不運 のち 笑顔

今日はとことん運が悪い日だった。
 探索に出かけた先、出くわした魔物に対してジャッジメントリンクをしようとすれば、ことごとく初撃を防がれ。
 ようやく倒したと思ったら、近くの小川へと足を滑らせて落っこちて、おろしたての靴をびしょぬれにし。
 それでもなんとか探索を終えて、さあ帰ろうかと思えば魔物の大量発生に出くわし、その対応に追われて気付けばもう夕刻間近となっていて。
 そして、疲れきって家にもどって夕食の準備をしようと思ったら、空になった食料棚を呆然と眺めながら、買出しにいかなければいけないことを思い出し。
 疲れて街中を歩いていれば、レクスとロマイオーニの喧嘩に巻き込まれ、仲裁にあたって疲れ果てた。
 そして今。
 ティアは、がっくりと石畳に膝をついていた。
 ころころと、紙袋から零れ落ちた食材があたりに散らばっていく。追いかけなければいけないと思うのに、その気力が指先まで伝わらない。
「ティ、ティアちゃん! 大丈夫かい?!」
 今しがた、野菜を買った店の主人からかけられた声に応えるように、ティアは頷いた。
「……はい……」
 しおしおとした声で答え、ティアは深いため息をつく。
 本当に運が悪い。
 帰ろうとして踵を返したところで、何も無いところで蹴躓くなんて。どうかしている。
 茜色に塗り替えられ、星が静かに姿を現しつつある空の下、夕暮れの赤さの中でティアは自分の情けなさに泣きたくなってきた。
 周囲の視線が痛い。涙目になりながら、のろりと手を伸ばしてティアが荷物を拾おうとしたそのとき。ふわりと乾いた風が吹き、濃い影が前方から伸びてティアを覆った。
 思わず顔を上げると、夕陽の強い光を背にして小柄な少年が立っていた。陰になった端整な面に、はめ込まれたような金色の瞳だけが光を帯びて輝いている。純粋な心そのままに、とても綺麗に澄んでいる。そのつりあがった瞳が、二度三度と瞬きをした。
 砂漠の民特有の模様が描かれた、上着の裾が翻る。背負った大きな剣の威圧感とは対照的に、きょとんとしたあどけなさの残る表情で、アンワールが口を開くのが見えた。
「何をしているんだ、ティア」
 まったくもっておっしゃるとおり。そう問われても仕方がない状況だ。ティアは、自分の現状をことさらに自覚して、頬を染めた。みっともないところを見られたと、そう思った。
「えっと、その、こ、ころんじゃって」
 えへへ、と笑ってみせつつも、恥ずかしくて目を伏せる。事実を短く告げながら、止まっていた手を伸ばし動かし、荷物をかき集めていく。
「そうか。大丈夫か?」
 当たり前のように膝を折り、アンワールもティアの荷物を拾ってくれる。そして気遣う言葉を受けながら、ティアはぎこちなく頷いた。
 実際、膝も手のひらもじんじんと痛みと熱を訴えているのだが、心配をかけたくなかった。受け取ったものを紙袋に戻し、ぎゅうと詰め込む。
「あ、ありがとう。もう大丈夫だから……!」
 そういいながら、その言葉通りに元気に勢いよく立ち上がったとき。びり、と避ける音がした。
 そして。
 どざーっと、今度は袋の底が破けて中身がふたたび落っこちた。ばらばらと、あたりに散らばる果物と野菜。その他。
「……」
 静寂とともに、あたりの時間が止まったような気がした。あまりのことに、周りの店の人たちも目を丸くしているし、通行人の人も口元に手を当てて驚いている。アンワールだけが、いつもどおりの静かな表情であることが、余計目に付いた。
 はく、とティアは口をひとつ動かして、ゆるゆると俯いた。
 腕には底の抜けたもう役に立たぬ紙袋。穴からは足の上にあるセロリが見えた。
 か、と体内に火が灯ったと同時に、胃の辺りが冷える。今朝からこれまでのことが、ティアの脳内を一気に流れて駆け巡る。
 なんで、どうして。私ばっかり。
 つんと鼻の奥が痛んだ。瞳に熱いものがせりあがってくる。
「う、ふ、ふぇ……」
 堪えようと思ったのに、嗚咽が喉から勝手に飛び出した。こうなったらもう抑えられない。
「ティア……?」
 近寄ってきたアンワールが、そっと顔を覗き込みながら優しく頭を撫でてくれるものだから、余計に涙が引き出された。
「ふ……う、うぇぇん!」
 ティアは、とうとう盛大に泣き出した。
 おやつを買ってくれないと駄々を捏ねる子供でもあるまいし、こんな場所でこんなことをすれば余計にみっともなさを募らせるだけだとわかっているのに止まらない。
 普段なら、今日起きたことがあってもこんなことにはならないはずだ。だってそれは、こんなにも重なるものではないはずだから。ひとつふたつくらいなら、対処のしようはいくらでもあるし、ティアだって気にしないでいられただろう。こういうことがあったんだよ、と誰かに笑って話すことだってできただろう。
 だが、なぜ今日はこうも不運なことばかり重なる? 今日の自分の頭上には、きっと不幸を司る星でも瞬いているに違いないと根拠のない八つ当たり気味なことまで考えてしまう。
 降りかかった不幸と、それらに対する思いを洗い流すように、えぐえぐとティアが泣いていると、アンワールがすっと離れていく。
「っく……ぅ、あんわーる……?」
 呆れたのだろうかと涙で歪む視界でその後を追いかけると、心配げな顔をした店主から、新しい袋を調達してくれているのが見えた。
 自分でやらなければいけないことなのに、身体が動いてくれない。頬に零れる涙を拭うだけで精一杯だ。
 泣いているティアを余所に、アンワールがひょいひょいと野菜をつめなおしていく。やがて終わったらしく、伸びてきた褐色の手がティアの手首を掴んだ。
「いこう、ティア」
 片手に荷物。もう片手にティアを引き摺り、アンワールが歩き出す。ティアは手を引かれながら、その後姿を呆然と見つめた。紫紺色の髪が靡いて、夕焼けにきらきらと輝いている。
 ぽろりと涙を零す視界はぼやけているはずなのに、その美しさだけはやけに目に付いた。そのまま、よろよろとおぼつかない足取りで、ティアは導かれるままローアンの中央街をあとにした。

 

 夕暮れの間から生まれた闇に満たされた我が家の中、ここまで連れてきてくれたアンワールがテーブルの上に荷物を降ろす。
 家の入り口に突っ立ったまま、ティアは少し落ち着いてきたものの、まだ涙を零していた。濡れて冷たい頬に、また新たな熱い涙を伝わらせていると、アンワールが近寄ってきて頬に手を添えてくる。
「うぶっ」
 いつの間にか持ってきていたタオルで、ごしごしと少し乱暴に拭われて、ティアは小さく声を漏らした。されるがままにしていると、あらかた水分を拭き取ったアンワールが、ティアの両頬をタオル越しに包み込み、瞳を覗き込んでくる。
「ティア、どうしたんだ一体。なぜ、急に泣いたりした?」
「だ、っ、だって、だって……っく、ぅ、……ひっく」
 ぽろ、とまた目尻に浮き上がった涙は、タオルに落ちて吸い込まれた。アンワールに、たくさんのことを聞いて欲しいのに、ひきつる喉からは上手く言葉がでない。
 いつものアンワールならちゃんと待っていてくれるのだが、今日は違った。
「とにかく、膝みせてくれ。血が出ている」
 心配さが滲む声でそういわれ、ティアは肩を抱かれて家の中へと歩き出した。そういわれれば、転んだときよりもずっと痛いし、歩くたびに空気が触れてなんだか冷たい。ゆっくりと椅子に腰かけたのに、びりりと電気が走った。
 そーっと覗き込んでみると、タイツが破れ血に塗れた皮膚が露出していた。このタイツもまだまだ穿けたものなのになんということだろう。また、じんわりと涙が浮かぶ。頭上から、アンワールの声が降ってくる。
「ティア、薬箱はあるか?」
「んっ、く……うん……、そこの棚の、右下に……」
 ティアの指示通り、アンワールはその場所へと歩いていく。ティアはアンワールが薬箱を探している間に、タイツを脱ぐことにする。このままでは、治療もままならない。ティアは大きく息を吸い込み、震える肺を叱咤する。
「アンワール……ちょっとだけ、そこにいてね」
「……? わかった」
 目的のものを探し出し、立ち上がろうとするその背に制止の言葉をかけて、ティアは靴を脱ぎ、わずかに腰を浮かせるとタイツを足から引き抜いた。
 今度は痛みに対する生理的な涙が目に滲む。ティアはゆっくりと、数回深呼吸して、膝をそーっと覗き込んだ。そこは、思った以上にひどい有様だった。ティアは、へにゃりと眉を下げた。
「もういいか?」
「うん……」
 ティアが弱弱しく頷いて返すと、アンワールがすぐさまもどってきて跪いた。薬箱の蓋をあけて、中のものを確認すると手早く手当てが開始される。
 中にあるのは、ローアンで手にはいるものもあるが、大半はナナイお手製の薬ばかりだ。砂漠の民であるアンワールにも、使い慣れたものなのか、戸惑うことなく処置がされていく。
「う、うぅ~……」
 ぼんやりとその手際を見守っていたティアであったが、小瓶に入った液体を含ませた布を傷口にあてられたとき、思わず顔をしかめた。
 だがそれもつかの間のことだ。すぐに手当ては終わり、アンワールが薬箱の蓋を閉めた。ぱたんと、小さな音が静寂の家に響いた。
「もうこれで大丈夫だ」
「ん……ありがとう、アンワール」
 ぐす、と鼻を啜りながら礼を述べると、アンワールがふわりと微笑んだ。ゆっくりと頭を撫でられる。
「痛かったのか?」
 それもある。それもあるけれど。
「ちがうもん……」
 ふるふるとティアは頭を振った。思い出しただけで込み上げる悔しさやら恥ずかしさやらに苛まれながら、またも浮かぶ涙を指先で払い、ティアは今日あったことをアンワールへと洗いざらいぶちまけた。
「だって、だって……! 今日は天気がよかったから気持ちよくて、ついつい遠出してしちゃって、でもそこにいた魔物は手強くて、気付いたら川に落ちちゃって靴は濡れちゃうし!」
「そうか。それは大変だったな」
 アンワールが、静かにひとつ頷く。
「それにね、それだけじゃなくてね! もう帰ろうかと思って草原にでたら、すっごくたくさんの魔物がいて……! これじゃ皆も困ると思って、だからっ」
「ティアは、皆のために戦ってきたのか」
 労うように、アンワールの手が優しくティアの髪を撫でていく。
「それなのに、それなのにね、帰ってきたらご飯作ろうにも材料がないし、買いに行こうとしたらレクスたちが喧嘩してて、私びっくりしちゃって……」
「ティアは優しいな」
 そういう場面に出くわしたティアがとる行動を見透かしたように、アンワールがいう。
「やっと二人とも仲直りしてくれてね、それで市場にいったら転ぶし袋破けちゃうし、アンワールにみられるし……!」
 思い出して浮かぶ涙を、アンワールがタオルの端でそっと取り去っていく。そして、アンワールは頷いた。
「そうか、今日はティアにとってよくない日だったのか。だが、」
 頬を撫でられながらティアがしゃくりあげると、アンワールが微笑んだ。
「たくさんのいいことを、してきた日でもあったんだな」
 いいこと。
 思いもかけぬ言葉に、きょとん、とティアは目を瞬かせた。涙が、ひゅうとひっこむ。
 手強い魔物は、自分でなければ倒すことは難しかっただろう。魔物の大量発生も、自分でなければ鎮めることは難しかっただろう。レクスとロマイオーニの喧嘩だって、あの場にでくわさなければどうなっていたかわからない。すべてのことは、どうあっても自分でなければならないというわけではないだろうが、結果的には己がいたからどうにかなったのかもしれない。
 いいことをしてきたのだとアンワールにいわれ、そう考えられるようになったティアの心が、ふわりと軽くなる。
「そう、かな……」
「ああ、そうだ」
 アンワールの肯定に、急に照れくさくなってきたティアは、ゆるゆると俯いた。
 ティアの前にしゃがみこんだままのアンワールが、困ったように長い睫を伏せる。
「だから、もう泣かないでくれ、ティア」
「ん」
 ようやく乾いてきた頬に、ぴたりと手のひらがあてられる。あたたかくて心地よい。そこから、アンワールの優しさが伝わってくるようだった。自分を心配してくれる、彼の心が嬉しい。
「ティアに泣かれたら、オレは何もできない。そばにいることしか、できない」
 そんなことはない。たった一つの言葉で、ティアは救われたのだから。だけれど、もっと我侭を許してくれるなら。
 抱きしめて。慰めて。そうして、愛のこもったキスをして。
 そう告げたわけでもないのに、アンワールがそっと身を寄せてきてくれて、ティアは頬を染めた。ティアは上半身を傾けて、手を伸ばしてくるアンワールを迎え入れる。
 首筋に、アンワールが鼻先を摺り寄せてくる。それはまるで、野生の動物が仲間の傷を心配して鼻先を摺り寄せるのに似た、自然で純粋な仕草だった。
「ほんとにもう、大丈夫だよ」
 ありがとう、アンワール。
 小さくそう零せば、アンワールがさらに伸び上がって唇を押し当ててくる。頬に、額に口付けを受けながら、ティアは小さく息を漏らした。
 そうしてもらうことで、今日一日に起きたこと全てが積み重なって心に圧し掛かった何かが、さらさらと風に飛ばされていくように思えた。
「なら、笑ってくれ」
「……うん」
 そう願うアンワールと、ふわり、唇が重なってティアは瞳を閉じる。
 そうしてしばらく、ティアは今日の不幸せをすべて埋めるように。
 アンワールに口付け、アンワールから口付けをもらい――ゆっくりと唇を解いて視線を重ね、いつものように愛しい人へと微笑みかけた。