから唇をほどいてみると、くう、とヒースが眠りに落ちていた。安心しきったようなその寝顔に微笑まずにはいられない。
 仕方ないなぁと、思いながら、落ちたコップを窓枠の張り出しに置いたティアは、ヒースを寝かせようと試みる。
 が。
「ふっ……く、ぅぅ~~! っ、はあ! もう~……」
 色々頑張ってはみるものの、がっちりと組まれた腕は強固で、外れそうにもなかった。これでは、どうすることもできない。
「う~……もぉ、知らない……」
 息を切らしたティアは、仕方がないので、そのままヒースを胸に抱いたまま押し倒し、横になることにする。毛布が身体の半分ほどにしかかかっていないけれど。まあ、大丈夫だろう。今が冬でなくてよかった。
 二人の体温を絡ませれば、その心地よさに力が抜ける。夜中に起こされ酔っ払いに振りまわされたティアは、すぐに眠りの淵にたどり着く。
 とろとろと瞼を上下させながら思う。

 明日の朝になったらヒースさんきっと驚くだろうぁ……。

 どうしてここにいるのか、どうしてこんな状態になっているのか。それを覚えていても、覚えていなくても、きっとヒースはティアの知らぬ表情をみせてくれるだろう。ばつが悪そうな顔をするだろうか、それとも青ざめて絶句するだろうか。
 ティアは自分のそんな想像に、うっすらと微笑む。そして、酒精の落し物である今宵のヒースを忘れぬよう、その額に口付けて――ティアは糸のように細い視界を、完全に閉じる。
 ふたつの寝息が、子守唄のように静かに重なった。

 

 それから数刻が過ぎ、太陽が東に昇ってさらに後。一日の始まりを告げる小鳥の歌声も消えた、朝の中ごろ。
 小さな家に、男の引きつった声が響いた。
 酔っ払いはそんな自分の声に、二日酔いの苦しみをさらに増し。
 あげく、記憶がおぼろであることをいいことに、愛しい少女に自分がしでかしたことを盛大に誇張されて吹き込まれ。
 ひどく驚いたのち、奈落の底へと落ち込んだ。
 己が醜態を悔いる自業自得の男に対し、しばらく少女から救いの手は差し伸べられず。
 くすくすと、その悩む姿を楽しむ軽やかな声だけが、ささやかに流れていた。

 教訓。

 酔っ払ったまま、恋人の家に夜這いにいくのはやめましょう。