にわとりとたまご

 なんでだろう。
 ノーラはそんな疑問を頭いっぱいに詰め込んで、まじまじと男の顔をみつめる。
「あん? なんだよ、人の顔じろじろみやがって。金とるぞ~?」
「……はぁ」
 工房の片隅に陣取り、まるで自分の家のようにくつろぐだらけた男ユカを眺めていたノーラは、頭を振って刻分儀に向き直った。
 そのまま時を操り、ケラリを熟成させていく。時間の流れが安定すれば、手を離しても大丈夫になるため、そこまで持っていくことに神経を集中させようとする。
 が。
 術を繰る頭の片隅には、ちゃっかりとユカの姿が居座っていて、どいてくれる様子がない。
 ユカは背は高い。見た目は、まあ悪くない。口は達者で話題は豊富。一緒にいれば、その知識の深さが時折垣間見え、余計に興味が増す。態度が悪いし口も悪いが、どうしてか不快ではなく、周囲にすぐ溶け込んでいく。無類のジャーキー好きで、トレジャーハンターとしての腕は確かなもの。
 とはいえ、酒は好きだわ、いつの間にか借金を作っているわで、ときには店主が泣くほど値切っているわで、その素行に感心できるところはなかったりする。むしろ、それらが良い点を霞ませている。
 ノーラがそういう男に恋する女の子をみかけたらならば、十中八九、「やめておいたほうがいいよ」と助言するところである。
 ところが困ったことに、その恋する立場に、ノーラが立ってしまっているこの現状!
 これまでの経緯から、お勧めできないと一番わかっているはずなのに――どうしてこうなったのよ?!
 むむむ、と眉を潜めながらそんなことを考える。
 まあ、いくらそうしたところで答えがでないことは、重々承知している。これまで幾度となく悩み、結果として『好きなものは好き』というところに落ち着いたのだから。
「……ふう。ここまでくればあとは大丈夫かな」
 もやもやと頭を悩ませ続けたノーラは、いつもより幾分か時間をかけて、ようやく術を安定させた。
 雑念が混じりすぎた。まだまだ未熟だなぁ、と思いつつ肩の力を抜いたとき。
「おー、おつかれさーん。ところでジャーキーくれねえ?」
 暢気すぎる声に、脱力しながら振り返れば、にぱ、とユカが笑ってこちらをみている。
 つまるところ、おとなしくしていたのは、ジャーキーをたかるためであったのだ。
「なんだよ、邪魔しねぇで待ってただろ。んな顔すんなって。癖になるぜ?」
 どうやらさきほどよりも、眉間に深く皺が刻み込まれているらしい。
 ここ、ここ、といわんばかりに、ユカが自分の眉間に指先を当てて揉み解してみせる。ノーラにもそうしろ、ということだろう。

 まったくもう、誰のせいでこんな状態になっていると――!

 苛々とそんなことを思うものの、これが八つ当たりだとわかっているので、ノーラは大声をだしそうになるのを堪える。
 だって、ユカは知らない。
 ノーラが、ユカに恋をしていることなんて、知らないのだ。
 小さく息をついて、ノーラは歩きだす。防煙箱の中にあるジャーキーが、そろそろ良い具合になっているはずだ。それを渡せば、ユカも満足するだろう。
「わかったわよ。ジャーキーね」
「おう! とびっきりいいやつを頼むぜ~!」
「ほんとにジャーキーが好きなんだから」
 子供のように無邪気に喜ぶユカに、ノーラは苦笑して返した。
「で、お代は?」
 しょうがないと理解しているし、ジャーキーを渡すことにも異論はない。が、それとこれは別である。
「ツケで!」
 考える間もなくそう言いきったユカに、ノーラは表情を険しくした。防煙箱からジャーキーを取り出し、ユカを睨み付ける。
「前もそういってたじゃない! だいぶたまってるんだからね、もう!」
「え~、そうだったかぁ?」
「とぼけないの!」
 あさっての方向に視線を流し、頬を掻くユカは、うまく誤魔化されてほしい、あわよくばチャラにしてほしいといわんばかりの顔である。
 だが、ノーラのほうも慈善事業をするために工房をひらいているわけではない。それに、こういうことはきちんとしておかないと気持ちが悪い。
 ジャーキーをいれた袋の口をしっかりと紐でしばると、靴音高らかにユカへと近づく。そのまま、ずい、と袋を差し出して言う。
「こうなったら体で返してもらうからね! ほら、いまから採取にいくよ!」
「ええ~、だりぃ~」
 胸元に押し付けられたジャーキーの袋を抱きながら、いやいやと駄々っ子のような仕草をするいい年をした大人の手をとり、容赦なくひっぱる。
 というか、子供ならまだしもユカにそんなことされても可愛くない。
「ぐずぐずしない! ほらほら!」
「へぇへぇ」
 そんなこんなで、ぶちぶちと文句を垂れるユカの手をひっぱって、ノーラは南の放牧地へと向かった。

 

 晴れ渡る青空の下、外を歩くのは気持ちがいい。
 風はさわやかに駆けながら、街道のすぐそこからひろがる草原に、湖面のたつような波を描いていく。それらがさざめくたび、きらりと光をはじくのが綺麗だ。
 そんなのどかな風景をたたえている南の放牧地であるが、モンスターはでる。そりゃもう、いつもどおりにあたりまえのように、ノーラとユカをみつけては襲い掛かってくる。
 とはいえ、今回ここに来たのはカクころからカクレイを頂戴するためなので、襲ってきてもらわないことにははじまらない。
 何度目かの戦闘のあと、ノーラは振るっていた剣を鞘におさめ、同じように突剣をおさめたユカに言う。
「やれやれ~……、ちょっと休憩しよっか、ユカ」
「そうすっか」
 駆け出しの頃とは違い、今はどんなモンスターに遭遇しようとも、二人がいれば対応できる。場所にもよるが、危険な状況になることは、ほぼないといっていい。
 試練の間に言われたことのある、『ノーラは導刻術師というより冒険者』、というケケの言葉は、間違っていない。
 一人前の導刻術師になるためにここにやってきたというのに、気づけば剣を振り回す立派な冒険者にもなっていたのだから不思議なものだ。でもまあ、おかげでユカと一緒に魔の試練場地下でお宝をみつけることができたのだから――結果としては、よかったのだろう。
 周囲にモンスターの気配がないことを確認し、大きな岩の傍に腰を下ろす。降り注ぐ太陽の光が、ノーラの体をほんのりと温めてくれる。運動していることもあって、多少暑いくらいだ。だけど、気持ち良い。
 家を出て体を動かしたら、胸のなかに渦巻いてたものが少し落ち着いた。
 深呼吸をして、肩の力を抜いたあと、手に入れたカクレイの数を確かめる。あと2~3個もあれば、依頼分と自分で使う分に足りるだろう。
 と、なると、あと数回の戦闘を要する。うまくいけば、一回でおわるだろうけど、ユカは疲れていないだろうか?
 そっと、気づかれぬよう視線を送った先にあるユカの横顔は真剣で、手の中にある突剣を注視している。いい加減なところも多々あるくせに、道具の手入れをまめにするユカのことだ、きっと何か気になることがあったのだろう。
 ふわり、ユカの向こうから吹いてきた風に、自然のものでない匂いが混じっている。ケケとも、メロウとも全然違う。強いお酒と、香辛料と、古びた物がごちゃまぜになったような、匂い。
 決して、いい香りだと断言できるようなものでないのに、誘われたように、その近くにいきたくなる。ぐらぐらと揺れ動く意識に、ノーラは戸惑う。それはきっと恋心ゆえのものなのだろうが、まだ慣れていないから困る。
 すこしだけ、様子を伺うだけのつもりだったのに。
 でも、ちょっとくらいなら――いい、かな?
「なにしてんの?」
 どきどきしつつ、ノーラは距離を縮める。
「あ? ちとさっきの戦闘で使ったときにおかしいような気がしたんでな。ま、大丈夫そうだが……」
「ふーん?」
 ユカの言葉を心地よく鼓膜で受け取りながら、そ、ともたれかかってみる。あくまでユカの手元を覗き込んでます、といった風を装って。
 ぴく、とユカの身体が震えたような気がしたが、引き剥がされる様子も、離れていく気配もない。
 内心、ほっとする。ここで全力で拒絶とかされたら、さすがに傷つく。
 ノーラは加速するこの胸の鼓動が、ユカに伝わって欲しくないような――知って欲しいような、そんな相反する気持ちをもてあまし、せつなく息を漏らす。
 世の中の女の子たちってすごい。
 いつもこんな心地で恋をしているのかと思うと、だれかれかまわず尊敬したくなった。恋愛初心者のノーラにとっては、なにもかも未知すぎる。
 恥ずかしいのに、見たいという欲求を堪えられず、そっとユカを見上げる。途切れた言葉の先も気になったことだし。
「……!」
 が、思ったよりもずっと近いところにその瞳があって、心臓が最後の鼓動を刻んだかと錯覚するくらい、大きく跳ねた。こちらをみているとは、思っていなかったのだ。
 ユカの視線はそらされず、その瞳の中に嫌悪の色はない。ただまっすぐに、ノーラだけを映している。そのせいで、目がそらせなくない。
 今、ユカの視界には自分しかいないはずだ。そう思えば、嬉しくなる。自分の耳元で鳴り響く鼓動しか、ノーラにはきこえなくなっていく。
 二人を包むように吹いた風に、またユカの匂いがした。
 きゅ、と胸の奥が痛くなる。いままで知らなかった甘い痛みに眩暈がする。ノーラは逃げるように、瞳を閉じた。目を逸らせないなら、隠すしかない。
 と。
 温かなものが触れた。それは頬をかすめるように撫でて、耳のそばで立ち止まる。髪が、わずかに掻き分けられた気がした。
 ユカが自分に触れていると思うだけで、心臓が破裂しそうだ。そんなことないってわかっている。こんな馬鹿げたことを考えることも、前まで一度だってなかったのに。
「……ユカ?」
 たまらなくなって、問いかけるようにその名を呼べば、息を飲むような気配を感じた。
 意を決して瞳をあけると、相変わらずこちらを見下ろすユカがいる。さっきよりも、近い。その息が、鼻先に落ちてくる。
 剣を握っているせいで硬い男の手が、優しく動くのがなんだか不思議な気がして、ぼうっとその仕草を眺める――と。
「おい、髪の毛に虫ついてんじゃねーか。っとに女かよ、おめーは。つーか、もう採取終わったんなら帰ろうぜ~、オレ様だりぃ」
「……」
 ノーラの側頭部から何かつまみ、それをぺいっと放り投げるような仕草をして、そのまま大あくびへと行動を移したユカを呆然と眺める。
 ノーラの意識が一瞬停止したって、しかたがないことだろう。
 ぐ、と唇を噛みしめながら、ノーラは俯く。熱を帯びはじめた頬を見られたくなかった。
「~~~!」
 もう、もう! なんだっていうのよ!
 ぶわりと、嵐の日の湖岸に押し寄せる波のように、寂しさや恥ずかしさ、居た堪れなさに襲われたノーラは、さっとユカから離れ立ち上がる。
 ぱん、とエプロンについた草の切れ端をはたきおとして、腕を組み、ぷいと顔を背けた。自分に、甘い一瞬が訪れたことなどなかったと主張するように。
「だーめ! カクレイ、まだそろってないもん」
「ちっ、しゃーねえなあ」
 ノーラの言葉を受けて、面倒くさそうにユカが立ち上がる。
「さっさと探そうぜ。あとちょっとなんだろ?」
「……うん」
 カクころを探して歩き出すユカの後姿に、ひどいせつなさを覚えた。
 きっとユカにとっては、ノーラなんて魅力のある存在などではないのだろう。そうでなければ、少しくらい――もっと、いい反応をしてくれるはずだ。照れたようすもなく、困ったようすもなく、いつもとかわらず虫を払ってくれたユカは、いっそ憎たらしいくらいにいつもどおりだった。
 それはつまり、ノーラとユカの間には、そういう空気など生まれる要素がなにもない、ということにほかならない。少なくとも、ユカにとってはそうなのだ。
 その事実に苦しくなって、ノーラは視線を落としながら細く息を吐き出す。
 恋とは一方だけでは、花咲くだけである。ふたつ揃ってはじめて、こぼれるような実が生るものだ。
 わかっているのに、自分だけが胸に咲いた恋の花に浮かれていて、情けない。悔しい。
 下を向いて唸っていたせいで、立ち止まった背中に気付くのが遅れ――ボフ、と広い背中に正面衝突する。
「うわわっ?!」
「――敵さん、おいでなすったぜ」
 間の向けた悲鳴交じりに慌てて一歩下がったノーラに向かって、どこか楽しそうな、それでいて真剣さも帯びた声でそういいながら、ユカが突剣を抜く。
「あ!」
 ひょい、とユカの横から顔をのぞかせたノーラは、声をあげた。
 風に揺れる牧草の合間にみえるのは、カクころの集団であった。いまのところは、じーっとこちらのようすをうかがっているが、飛びかかってくるのは時間の問題だろう。
 愛用の剣を抜きながら、ユカに肩を並べる。
「じゃ、いくか?」
 にやりと笑ったユカが、不敵な顔をして言う。
 相棒と呼ぶにふさわしい信頼が、そこにある。互いに背を預けあうことになんの疑問も不満も恐れもないと、いってくれている。
 ともに戦い、ともに冒険をし、ともに笑う。かつて、仲間に裏切られた過去のあるユカにとっては、それはとても大切なことのはずだ。
 だから、ノーラはその信頼に応えるために、凛々しく笑ってみせる。
「もちろん!」
 上等、と機嫌よさげに呟いたユカが、先んじて前に出る。それに続きながら、これでいいのかもしれないと、ノーラは思う。
 ユカがこうして笑ってくれるなら、一度失っていた誰かを信じる心を持ち続けてくれるなら、このままでもいい。
 ユカの相棒は、自分。それは、ノーラにとって、誇らしいことである。
 だから、この恋が片想いのままであっても、実ることなく枯れていくだけの寂しい花であっても、いつか綺麗な思い出になるときが、くるのではないだろうか。
 ノーラに興味のないユカに、何をいっても困らせるだけだろう。だからきっと、これでいいんだ。
 そんなふうに、自分自身に言い聞かせるようにして、ノーラは心に無理矢理蓋をする。
 だが、ノーラはまだ気づいていなかった。
 恋とは、そんなことでおとなしくなるようなものでも、自分の気持ちひとつで制御できる優しいものなどではないことに。
 そこまでは思い至らぬまま、ユカの動きに触発されて続々と姿を現すモンスターを迎え撃つべく、ノーラは剣を構えた。

 

 

 ノーラが、南の牧草地でひとまず恋のありどころを定めた日から、一週間ほど経った頃。
 依頼を受けていた品がそろったので、ノーラは吹きだまりの泉に足を向けていた。
 質のよいものが思った以上にはやく手に入れられたので、ノーラの機嫌はすこぶるよい。
 これなら相手も喜んでくれるだろうし、ダビーも笑って褒めてくれるに違いない。
 鼻歌交じりに歩く町に、夕暮れが迫っている。夜の喧騒がはじまるまでのこの僅かな間はとても静かで、ノーラはひそかに気に入っていた。
 常連の人たちはもう顔をみせているだろうかと思いつつ、にこにこと笑いながら酒場にはいったノーラは、いつもの習慣で無意識のうちにユカの姿を探す。
 が、いつもの定位置にユカはいない。酒場の中には、数人の客がいるのみだ。
 あれ? と思いながらも、カウンターの向こう側にいるダビーのもとへと歩いていく。
「こんにちは、ダビーさん」
「おう、ノーラ。よくきたな。依頼の件か?」
 酒にあまり馴染みのないノーラが、この酒場にくるとなれば第一の目的は依頼である。ダビーの言葉は、もっともなものだった。
「はいっ、これ今回の納品分です」
 かばんの中から、いくつもの品を取り出す。これですべての依頼は達成されるはずだ。
 品物の状態、個数などを調べたダビーが、満足そうに頷く。
「さすがだな。依頼主には、ノーラがよくやってくれたと伝えておくよ」
「わ、ありがとうございます!」
 お世話になっているダビーにそう褒めてもらえると、やはり嬉しい。
「そういえば、ノーラあてに依頼がきていたな……。あと、礼に渡して欲しいっていう品を預かっているんだ。倉庫においてあるから、少し待っていてくれるか?」
「ほんとですかっ?! やったぁ!」
 ダビーの言葉に、ノーラは腹がすいた魚のように勢いよく食いついた。これまでにもご指名での依頼は何度かあったし、報酬以外にお礼の品をもらったことだってある。だけれど、そのたびに心が躍るのはとめられない。
 認められていること、頼られていること、信じてもらえていること。それらすべてが、これまでノーラがやってきたことが間違いではなかったという、証だと思うのだ。
 ダビーが倉庫に消えたのを見送って、わずか数秒後。
「あなたがノーラ?」
「?」
 ダビーが戻ってきたら、依頼の話もちゃんときかなきゃと考えていたノーラの背後から、しっとりと落ち着いた女の声が響いた。
 聞き覚えはない。でも、間違いなくノーラをという名を紡いだ。
 いぶかしく思いながらも振り返れば、そこに長い黒髪の女性が立っていた。
 ノーラより、やや年上だろう。ルビーのような赤い瞳が、印象的だ。
 動きやすさを重視しているのか、黒いなめし革の鎧に身を包んでいる。ぴったりとあつらえられた鎧が描く線は、中に押し込められた女の稜線を想像させるにたる優美さ。
 異性であれば目を奪われ、同性であれば羨望の眼差しを送らずにはいられないような、そんな美しいひとだった。
 だが、ふらふらと誘われるように近づけば、その腰に下げられた剣の切っ先が喉に突きつけられてもおかしくない――そんな危うい雰囲気もあわせもっている。
 すべてが絶妙に交じり合いえもいわれぬ魅力となっている女に声をかけられて、ノーラは眉を潜めた。
 これまでにもたくさんの人に会ってきたが、こんな記憶に焼け付くような女性に会った覚えがないのだ。
「ノーラ? ノーラ・ブランドル?」
「はい、そうですけど……ええっと、」
 もう一度訊ねられ、その勢いに負けたようにノーラは頷く。だって、ファミリーネームまで知っている。もしかしたら工房の噂をきいたひとだろうか、とも考える。
「あら、ごめんなさいね」
 口ごもったようすをみて、くすりと女が笑った。黒い革手袋に包まれた長い指が、赤く艶やかな唇に添えられる。つ、とその唇が弧を描いた。
「はじめまして。今度、ユカと一緒にある遺跡にいくことになったトレジャーハンターよ。あなたの話は彼からきいたの。急に声をかけてごめんなさいね。でも、酒場のご主人が『ノーラ』って呼ぶものだから気になって」
 にっこりと笑えば、どこかあどけなさが漂う笑顔が愛らしい。ぴんと張り詰めたような冷たさが一気に緩む。だが、ノーラはそれにみとれることもできず、固まった。
 今、この人はユカと――遺跡にいくと、いわなかっただろうか?
 ひくっとノーラは喉を震わせた。
 だって、そんなのきいてない。
 どこかにいくなら、ユカは一番に自分にいってくれるはずなのに。
「私をパートナーとして、冒険にいってもらうことになってるの。今日はその打合せにきたのよ。あら、もしかしてきいてなかった?」
「……」
 何も言ってこないノーラに対し、優位にたっていると判断したらしい女が前に出る。黒髪を艶っぽくかきあげながら、流し目を送られると、形にしたかった言葉は喉のずっと下で、影も形も消えてなくなった。
「まあ、とにかくそういうことなの――だからしばらく、彼には声をかけないでくれるかしら?」
 お願いという形をとった明確な命令。
 そんなことあなたに言われる筋合いなんてないと言えたなら、胸にわだかまったものも多少晴れただろうけれど、いかんせん衝撃のほうが強すぎて、ノーラは動けない。
「あなた、彼に自分の工房の材料とか、依頼の品を揃えるための手伝いさせているんですってね。あんなに有能なトレジャーハンターなのに……まあ、それはいいわ。これから彼は私と一緒にでかけることになるんだから……わかるわよね?」
 遺跡、パートーナー、トレジャーハンター――そんな言葉をきいているうちに、ノーラを支える大事な柱のひとつが、崩れた。
 自分とユカを繋いでいたものは、脆いものであったと思い知らされた気分だ。こんなにもあっさりと、解けてしまうものだったなんて。
「そ、そうなんですか。えっと、じゃあ、これからは他の人をあたってみますね」
 からからに乾いた喉から、なんとか無難な言葉をしぼりだす。声の震えに気付いたのか、女は勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「そうしてちょうだい」
 ふふ、と笑いながら、赤い視線がノーラの頭から爪先までを撫でていく。
「それにしても、あなたがユカの、ねえ……」
「……」
 くすくすとこぼされる、おかしくてしかたないというような笑い。失礼だと、眉間に皺を寄せる余裕もなく、ここにいることが急に恥ずかしくなってきたノーラは、わずかに身じろぎして半歩後退した。
 きっと、この人の隣にユカが立ったら。さぞお似合いだろうと、そう思ったのだ。
 自分とは違う、トレジャーハンターとしての経験と知識、大人の女の色香。ユカの隣にあるためには必要なものすべてがそろっているとしか思えない人物を前に、ノーラはすっかり萎縮してしまっていた。
 と、そこへ。
「おい、なにしてんだ!?」
 珍しく焦ったような、ユカの声が響いた。荒い足音をひきつれて、店の奥から駆け寄ってくる。
 きっと、勝手に寝床にしているという酒場の屋根裏にでもいってたのだろう。ユカの手には、古びた地図がある。
 ああ、打合せとかいっていたから――それをとりにいっていたんだ。
 ちくちくと内側から胸を刺されながら、ノーラは笑った。多少ぎこちないかもしれないが、見逃して欲しかった。
「あ、よかったね、ユカ。この人と遺跡にいくんだって?」
 ノーラの明るすぎる言葉に、ユカの顔色が変わった。
「おい、ちょっと待てノーラ、オレは、「あ! ええっと、なにか……そこで使えそうなもの、みつけ、たら……」
 何か言おうとするのをさえぎり、手を伸ばしてくるユカから逃げるように後退しつつ、ノーラは胸元で手を握り締める。
 もっと、いろんなことをいわなければと思う。
 気をつけていってきてね。いいものがみつかるといいね。怪我なんてしないでね――そう、応援する言葉、気遣う言葉をおくるべきなのに。
 零れそうになるのは別のなにかで、ノーラは歯を食いしばるようにして、押し留める。
「またいろいろ教えてね! それから、冒険の話、楽しみにしてるから! じゃあね!」
 みっともないことになる前に、ノーラは二人に背を向けた。一方的に言って、駆け出す。
 待つと約束したダビーのことが脳裏をよぎったが、察しのいい人だから、他の客から事情をきいて許してくれるだろう。
 納品したおかげで、鞄の中身は軽い。それに相反して、ノーラの心は重い。
 でも体は身軽になったおかげで、走るにはありがたい。
 酒場から飛び出したまま駆ける世界は、様々な色に満たされている。いつのまにか西の端に身を横たえている太陽がふりまく、朱色、紅色、緋色、金色。夜を東からひっぱってくる空は、深い藍色と紺色をたたえ、なびく雲は金と薄紫に彩られている。
 きらと瞬く星もあんなに綺麗なのに、あたし、なにやってるんだろう。ノーラは、色濃い影を引きずりながら、息苦しさに顎を上げて思った。
「おい!」
「……!」
 霧の森へとまっしぐらなノーラの背後から、鋭い呼びかけがかかる。思わず首を捻って後ろをみると、ユカがみたことのない形相で追いかけてくるのがみえた。
 悲鳴を出さなかっただけましだろう。ノーラは慌てて前を向き直した。
 が、男と女の体力も、足の長さだって大きい差がある。
 健闘したものの、ノーラの手首はあっさりと、ユカの手に落ちた。
「待てって、ノーラ!」
「はなして!」
 しっかりと掴まれれば、どうしようもない。足をとめ、身をよじるノーラを、ユカが強引に引き寄せる。
「なに怒ってんだよ!」
 なんでわからないのよ、とそんな気持ちがノーラの中で爆発した。
「なによ、ユカが悪いんじゃないっ!」
 かんしゃくを起こした子供のように、ノーラはユカを乱暴に振り払う。
 ここまで全力で駆けてきた疲れに圧し掛かれながらも、気丈に睨みつける。
 ユカも負けず劣らずの息の乱しようだ。長い髪が頬に張り付いているのに、それを払う余裕もないらしい。
「はあ?! オレ様のどこが悪いってーんだよっ?!」
 ノーラの非難に劣らぬ声量の、ユカの苛立ち混じりの言葉が、テンペリナの町はずれに響く。
 くしゃり、とノーラは表情を崩した。
 ひどい。こんなのは、あんまりだ。初恋は実らないというし、覚悟もしていたはずだけれど、こんなあっさりと簡単には解けない絆だと信じてたものが手放されるなんて。
「あ、あたし、こんなにユカが好きなのに! それなのに、いつもいつも女の子扱いしてくれないのはユカじゃない! だ、だから、相棒でいられるだけでいいなって……そう思ってたんだよ?!」
 ぼろぼろと零れる涙を拭うことも忘れ、ノーラは叫ぶ。俯いて、ぎゅっと目を閉じ、エプロンを、手が白くなるほどきつく握る。
 気づけば、好きだった。
 軽薄にみえるくせに、時折見せる真剣な眼差しが。
 鑑定をしているときの、楽しそうな口元が。
 からかうくせに、ふとしたとき甘くなる声が。
 そんなユカの、いろんな顔をみるたびに、いつの間にか惹かれてた。
 もう思い出せないずっと前から、きっとそうだった。
 気づいたのは最近だけれど、ほんとうに好きだ。
 それと同時に、ユカがまったくといっていいほど自分を異性として扱っていないことにも、気づいた。
 それとなく近づいても、ユカの態度はそっけなかった。きっとそういう対象ではないのだろうと、ちゃんと理解した。
 だったらもう、このままでいいじゃないって、そう思った。
 恋人にはなれなくても、ユカの相棒という居場所があるから、彼にとって自分は特別なんだと思えた。その事実があれば、気持ちが通じることがなくても、耐えられると信じていた。
 なのに。どうして。
「それなのに、相棒ですらいさせてくれないなんてひどいよ! あたしが、ユカの相棒じゃなかったの?!」
 だがそう言葉にすれば、何を言っているのと、ノーラに向かって頭の冷静な場所が囁く。
 たしかにトレジャーハンターに復帰するきっかけは自分かもしれない。誰かをもう一度信じようと思うきっかけになったのは自分かもしれない。
 でも、そうでなくともユカほどの腕があれば、いずれはどこかの誰かと遺跡にもぐっていたのではないだろうか?
 つまりこれは、子供じみたわがままである。
 でも、子供にとってはなによりも大切な宝物を、それを知らぬ大人が無造作に捨ててしまったときのような――そんな寂寥は、堪える。辛い。胸に空いた穴が、寒くて仕方ない。
 そして、精一杯のノーラの言葉に対して、ユカは、何も言ってくれない。よけいに、寂しくなる。
 ぜぇ、と肩で息をする。
 ユカはきっと、あきれた顔をしているに違いない。訝しく思っているに違いない。
 だって、ユカを想っていることを、ノーラは言ったことがない。好き、と。たったその一言さえ、伝えたことがない。自分だけが相棒だと信じていると、いったこともない。
 知るはずのないことをこんな風に突然いわれたって、困るに決まっているのだ。
 ノーラが本当に言うべき言葉は、謝罪だとわかっている。
 でも。
「バカ! ユカなんて、もう知らないんだから! 遺跡でもどこでも、あの人と勝手にいっちゃえ!」
 飛び出した言葉は、拒絶と拒否だった。
 くるり、ユカに背を向け、ノーラは駆け出す。
 ここでようやく涙を手で拭う。小さい我が家を包み込む、霧の森へと一目散に走っていく。
 声を掛けてくれるでもなく、ふたたび追いかけてきてくれるでもないユカの態度が、すべての答えのように思えた。

 

 

「う~……」
 瞼が重い。ひたすらに重い。わんわんと泣いたせいか、喉も痛い。いまきっと、相当ひどい顔をしているだろう。
 ああもう、なんて面倒くさいんだろう。こんなことなら、恋をしていることに気付かなければよかった。なかば本気で、ノーラはそう思う。
 もそりと寝台から起き出すと、ケケとメロウが気が付いた。
「おはよう、ノーラ!」
「あらあら~、ノーラおはよう~」
「おはよぉ~……」
 元気いっぱいのケケと、のんびりとしたメロウに、挨拶をしながらノーラは寝間着からいつもの服に着替える。
 そして、顔を洗い、身支度を簡単に整えると、改め二人に向き直る。二人分の視線が注がれて、一瞬ためらうものの、意を決して口を開く。
「き、昨日はごめんね……」
 眉をさげ、もじもじと胸の前で手をあわせながら詫びると、顔を見合わせた二人が、同時に笑った。
「いいのよ~、気にしないで~」
「そうそう、ノーラが泣くなんてあんまりないから、おいらすごく驚いたけどね!」
「うう~……」
 二人の優しさに、昨日枯れ果てたと思った涙腺が潤む。この癒し組が世界に存在して、なおかつ自分の家にいてくれることに、ノーラは心の底から感謝した。
 昨日の夕方、失恋して、泣いて帰ってきて、愚痴に近い意味不明なことを言い続けて迷惑かけまくったような気がするのに。
 優しくなだめてくれたうえに、深く追求することもなく、むしろこちらを気遣ってくれている。
 やはりもつべきものは友である。
 もうしばらく恋はいいや、とノーラが思ってもいたしかない。
「さあ、あれだけ泣いたらお腹もすいたでしょう~? 朝ごはんつくったのよ~」
「ほらほら、ノーラ!」
 ケケに手をとられ、ノーラは小さく笑う。
「うん、ありがとうね」
 きっと、ノーラが起き出す前に、と二人がかりで作ってくれたのだろう。
 目をやったテーブルの上には、美味しそうな朝食が三人分置いてある。さりげなくタンベリーの実が添えてあるものは、きっとケケ用だろう。ちゃっかりしている。
 ふふふ、と笑いながらノーラは導かれて席に着こうとした――瞬間、ばぁん! と派手に家の扉が開いた。
「わああっ?!」
「あら~?」
「?!」
 モンスターの襲撃かと竦み上ったケケが、悲鳴をあげながらノーラの足元に隠れ。おっとりとした声にあわせ水色の髪を揺らしたメロウが頭を巡らせ。何事かと激堅黒パンの棚に目を配りつつ、鋭く振り返ったノーラは、顔をひきつらせた。
 いま一番会いたくない男が、そこにいた。
「おい」
 黒髪を乱したユカが、不機嫌極まりないと誰でもわかるような顔と声で、低く呟く。その瞳が、完全に据わっている。
 その顔を、ノーラは苛烈に睨みつけた。扉のたてつけが悪くなったらどうしてくれる。
「……ジャーキーなら、いまないから」
 ぷい、と顔を背けて言う。それくらいしか、もうユカがこの工房にくる用事はないはずだ。
「そんなことできたんじゃねーよ」
 許したわけでもないのに、ユカが勝手に工房へとあがりこむ。その当然だという様子に、ノーラはかちんときた。
「じゃあ、ダビーさんからなにか頼まれたの? ちゃんと用意するから言って。ほらはやく」
 いつにないつっけんどんなノーラの言い方に、あらまあとメロウが目を丸くしている。
 こんなことに巻き込んで、申し訳ない気持ちもあるが、噴出した気持ちはおさまらない。
「おい、こっち向けよ!」
「だからなにが必要なのかいいなさいよ!」
 まっすぐ自分の前にやってきたユカを、ノーラは下からねめつけた。ここで負けたら、立ち直れないという、意味のわからぬ意地でもって懸命に睨む。
「ノ、ノーラ……」
「あ……! ご、ごめんね、ケケ。大きい声だしちゃって」
 自分に縋りつくケケの震える声に気付き、ノーラはその背を撫でて気遣った。
 ふるる、と頭を振ったケケが、がくがくと膝を盛大に笑わせながら、ノーラとユカの間に立つ。
「お、おおおお、おまえがノーラを泣かせたんだろ?!」
 本人は、格好よくといつめているつもりなのかもしれないが、その怯えっぷりではみているこちらの胸が痛むくらいである。
「ケケ、大丈夫だから……!」
「ノーラ、すっごく泣いてたんだぞ! このーっ!」
 そういって、ケケがユカに殴りかかった。ノーラと一緒に冒険にでているケケも、それなりに冒険者としての力はあるはずだが、いかんせん機嫌が悪いユカを前にした恐怖のせいでか、動きが鈍い。
「このっ、このー!」
 あげく大きな手に頭を押さえつけられれば、手足の長さで叶うわけのないケケが、ユカにどうこうできることはなにもない。
「……泣いてたのか」
 ぽつり、と落ちたユカの言葉に、かっとノーラは顔を赤らめた。
「だ、だから、どうだっていうのよ、ユカには……関係ないじゃない……!」
 あれはノーラが自分の恋にさよならを告げるための涙だ。決して、ユカのためのものじゃない。
 唇を噛みしめて、ノーラはかがむ。そっと手を伸ばして、なんとかしてユカに一矢報いようとしているケケを、後ろから抱き上げる。
「もういいよ、ケケ。あたし、大丈夫だから、ね?」
「でもっ……! ノーラ、あんなに泣いてたじゃないか!」
 納得がいかないと、自分以上に怒ってくれる親友が愛しくて、ノーラはケケを抱きしめる。
「おい、メロウ」
「なぁに、ユカくん」
 にこにこと、三人の様子を見守っていたメロウが、小鳥のように首を傾げる。
「悪いけど、こいつと一緒に席はずしてくれ」
「うわぁ!」
 がっしりとケケの胴体を掴み、ノーラから問答無用でとりあげたユカが、ずいとメロウに向かって腕を突き出す。ぷらん、と手足をぶらさげたケケを受け取りながら、メロウが微笑む。
「……そうねえ、ノーラのことを泣かせないって約束してくれたらいいわ~」
 ケケを優しく抱きしめたメロウが、わずかな間をおいてそう条件をつける。
 がしがしと頭を乱暴にかいたユカが、困った顔をして頷いた。
「ああ、わかったわかった。ほら、さっさといってくれ」
 その言葉に頷いて、メロウが動く。ノーラとすれ違うとき、わずかに足をとめ、言う。
「ノーラ、がんばって、ね?」
「ノーラっ! 泣かされたらすぐおいらたちを呼ぶんだぞ!」
「……」
 励ましを受けている側でありながら、ノーラは目元を険しくした。
 頑張ったって、結果がみえているのに――と、いつになく後ろ向きなことを考える。
 そうして、メロウとケケは庭へと続く扉から出て行った。
 むすっとしたままのノーラとユカだけが残された工房内の空気は、はっきりいって険悪である。まさに一触即発。
 そんなあやうい均衡の上になりたつ居心地の悪い静寂を破ったのは、男のほうだった。
「昨日のことだけどよ」
 きた、とノーラは思わず身構えながら、手を握り締める。
「……あたし、謝らないから」
「……あ?」
 ユカの言葉をさえぎるように、ノーラは言った。ぴく、とユカの眉が動いたが、それを無視してさらに続ける。
「だって、ユカがバカなんだもん! あたし悪くないもん!」
 まるっきり子供のようにそう叫べば、ぎ、とユカが奥歯をかみ締めたのがわかった。
「――おまえのほうが、オレなんかよりよっぽどタチ悪いだろうが」
 そして搾り出された低い声に、かっと頭に血が上る。
「あ、あたしのどこが悪いっていうの?!」
 まったくもって心外である。乙女心に気づかぬ男にいわれる筋合いはまったくないと思う。
 と。
「ふざけんなよ、この鈍感!」
「な……!」
 びりびりと鼓膜がしびれるほどの、予想外に大きな声をぶつけられ、ノーラは息をのんで押し黙る。その隙をつくように、ユカが一歩前に出る。
 そして。
「さきに好きになったのはどうみたってオレだろうが!」
 ばん、と胸を叩きながら、そんなことをのたまった。
 瞬きも呼吸も忘れ、告白まがいのこと言った――否、告白をした男を、ノーラは大きな瞳でみつめた。
 すき?
 ああえっと、『すき』ってなんだっけ。隙、鋤? 違う違う、『好き』だ。
 え? 誰が、誰を好きですって?
 この場面でいわれれば、さすがのノーラにも思い当たることはひとつだけである。
 ただそれを導き出すには、ノーラの思考回路は混乱しきっていた。
 つまり、あたしがユカを好きになる前から、ユカはあたしのことが好きだったといっているということね――ああ、なるほど。
 ふむ、とたっぷりの間を使ってようやく結論を出してすぐ、ノーラは、はっと我を取り戻した。
 怒りまかせに頭に集中していた血が、一気に顔に降りてくる。
「――な、なにいってんのよ! ユカはあたしのことなんか好きじゃないでしょ!? 嘘いわないで!」
 ユカの勢いに負けぬとも劣らぬようにそう言えば、みるみるうちにユカの顔が歪んだ。怒っているような、悲しいような、寂しいような、なんともいえない表情だ。
 それをみて、自分はとてもひどいことを言ったのだと気付いたが、時すでに遅し。
「この……!」
「っ……!」
 一瞬、殴られるかと思って身を竦めたノーラの予想を裏切るように、柔らかな衝撃が全身を覆う。苦しくない程度の拘束は、痛いというよりも、むしろ心地よさしかない。
「ユカ……?」
 ゆっくりと瞳をあければ、そこには視界いっぱいにユカの上着の色彩がひろがっている。
 抱きしめられているのだと、自分の背中に回った腕の強さとぬくもりに、ノーラは理解した。
「マジふざけんなよ……」
 震えている声は、ノーラがはじめて聞くものだった。ユカの顔はみえないけれど、きっと泣きそうになっている、そんな気がした。
「オレが、どんな思いでおまえに懐中時計を渡したと思ってんだよ」
「な、だって、あれは――」
 あれは、ユカがノーラに持っていてほしいといったもの。だから、よくわからなかったけれど、それでユカが納得するならと、最終的には受け入れたもの。そこに特別な意味など、どう見出せという?
 またも、「本気で鈍すぎるだろ……」力なく零したユカが、ノーラの顔を覗き込む。
「男がな、いままで四六時中大事にして肌身離さず持っていたものを、女に渡すっていうのはそういうことだろうが!」
「……え、そ、そんなの知らないよ?!」
 ノーラは目を見開いて驚く。
 というかそれは、世間の常識なのだろうか。そうであるなら、その証たる懐中時計を壁に引っ掛けて飾るというのは、ユカからノーラに告白がありましたと、知らしめていたことにならないだろうか。
 いまさらながらに知った事実に、ノーラは眩暈を覚えた。
 そういえば、あのあと工房にやってきたユカが、なんだか怒っていたけれど、つまりそういうこと?
「知っとけよ、そんぐらい! つーか、むしろ察しろ! オレ様の気持ちをいたわれ!」
「だ、だって、知らなかったもん! ユカだって、やる、のひとことしかいわなかったよ!」
「だから、そのあたりから察しろっていってんだよ!」
「できるわけないでしょ~!?」
 これまでまともな恋愛などしたことのないノーラに、そういう男女の機微を察するよう期待することが、そもそもの間違いだ。
「あげくに、おまえがあんまり無防備な姿みせるもんだから、おまえのほうこそ、オレのこと男だと理解してねーんだと思ってたぜ」
「……」
「どんだけ我慢したと思ってんだ?」
 手を出して泣かれでもあれだと思ったしよー……と、ぐちぐちというユカの言葉が、自分にとって都合のよい幻聴に聞こえてきた。
 というか、そんなのも知らない。自分が無防備であったことなんて、あっただろうか。
 頭に疑問符を並べるノーラに、ユカはますます疲れたようにため息をつく。
「っとに、人の気もしらねーで……」
 その様子に、ノーラは焦った。これでは、ノーラばかりが悪いようではないか。そんなことはないはずだ、とノーラは背伸びをしてユカに詰め寄る。
「だって、ユカだって、あの人と一緒に遺跡に、いくんでしょ!? 打ち合わせしてたところだってあの人いってた……!」
 け、とユカがさきほどまでとは違う不機嫌さを垣間見せる。
「んなわけねーだろ。あの女、遺跡にオレの相棒も連れて行くっていったら、とたんに渋りやがってよ。取り分が減るだの、自分がいれば問題ないだのグダグダいうもんだからよー、断ろうと思ってたんだよ。ったく、オレがちと席をはずした間の悪いときにきやがって……バーカ」
 抱きしめられたノーラの前髪に、ユカの鼻先が潜り込む。近い、近い。ユカが、ほんとうに近くて、心臓が壊れる。
 あうあうとあえぐノーラをよそに、ぶちぶちとしたユカの愚痴は続く。
「勘違いはするわ、あの女の言葉は信じるわ――おまえ、惚れた男のこともうちっと信用しろよな」
「だっ……、だれが、ほ、惚れたなんて……!」
 そんなこと言ってない、といいかけたものの、昨日の夕暮れに紛れてぶつけてしまった気持ちは取り返しがつかない。
「おい、昨日いってくれてたじゃねーか。すっげー好きだってよ」
「~~~っ、」
 取り消しはきかねぇからな、と念押ししてくるユカに、ノーラは何も言えない。
 ただ、ぎゅうと精一杯にしがみつくことしかできない。
 ううううう、と唸りながらユカの肩へと顔を押し付ける。
 柔らかな感覚が、頭に落ちる。幾度も幾度も触れてくるそれは、明確な愛情表現だった。
「……あたしのほうが、絶対先だよ」
「いやいや、おまえ、いままでのオレの話きいてなかったのかよ?!」
 血を吐くような思いで、そう言葉にすれば、ばしんと背中が叩かれた。まるでいいわけのない子供を叱っているようで腹が立つ。
 がば、と顔をあげてノーラは顔いっぱいに口を開いた。
「とにかく、あたしなんだから! あたしが先!」
「まだいうか?!」
「気づいてなかっただけで、ぜーったいあたしのが先!」
「んなわけあるか! 気づいているか気づいていねぇってのが、一番重要だろうが!」
「ちがうもん! 好きなものは好きだからそれでいいもん!」
「だーかーらー、それいうなら、なおさらオレのが先だっつーの! 間違いねえ!」
「ううう~! あたしだよ!」
 その後も、オレだ、あたしだ、と互いに息継ぐ間もなく主張しあい――ぎりぎりと睨みあいつつ、二人は沈黙した。酸素不足である。
 ぜぇ、はぁと肩を揺らしながら、それでも互いを離さないあたりは立派かもしれない。
 それにしても不毛だ。限りなく不毛な言い争いだ。
 これはあれだ。鶏がさきか、卵がさきかという、結論のでない論争に似ている気がする。
 ようやく息を整えたノーラがそんなことを考えていると、とにかく、とユカがいったん締めた。
 そして、じっと目をあわせて静かに唇を開く。ほのかに浮かぶ笑みが、たまらなく格好良かった。
「好きだぜ、相棒。オレには、ノーラだけだ」
 さきほどから一転、甘く蕩けるようにそんなことをいうなんてずるい。
 腰から伝わる、全身が痺れるような感覚になんとか耐え、ノーラはぎゅっとユカの服を掴む。
「……女の子として?」
「あたりまえだろうが。女扱いしてないやつにどうやったら惚れられるんだよ」
 なにいってんだと、ユカの瞳がいっている。
「そっか……ごめん、へんなこときいちゃった」
 えへへ、とはにかみながら、ゆっくりと体の力を抜いていく。ユカに全身を預けて、思う。
 鶏が先か、卵が先か――。
 さっきは、一生をかけて悩む哲学者のテーマのひとつを持ち出したけれど、よく考えればそれとは違うだろう。
 きっと、ユカのほうが先に想っていてくれていた。ユカが、この関係のはじまりだった。
 何もしらぬノーラからすべてを奪うことだってできただろうに、傷つけないように包むように慈しんでいてくれていた。
 力いっぱい否定するかもしれないが、ユカが優しいからなのだろうと、そう思う。ノーラが恋に気付かぬ前から、ずっと、そばにいてくれたのだから。
 まあ、肝心なところで、へたれていただけかもしれないけど。それはユカにしかわからないのだから、いい方向に考えておくことにする。
「で、オレのほうが先だってわかったか?」
 だからといって、いろんなことを素直に認めると癪にさわるので、つんとノーラは澄まし顔でいってやる。
「仕方ないから、いちおう、そういうことにしといたげる」
「強情っ張りめ」
 むすーっとしているユカの両頬を包み込み、ノーラは笑った。
「でも、それならどうして昨日すぐにおっかけてきてくれなかったの?」
 唇を尖らせ抗議する。そうしたら、あんなに泣かずにすんだし、ケケとメロウにも迷惑をかけずにすんだのに。
「あの女にノーラに何言ったか吐かせてた。あと二度とくんな、ツラみせんなって言ってた。ぜってぇ協力なんてしねぇって言って、譲るっていった地図破ってやってた」
「うわぁ……」
 きり、と顔を引き締め真面目にいっているが、内容はえげつない。それに、とユカが続ける。にやついた笑顔に、嫌な予感がした。
「一晩考えたら、オレのことどんだけ好きか、思い知っただろ? オレと同じ気持ちを味わった気分はどーよ?」
「……」
 前言撤回だ。ユカは優しい男なんかじゃない。
「いてっ」
 ユカの頬に触れていた両手を離し、そして勢いよく叩きつけてやれば、皮膚が鳴る音とともに、ユカから悲鳴があがった。
「はいはい。しょーもないんだから、もう……。とりあえず、そろそろ離して」
 もぞもぞと身じろぎするが、一向に腕が緩む気配はない。
「ちょっとユカ?」
「やだね」
 じっとりと半眼で見上げるが、けろっとした顔でユカは言い切る。
「ちょ……!」
 そこに限りない本気を見出して、ノーラは焦った。じたばたとさきほどよりも、動かす手足に力を込める。が、がっちりとしたユカの腕は緩まない。苦しくないのに、抜け出せない。どういうことなの。
「いい加減にしなさいよ! ケケもメロウも心配してるだろうし、朝ごはんだって食べないと……ひゃうっ!?」
「なんだよ、色気ねぇなあ。もうちっとくらいいいだろ? なあ……?」
 耳たぶに口づけられて、素っ頓狂な声をあげたノーラの耳元で、ユカが甘く囁く。
「~~~っ、」
 だめだめ、と首を振って意思表示すると、大袈裟なくらいのため息がきこえた。
「しかたねえな」
 そして、ゆるりと解けた腕に、ほっとすると同時に寂しくなる。だけれど、これからはそこが自分の場所とわかったから、大丈夫。
 にこ、と笑いながらユカを見上げる。
「ありが、」
 とう、と最後まで声になることはなかった。
 感謝を飲み込むように、ひょいを高い背を屈めたユカが、ノーラの唇を塞いだからだ。
 もちろん、ユカの唇で。
 ちゅ、と小さな音とともに離れていくユカの、降ろされた瞼を縁どる長い睫がやけに色っぽくみえた。
「とりあえずいまはこれで我慢してやっけど、これから覚悟しとけよ?」
 すっかり固まってしまった身体を動かせないノーラの頬をひとつ撫で、ユカが歩き出す。
 庭への扉をあけて、メロウとケケを呼んでいる。
 それに応える二人の声も、どこか遠い世界から聞こえる音声のようだった。
 足の先から頭の先までを、ゆっくりと朱に染め上げながら、ノーラはぎこちなく首を巡らせる。
 工房に戻ってきたケケとメロウにおざなりに詫びているユカが、それに気付いた。
 視線があった次の瞬間、にやりと笑われる。ごちそうさん、と音なく唇だけがそう動く。とん、と自分の唇を指先で叩いてみせる仕草に、ノーラの怒りやら恥ずかしさやらが頂点に達した。
「~~~~~! ユカぁぁぁぁ!」
 そして、盛大なる叫び声が、小さな家だけでなく霧の森さえも震わせたのだった。