千尋はほとんど何もしていない。眠ることも、食事を取ることも、水を口にすることもなく、ひたすら座していた。
どこか遠くから届く、星が震えるような響きの鈴の音を聞きながら、千尋は月の光に満たされた宮の中で考える。
いつまでも、こうしていていいわけがない。忍人を前にしてから随分と時間がたったような気もするし、まだほんの数時間しかたっていないような気もする。
誰かが、幾度も自分の様子を伺っていたのも、なんとなくわかっている。
自分は忍人が望むように王となった。次はその責務を果たし、彼が望んだような王とならねばならない。人々が笑って心穏やかに、理不尽なことで大切な人が命を落とさぬような国を築き上げるのだ。そのためには、ここにいるべきではない。
忍人が今の自分をみたら、きっと失望するだろう。
わかっている、わかっている。
でも。
身体が動かない、心が動かない。
何もかもが、色彩を欠いてしまった。世界のすべてが灰色に塗りつぶされてしまった。光も闇もない。ただ、なにかがそこにあるだけの無味乾燥な世界になってしまった。
ああ、いつの間に。
私はこんなにも、この人を愛していたのだろう。
伝えたかった、ともにありたかった。一緒に生きたいと願っていた。彼と語り合った夢は、自分自身にもあてはまっていた。大切な人が理不尽なことで死なない平和な国を思い描いたのは、己の生きる場所がそうであって欲しいと思ったから。
私はこの国に生きる人々のためにも、その夢を叶えるべく立ち上がらなくてはならない。
それをきっと忍人は望むはずなのに。
「おしひとさん……おしひとさん」
瞳を閉じて、両手で覆う。かさついた指先が、瞼をひっかいた。
涙がでない。すべて出し尽くしてしまったのかもしれない。彼の名を呼ぶ自分の声はひどく擦れている。凍りついた身体が軋む。そのまま細かな氷となって砕けてしまいそうだ。ああ、そうできたら少しは楽になるのだろうか。
会いたい。
――あいたいの。こえがききたいの。どうかわたしのなまえをよんでおねがい――
ああ、また。私は彼を失ってしまった。
そんな思いが千尋の脳裏を掠めて消えていく。
どうして「また」などと思うのかわからない。でもいつだったろうか、こんな風に彼を前にして、泣き崩れたような気がする。
幾度も、こんなことを繰り返した。
幾度も、忍人を失ってきた。
彼と心通わせた未来を生きたいと願うことはそんなにも罪なことなのか。
でも、それでも、彼とともに生きたい。生きていたい。
心に静かに降り積もるこの想いはいつになったら、かなうのだろう。
ぼんやりと、千尋がそんなことを考えていると、鈴の音が一層激しく鳴り響いた。それは重なり合い、包み込むように広がっていく。
そして。
――それが、汝の望みか
脳に直接、厳かな声が響いた。
その声の持ち主を意識することなく、千尋は素直に頷く。
りん、と耳元で鳴る鈴に誘われるように、ゆっくりと瞼を開く。目の枷となっていた手を、ゆるゆると外す。
いつの間にか、白い輝きが千尋の目の前に在る。祭壇上の忍人と、自分とのちょうど中間に位置するように存在するそれは、まるで死と生を分かつ門のようだった。それは人をそのまま取り込めるような大きさの光の塊。白い、太陽。
――ならば、取り戻しに往くか
それが叶う道があるのなら。どのような試練があっても、厳しき道であったとしても望まぬわけがない。
光を映して、千尋の青き瞳が煌いた。意志の輝きが戻ってくる。唇を引き結び、ぐっと顔を上げる。
その決意に応えるように、光の中から浮き上がるようにして現れた二振りの太刀は、よく知っているものだった。
忍人が死してすぐに、神官たちによっていずこかへと持ち去られていた神器。
彼の想いが荒ぶるその姿を鎮め、本来の白き刃を取り戻した生太刀。
どうしてここにそれがあるのか。目の前に輝く光もその声の正体さえ、定かでない。
だが、これが自分の望みを問うことだけが、大切な事だった。そして、それを叶えるだけの力を持っていることだけが千尋にとって何よりも大事な事だった。
千尋にはわかる。この声の主は自分へと最大の好機を与えようとしている。それは忍人を取り戻すための、最初で最後の機会。そして、この声にはそれを成すだけの力が溢れている。
よろり、と石になってしまったような重い足で立ち上がる。ぐらりと傾ごうとする身体を精神の力だけで抑え込む。
幾度か耳にしたことのある、震えるような刃の歌が紡がれる。呼びかけるような、問いかけるようなその音。
生太刀が、己を手にしろと鳴いている。千尋はゆっくりと手を伸ばす。
「いけません、我が君!」
制止する誰かの声に、伸ばした指をそのままに、緩慢な仕草で振り返る。
その先に、床に縫いとめられたように動けなくなっている柊がみえた。
ああ、そうか。
千尋の意識の中、いくつもの景色が現われ流れ消えていく。
皆、皆、心配してくれていた。今も、案じてくれている。
じんわりと心に広がる、彼らの優しさにほんのりと笑って、千尋は瞳を伏せた。
もっと迷惑をかけるけど、どうか許して。
正面に向き直り、そっと太刀の柄に手を置いた千尋の脳裏に、男と女の声が響く。聞いた事のない、だれかの声だ。
――汝、我らとともに黄泉路を下るか
――我らが主の黄泉還りを望むか
千尋は迷わない。
はい、とただ一言口にする。
男女の声が重なり響く。
――なれば、死と魂を司る神に拝謁せよ。そして、願え。汝の求むるものを
手が、腕が、動く。千尋の意識ではなく誰かの意思がそうさせる。
その切っ先が、心の臓の真上に狙いを定め、千尋はそっと瞳を閉じる。
息が途切れた瞬間に、ぐっと力をこめた。
そうして、自ら振り下ろした生太刀の刃をその胸に受けとめて、千尋の意識は闇に溶けていった。