夜明け前、目覚めの光を甘受していない世界は、未だまどろみの淵を彷徨いながら、その色を変えていく。
昼に生きるものは覚醒を促されつつ、寝床から起き。
夜に生きるものは睡魔に誘われつつ、寝床へと帰る。
そんなものたちが一時だけ交じり合う頃合、空高く浮かび上がった天鳥船の一室で、千尋は穏やかな眠りに身をゆだねていた。
気高き鳥の神によって動かされるこの船は、大地のさざめきも遠く、ただ風の音だけが木霊している。
ふ、と頬を撫でた冷たい大気が揺らぐ感触に、千尋は目を覚ます。
母の胎内で育まれる幼い生命のように丸くしていた身体を伸ばし、千尋は手をついて上半身を起こした。
するりと無意識のうちに手を滑らせる。自分の隣にあるはずのぬくもりを求めても、そこに探した人はなく。
「とおや……?」
寝ぼけた眼を縁取る長い金の睫をゆっくりと上下させ、千尋は頭をめぐらせた。
どこにいってしまったのだろう。手を重ね、体温を分け合って眠った昨夜、彼は確かにここにいたのに。
自室に戻ったのかと一瞬思いもしたが、遠夜が自分を置いていくわけない。
根拠はないが、そんな確信が千尋にはあった。
では――どこ?
思案する千尋の耳が、寝台のあるこの部屋の壁を越え流れてくるかすかな歌声を捉えた。闇夜でもほのかに光るような、澄んだ歌声。でもすこしだけ、いつもと違うような気がした。
寝巻きの衿を掻き合わせ、千尋はするりと寝台を抜け出す。
一歩、また一歩と踏み出せば確かに聞こえる耳馴染んだ音色に、頬が緩む。
そうしてゆっくりとたどり着いた先に、捜した人がいた。
夜明けに白み始めた空を見上げ、消えゆく星たちを見送るように背筋を伸ばし、喉を震わせている。伸びやかな声が、風に連れられ冷えた空へと舞い上がっていく。
どこか神聖な雰囲気がそこにあるせいか、千尋は声をかけられず、ただ耳を澄ませた。
心の迷いも、胸に宿る不安も、安堵へと塗り替えるような不思議な土蜘蛛の呪い歌。
言葉の意味はわからないけれど、どれだけ聴いても飽きることなどないだろう。
そういえば、この歌は今まで聞いたことないな、と千尋は思う。
今、紡がれているものはどこか熱っぽい。いつもの涼やかな、水面を渡る風のような清廉さはなりを潜め、何かを請うような切ない響きが場を支配している。妙にどきどきする。なんだか、無防備なその後ろ姿に触れたくなってしまうような、心惹かれる音。
遠夜の歌は、どれも素敵だけれど。この歌はその中でも一番好きになりそうだ。
千尋はうっとりと瞳を閉じる――だが、どんなに素晴らしい歌も終わるものだ。
途絶えた声が、とても惜しくて。もう少し聴いていたかったな、と思いつつ視界を開けば、紫紺の視線にぶつかって千尋は目を瞬かせた。
いつの間にこちらへ向いていたのか、遠夜が和いだ瞳で千尋をみつめていた。
聞惚れていた姿を見られていた気恥ずかしさに、頬が熱を持つ。起き掛けであったことも思い出して、加速度を増した照れが全身を駆け抜けた。慌てて髪を撫でつけ、寝巻きを整えれば、遠夜が楽しげに声を零した。
いくら恋人とはいえ、いやむしろ恋人だからこそ、こんな姿を笑われていい気はしないもの。千尋はわずかに頬を膨らませる。
ちょっとだけむっとして、ちょっとだけ驚かせたくなって。
まだ声の余韻が残る大気を分かちながら、床を蹴って遠夜へと飛びついた。
だが、遠夜は驚いた様子もなく、揺らぐことなく千尋を受け止める。こんなところが、細身であるのにやはり男の人なのだと千尋に実感させる。
「もう、何がそんなに可笑しいの?」
「まるで寝床から起き出したばかりの栗鼠の仔のようだ、と」
小動物と同じように思われたらしい。
複雑な思いをもてあましていると、するりと髪が撫でられた。
「神子はどんなときでも、愛らしい――そう、思った」
千尋の胸が、締め付けられて疼く。遠夜の声が、あまりにも甘いせいだ。胸の奥が融けてしまいそう。
「そ、そんなことないよ。寝起き姿なんてみっともないって、みんな思うよ」
「他人のことはわからないが、オレはそう思わない。だから、オレだけにみせてくれればいい」
「……」
遠夜だから余計に恥ずかしいのだと言いたいけれど、その台詞は喉に張り付いてでてこない。だって、あんまりにも遠夜が嬉しそうだから。子供の楽しみを取り上げるような罪悪感が、千尋の言葉を押しとどめていた。
どうしようもなくなって、茹だった顔を遠夜の胸に押し付ける。遠夜はゆったりとそれを受け入れてくれる。その広い背へと回した手で、衣を握る。
そうして身を寄せ合い、否定も言い繕うことも諦めた千尋は、前から聞きたかったことを口にする。
「ね、遠夜」
「なんだ、神子」
そっと、長い褐色の指が千尋の頬に添えられる。慈しむように撫でるその指先の心地よさに瞳を細めると、遠夜が覗き込むように顔を近づけてくる。
「どうして、遠夜の声はそんなに綺麗なの?」
彼の衣から、嗅ぎなれない薬草の香りがする。どこか爽やかなそれを千尋はゆるゆると肺に押し込め、同じように吐き出して問う。
「それは、神子の耳へ心地よく響かせるためだ」
己の声を聞き届けて欲しいという祈りに似た、彼にとって決して揺らぐことのない真実が語られる。淡々と告げる穏やかな声が、千尋の耳朶から全身に染み渡り、心臓が早い律動を刻み始める。
「どうして、遠夜は歌があんなに上手なの?」
華奢な腰に回されたもう一方の大きな手が、わずかな隙間さえ作ることを許さぬように、千尋を力強く引き寄せた。
「それは、神子の瞳にオレを映して欲しいからだ」
自分だけを見て欲しい、そう強く願う男の瞳をしているのに、その面は野辺に咲く可憐な花のように綻んでいる。柔らかな銀の髪に縁取られた笑顔を間近で見上げ、千尋は熱い息をこぼした。
すべては千尋のためと躊躇うことなく言ってのける遠夜への、最後の問い。
「じゃあどうして、遠夜は私のために歌ってくれるの?」
今、互いの瞳には恋しい人だけが宿っている。それは、幸せそうに微笑んでいた。
「それは、神子の心にこの想いのすべてを伝えたいからだ」
それしかできない自分にとって、これが最善の方法なのだと。近づく艶やかな唇が動く。
知っているよ。わかっているよ。
歌だけじゃない。視線から、手の平から、指先から。今まさに触れてくる唇からも、遠夜の「好き」という純粋な気持ちが、溢れていること。
柔らかな口づけに、軽く眩暈を感じる千尋を遠夜はしっかりと支えて囁く。
「あの歌も、神子のもの。オレの想いを言の葉に乗せた、神子だけの歌。ずっとずっと、お前のためだけに歌い続けてきたものだ。ようやく、届く。やっと、伝えられる」
ほんとうに嬉しそうに、遠夜が笑う。
そこに翳りや曇りといったものは、微塵もない。だけど、その向こう側に何かが見える気がした。ずきん、と胸がひとつ深く痛む。
この人は、月読の君と呼ばれていた頃から今のこのときまで、どれほどそこにいない者へと歌い綴ってきたのだろう。
受け取り応える者はなく、伸ばした指先を握る手はなく、その隣に寄り添うぬくもりのない、気が遠くなるような時間。
もし、自分がその立場に置かれたならば、耐えられるだろうか。
思い馳せただけで、千尋の胸が張り裂けそうになる。
どうか自由に幸せにと願ったけれど、その結果、始まりの神子は――遠い昔の自分は、ずっと遠夜を縛り続けてしまった。彼に孤独を選ばせた。
申し訳ないという気持ちと、もうひとつ浮かび上がる感情に、青い瞳が潤んだ。
「神子……? なぜ、泣く。嫌、だったか?」
おろおろと視線を彷徨わせた遠夜が、狼狽しつつあやすように千尋の背を撫でる。
静かに、だが力強く千尋は頭を振った。そんなことない、絶対に違う。軋む胸に宿るものが、そうさせただけ。身体の内で膨張した感情が、弾けるように言葉になる。
「ありがとう、遠夜」
千尋を見つめたまま、遠夜が小さく首を傾げた。どうして、そう言われるのかわからない――そんな疑問の色が、瞳に過ぎる。
だから、重ねる。
「ありがとう……ずっと、私を好きでいてくれて。ありがとう」
ずっと探してくれていた。求めてくれていた。待っていてくれた。
彼への謝罪よりもなお大きい、彼に愛されていることの歓喜が、どうか伝わりますように。
「神子……」
そんな千尋の想いがわかったのか。ほっと、遠夜が安堵に小さく息をついて、強張った身体から力を抜く。
ぎゅ、と遠夜を抱きしめて千尋は考える。
どうしたら、自分のすべてを包み込むように与えられるものに応えられるだろう。報いることができるだろう。遠夜は当然の行為と思っているようだが、甘えているだけではいられない。だって、恋人同士でそんなのは不公平だ。それに、想いの強さで負けているつもりは、ない。
千尋は、ひとつ涙を頬に弾けさせ、遠夜の顔を見上げて晴れやかな笑みを咲かせた。
「私も、遠夜のために歌うよ。大好きだよって、ずっと傍に居るよって。私の言葉で歌うよ」
大きな暁色の瞳を見開いた遠夜は、次の瞬間、子供のように無邪気に笑った。
「ああ。神子にできないことはなにもない。だから、きっと綺麗な歌が世界に響く。オレに、届く」
堅く抱きしめあう二人に、今日という日の始まりを告げる陽の光が降り注ぐ。祝福するかのような輝く色彩の中、ともに歌おうと誘う遠夜に千尋は幾度も頷いた。
いつかきっと。
それは、二人の間で永久に響く愛の歌となるだろう――