頬に滴ってくる汗を、無造作に手で拭う。
初夏をすぎ、夏の盛りを迎えたこの時期、舗装された道を陽炎が包んでいる。ゆらり、ゆらり、世界が歪む。
呼吸を深くすれば、眩暈がするような、むせかるような、熱気と緑のにおい。
風が吹く。ざわめく木々で、たくさんの蝉が、鳴いている。幾重にも重なる、地上での短い生を謳歌する命の響きが、耳に痛い。
一度足を止め、また、汗を拭う。一息つくように、あたりに目をやる。
管理が行き届いているのだろう。青々とした芝生に覆われた土地に、規則正しく白い石が並んでいる。今日は、誰の影もない。暑いから、だろうか。
顔を前へと戻す。ゆるやかな斜面に誂えられたこの場所の上には、大きな樹がそびえている。夏の風に、その梢が優しく揺れている。
あと、もう少し。
己を叱咤し、ふたたび歩き出す。
手にした白い花から、淡い香りが漂った。
辿りついたところには、先客がいた。さきほどは気づかなかったのに。
白い石でできた墓標を前に、立ち尽くしているのは、ひとりの少年だ。
その格好に、見覚えがある。雄英高校の夏服だ。背中に何が入っているのかわからないが、大きな黄色のリュックを背負っている。
ここまであがってきた人の気配に気づいたのか、少年が振り返った。
あちらこちらを向いた癖のある緑色の髪。大きな緑の瞳。頬に散らばるそばかす。顔の造りはあどけないが、ひどく大人っぽくみえる穏やかな眼差しをしている。自分と同い年くらいなのに。
こちらをみて綻んだ顔に浮かぶのは、優しい笑みだ。まるで、懐かしい友をみつけたような、そんな気さくさが滲む。
「こんにちは」
そう挨拶をしてくるが、知らない奴だ。だが、挨拶には挨拶を、と言い聞かせられてきた。
「……ちは」
小さく、ぶっきらぼうではあるが、ひとまず返しておく。
普通の人間なら、ここで終わりだ。こんな不機嫌そうな挨拶から、話を発展させようなどとは思うまい。
だが、人当たりの良い笑顔を浮かべるこの少年は違った。
「君、雄英高校ヒーロー科の爆豪くん、だよね?」
ぴくり、とここまで一人であがってきた少年――爆豪は、肩を震わせる。
ヒーロー科の在籍人数は少ない。爆豪に覚えがないから、普通科かサポート科、はたまた経営科かもしれない。いや、それとも学年違いかもしれない。
それはさておき、同校の生徒とはいえ、なれなれしく話しかけられるいわれはなかった。
爆豪は、眉間に皺を寄せる。
「なんだ、テメェ」
「僕? ただのヒーローオタクだよ」
低い声で何者かと誰何したが、少年はなににも怯えることはなく、あっけらかんとそういった。爆豪の頬が引きつる。
「……オタクって自分で言うか、普通……?」
爆豪が認識するオタクとは、どこか卑屈そうな態度、ままならぬ会話、自分の小さな世界に閉じこもり気味、知識は深いが、それゆえ取扱いが厄介な人種、といったところである。
だが、この少年はそういった感じは受けない。明るく、親しみ深く、恥ずべきところなどないと、そのまとう雰囲気がいっている。
洗練されてはいない。だが朴訥とした空気は、嫌なものではない。
ヘンな奴に出くわした。
そう思ったが、ここで回れ右をして去るわけにもいかない。わざわざここにきたのには、目的があるからだ。
ちらりと、爆豪が視線を向けた先にある墓標は、とある有名なヒーローのものである。きっとこの国に住まうものなら、誰しもが知っている。百年後にも語り継がれるだろうほど、名を馳せた男。
「オタクっつーなら、このヒーローのファンか」
平和の象徴、最高のヒーローと称され、いまでも彼に救けられた人々や、彼に憧れる者たちが、墓参り頻繁に訪れるという。
その証拠に、この暑いさなかにもかかわらず、備えられた花はしおれることなく瑞々しい美しさで、夏の風に揺れている。
きっと、自分たちより先に、幾人ものファンがきていたのだ。もしかして、この少年がもってきたものかもしれないが。
そんなことを考えていると、少年は腕を組んで首を捻った。う~ん、と眉間にわずかに寄せて考え込んでいる。そこまでしなきゃわからんのか、と少しだけ思った。
「ん、んー……ちょっと違うんだけど、まあ、そんなものといえばそんなものだよ」
「意味わかんねぇ」
長考の末に導き出されたなんとも曖昧な返事に、爆豪はあからさまに顔をしかめた。
少年はそんな表情をされても相変わらず動じることはない。優しそうな見た目からは想像できないような、鋼の精神を有しているらしい。
大きな瞳が、爆豪を映して微笑む。
「そういう君は? このヒーローのファン?」
いや、と頭を振る。
「じいちゃ――ジジイが、自分の代わりに墓参りしてこいって、ウルセーから」
いつもの調子で言いかけた言葉を訂正し、墓標の前に立つ。たくさんある花束の上へと、もってきた花束を重ねて置いた。
「そっか。だから、今年は君ひとりなんだね」
「ああ」
そうして、爆豪は手を合わせ、瞳を閉じた。
こういうとき、何を思えばいい実際のところ、よくわかっていない。
ただ、いつもここで祈りを捧げる祖父の背を、思い描いた。強く逞しく、憧れるばかりの背中が、一瞬だけ小さくなるせつなさを、ただ思い出した。
目を開けば、隣に少年が立っていた。墓標ではなく、大きな樹を見上げる姿。ヒーローオタクといいながら、この墓標で眠る偉大なるヒーローにさしたる興味を示さないことに、逆に興味がわいた。
「なあ、もしかして、ジジイのことしってんのか?」
爆豪の祖父は、ここに葬られているヒーローと同じくらいに有名なヒーローだ。自分のことを知っているならば、その可能性が高いと思ったのだ。
すると、ぼう、と遠いどこかを映していた瞳が、きらりと輝いた。そばかすの散らばる頬が、ふんわりと色づく。
「もちろんだよ! すごいヒーローじゃないか! 僕が一番のファンだって思ってるくらい好きだよ!」
早口でまくしたてられ、一瞬驚いたが、すぐに爆豪は声を荒げた。
「それは俺だっつーの!」
勢いよく噛み付けば、少年が目を見開く。
しまったと口を押さえるが、少年の瞳がひときわ輝いた。だがそこに、馬鹿にした様子など欠片もない。仲間をみつけたといわんばかりの素直な歓喜を前に、ぐう、と喉が鳴った。
「そっか! 君、おじいちゃんが大好きなんだね!」
あけすけもなくそういわれて、戸惑う。だがここには同じクラスの人間などはいないし、まあ、悪いやつじゃなさそうだし、と悩んだ結果、爆豪は頷いた。
「……ああ。じいちゃんはな、すっげぇ格好いい、ナンバーワンヒーローだからな」
「そっか、うん、そうだよね! ほんとうに格好いいもんね! 特に、ほら、あの事件のときとか――」
しかしながら、ここから始まった怒涛のヒーロー会話についていけず、爆豪は「オタクって怖い」という間違った認識を持つに至るのだった。
ほうっておいたら、いつまででもこの炎天下で一方的なヒーロー談義を繰り広げられそうだったため、爆豪は少年を促し大樹の影へと移動した。
小さな白いベンチが置いてあるので、二人並んで座り込み、あれこれ話した。
さすがにオタクと自称するだけあって、少年の知識は深く、爆豪ですら知らなかった事件の詳細も知っていた。
「……おまえ、マジくわしいな」
ドン引きするとまではいかないが、こちらを圧倒するような波状攻撃に、爆豪は呆れ半分感心半分で呟いた。
「えへへ……。あ、ごめん、僕ばっかり喋っちゃって」
照れたような、恥ずかしそうな顔をしているが、たくさん語れてすっきりしたとその表情が物語っている。
熱い風がなだらかな斜面を撫でるように駆け上がってくる。ぶわりと髪がもちあがり、服の裾がばたばたと泳いだ。
さっきまでの勢いがなくなると、それはそれで心地が悪い。まるでじっと品定めするようにみつめられて、爆豪は視線を泳がせ、喋るつもりはなかったはずなのに、みずから口をひらいた。
「俺はな、じいちゃんみたいなヒーローになるために雄英にはいったんだ」
普段はジジイなどと呼んでいるが、幼いころから抱いた憧れは色あせることなく、今も爆豪の胸の内にある。きっといつか、あの輝きに至ってみせる。それだけを目標にして、雄英での厳しい生活に耐えている。
それだけの想いを短い言葉に感じ取ったのか、少年がふわりと目を細めた。
「そっか。君なら、絶対にヒーローになれるよ」
ここまでヒーローに詳しい奴にそういわれると、根拠など示されていないのに、信じてしまいそうになる。騙すつもりも、おだてるつもりもないだろう率直な言葉を、嬉しいと思った。
「……おう」
むず痒いものを覚えながら爆豪が笑えば、少年もまた笑った。
そんな二人の合間に、ごう、と風が吹く。
夏らしい暑さをはらんだその風に、爆豪は目を細める。その中に感じるにおい。夕立が、きそうだ。
「雨がくる」
「え、こんなにいい天気なのに?」
少年が驚いて空を見上げる。たしかに青い空にはわずかな雲が浮かんでいるだけで、そういった気配はなさそうにみえる。
だが、目下のところ、爆豪のこういった勘が外れたことはない。
「夕立になるんじゃねえか。バスの時間もあるし、もう帰ったほうがいい」
「そっか。話に付き合ってくれて、ありがとう。すごく楽しかったよ」
爆豪が立ちあがっても、少年は座ったままだ。
「てめぇ、どうすんだ」
動く気配を見せない少年に、爆豪は問う。ここでずぶ濡れになりたいのだろうか。
「僕は、まだだから。もう少し、ここにいなきゃ」
「……ああ、迎えがくんのか」
それに返事はない。ただ、少年がにこりと笑ったので、そうなのだろうと勝手に納得した。
「じゃあ、ここで。さようなら、爆豪くん」
「ん」
ひらひらと手を振る少年に見送られ、爆豪は歩き出す。だが、木陰からでたところで、ふと、足をとめた。
このままでは、いけないような気がしたのだ。きっと、白いベンチにひとりで座るその姿が、ひどく儚く見えたせいだ。夏の陽炎とともに、消えてしまいそうに思えたからだ。
「どうしたの?」
いぶかしげな声を受け、爆豪は振り返る。
少年はさきほどと同じまま、ちょこんと腰掛けた姿でそこにいる。
逡巡したあと、爆豪は口を開いた。
「じいちゃん、ちょっと身体壊しちまって、今年はこれなかったけど……テメェがどうしてもっていうなら、会わせてやってもいいぜ」
「……」
少年が、緑色の瞳をさらに大きく丸くした。
そして、すぐにくしゃりと笑う。どこかくすぐったげな嬉しそうなその笑顔に、自分らしくない提案をしてしまったと、羞恥がこみあげてくる。
「君、優しいね」
この少年の笑顔と言葉は、まっすぐすぎて眩しい。心の柔いところを優しく撫でられたような心地がして、胸が苦しくなった。
「そんなんじゃねぇよ! ただ、てめぇ……ほんとじいちゃんのこと好きみたいだから、その……!」
ヒーローを志すものとして、少しくらい、手助けしてやってもいいんじゃないかと思っただけだ。
頬に集まる熱を自覚しながら、口ごもっていると、少年が残念そうに眉をさげて首を傾げた。
「ありがとう。すごく会いたいけど、そういうわけにもいかないんだ」
「……なんでだよ」
ファンなら飛びついてしかるべき内容のはずだ。それなのにどうして断るのか。そんな不満を顔に滲ませる爆豪に、少年が困ったように笑った。
「んー……いろいろね、あるんだよ」
「……なにがだよ」
む、と唇を尖らせると、観念したように少年が深い息をはいた。
「じゃあ、伝言、お願いできる?」
「ああ、いいぜ」
欲のない奴だと思いながら、少年の言葉を待つ。頼まれたなら、それを引き受けたなら、一言一句間違いなく伝えなければならない。
よし、と内心意気込む爆豪をよそに、少年は一度瞳を閉じて、何をいうべきか考えているようだった。
だが、待ったのはほんの数秒。再び開いた緑の瞳は、吸い込まれそうなほど深く、一途な色をたたえていた。
「つぎにあったとき、僕の手をとってくれたら、嬉しい――って」
は、と爆豪は小さく声を漏らした。拍子抜けである。
「握手かよ! だから、会わしてやるっていってんだろ? それくらい余裕だっつの!」
「そうしてほしいのは、いまじゃないんだ。だから、いいんだよ」
「やっぱ意味わかんねぇわ、てめぇ!」
「だめかな?」
ぎゃんぎゃんとわめけば、申し訳なさそうな顔をむけてくる。まるで小型犬を虐めてしまったような錯覚に陥り、爆豪は言葉につまった。
「……わかった。それだけか?」
「うん!」
了承の意を伝えると、ぱっと少年の顔が輝いた。
「ありがとう、今日は会えて本当によかった。君は素敵なヒーローになれるから。ずっと応援してるから。だから、辛いことがあっても頑張って。諦めないでね」
「てめぇ、ほんっと変なヤツだな……まあいいわ。じゃーな」
学校で顔をあわせることだって出来るだろうに。どうしてそんなもう二度とあえないようなことを、いうのだろう。
やっぱり不思議なやつだと思いながら、夏の日差しがみせる陽炎のなかへと、爆豪は進みだす。ゆらり、ゆらり、また世界が揺れている。
「あ!」
数歩進んだところで、勢いよくふりかえる。自分としたことが、肝心なことを聞いていなかった!
「おい、てめぇ名前なんつーんだ? 誰からの伝言だって、じいちゃんにいわなきゃいけねえだろうが!」
少年が、笑う。
「僕の名前はね――」
柔らかそうな唇が、綻ぶような木漏れ日の中で、その名を紡いだ。
爆豪の勘どおり、帰りのバスの中、強い雨にでくわした。黒い雲は雷も孕んでいたらしく、空に龍のような光が幾筋も走っていた。
ふわふわとしたあの少年は、大丈夫だったろうかと、らしくもないことを考えるうちに、バスが駅に着いた。
電車に乗り、家の最寄り駅に降り立った頃には、雨はやみ、夕方になっていた。
「ただいま」
夏休みの期間中、雄英の寮から帰った我が家の扉をあけて、玄関でそう告げれば、台所の方向から応えがあった。
「おかえりー。暑いのに大変だったわね。ご飯もうすぐできるわよー」
「ん」
すっかり熱のこもったスニーカーを脱ぎ、廊下にあがる。そのまま、母に顔をみせることなく、爆豪は家の奥へと進んだ。
言いつけどおり墓参りに行ったことの報告をしなければならない。それに話したいこともある。あの少年から託された言葉を、渡さなければならない。
「おい、ジジイ」
ソファに腰掛け、新聞を読む目当ての人物をみつけ、爆豪は呼びかける。
ぎろり、と年齢には見合わぬ鋭く赤い眼を向けられた。いつも刻まれている眉間のしわが、一段深いものになる。
「ジジイっていうなっつってんだろ。爆破すっぞ、クソ孫」
新聞をおろし、迫力のある顔でそんなことをいう。一瞬謝りたくなったが、思春期特有の反抗心がわずかに勝った。
「かわいい孫にクソっていうのはジジイでいいだろ……――ちっ」
ボン、と小さな爆発を目の前で起こされて、爆豪はしぶしぶ改める。勝てないとわかっているのに、無駄な抵抗をしたくなるのはどうしてだろう。
「ほら、じいちゃん。これおつり。花、そなえてきた」
「いらねぇわ。とっとけ。駄賃だ」
太っ腹、と思いつつ爆豪はいわれたとおりに、札まじりのおつりをポケットにねじこんだ。
そして祖父の隣に座ると、歳のわりには皺の少ない顔を覗き込む。
「今日な、じいちゃんのスッゲーファンに会ったわ」
「へえ」
数多のファンを今も惹きつけてやまない元プロヒーローにしてみれば、そんなことは日常茶飯事だ。さして興味を示さない相槌が、そういっている。
だが、今回は少し違う。
「ほんっとすっげぇの。うちの学校の制服着てたから雄英生みたいだったけどさ、中学校のヘドロにからまれたときのことから、高校生のときの体育祭のこととか、まるでみてきたみたいに知っててよ。あれ、相当なヒーローオタクだぜ」
「ヘドロ野郎の話はするんじゃねぇ」
苦々しげに呟かれて、思わず声をあげて笑う。クソが、と口汚く罵る祖父にとって、そうとう嫌な思い出らしい。
「でな、そいつが、伝言だってよ」
ひとしきり笑ったあと、告げる。
「『つぎにあったとき、僕の手をとってくれたら、嬉しい』――だとさ」
間違えることも、言い淀むこともなく伝えられて、爆豪は満足する。
「しかもよ、名前がすげえんだ。『緑谷出久』だっていうんだぜ。ありゃあ、親もヒーローオタクだ、間違いねぇ。だってあのヒーロー・デクと同じなんておかしーだろ? しかもそいつが、デクの墓参りだぜ。そうとうヤベェ……って、どうしたんだよ? おい?」
祖父の反応がないことを不審に思い視線をむけると、珍しく呆けたような顔をしていた。
ぽかんとしたまま微動だにしない祖父に、爆豪は驚いた。
同じように固まっていると、祖父が額にゆっくりと目元に手を当て、肩を震わせはじめた。
「――は、ははっ……! ははははは!」
「お、おい、じいちゃん大丈夫か……? とうとうボケたか……!?」
狼狽える爆豪をよそに、祖父の声は大きくなっていく。
「あの、クソナードが……! ずいぶんと若作りしやがって!」
どうやら祖父には得心のいくなにかがあったらしいが、爆豪にはさっぱりわからない。
「じいちゃん、どういうことだよ」
「ああ、なんでもねえよ。てめぇにゃ関係ねえ話だ」
唇を尖らせる爆豪の頭を、皮の厚い大きな手が乱雑に撫でる。
幼いころから、この手が好きだった。高校生にもなってと思うが、嬉しくて心地よくて、爆豪がされるがままになっていると、ごはんよー、という母の声が響いた。
ゆっくりと手が離れていく。
「メシだとよ。はよいけ」
「じいちゃんは?」
ソファから立ち上がり、乱れた髪を直しつつそう問えば、祖父は首筋あたりを一撫でして視線を泳がせた。
「あー……あんま腹減ってねぇしな。あとにするわ」
「そういって昨日もくってなかっただろうが!」
なにも食べないつもりかと、心配になって声を荒げれば、祖父はそらとぼけるように薄く笑った。
「あ? そうだったか? まあいいだろ。ほら、いけや。俺はちょっと寝る」
「最近そうやって寝てばっかじゃねえか……」
拳を握りしめて、声を震わせると、手を振られた。
「今なら、そう悪くない夢がみられるような気がするんだよ、邪魔すんじゃねぇ」
祖父は、自分がこうと決めたらその意思を貫く人間であることぐらい知っている。
ここで問答を重ねても、食卓に連れて行くことは難しいだろう。
爆豪は、しゃーねえなと肩を落とした。
「勝己じいちゃんの分、とっておくから。あとでちゃんと食えよな!」
「わかったわかった」
はよいけ、と部屋を追いだされたものの、扉をくぐったところで呼び止められた。
「おい」
「?」
振り返ると、祖父のあまりみない穏やかな笑顔がそこにあった。
そうしていると、若いころのイケメンっぷりがよくわかる。いやいまも格好いいけれど。
どうかしたかと言葉を待っていると、薄い唇が静かに動く。
「ありがとうな」
俺のかわりにいってくれて、という小さな呟きが、どうしてだか切なく哀しくなるくらいの懐かしさにあふれていて、爆豪は言葉なく頷くことしかできなかった。
元プロヒーローの爆豪勝己は、小さな足音を引き連れて去っていった孫を見送る。
そして、ソファから立ち上がり、開いた窓の近くに置かれたロッキングチェアに腰掛けた。そよ、と風が肌を撫でていくのが心地よい。
「――俺の前にはでてこねぇとか生意気すぎんだろ……」
喉を低く震わせながら、背を預ける。
「……こりゃあ、クッソ腹立つ迎えがきそうだわ……」
小さく笑って、勝己は目を閉じる。
瞼の裏で、いつかみた、幼馴染の腹の立つ腑抜けた笑顔が浮かんでは消える。
自分よりずっと昔に、先へいってしまった馬鹿なやつ。
たくさんの人をたすけて、たすけて――そうして消えていった鮮烈な輝きのヒーロー。
あの眩しさは、流れ星のようだった。
誰にでも手を差し伸べた愚か者。なかば狂気じみたそのヒーロー精神は、いまでも語り継がれている。
――大丈夫? かっちゃん――
幼いころ差し出されたあの手をとっていれば。
自分たちの関係は変わっていたのだろうか。
違うものになっていたのだろうか。
チャンスは、きっと、そのときだけでなく、たくさんあったのだろう。
互いに掴もうとしなかっただけで。掴めなかっただけで。
そうして交わることのなかった人生だが、かといって悪いものではなかった。
結婚して、子供ができて、孫がいる。勝己が思い描いた人生を、まっとうしようとしている。
だが、なにかが、欠けていたとも、思うのだ。
何年も前に逝ってしまった幼馴染を、どうしようもなく思い出す。
あちらも幸福な人生だったはずだ。家族に看取られながら眠るように生を終えたときいている。
ヒーロー活動で酷使した身体のせいで、ひとよりはいくぶんか短い人生となったようだが、きっと納得のいく生き方をしていただろう。
でも、あいつも、なにか足りないと、そう、思っていたのかもしれない。
互いにあと一歩、近づくことができていたならば。そう思わずにはいられない。
だが、時間は巻き戻らない。ああしていればよかったという後悔は、人間ならば、いつでも思うもの。だが、人生に次はない。
だから、この人生の先へといかねばならないとき、あいつが迎えにくるというのならばそれもよいだろう。
なあ、デク。
いってやりてェことが、山ほどあるんだ。
きかせてぇことが、星よりもおおいんだ。
だから。
「そのときには、てめェの手を、とってやってもいいぜ」
この言葉は、果たして出久に届くのだろうか。
まあ、どちらもでもいい。きっとあいつは、勝手にやってくるのだ。勝己の意思など無視してやってくるのだ。昔からそうだった。僕がきた、などと、あの笑顔でいってのけるのだ。
そうしたらまた、その名を呼ぼう。なんどでも、なんどでも、決して飽きない音を紡ごう。
「……俺も、歳とったな……」
かつての自分からは考えられないようなことに小さく笑いながら、勝己はゆっくりと目を閉じる。
どこからか、花の香りが漂う。
優しく清いそのむこうで、幼馴染が笑っている気がした。
爆豪勝己。日本のヒーロー史に名を刻んだ偉大なるヒーロー。
孫がヒーローデビューを果たしたのち、それに満足したかのように、永眠。
その最後の顔は薄く微笑み、まるで、懐かしい誰かに会えたかのようだったという。