「姫!」
城の裏手に広がる畑を慣れた手付きで世話をしていたフレイは、その呼びかけに顔をあげた。
みれば、穏やかな笑顔で手を振る恋しい青年が畑の入り口に立っている。
胸の奥からわきあがるあたたかな気持ちに押されるように、自然と笑みが浮かんだ。
「ビシュナルくん! どうしたの?」
彼と朝に挨拶をかわしたのは、数時間前のことだ。確か、今日はセルザに来客があるから準備に忙しいと言っていたはず。
もう正午近くであるし、仕事が一段落したのかもしれない。
いつでも顔をあわせられる環境ではあるけれど、恋人の姿をみれば嬉しくなるもの。
フレイは作業の手を止め、ビシュナルに駆け寄った。
誰もいないのをいいことに、ぎゅっと抱きつけば、当たり前のように受け止めてくれた。
いつもならちょっと恥ずかしそうにはにかむビシュナルが、優しげな笑顔を崩さぬまま言う。
「お仕事中すみません。セルザウィード様が謁見の間にお越しくださいとのことです」
「なんだろう?」
わざわざ呼び出すなんて珍しいことだ。おやつの時間になれば、ホットケーキを差し入れにいくから、そのときでもよいはずなのに。
「ふふ、きっとびっくりしますよ!」
「あっ、ビシュナルくん知ってるんだ! ね、教えて?」
下から覗き込みながら、首を小さく傾けておねだりしてみる。
「ひみつです!」
「もー」
やたらといい笑顔で、きっぱりと断られた。こういうときのビシュナルには何をいってもダメだ。悪い話ではなく、むしろ良い話であるという証明でもあるのだけれど。
とはいえ。
「なんだろ?」
思い当たることがなさすぎて首をひねるフレイを、ビシュナルはにこにこと見つめるのみである。
そうして二人連れだってやってきたのは、城の中でも最も広い部屋。風を司る四幻竜がその尊き御身を置く場所である。とはいえ、その部屋の主といえば気さくなもので、にこにこと笑いながらフレイたちを出迎えてくれた。
「おお、ようきたなフレイ。そこに掛けるがよいぞ」
「うん」
指し示されたセルザの傍らにはテーブルセットが出されていて、そこにはすでに先客がいた。
このノーラッド王国の正真正銘の王子様こと、アーサーである。フレイと視線があうと、小さく会釈してくれた。そんな仕草さえ、優雅でさまになる。
当然のように椅子をひいてくれたビシュナルに礼を言い、フレイは椅子に腰かける。
「こんにちは、アーサーさん。アーサーさんも、セルザに呼ばれたんですか?」
「いえ、私もセルザウィード様と同じ用件でフレイさんをお待ちしてました」
「?」
ますますもってなんだろう。フレイが考えあぐねているとセルザが笑った。
「うむ。実はな、パーティを開こうと思っているのじゃ!」
「パーティ?」
天井の高い――いやむしろ空さえ見える竜の間に、フレイの驚き混じりの声が響く。
セルザは、うむうむと可愛らしい仕草で頷く。楽しみであることが隠せていない。
「そうじゃ。帝国との戦も終わり、ワシも戻ってきたじゃろ? あの時はフレイにも街の者たちにも世話になったのう……」
「ふふ。みんな、セルザのこと好きだからね」
そう言えば、セルザが照れたように目を伏せる。
王国に攻め込んできた帝国との激しい戦いを忘れるわけもない。そして、いなくなってしまった友を迎えにいったルーンプラーナの最下層での出来事も。人々の願いと想い。それに応えてくれたセルザが今、フレイの前にいてくれる。なんて幸せなことだろう。
セルザの言葉に続くように、アーサーが言う。
「戦争で荒れた国土の復興も順調に進んでいますし、良い機会なのでセルザウィード様の御帰還の祝賀会など開いてはどうかと思案していたところ、外国に留学していた兄が帰国するにあたりセルフィアに立ち寄ることが決まりまして」
「アーサーさんのお兄さん、ですか」
とういうことは、これまた正真正銘の王子様だ。聞いたことはないけれど、はてさて、第何王子なのだろう? よく似ていたりするのかな。
じっとアーサーの顔をみつめると、フレイの考えてることがわかったのか、アーサーが赤い瞳を細めて笑った。
「はい。楽しいことや美しいものが好きな歳の近い兄です。父である王の代目として、祝賀会とその後の舞踏会に参加するとの回答をいただきました」
「街のものたちには、この竜の間と城前の広場を開放し、楽しんでもらうつもりじゃ」
舞踏会も開会のファーストダンス以降は堅苦しくせず、誰でも気軽に参加できるようにして食事も用意するつもりであるとのこと。
「わあ、とっても楽しそう!」
綺麗に飾り付けられたお城や広場に、たくさんの人たちが集い、思い思いに踊りながらセルザの帰還を祝う。なんて素敵な光景だろう。想像しただけで、わくわくする。
「では、フレイの参加は決定じゃな?」
「うん!」
大きく頷いたところで、セルザが安心したとばかりに笑った。
「いやー、たすかったぞ! アーサーの兄がフレイと是非とも踊りたいと申しておってな!」
「えっ、私?」
思わず自分の胸に手を当てれば、にこにことセルザウィードとアーサーが頷く。今日はやたらといい笑顔を向けられるのが多い。いやこれは、有無を言わせぬための笑顔の圧力。
「すみません、フレイさんに興味があるらしくて。お引き受けくださってありがとうございます」
「王子様のお相手をつとめるとか、そういうつもりは……!」
まったくもってこれっぽっちもなかった。フレイは眉をさげ、おろおろとアーサーとセルザを交互に見遣るが、二人はただ笑うばかりだ。
「それに今回のことは、勝利の立役者であり、セルザウィード様の御帰還にも尽力されたフレイさんへの感謝を示す催しでもありますからね。主役のひとりが欠けなくてよかった」
「で、でも、私、ドレスとか持ってませんし」
さすがに王子様に会うのであれば、普段の恰好のままというわけにはいかないだろう。フレイは冒険用の装備は数多く所有するが、パーティに着られるドレスの持ち合わせはさすがにない。
「姫、落ち着いてください。さ、紅茶をどうぞ」
「ありがとう……。でも、あのね、ビシュナルくん……」
横手からさしだされた白磁のティーカップには、ゆったりと湯気をくゆらせる紅茶が注がれている。縋るように助けを求めるように、ビシュナルを見上げると、にこっと笑顔を返された。
「こういうとき頼りになるお友達が、姫にはいらっしゃいますよ」
それは誰と問う間もなく、つむじ風のようにフレイの足元から飛び上がってくる小柄な誰か。
「そう、わたくしたちにお任せあれ、ですわ!」
「ひゃあ?!」
それは、セルフィアの住民にもすっかり認知された幽霊こと、ピコであった。
無邪気かつ自信満々に腕を組み、フレイを見下ろす彼女の向こう、竜の間の入口から歩み寄ってくる人影ひとつ。
「セルザとアーサーから話はきかせてもらったわ。ドレスがないなら作ればいいのよ」
「ドルチェ!」
ドルチェあるところにピコあり、である。だが確かに、手先が器用で裁縫の技術も卓抜したものをもつドルチェならば、ドレスの仕立てもできるだろう。
目を瞬かせるフレイの前で、ピコが両腕を広げてくるりと回る。そして祈るように手を組み合わせ、天井から降り注ぐ光の下、恍惚とした表情を浮かべる。
「私のルーちゃんのセンスと技術を存分にみせつける、またとない機会ですわ~~!」
「あんたのじゃないわよ。でも、せっかくだし、わたしに任せてくれないかしら」
大好きなドルチェの裁縫の技術をみせびらかしたいピコの気持ちはわかるし、ドルチェの親切からの申し出は素直に嬉しい。だが問題はまだある。
「で、でもほら、私、踊れないし! 王子様がくるならみっともないところはみせられないよ。ね?」
だから今回は遠慮しておこうと思うんだ――そう続けようとした台詞が、フレイの喉に張り付く。
それまでセルザウィードの傍らに控えていた屈強な執事が、力強い踏み込みで前に出てきたからだ。
「ダンスならば、できるようになればよいことですぞ!」
「はい、まだ開催まで時間もありますし。特訓ですね~」
堂々と響き渡る声に、のんびりおっとりとしつつも有無を言わせぬ声が続く。
この城の一切を取り仕切る優秀な執事であるヴォルカノンと、彼のもとで経験を積んでいる執事見習いのクローリカだ。
「ひえぇ……」
「観念せい。なに、当日はわらわとアーサーもおる。心配するな」
「開催は三ケ月後を予定しています。練習時間やドレス作成の時間はとれるかと」
怖気づくフレイに、セルザとアーサーがたたみかける。
「う、う~ん……」
それでも迷いたじろぐフレイであったが、セルザウィードが帰ってきてくれたことをみんなで祝いたいという気持ちはある。それはもう、両手では抱えきれないくらいの。
「わかったよ。私、パーティに出席するね。でも、わからないことばかりだから教えてください」
素直にそうお願いすれば、その場にいる者たちは「もちろん!」と頷いてくれた。
ほっと息を吐き出し胸を撫でおろせば、側にいてくれたビシュナルが微笑んだ。
「がんばりましょうね、姫」
「うん!」
いつも諦めず努力するひたむきなビシュナルに励まされ、フレイはぎゅっと両手を握った。
二ケ月と少し前のことを思い出しながら、フレイは軽やかにステップを踏む。
安心できるリードで身を任せる相手をちらりと見上げれば、その視線に気づいた紫色の瞳が柔らかに細められる。
「どうかしましたか?」
「あのとき、どうして先に教えてくれなかったの?」
あの時? と思い当たるところのなさそうなビシュナルに、フレイは小さく頬を膨らませる。
「祝賀会と舞踏会のことを、セルザから教えてもらったときのこと」
ようやく思い至ったのか、わずかに目を見開いたあと、ビシュナルが悪戯っぽく笑う。幼げな少年時代を垣間見られた気がして、フレイは運動からくる高鳴りとはまた違う意味で鼓動を速めた。
「ごめんなさい、姫。でも嫌な驚きではなかったでしょう?」
ビシュナルに促されるようにくるりと回る。ダンスの練習用に着ているドレスの裾が、ふわりと広がる。同じタイミングで足を踏み出し、流れるように移動する。
「それはそうだけど」
でもそこからがまた大変だった。ドレスをフルオーダーとするには時間が足りないから、セミオーダーという手法をとってはどうかというアーサーの提案を、ドルチェはにべもなく却下した。とことんやりたいという、普段のドルチェからは考えられないような熱量をもってして、様々なデザインが提案され、生地やレースが集められていき――あれよあれよという間にフルオーダードレスが作成されていった。本当ならもっと時間がかかるところなのに。
「ふふふ、楽しみですね。姫のドレス、おおむね出来上がったと伺いましたよ」
恋人であるビシュナルの期待が素直に嬉しくて、フレイは頬を薔薇色に染めた。好きな人には、いつも可愛いと思ってもらいたいのは、当たり前のことだ。
「そうなの! ドルチェったらほんとうに凄いんだよ!」
「あの出来栄えなら、王のおわす都のお店にもひけをとりません」
数日前に最後の補正作業を終え、あとは本番を待つばかりのドレスは、きっとドルチェの名を世に知らしめるだろう。
フレイの背に回ったビシュナルの手が、優しく、でも力強くフレイをリードする。
「姫もダンスが上達しましたしね」
「最初の頃は大変だったよ……」
思わず溜息がこぼれる。なにせフレイはこれまで「相手にあわせて動く」ということを、やったことがなかった。冒険を共にする仲間たちならば、戦闘で息をあわせたことは幾度もあるし得意である。だが、ダンスであるとなるとまったくもって話は別。
足元に注意すれば背筋が歪み、みっともなくなる。姿勢をただせば、相手の足を踏む。音楽にあわせて動こうとすれば、足さばきを間違える。とにかく、初日は散々だった。
だが、ヴォルカノンとクローリカ、そしてビシュナルが根気強く励ましながら付き合ってくれたおかげで、いまやこうして話をしながらでも踊れるまでになれた。
それに、できるようになってしまえば、とても楽しいものだった。相手がビシュナルならば、なおのこと。だって好きな人とワルツを踊る、なんて素敵じゃない?
フレイは、ビシュナルのリードに身を任せながら、ご機嫌で笑う。
パーティで踊るなんて、ほんとうにどうなることかと思ったけれど、今は参加すること決めてよかった。ちょっとビシュナルに拗ねてみせたけれど、本音はここだ。きっとビシュナルもわかっていると思う。
「そこまで!」
クローリカが伴奏してくれていたワルツが終わると同時に、ヴォルカノンの声が響く。
ゆっくりとステップを終えて、同時に息を零して笑い合う。ビシュナルに手を引かれ、ピアノのある方向へと歩んでいけば、ボルカノンが手放しに褒めたたえてくれた。
「まこと上手になられましたな! どこの舞踏会へと参加されることになっても問題ありませんぞ! さすがはフレイ殿!」
「ありがとうございます。みなさんのおかげです!」
休憩用に置いてある水を飲みながら、フレイは練習に付き合ってくれた三人に感謝する。城の業務の他、祝賀会と舞踏会の準備もあるのに、こうして時間をとってダンスの練習をしてくれたのだから。
「いいえ、姫の努力あってこそです」
「そうですよ~、フレイちゃんが頑張ったからですよ」
「えへへ」
褒められて悪い気はしない。
「これで心配はありませんな。それでは、今日の練習はここまでといたしましょう。私たちはこれにて」
「はい、ありがとうございました」
執事としての業務に戻るため、部屋を辞すボルカノンとクローリカを見送る。残されたのは、フレイとビシュナルの二人だけ。ほんとうなら、ビシュナルだって次の仕事があるのは理解している。でも。
「えっと、ビシュナルくん、もう少しだけいい?」
「もちろんです」
フレイの申し出に快く頷いたビシュナルとともに、部屋の中央へと並んで戻る。
いち、にい、さん、と小さな声でリズムをとりながら、もう完璧なステップを流れるように繰り返す。
あともう少しで、祝賀会と舞踏会が開かれる。街の人たちにまでは正装までは求められないけれど、城に関わる者や貴族たちは、王族を迎えるにふさわしい装いでこの城に集う。
それはきっと、夢のような世界となるのだろう。日常から離れた、非日常の眩さ。いつもそれでは困るけど、一度くらい好きな人とそんな夜を過ごすのも、いい思い出になる。
フレイは笑みを浮かべて、目の前の恋しい人を見上げる。
「舞踏会でビシュナルくんと踊るの楽しみ」
素直にそう伝えれば、ビシュナルの表情が曇った。なにか悪いことをいってしまっただろうか。
「ビシュナルくん?」
「姫、それは……、すこし難しいかもしれません」
「え?」
いつも快活な表情であるビシュナルの顔が、曇っている。困ったように、申し訳なさそうに眉を下げ、彼は言う。
「僕はセルザウィード様に仕える、この城の執事見習いですから。会場にはもちろんいますが、姫と踊ることはできないかと」
「えっ、そう、なんだ……」
思いもしなかった。こうしてダンスの練習をしていたこともあって、当然のように考えていた。
「……ビシュナルくんと、踊れると思ってた」
たくさんの大切な人たちに見守られ、大好きな人と踊ることができるなんて、素敵な思い出となるに違いないと。
「すみません、お伝えしておくべきでした」
肩を落とすビシュナルに、フレイは慌てて首を振った。
「ううん、私が早とちりしていただけだし! それにまた踊る機会もきっとあるでしょ? そのときはビシュナルくんと踊りたいな」
努めて明るく、いつかの未来の約束を持ち出す。煌びやかなお城でのパーティでなくともいい。ビシュナルと踊れるのなら。
フレイの健気な願いを受けて、ビシュナルがやわらかに微笑む。ゆっくりと踊る足を止め、向かい合って見つめ合う。
「――はい。必ず」
真摯な光をたたえた紫の瞳が、フレイだけを映している。ビシュナルは真面目な人柄だ。約束を違えることはないと、フレイは知っている。
「えへへ、約束ね」
そういってビシュナルの懐に飛び込むように抱き着く。しなやかで力強い腕が、フレイを抱きしめ返してくれる。
互いのぬくもりをわけあうように寄り添ったまま、フレイはゆるりと瞼を下す。
ああ、でも。
やっぱり、ビシュナルくんと踊りたかったな――そんな想いは口にせず、フレイは逞しい胸に額を押し付けた。
パーティ当日。
すでにセルフィア城の準備は万端。隅から隅まで綺麗に掃除が行き届き、この日のために集められた花々が、あちこちにこぼれるように飾られている。王家の紋章が施された旗と、風幻竜の意匠の施された旗が、爽やかな風を受けて交互にたなびく。
この街の住人たちも、飛空船経由や陸路で街を訪れた人々も、今日という日を待っていたのだろう。わくわくとした空気が、街全体を気持ちよく騒がせている。
今日の舞台である城の一室で、フレイは歓喜の声をあげた。
「とっても素敵! ありがとうドルチェ!」
目の前には出来上がったドレスが一着。数回の仮縫いのときにみてはいたけれど、完成したドレスはまるで芸術品のようである。きらきらとしていて、宝物のよう。
「当たり前でしょ。さ、着替えを手伝うわ」
しかして、それを用意してのけた少女といえばいつものクールな様子で応えてくる。とはいえ、その口元が薄っすらと微笑んでいるのがわかる。自信の一品だといいたげである。
「ヘアセットは任せてください~。まずはドレスを着ましょうね~」
「うん!」
櫛や髪飾りを用意したクローリカに促され、フレイはドレスを身に纏うこととした。
いつもの服を脱ぎ、二人に手伝ってもらいながらドレス用の下着を身に着ける。そうして、慎重にドレスを着ていく。
ドルチェが用意してくれたドレスは、胸元と背が大きく開いていて気恥ずかしい。たしかローブデコルテというもので、女性の正装らしい。
これまでドレスに縁のなかったフレイは、場に応じたふさわしい服装がどういったものであるのかなどわからない。だから、いくつかの示されたデザインの中で、ドルチェが熱心に説明してくれたこのドレスに決めたのである。
とはいえ、ちらりと見遣った鏡の中にいる自分の姿は、ものすごく見慣れない。だって、畑仕事や探検にもドレスなんて着ないし。ほんとうに私が着て大丈夫? そんな疑問が湧いてくる。それくらい素敵なのだ。
気品のあるペールピンクの絹で仕立てられたドレスは、フレイの細い腰に沿うように絞められて、そこからスカートがゆるやかに広がる。スカートはくるぶしを隠すほどの長さだ。最初は裾を踏んでしまいそうだし、動きにくそうだと思っていたが、練習でなんとかなった。
全体的に施された花の刺繍の随所には、真珠が縫い付けられ朝露のような柔らかな光を湛えている。それはフレイが歩くたびに、星のように瞬く。
贅沢な装いに、フレイは感嘆の吐息をつく。なんだかいたたまれなくて、指先を重ねて擦り合わせる。そういえば、あとでロンググローブも身につけなければいけない。
「これでいいわね。……うん、我ながら会心の出来だわ」
「ドルチェは本当にすごいよ」
「……ありがとう」
フレイの周りを一周しながら、ドレスに不備がないか確かめていたドルチェが、ようやく年相応の笑顔をみせる。ドレス製作を請け負った責任感から、解放されたのかもしれない。
「ドレスのほうはこれで問題ないわ。あとは任せるわね。わたし、ちょっと他の用事があるから」
「そうでしたね。じゃあ、今度は髪を結いましょうね~」
はりきったクローリカに連れられて、鏡の前に用意された椅子へと腰かける。やわらかな布のケープを肩にかけられたあと、長い髪を丁寧に梳いて香油を馴染ませる。櫛が通るたび、艶が増していく。
そうして、いつものように結い上げた髪に、白い花をかたどった髪飾りがつけられていく。
まるで本当にお姫様になったようだ。ほぅ、と思わず息を零すと、クローリカが鏡越しに微笑んだ。ちょうど仕上がったらしい。
「ふふふ、ちょっと疲れちゃいましたよね? レモン水を持ってきます」
「ありがとう」
クローリカの気遣いが嬉しくて、フレイも笑みを返す。
すぐ戻りますね~、と一言添えて軽やかな足取りで出ていくクローリカを見送って、フレイは椅子に座りなおす。
これからこの姿をみんなにみせて、そして王子様とダンスを踊るのだ。……あ、緊張してきた。はじめてシアレンスの迷宮に足を踏み入れたときとはまた違う。相手の足を踏んでしまったらどうしよう。しかも相手はこの国の王子様。国際問題にならないかな?
もやもやとそんなことを考えていたところに、控室をノックする音が響く。フレイは大きく肩を跳ねさせる。
「はい!」
もしかしてもう時間だったかな? と焦ったものの、ドアを開けて入ってきたのはビシュナルだった。
「失礼します。姫」
「ビシュナルくん!」
フレイはさきほどまでの憂鬱さを吹き飛ばすように、ぱっと立ち上がった。
「ああ、やはりよくお似合いです」
「そう? えへへ、嬉しいな」
近づいてくるビシュナルは、まるで眩しいものをみるように瞳を細くしながら、素直な賛辞をくれた。
はにかみながらスカートをわずかに持ち上げ、フレイはくるりと回って見せる。ああ、着飾った姿をまずビシュナルの瞳に映してもらえて、こんなに嬉しいことはない。
「では、仕上げにこれを。セルザウィード様が使って欲しいとのことです」
そう言いながら差し出されたのはベルベッドの平たい箱だった。
恭しい手つきで開かれたそこには、ネックレスとイヤリングがおさめられていた。青と紫が混ざり合って輝く石があしらわれている。
「わ、きれい!」
「タンザナイト、という宝石らしいですよ」
光の加減で色合いが微妙に変化する。ふむふむとフレイは小さく頷く。このあたりではみかけない石だ。きっとどこか別の国で産出するのだろう。とっても高そう。でも、価値云々よりも、その色彩がフレイを魅了する。だってこれは、なんというか——。
「……」
「どうかしましたか?」
思わず、じっと目の前の恋人の瞳を見つめてしまっていたフレイは、慌てて首を振った。
「ううん、なんでもない」
ビシュナルくんの瞳みたいだね、という言葉は飲み込む。だってなんだかすごく気障な台詞回しじゃないか。
「これ、私が借りてもいいのかな?」
「誰も使わないまま埃をかぶっていてもったいないから、ぜひ使ってほしいとおっしゃっていましたよ」
そっか、とフレイは頷く。普段なら遠慮してしまうけれど、こういった機会でもないと、この美しい石も出番がない。それはなんだか、かわいそうだ。
それに、これからパーティで頑張らなければいけない自分にとっては、よいお守りになる気がした。ビシュナルが側にいてくれるような気持ちになれるだろうから。
「えーっと、じゃあせっかくだし……」
「僕がつけて差し上げますね」
「いいの? ありがとう」
どうやってつけたものかと考えていたフレイは、ビシュナルの申し出を素直に喜んだ。くるりと彼に背を向ける。ちょうど鏡へ向かい合うようになったフレイの胸元に、箱から取り出されたネックレスが優しくかけられる。
しっとりとした冷たさと重さ。丁寧に作られた宝飾品は人の肌に触れる部分にも、細心の注意が払われるという。それを裏付けるような、着け心地のよさだ。
「とてもお美しいですよ、姫」
「あ、ありがとう」
するり、とビシュナルの指先が首筋に触れる。鏡越しに目をあわせるビシュナルの瞳が、なんだか熱っぽくみえて恥ずかしい。
ふ、とビシュナルの頭が傾く。
あっと声をあげる間もなく、フレイの首筋に柔らかく温かなものが一瞬触れた。
「ひゃ、」
そのまま、そうっと壊れ物に触れるように、優しく腕をまわされて抱きしめられる。
「僕の姫をみんなに自慢したい気持ちはありますが……惜しいとも、思います」
ひそやかに耳元で零される艶めいたビシュナルの声に、フレイの体温があがっていく。
「~~っ、」
急な出来事に声がでない。もう唇は触れていないし、いつものように身を寄せ合っているだけなのに、どうしようもなく胸が高鳴る。ああ、鏡越しなどではなく、直接視線を交わしたい。
「ビ、ビシュナルく、……」
震える声で名を呼び、ゆっくりとその腕に抱かれたまま彼を振り仰ごうとして――再びノックの音が響き、フレイは肩を震わせた。
ふ、と小さく笑ったビシュナルがフレイから離れていく。待って、といいかける。だけど、ひきとめるわけにもいかない。
「はい、どうぞ」
もじもじとしているフレイの代わりに、ビシュナルが応える。はいってきたのは、さきほど他の用事があると退室していったはずのドルチェだった。
「ビシュナル、ここにいたの」
「はい。宝飾品をお持ちしたところです。どうでしょうか」
そういってビシュナルが一歩横に動く。フレイをみせびらかすようにその背に手を添えて、前に押し出す。
「ええ、いいわね」
上から下まで満足気に眺めたドルチェが、太鼓判を押してくれる。
「ほら、あんたも準備あるでしょ。さっさと行きなさい」
「はい。では、僕はこれで」
イヤリングも忘れずに、と一言添えてビシュナルは部屋を出ていった。
あの一瞬はなんだったのか。たまらなく甘くて、とびきり刺激的で、このまま時が止まればいいとさえ思った。
ぽーっとしたまま、ビシュナルの姿が消えていった扉を眺めていると、近くまで寄ってきたドルチェが呆れたように溜息をついた。
「あんた、顔赤いわよ」
「……うん」
言外に何があったのか問われているのはわかったが、あの一瞬を言葉にできそうにない。
ああ、ビシュナルくんが格好いい。
湯気が出ているのではないかというくらいの熱さを帯びた頬を手で覆い、フレイは顔を伏せた。
今、あいさつしたのは何人目だっけ?
王都から訪れてくれたという、セルフィアに縁深いという上品な夫婦と笑顔で挨拶を交わし終わったフレイは、すでに疲れていた。
少し前、正装に身を包んだいかにも王子様然としたアーサーにエスコートされて到着した城の広間には、着飾った人々がすでに集まっていた。
こんなにもたくさんのひとがきてくれてすごいなあ、と呑気に思っているうちにフレイは取り囲まれてしまったのである。
セルフィアの外から訪れたという彼らは、次々とフレイに挨拶をし、言葉を交わしたがった。アーサーがそつなくフレイを庇って話をよいところで切り上げてくれなければ、延々と話が続いたことだろう。
きょろり、とあたりを見回す。てっきり会場内で執事として働くビシュナルがいると思っていたのに、姿が見えない。もしかして城前広場のほうにいるのだろうか。
ぼんやりと彼のことを思い浮かべる。鏡の前で抱きしめてくれた瞬間を思い起こせば、じん、と頭が痺れるよう。ビシュナルはいつも溌溂としていて、あんなことを口にすることはない。少し、嫉妬してくれたのかなと思えば、なんともいえないそわそわとした気持ちになる。
「お疲れになったでしょう。フレイさん」
「だ、大丈夫です!」
アーサーが心配そうに様子を伺ってくるので、幸せな思い出に浸っていたフレイは、はっと意識を取り戻した。何も問題ないことをアピールする。
「そうですか。でも、無理はなさらずに。慣れない場というものは、思った以上に精神力と体力を使いますから」
「ありがとうございます」
王子様であるというのに、ほんとうに気遣いのできる人である。商売をするならそれは当然だと、アーサーは笑うだろうけど。
懐中時計を手にし、時刻を確認したアーサーが微笑む。
「そろそろ兄が入場する頃合いですね」
思わず、ほっと息をつく。それはつまり、さきほどまでの挨拶行列が落ち着くことを意味するからだ。アーサーの兄が主賓として到着後、セルザが挨拶を行う。それがパーティ開始の合図となる。
ほどなくして会場入り口がざわつく。
「ノーラッド王国第十一王子殿下のおなりです!」
ボルカノンが高らかに王子の到着を告げる。
きゃあ、と可愛らしい歓声があがる。まだ年若い令嬢には、今しがた姿を見せた王子の美しさは刺激が強かったのだろう。
「わぁ……」
とはいえ、フレイも思わずというように感嘆とも溜息とつかないものを漏らした。
美しいもの楽しいもの。芸術と音楽をこよなく愛するというアーサーの兄王子。名をカイウス。祖国を離れ遠い他国への留学していたのも、その地に暮らしたとある有名画家の研究のためというから、熱量が違う。
肩よりも長い金の髪は、まるでそれそのものが光っているよう。整った面には上品な微笑み。アーサーよりも色濃い石榴の瞳が、出迎えた人々に向けられる。視線を投げかけられただけで、神か天使でも目の前にしたように、人々の表情が輝く。
なんというか、存在感がすごい。圧倒的だ。アーサーも品があって、市井の人とは違うと感じることは多々あるけれど。
人々の群れが開く。そうしてできた道を当然とばかりに優雅に歩み、カイウスはセルザの近くに設えられた貴賓席へと落ち着いた。
そうして、舞踏会は進行していく。
こうした会を開くことになった経緯と、街のみんなと集ってくれた人たちへのお礼。セルザが、かしこまった威厳ある言葉遣いで述べていく。あわせて、主だった来賓の紹介と、とくに遠方からきてくれたカイウス王子へのお礼の言葉。
フレイのことも大切な友と紹介してくれて、くすぐったい嬉しさを覚えた。
「さ、これ以上の堅苦しい挨拶はやめとしよう。皆、今宵の宴を楽しんでくれれば幸いじゃ!」
さきほどまでの威風堂々とした様子を霧散させ、にこりとセルザが笑ってそういえば、わぁ、と会場内が沸き立った。響いた拍手がおさまれば、参加者たちは思い思いに動き出す。
パートナーのいる人たちは相手の手を取って、ホールへと進んでいく。そうした相手のいない人たちは、同じような人たちと声をかけあい、楽しそうに手を取り合う。
さあ、ここからが正念場だ。
するり、とアーサーの兄が席をたつ。そのまま一直線にフレイのもとへと向かってくる。
そうして目の前にやってきた彼から手を差し出され、手を重ね返すことでダンスの申し込みを受け入れるのだ。
大丈夫、失敗しないし、間違えたりしない。
練習をたくさんしてきた。ボルカノン、クローリカ、それにビシュナル。ドレスだってこの場にちゃんと馴染んでいる。
でも、やっぱり――はじめて踊るならビシュナルくんがよかった。
目の前に近づく王子様に対して、あまりにも失礼なことを考えている自覚はあったが、好きな人との思い出が優先されるのは恋する乙女の本能ともいえる。
「フレイ姫、ですね?」
にこり、と非の打ち所のない王子の微笑みとともに声をかけられたフレイは、落ち着いて慎重に、練習を重ねたカーテーシーを披露する。
「はじめまして、カイウス殿下。セルフィアへようこそお越しくださいました」
「そうかしこまらないでおくれ。僕は王子ではあるけれど、そうした責務よりも美しいものや楽しいものを追い求めたいだけの人間だからね。こたびのフレイ姫の活躍を、ぜひともきかせてほしい」
「はい。殿下にとって面白いものとなるかわかりませんが……ぜひ」
「ああ、ありがとう。約束だよ」
当たり障りのない会話をしながら、フレイは内心で困惑していた。だって、すぐにダンスに誘われると思っていたのに、そのような気配がない。これではただの挨拶、世間話だ。もしかして、私とはダンスを踊りたくない……? いやでも、踊る予定だったはず。
ちら、とアーサーに助けを求めるように視線を向ける。しかし、赤い瞳はどこか別のところをさ迷っていて、重なることはなかった。
困った。そろそろダンスも始まるはずだ。とはいえ、カイウスから誘われるのは筋というもの。まさかフレイのほうから誘うわけにはいかない。
「――よかった、間に合いましたね」
「え?」
アーサーが、ほっとしたようにそんなことを言う。どういうことかとその視線を辿れば、一人の貴公子然とした青年がこちらに向かってきていた。
「え、」
ぱちぱちと、思わず目を瞬かせる。
鍛えた体にぴったりの燕尾服。眩い白さのシャツとタイ。
いつの間に正装に着替えたのか。というよりも、今日は執事として裏方に徹するという話ではなかったか。
フレイが驚愕と疑問に目を瞬かせていると、目の前までやってきて足を止めたその青年――ビシュナルが、紫の瞳を悪戯っぽく細めて微笑んだ。
恭しく身を屈めれば、光沢のある襟から磨き上げられたエナメルの靴の先まで、シャンデリアの光が零れ落ちていく。
間違いなく、ビシュナルである。綺麗に前髪を撫で付けて額を出しているせいか、いつもよりなんだか大人っぽくみえる。
「ビシュナルくん……?」
困惑気味に名を呼べば、「はい」と答えが返る。
どうして、という疑問は当然のように浮かぶけれど、それよりも嬉しさが胸を突く。
す、と差し出される手は、フレイの希望を叶えるただひとつのもの。
「姫、僕と踊ってくださいますか?」
「うん!」
差し出されているビシュナルの右手に、フレイは迷うことなく己の左手を重ねる。
夢のよう。でも、間違いなく現実なのだ。
大切なものを慈しむように、やんわりと握られた手が導かれるまま、フレイはホールへと一歩踏み出す。本当はカイウス王子と踊るべきなのに、という考えももう意識の彼方。
フレイの右手とビシュナルの左手が自然と重なる。流れるようにフレイの背へとビシュナルの右手が添えられて、応えるようにフレイはビシュナルの右二の腕へと手を乗せた。二人の準備が整ったのを見計らったように、緩やかにワルツが始まる。
くるりくるり。花開くような軽やかさでターンを繰り返し、息のあったステップを踏んでいく。視線は恋しいひとへと向けたまま、最高の心地で、奏でられる音楽にあわせてホールを泳ぐようにワルツを踊る。
夢心地でビシュナルと踊っていたフレイは、ふと視界の片隅に光り輝くカイウスをとらえて、あっと声を漏らした。
「ビシュナルくん、どうしよう。カイウス殿下のお誘い断っちゃった」
「まだお誘いされていなかったはずでは?」
「それは、そうだったけど」
でもそれを待って、当初の予定どおり開幕のダンスを踊るべきだったのだ。国際問題に発展しないかな、それとも不敬罪を問われたり? うーん、と眉根を寄せて悩むフレイに、ビシュナルは笑う。
「大丈夫です。このことはカイウス殿下も承知されています」
「そうなの?」
それは初耳である。いつの間にそんなことになったのだろうか。フレイの疑問ももっともだとビシュナルは頷く。
「叱責を覚悟で願いでたところ、こころよく姫とのファーストダンスを譲ってくださいました」
「だから、ダンスのお誘いをしてくれなかったってこと?」
「そうなります」
ほっと息をつく。こちらがなにかしでかしたわけではなかったのだ。
一安心したところで、フレイは問う。
「その服はどうしたの?」
ビシュナルに似合っている正装だが、用意するのは大変だったはず。そんな準備をしているとも知らなかった。
「ヴォルカノンさんが若いころに着ていたものを譲っていただいたんです。僕にあうよう、無理を言って手直ししていただきました。ドルチェさんにはあとでお礼をしなければ」
ああ、とフレイは納得する。控室でのドルチェの行動を思い返せば、あれはそう、ビシュナルの正装の準備を促していたのだろう。
心優しく頼りなる友人に、あらためてお礼を言おう。だってその心のこもった行動がなければ、フレイはこうしてビシュナルとダンスを踊れなかっただろうから。
「とっても素敵だよ」
「ありがとうございます、姫」
視線を交わし合って、心さえもお互いに届けながら微笑みあう。なんて、なんて幸せな時間だろう。
ゆっくりとワルツの旋律は終盤へと向かっていく。
「姫。僕は、夢物語の王子様にはなれません。もちろん、あちらにおわす尊いお方にも、なれません」
「うん」
アーサーと立ち並ぶカイウスが、また視界の端に映る。どことなく、満足気な顔をしてこちらをみているような気がした。
「ですが、あなたの恋人です」
「!」
はっとして視線をビシュナルだけに向ける。熱くて甘い感情を隠しもせずに、ビシュナルはフレイをみつめている。フレイだけを、みている。
「姫の願いを叶えるのは、いつでも、どんなときも僕だけでありたいと思っています」
「だから、きてくれたの?」
あのとき、ビシュナルと踊りたいと何気なく口にした私のために。
正装を用意するためにほうぼうへと頼み込み、罪に問われるかもしれない覚悟のうえでカイウスにファーストダンスの権利を願いでてまで。
じんわりと目元が熱をもつ。はっきりとみえていたはずの恋しい人が、歪んでいく。心の底から沸き立つ喜び、嬉しさ、そしてなによりの愛しさ。それが当然とばかりにビシュナルは快活に笑った。
「はい。僕と踊りたいといってくれた姫のために、できることをしたかった」
「……!」
ぽろりと大粒の涙が落ちると同時に、ワルツが終わる。ゆっくりと足を止め、ビシュナルを見上げる。泣き笑う顔をみせることは、すこしばかり恥ずかしいけれど、この気持ちを伝えることが優先だ。
「嬉しい! ビシュナルくん、だいすき!」
「うわわ、急にあぶないですよ」
ぴょんと跳ねるようにして抱き着けば、慌てた様子でビシュナルが受け入れてくれる。
こんなにも誠実で情熱的で、一生懸命な人と出会えた幸運に、フレイは心から感謝した。
ホールの片隅で繰り広げられる可愛らしい恋人たちのやりとりに、この国の貴人がうっとりと微笑む。
ほう、と熱のこもった息をもらし、顎に指先を当てながら目にする光景を記憶に焼き付けるように見つめている。
「どうですか、兄上。とても兄上好みかと思うのですが」
アーサーはひどく満たされた表情をしている兄の様子を、薄く笑みを浮かべて伺う。
「ああ、いいね。最初はどうしたものかと思っていたが、アーサーのいうとおりにしてよかった」
どうやらあの二人は、筋金入りの美しいもの好きな彼の御眼鏡に適うものであったらしい。兄の美しいものは、世に溢れる芸術品、雄大な自然だけでなく、人同士の心繋がりにも見出される。
だからこそ、ビシュナルからの申し出にアーサーは力添えをした。彼の願いをかなえれば、兄が満足する結果が得られると唆した。いや、ご注進申し上げた、ということにしておこう。
とはいえ、兄の気持ちはよくわかる。
常日頃より彼らのそばで暮らしているアーサーにしてみれば、あの二人は眩しいほどに輝かしく、そのやりとりは常に尊くみえる。幸福とはかくあれかしと、思うほど。
「まるでそうあるべく神々に作られたようじゃないか! なんと愛らしく、そして美しいのか……ああ、ここにカンヴァスがないことが残念だ」
「兄上ならば、あとでいくらでもアトリエで描けるでしょう?」
「わかっていないな。この感情の高ぶりを筆に乗せるのいは今しかないのだよ」
「そうですか」
可愛いものは好きであるが、芸術方面には敵うべくもない兄の嘆きに、わかったような顔で頷いてアーサーはフレイとビシュナルへと視線を戻す。
寄り添い微笑み合う二人にこれからも幸あれと、アーサーは願うばかりだ。