静かな夜である。風はない。ただ、日中の熱を奪うような雨が、ひたひたと降っている。
この様子では、明日は一日雨かもしれない。晴れたとしても水やりをする必要はなさそうだ。だが、収穫間近な野菜や花の様子が気になる。泥が跳ねると野菜が病気になるかもしれないし、畑を耕すのは、その次の日にでもすることにしよう。
アーサーに頼み、ようやく手に入れた農業の本を参考に、より品質のよい野菜を育てる方法を模索していたフレイは、一段落するところまで読みえると、肩の力をぬきながら顔をあげた。
その視界に、部屋の片隅に設えられた机に向かう、広い背中がうつる。
いつも巻いているターバンは家にいるためすでにとりはずされ、長く美しい天河色の髪と、後姿でも特徴的な三角形の大きな耳がよくみえる。
そうっと音をたてずに本を閉じ、フレイはゆっくりと椅子から立ち上がった。
気配を殺し、音をたてず、レオンへと近づいていく。
結婚したばかりの夫の仕事は、古代に記された本の翻訳である。もうすでに知るもののない言葉を、現代に伝える仕事。
誰にも理解されない、読んでもらえないということは、本が眠ってしまっていると同じことだとレオンはいう。
それを叩き起こしてやっているのだと笑うレオンの姿は、守り人として長い時間を眠り続けていた自分を重ねているようだった。
槍をふるい、魔法をも使いこなす、冒険者としての実力も高いレオンに悟られないよう、呼吸さえも抑えて、もう少し近づいてみる。
その手が、どんな古代の言葉を訳しているのか、なんだか妙に気になった。
夫の仕事を妻が知りたいと思うのは、悪いことではないだろうし。そう言い訳をしながら、フレイはレオンの手元を覗き込む。
肩越しにみえる紙には、いくつもの言葉が並んでいる。その本の著者が言いたいだろうことを読み取って、それにふさわしい言葉を探し、組み立てている痕跡。
比較的長い文章になっている部分を、視線でなぞりながら、フレイは心のうちで読みあげた。
――すべてのものは、『ふたつでひとつ』である。ただ『ひとつ』では、完全ではない。
ふたつになってこそ、すべてのものは美しく安定する。そして、おおいなる力を得ることができる。
人しかり。町しかり。国しかり。
ゆえに、求めよ。ゆえに、探せ。
ひとつでなく、ふたつとなる……――
文章のそこから先は、レオンの手の影となっていてみえない。
どうやら、古代の思想を説いたものであるらしい。レオンからきいたことのないものである。だが、現代にも通じるところがあると思った。
「ふたつで、ひとつ……」
「そうだ。そうであることがもっとも美しく、力があるのだと、俺が生きた時代では信じられていた」
「っ!」
ついつい呟いてしまった言葉に、レオンからの応えがあった。
思わず口元をおおったフレイを、首をひねったレオンが見遣る。その端正な顔に浮かぶにやりとした笑みに、背後から近づかれていたことはとうの昔に察知していたのだろうことがうかがい知れた。
フレイは、悪戯が失敗してしまった子供のように、わずかに頬を膨らませた。
「もう、わかってたんですね?」
「気付いてないとほんとうに思ったのか? 可愛い奥さんが、夜這いでもしてくれるのかと期待していたんだがな」
「レオンさんっ」
あっけらかんととんでもないことを言いだすレオンに、そんなことしません! と、フレイは顔を真っ赤にして叫んだ。
ははは、とひとしきり笑ったを、レオンは視線をさげた。
「それにしても懐かしい」
「……」
紙面に向き直ったレオンが、穏やかにいう。
「ありとあらゆるものが、ふたつでひとつだった。左手と右手もそうだといわれていたし、儀式用の杯はそのようにつくられた。繁栄を祈る男女の人形も一対だったし、貴族や神官の居住地と町民たちの居住地もまたそうなるように、配されていた」
覗き込んだレオンの横顔に嵌め込まれた美しい瞳は、とても遠いところをみつめている。今まで自分が文字を記していた紙でもなく、傍らにいる妻であるフレイとの現実でもない、すでに失われて遠い過去に思い馳せている。
その姿は、ひどく儚い。自分とレオンの時代の差を、まざまざと知らしめる。
フレイは、きゅっと唇をかみしめると、その背に身を寄せた。レオンの背中から肩をとおり、たくましい首に腕をからめて抱きしめる。
「……どうした?」
急なフレイの行動に驚くでもなく、レオンはひどく優しい声でそんなことをいう。
フレイが応えずにいると、のびてきた大きな手が、フレイの頭を撫でてくれた。
その心地よさに、フレイは目を閉じる。レオンの、ひとより少しだけ高い体温。レオンの、服に焚き染められた香のにおい。そのすべてに、ゆるゆると安堵する。
だいじょうぶ。だいじょうぶ。レオンさんは、ちゃんとここにいる――
愛しい人が、知らないなにかに攫われてしまいそうだという不安が薄らいでいくにつれ、フレイはゆっくりと瞼をあけていく。
そして、何事もなかったかのように、にっこりと笑う。背後からぴったりとくっついたレオンには見えないだろうけど、精一杯に明るく。だって、沈んだ声はきかせられない。
「昔は、こういわれていたんですね」
「ああ。だからレオン・カルナクの造りもこの考えを踏まえている。ほぼ左右対称だ。それに、塔のうえにいるのもそうだろう?」
ああ、とフレイは声をあげる。
脳裏に、天にもっと近い場所に座す一対の石でできた獣たちが浮かぶ。いまでもたまに会いにいっては、言葉少なく会話をしたり、腕試しに付き合ってもらっている『彼ら』も、そういわれればふたつでひとつだ。
「左之と右乃、ですね」
「そうだ。俺が守り人という務めを果たせるように、もっとも力ある形を成して、あそこに括られた」
「ずっと、見守ってくれていたんですよね……」
フレイがあの場所を訪れるまで、彼らのうえを幾度月と太陽はめぐり、何度星は瞬いたのだろう。そんな膨大な時間、独りだけでは耐えきれないだろう。それがたとえひとでないものでもあったとしても。
ひとであるなら、なおのことだ。それを理解してたからこそ、古代のひとは『ふたつでひとつ』であることを、なによりも貴いこととしたのかもしれない。
「昔のひとたちは、みんな優しくて、さびしがり屋なんですね」
誰かさんみたいに、と付け加えながら、レオンの肩に顔をうずめる。
「まるで、俺がそうだといいたげだな?」
「ふふっ」
わざとらしく、どこかからかうようなレオンの言葉に、フレイは小さく笑った。鼻先を、あまえるように擦りつける。
「……レオンさんも、そうなりたいって思っていましたか?」
そうであることをなによりも尊んだ時代に生まれたのなら、そうなるべきだと神官であったレオンは、ことさらに教えられて育ったはずだ。
ならば、その時代に生きる『誰か』と、ふたつでひとつになること願ったことが、一度はあったのではないだろうか。
自分で質問していながら、胸を痛めていれば世話はない。フレイは、その棘が刺さるような感覚を払うように、ぎこちなく顔を歪めた。ほんとうは笑いたかった。けれど、それは叶わなかった。
「……そうだな……」
しばらくの沈黙を経て、レオンは重々しく口を開いた。
「俺は守り人なると心に決めたとき、そうなれないことを覚悟した。これでもう、俺は完全なものにはなることはできない。先人の言葉を、守ることはできない。命を繋いでくれた祖先たちに詫びた」
そんなふうに思っても、ひとでないものになっても、国ため、人のため、友のため、ルーンを生み出し続ける道を選んだ。いつ目覚めることができるかわからない眠りに身を投じた。家族、友人、幼馴染――すべてものを振り切って、心に傷を負った。
それはフレイには計り知れない、レオンの痛みだ。彼のことだから、自分で選んだことに後悔はしていないだろう。でも、すこしでも、そのときにその苦しみを肩代わりしてあげれたら、よかったのに。
想像しただけで胸を苦しくしているフレイの頭を、レオンが撫でる。くつくつと、喉を震わせる笑い声が伝わってくる。
「だが、ここにはアンタがいた」
その声に懐かしむような色は、もうなかった。曇天の隙間に太陽をみつけたような明るさで、レオンは続ける。
「俺を目覚めさせて、アイツの言葉を探し、俺の心を解いた。そんな無茶をしでかしたアンタがいなければ、俺は『ふたつでひとつ』になることなんて、なかっただろうさ」
他愛のない口約束を別れのときまで健気に信じてくれていた幼馴染は、遠い過去で、ちゃんと対になるべき相手をみつけていた。ふたつでひとつとなり、幸せを得ていた。
「つまり、いろいろとあったが、アンタという存在とひとつになるために、そうあるべくして俺は時間の流れに取り残された――そう考えると、けっこうな浪漫に溢れていると思わないか?」
いつもの飄々としたその物言いで、レオンが夢見る乙女のようなことをいうものだから、フレイはころころと笑った。さきほどのようなぎこちないものではなく、心からの笑みが溢れた。
「はい。私がこの街にきたのは、セルザのためって使命があったのかもしれないけれど、レオンさんとひとつになるっていう運命に導かれてもいたんだって――いまなら思います」
囁いて、フレイはレオンを抱きしめる腕に、力をこめる。私はきっと、この人と出会うために、このセルフィアにひきよせられた。それを、信じている。
「……フレイ」
「はい」
アンタではなく、ちゃんを名を呼ばれたフレイは、面映い思いを抱えながら返事をする。
「フレイ、」
「なんですか?」
何度でも、私の名前を呼んでほしい。そのたびごとに、精一杯の愛をこめて、私はあなたに応えるから。
だって、私は――
思いめぐらせるフレイの腕に、レオンの手が重なる。掴むでも、撫でるでもなく、ただ、フレイがちゃんとそこにいるということを確認するかのように。
「俺は、もうひとつにはもどれない――だから、離れないでくれ。フレイは……、フレイだけが俺の半身なんだ」
考えていたことを言い当てられてしまったようで、フレイは大きな瞳をもっと大きくした。否、それはレオンも、同じ気持ちであったということの証だ。
フレイは、くしゃりと笑った。嬉しくて、照れくさくて、そしてなにより愛しくて、笑った。
それは、自分だって同じこと。レオンといることの幸せを、そのあたたかさを知ってしまった。フレイも、もう『独り』にはもどれない。
「はい。レオンさんだって、私の大切な半身です」
ぎゅう、とフレイはレオンを抱きしめる。きつくきつく、いわれずとも決して離れないと、伝えるために。
長く永い時間の果てに、別々に生まれたひとつであったものたちは巡りあい、ようやくふたつになれた。本来、あるべき形となった。
その奇跡を、どうか、忘れないで。なくさないで。はなさないでいて。あなたはずっと、ここにいるのだから。
「私は、レオンさんと一緒です。……ここまできてくれて、ありがとうございます」
フレイはありったけの愛情をこめて微笑んで、腕を緩める。
そして、ゆっくりと振り返った、どうしてか泣きそうな顔をして微笑む愛しいひとの頬に、優しいキスを贈る。
この静かな夜のうちに、大地を潤していく雨のように、幾度も、幾度も。
――すべてのものは、『ふたつでひとつ』である。ただ『ひとつ』では、完全ではない。
ふたつになってこそ、すべてのものは美しく安定する。そして、おおいなる力を得ることができる。
人しかり。町しかり。国しかり。
ゆえに、求めよ。ゆえに、探せ。
ひとつでなく、ふたつとなるために、おのれだけの『半身』を、その生涯をかけて――