歴史だけはありそうな古びた寮の扉が、軋みながら開く。
そのまま玄関でやりとりを始めたのは、小柄な人間と小さな魔獣である。
「はい、グリム。これ今日のお弁当。ちゃんといい子にしてるんだよ」
「何回もしつけーんだゾ」
むすーっとした黒猫に似た魔獣が、半目で見つめてくるのを意に介さず、オンボロ寮の監督生ことユウは、その背にリュックを乗せる。
グリム専用にあつらえたそれには、今日のお昼ごはんであるツナサンドイッチがはいっている。両前足に紐を通してちゃんと担がせて、グリムの黒い鼻の前で指を振る。
「エースとデュースに迷惑かけちゃダメだからね」
「わかってるんだゾ! じゃあな!」
耳がおかしくなるといわんばかりに叫んだグリムが、ぴゅう、と風のように駆けていく。行き先はハーツラビュル寮である。
いつもの二人にはきちんと頼んであるし、寮長であるリドルにも話は通してあるし、大丈夫だろう。たぶん。
「いってらっしゃーい!」
オンボロ寮の玄関先から、その姿を見送る。小さな影がみえなくなってから、監督生は寮内に戻って自分の準備にとりかかった。
エースからもらったお古の大きな鞄に必要なものを詰め込んで、ゴーストに声をかける。出かけることを告げれば、すっかり仲良くなったゴーストがにこりと笑った。
「おや、今日はどちらまで?」
「少し遠い町まで届け物にいってきます」
サムの購買でアルバイトのようなことをしてお小遣いを稼いでいることを知っているゴーストが、なるほどと頷いた。
「そうかいそうかい。気をつけていっておいで」
「お留守番、よろしくお願いしますね」
いってきます、と手を振って、監督生は寮を後にする。
向かうのは、このナイトレイブンカレッジにある購買部。まずはそこでサムから今日の荷物を預かって、それから町にでかけるのだ。
うきうきとした気持ちを隠すことができず、早足になってしまう。
そっと自分の耳に手をやって、頬を緩ませる監督生は、はたから見れば不審者に違いない。
「今日の町も素敵だといいなあ」
監督生の軽やかな声は、朝のさわやかな風にさらわれていった。
さてさて。
ナイトレイブンカレッジは、古い伝統をもつ名門校である。
世界的にも有名な魔法士を幾人も排出しており、在学者にも有名人が多い。
ただし、どんなに望んだとしても闇の鏡に選ばれなければ、入学することができないため狭き門でもある。
広大な敷地には、大きな校舎、植物園にバトルアリーナ、運動場にマジカルシフトの会場――生徒たちのために惜しむことなく数々の施設が提供されている。
教師陣も一流ばかり。授業内容はレベルが高くついていくのさえ厳しくはあるが、それは若い才能をいかんなく開花させ、彼らのこれからの未来を切り開く力となる。
生徒たちにはそれぞれ特徴のある六つの寮に所属し、互いに切磋琢磨して日々勉学に励んでおり、学園内の行事も盛んである。
いままでも、そしてきっとこれからも、この学園は偉大なる教育機関として名を馳せていくだろう。
そうそう、最後にもうひとつ。
ここは設立されて以来ずっと「男子校」である。
というわけで、本来ならこの学園に「女子」はいない。いてはいけない。だって、男子校だから。
なので、監督生は大いなる秘密を抱えて、この学園に通っている。だって、「女子」だから。
入学式の際は、式典服とグリムが起こした騒動により誰も気づかなかったが、後々落ち着いてから学園長に相談すると、たっぷり十分は動かなかった。
まったく気付いてなかったらしい。ちょっと腹がたったが、致し方ないと流すことにした。
周囲に性別が知られるのは学園の名誉と学園内の治安、そして監督生自身の身の危険を考慮して、避けねばならないという両者の意見が一致し、監督生は性別を偽ることとなった。
しかし、魔法薬で無理やり身体の構造を変えることに学園長は難色を示した。なにしろ監督生には魔力がない、魔法が使えない。性別を変えるほどの強力な薬は、どんな副作用をもたらすかわかったものではない。
ではどうすることになったかというと、自称とっても優しい学園長お手製の魔法道具を使うことになった。
それは、百年単位で太陽の光を浴び続けた水晶と、月の光を浴び続けた水晶、そしてドワーフから提供されたミスリルで作られたピアスであった。
受け取ったときにその効果の説明を受けたが、魔法の知識が乏しい監督生には話の半分も理解できなかったのは秘密である。
なんでも魔法道具は学園長の魔力をもとに常時発動しており、装着者と相対した者の認識に干渉し、目の前にいる人物は『男』であると思わせる――とか、なんとか? たぶん。
これにより監督生は特別入学して以降、周囲からは線の細い成長途中の少年として認識されるようになった。おかげさまで、いまのところ性別をもとにした因縁はつけられていない。
ちなみに、学園長はもちろんのこと、学園の教師陣とサムはこのことを知っており、なにくれとなく手助けしてくれている。ありがたいことだ。
とはいえ、年頃の女の子が男の子のふりをして生活など、ストレスがたまらないわけがない。
もちろん友人たちは大好きだし、一緒にいて楽しいし、とっても頼りになるけれど、それでも誰にもいえない秘密を抱えていることは辛いのだ。
魔法の使えない監督生がオーバーブロットすることはないが、それでも精神の健やかさを維持することは大事である。
どうしたものかと学園長と相談した結果、サムの力を借りることになった。
今日は、そのストレス解消デーなのだ。
「サムさんおはようございます!」
「いらっしゃい、小鬼ちゃん。今日もよろしく頼むよ」
元気いっぱいに購買部の扉をあけて挨拶すると、カウンターの向こうで商品の確認をしていたサムが顔をあげた。
小走りに近寄って、首を傾けながら尋ねる。
「まかせてください。それで、今日はどんな町なんですか?」
「この学園から遠い島にある、素敵な海辺の町さ」
だからここの生徒には誰も会わないよ、そんな言外の気遣いを汲み取って、監督生は破顔した。
「いつもありがとうございます」
つまり、サムの仕事を手伝うという名目で、監督生はあちこちの町に出かけているのだ。
そこでは少年の姿を脱いで、学園の誰にも知られることのないまま、町を歩いて楽しむ。その土地ならではの品が揃うお土産屋さんを見て回ったり、雑貨屋さんで買い物をしたり、素敵なカフェでお茶をしたり。
一緒に過ごす人はいないけれど、もともと一人で行動することが苦にならない性分であったことが幸いし、監督生は一人旅をしている感覚で、この世界のいろんな町を訪れてきた。
当初は、サムがついてきてくれたが、今は一人でも大丈夫。治安が悪い地域には絶対に近づかないし、学園長お手製の防犯グッズだってある。
週末になると、ふらりとどこかへでかけていくのをグリムや友人たちが疑問に思ったこともあったけれど、おこづかい稼ぎにサムの手伝いをしていると言えば、誰もそれ以上言ってくることはなかった。
魔法が使えない監督生にできる仕事は限られていたし、身元不詳の人間をアルバイトに雇う店もないことを、みんな知っているからだ。
まあ、せっかくの休みにまで金を稼ぎにいかねばならないことを同情してくることはあっても、手伝おうと言わないところは彼ららしいというかなんというか。そもそも彼らにも休日には都合というものがある。わざわざ遠い町まで仕事に行くなんて、とんでもないことなのだ。
いつも素敵な町を紹介してくれるサムには感謝するばかりである。学園長からの援助があるからこそだろうが、手間をかけていることには間違いない。
「こっちも助かってるからね、気にしないで。はいこれ、今日届けてほしい荷物だよ」
「はい、確かにお預かりしました!」
「あとこれは、届けてほしい店のメモだよ。店主の名はマァサっていう魔女さ。気のいい女性だから頼るといい。楽しんでおいで、小鬼ちゃん」
「はい!」
監督生にも抱えられる程度の大きさの箱と、サムのメモを手にした監督生は購買をあとにした。
中身をサムに教えてもらうことはないが、いつも軽いので助かる。歩きながらメモの内容を確かめる。
荷物を指定された店に届け、帰りにその店で調合している薬を回収して欲しいと書いてある。調合が終わるまでの時間はフリーと書いてあって、心が躍る。つまりその間に観光していおいでと言ってくれているのだ。
サムさん大好き~! また何か買わせてもらいますね~! と心の中でラブコールを送りつつ、監督生は鏡舎に足を踏み入れた。
ここの鏡のうちひとつが、学園の外へと繋がっている。遠方への転移には魔力が必要だが、学園長のピアスがあるため監督生にも使えるようになっているのだ。魔法ってとかく便利である。
ふんふんと鼻歌交じりに目的の鏡に向かおうとして、監督生は足を止めた。
そこには先客がいた。きっちりと自分の寮の服を着こんだその人物を、監督生は知っている。
「アズール先輩」
ぽつりと名を零せば、背を向けていたその人が振り返る。
美しい瞳が、眼鏡のむこうで細くなる。監督生は小さく肩を震わせ、荷物を持つ手に力をこめた。
「おはようございます、監督生さん」
「おはようございます」
商売用の完璧な笑顔を向けられては、逃げようもない。監督生は、軽く頭を下げた。
学園の外へ続く鏡の近くにいるということは、これから商談にでも向かうところだろうか。
「またサムさんのお使いですか? お休みだというのに熱心ですねえ。そんなにお困りで?」
「ええ、まあ……」
くすっと小馬鹿にしたように笑われたものの、本当のことは言えないので適当に言葉を濁す。お小遣い目的の荷物運びと思われているほうが、監督生にはありがたいからだ。
「よろしければモストロ・ラウンジで雇ってさしあげましょうか?」
「いえいえ。僕じゃ、お店の役に立つことはできないと思います。お気持ちだけ、ありがたく。では」
せっかくの申し出であるが、それに応じるつもりは一切ない。
視界の隅で、オクタヴィネル寮に続く鏡面が揺れたことに気付いた監督生は、早口で当たり障りない断りの返事をすると、そそくさとアズールの横を通り過ぎた。
そしてそのまま、繋がるべき町の名を心の中で念じつつ鏡へと飛び込む。
ああ、びっくりした。ひやっとした。
そつなく逃げられたことに、安堵の息をつく。
さすがにアズールの黄金の契約書を砂にしてしまった手前、「では働かせてください、お願いします」なんていえるわけない。
なにをされるかわかったものではないし、気づいたらとんでもない契約を結ばされていそうだ。悪徳商人を信じてはいけない。学園長にも口酸っぱく言われているし。
アズールのことが嫌いなわけではない。そのたゆまぬ努力は尊敬しているし、スカラビアの件でとても頼りになるということはわかっている。でも、だからといってお近づきになりたいかというと、そうではないだけ。左右に控えるリーチ兄弟も、深くかかわりたくはない相手のことだし。
「くわばらくわばわ」
ひいおばあちゃんによく懐いていた監督生は、そんなことをいいながら目的の町へと足を踏み入れた。
学園とは違う光の強さに、一瞬視界が奪われる。
思わずつむってしまったまぶたをそろそろとあげた監督生は、周囲の景色を確認して、声を漏らした。
「わぁ! 綺麗!」
白い壁と青い屋根の可愛らしい家々が立ち並び、ところどころに色鮮やかな花がこぼれるように咲き乱れている。
転移の鏡は町を見下ろすような位置にあり、美しい町並みの先には深い青さをたたえた海が見える。
同じように、世界のいずこからかやってくる人たちの邪魔にならぬよう鏡の前から移動して、監督生はサムからもったメモをもう一度確認する。
「えーっと……こっちかな」
メモを頼りに店に向かう間も、いろんなところに目を奪われる。これまでに訪れた町も素敵だったけれど、ここは飛びぬけて監督生を魅了した。
ほどなくして辿りついた店の前で、プレートに彫られた店名とメモをもう一度照らし合わせる。ここで間違いない。
「ごめんくださ……わわっ」
ドアをノックしようと手をあげたところで、内側から開かれて驚きにのけぞる。
店内から顔をのぞかせたのは、褐色の肌と黒髪の、サムにどことなく雰囲気の似たふくよかな女性だった。
「こんにちは! マァサさんですか?」
「ああ、こんにちは。サムの坊やからの使いだね。話はよく聞いているよ。さあ、はいんな」
「お邪魔します」
促されて店へと入り込む。ふわ、と鼻腔の奥をくすぐる様々な薬草の香りに、監督生はマァサに問う。
「薬屋さんですか?」
「そうさ! この町で魔法薬をうってるんだよ。海辺の町だからねえ、水中呼吸薬や風寄せの薬なんかを取り扱ってるんだよ」
にかっと明るい笑顔で気さくに応対してくれる。やはりサムを彷彿とさせる人だ。もしかして、同じ町の出身だったりするのかな?
そんなことを考えつつ、荷物を渡す。
「これ、サムさんからのお届け物です。確認していただけますか?」
「はいよ。さ、その間に着替えちまいな。このドアの先は個室だからね、使っていいよ」
「あ、ありがとうございます!」
箱を受け取ったマァサが示した部屋へと、監督生は移動する。どうやらこの店のバックヤードのようだ。さして広くはなく、誰もいない。
持ってきたカバンを漁り、白いシャツとブルーのジーンズに着替える。本当はもっとこう、女の子らしい恰好をしたいのだけれど、学園内でそういった服がみつかれば言い訳がたたないのでこんなものである。女装趣味のある男子学生として生きていくのはなかなか辛い。
最後にピアスを外す。これで周囲の人からは本来どおりの女の子に見えるようになるというのだから、魔法道具はすごい。
代わりに白い小花のピアスをつける。ここが精いっぱいの可愛さだ。
服と魔法道具をカバンにしまうと、ペンダントを取り出して首から下げる。
すべすべとした黒い石に穴をあけ、皮ひもを通しただけのものだが、これは身に危険が及んだ時用の防犯ブザー、らしい。握って念じればよいと聞いているが、いままで使ったことはない。
呼んだが最後、どうなるかは聞いてはいない。助けがくるとは言われたが、なにがきてどうなるのか。そう尋ねたときのニッコリとした学園長とサムさんの笑顔に薄ら寒いものを覚えたことは記憶している。
「マァサさん、部屋を貸してくださってありがとうございました」
「おや! 聞いていたけれど、やっぱり女の子だねえ。可愛いもんだ」
「えへへ」
可愛いといってもらえることは、この世界にきてからほとんどない。素直に受け取って照れくさく微笑めば、マァサが何か思いついたらしく、手をぽんと叩いた。
「そうだ、私からサービスをひとつあげようかね」
「いいんですか?」
「頑張ってるお嬢ちゃんの味方をするのが魔女ってもんさ」
そういったマァサが棚から取り出したのは、小さな小瓶だった。
「わ、とっても綺麗」
ガラス瓶自体はシンプルな造作をしている。だけれど、中に秘められた薬は、きらきらと星のように瞬き、不思議な色と光で明滅を繰り返している。
「大人になる魔法薬だよ」
「おとな?」
「これを頭から被ると、アンタが魅力的な大人の女性に成長したときの姿になるんだ。ちょいと背伸びをしたい子供たち用なんだが、たまには違った姿になるのも楽しいだろ?」
「おもしろそう! お願いします!」
監督生は、目を輝かせてすぐさま頷いた。だって、将来の自分の姿を垣間見ることができるということだ。それに大人の姿ならば、迷子かと声をかけられることもないだろう。
実際のところ、町を散策していると「お父さんとお母さんはどこかな?」と、一度は必ず聞かれるため、言い訳に苦慮しているのだ。
見るからにウキウキとしている監督生に笑ったマァサが、監督生の上で瓶を開ける。耳に心地よい短い呪文を受けて、大気に舞った粉がさらに光を増して監督生を包み込む。
眩しくて目を閉じたとき、ぐっと体が内側から押し上げられるような心地がした。痛みはないが、今まで知らなかった感覚だ。
そろそろと瞳を開ければ、目を丸くしたマァサがいた。
「おやまあ」
「えっ、そんなにダメな感じ……?」
慌てて店内の壁にかけられていた鏡を覗き込んだ監督生は、「うっ」と小さく呻いた。
ほんの少し大人びた顔立ちと、やや丸みを帯びたシルエット。短く切り揃えていた髪は胸元より長く伸びている。多少印象は変わったけれど。でも、ほとんど変わってなくない?
「は、はははは! アンタいつまでも若いんだね! 十年くらい歳をとるはずなんだけどねえ!」
「童顔って笑ってくださってけっこうです……」
かーっと頬に血を上らせながら、監督生は顔を覆った。自分の未来が、あまりにも子どもっぽくて泣けてきた。色っぽいお姉さんを期待していたのに。
「うらやましいこった! ははは!」
マァサは笑いながら、監督生を手近な椅子に座らせる。そして、伸びた髪をハーフアップに結ってくれて、魔法で萎れないようにした綺麗な花までつけてくれた。格好はラフで洗練されてなんていないけど、それだけで可愛くなれた気がする。
「じゃあ夕方頃には渡せるよう薬を調合しておくから、気をつけていっといで」
「はい、ではまたその頃に。いってきまーす!」
大人と認められるほどにはなれなかったけど、こんな素敵な町でいつまでも落ち込んではいられない。
気を取り直した監督生は、満面の笑顔でマァサの店を後にした。
「どこも素敵だったなあ……!」
うっとりと監督生は目を細める。
空と海の間を繋ぐような美しい町並み。住む人々は陽気で、気さくに声をかけてくれた。道を尋ねれば観光用のマップをくれたし、地元民ならではのお店を紹介してくれた。
大きなお土産はオンボロ寮にあると不自然だから、いつも小物ばかりになってしまうが、何を買うかで悩むのもまた楽しいものだ。
マァサの魔法薬のおかげで、迷子かと心配されることもなかったし、ありがたかった。
歩き疲れた身体をカフェで休めていた監督生は、そろそろ約束の時間が近くなってきたし、店に戻ろうと腰をあげる。
帰り道は、町の中心になっている広場を通って行こう。
頭の中に叩き込んだ道を思い出し、店員に挨拶をして歩き出す。
教会前の広場は賑わっていて、広場に面した飲食店の前に置いてあるテーブルと椅子は、住民や観光客でいっぱいだ。どうやらお酒が提供されているらしい。
本当に大人になったとき、この町にまた来る機会があれば、彼らのようにお酒を飲んでみたいと思う。きっと美味しいだろう。ふふ、と小さく笑う。
「お嬢さん!」
「えっ」
気分良く歩いていると、背後から声をかけられた。思わず足を止めて振り返ると、赤ら顔の中年男性が立っていた。人生って楽しいねといわんばかりの、満面の笑顔だ。
「観光かい?」
「ええ、まあ、はい……」
ふわっと漂うお酒の香りに、監督生はちょっとばかり身構える。
「この島自慢の美味しいワインはいかがかな?」
「あ、いや、私はお酒はちょっと……ダメでして」
この世界の飲酒年齢を知らないが、元の世界ではお酒は二十歳を過ぎてから! その考えに従って断ってみるものの、こちらの話が通じるならば、それは酔っぱらいではない。
「いいじゃないか、ほら! 食事も美味しいし、みんないて楽しいよ! 歌おう、踊ろう!」
陽気に誘われてはいるが、正直困ってしまう。
マァサとの約束もあるし、日が暮れる前に学園に帰らなければ、サムと学園長が心配してしまう。しかも酔っぱらって帰宅などしたら、なにを言われるか。
「痛たた! ちょ、困りますってば……!」
しかも力が強い。ぐいぐいと引っ張られる先には、仲間がいるらしくこっちこっちと手招きされている。男性や女性もいるようで、全員できあがってるようにみえた。巻き込まれたら逃げられる気がしない。
なにかあった時にはこのペンダントを握って助けを呼びなさい――クロウリーの言葉が脳裏をよぎる。
ああああ、とうとう使うときがきてしまったのか?! でもできることならそれは避けたい。何が起きるのかわからないし、今後町にでかけることを制限されていしまう恐れもある。それにこの人物はさして嫌な感じがしないのだ。
「やめてください!」
ついつい上擦った声で叫ぶ。
この男性は悪い人ではないのだろうが、いかんせん強引すぎる。こちらの都合を何も考えていない。あと普通に腕が痛い。
ぐっと歯を噛みしめて、足を踏ん張り、相手に対して真っすぐに目を向けたとき。
監督生を掴む酔っぱらいの手に、白い手袋をはめたしなやかな手が重なった。
「その手を離しなさい。女性に対して、あまりにも乱暴でしょう」
涼やかな声、どこかで感じたことのある香りが監督生を包む。はっと顔をあげて、息を飲む。
そこにいたのは、監督生がよく知っている人物であった。
「ひっ、ア、――!」
アズール先輩! と言いかけた自分の口を、咄嗟に片手で覆う。だって自分は今、あのピアスをしていない。知らない女が名を呼べば、賢明なアズールは不審に思うだろう。
「ん、あんちゃんも飲むかい?」
「いいえ、結構です」
するっと酔っぱらいの手の上を、アズールが撫でたように見えた。
「あ、あれ?」
「!」
どうしてだか監督生の腕から外れた己の手を、酔っぱらいがしげしげと眺めている。監督生にも何が起きたのかさっぱりわからない。
だがアズールがなにかしたことだけはわかる。運動は苦手だといってはいるが、リーチ兄弟をつるんでいるだけあって、護身術をたしなんでいるのかもしれない。それとも魔法?
「こちらへ」
「は、はいっ」
考える暇なく手を引かれ、人垣をすり抜けてその場をあとにする。
見た目が優男であるアズールにいいようにあしらわれ、監督生を攫われたことがおかしいのか、酔っぱらいの仲間たちが大爆笑している。あとを追いかけてくる心配がないのが救いだった。
それはそれでいいのだが、監督生は顔を青くしていた。
どうしよう、助けてもらってしまった……!
アズールの顔を盗み見ながら、震えあがった。
だって、何を要求されるかわかったものではない。高価なものなど持っていない。お金もほとんどない。アズールが気に入るような対価など、監督生には何も用意できないのだ。
広場から少しばかり離れた通りで、二人は立ち止まった。
ぜぇはぁと息を整えていると、アズールがこちらの様子をうかがってくる。
「ご無事ですか?」
「!」
声もなく、びくーっと全身を硬直させると、アズールが安心してといわんばかりに微笑む。それは、いつもよりどこか柔らかな笑顔だった。
「ここまでくれば大丈夫でしょう。あの方も、悪意や害意があったわけではなさそうです。少しばかりお酒が過ぎたのでしょう」
優しい言葉に、監督生の頬がひきつる。
誰だこの人。私の知っているアズール先輩じゃないみたい。男と女ではこんなにも態度が違うのか。まあ、アズール先輩、紳士だしなあ。
そんな感想はおくびにも出さず、監督生はそっとあたりを見回す。
「そうですね、私、特に気にしてませんから平気です。……えっと、その、じゃあ、私はこれで……」
小声で同意しつつ、アズールから少しずつ距離をとる。そのまま目をつけた路地に飛び込んでダッシュで逃げようかと思ったが、許されるわけもなかった。
「おや、お礼もなしに消えるのですか? そのような方にはみえませんが」
「ひっ」
カツン、と杖が音を立てて監督生の行く手を遮る。
小さな悲鳴をあげつつ、身体を抱きしめるように身を竦ませる。おそるおそるとアズールを見上げれば苦笑いされた。
「そんなに怯えずともよいでしょう? なにせ僕は、あなたを助けた男だ。少しくらい信用していただいてもよろしいのでは」
「……」
その笑顔の裏に何かあると知っているから怖いんですよ、とはさすがに言えない。
乾いた口の中をなけなしの唾液で湿らせて、監督生はひきつった笑顔を浮かべた。
「そうですね、失礼しました。この度は、ご助力いただきありがとうございました。あの、それで、私は何を……?」
アズールの求めるようなものが、自分にあるとは思えない。
高い位置にある整った顔を見つめ小さく首を傾ければ、ほんのりと眦を染めたアズールが視線を逸らす。
交渉するときの彼らしからぬ仕草に驚いているうちに、もごもごと蠢いていた口が開く。
「その……お名前は?」
「え」
個人情報を収集しようとしているのか? 監督生はちょっと引いた。アズールが慌てる。
「失礼。まずはこちらが名乗るべきでしたね。僕は、アズール・アーシェングロットといいます」
「あ、ええっと、ご丁寧にどうも……私、ユ――」
自己紹介だったのかと理解した監督生は、思わず「ユウ」と名乗りかけたが、それをなんとか飲み込んだ。
どうしようどうしようと逡巡した結果、混乱した頭がはじきだした偽名が口から飛び出す。
「ユーリ、と言います」
「ユーリさん」
安直な偽名を、なぜだが噛みしめるように確認されて、いささか恥ずかしさを覚える。
「それでその……ええっと……」
アズールが口ごもる。ゴーストプリンセス相手に、滝が流れ落ちるがごとく口説き文句を重ねていたとは思えない姿だ。
ぼんやりと、「実はこのアズール先輩、偽者なのでは?」などと考え始めたところで、意を決したようにアズールがこちらを向いた。
「後日、僕と会ってください」
アッテクダサイとは何?
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
監督生の知らぬ高価な品かと思ったが、そわそわとしているアズールの様子からそうではないことは理解した。
「……は?」
「ですから、あなたとまたお会いしたいといっています。この町の散策などいかがです?」
ふっきれたように願いを重ねられた。
それって私とデートしたいということか? なんで?
「……え?」
ぽかんとしたあと、監督生は眉根を寄せた。
それを見たアズールの肩が、怯えたように揺れる。交渉相手がどんな表情をしようと、気にする彼ではないはずなのに。
アズールの様子は少々気にかかったが、監督生は真剣に困っていた。
うーん、と悩む様子をみせて時間を稼ぐ。
素直に「お断りします」と言えたならどんなにかよかっただろう。でも断ったら絶対に面倒なことになる。法外な対価を求められそうだ。オクタヴィネルに関わってきた自分の経験が、そう告げている。
断ることもできず、かといって頷くこともできず、顔を俯かせて苦悩する監督生の肩に、温かく柔らかなものが触れた。
「お坊ちゃん、ウチの可愛い子に何か用かい?」
「マァサさん!」
頼りなる人の声に、監督生はほっと安堵して振り返る。そこにいたのは、この町で世話になっているマァサ、その人であった。
思わず身を寄せれば、優しい手つきで頭を撫でられた。
「まったく。戻ってこないから探しにきてみればなんだい、色恋の駆け引きもできないお坊ちゃんに掴まっているなんてねえ」
「な……!」
ギ、と音がしそうなくらい厳しく睨みつけられて、アズールが顔色を変える。
「ああああ、違うんです、マァサさん、ア、――!」
アズール先輩は、と言いかけた言葉をなんとか飲み込む。ちらっとアズールの様子を窺うが、バレてはいないようだ。気をつけなければ!
「こ、このひとは、広場で酔った人に絡まれた私を助けてくれたんです」
勘違いしないでほしい、本当に助けてもらったのだと慌てて弁解すれば、マァサが目を眇めた。
「ふぅん? それで助けたかわりに今度デートしろってかい? そんなもの、この子をいいようにしようとした酔っぱらいと何が違うんだい?」
「……っ、」
実際、そこまで酔っぱらいにひどいことをされかけたわけではないのだが、マァサはその事実を知らない。
あけすけに言われたのが効いたのか、アズールが押し黙る。
アズールを言葉で押さえつけるマァサを、監督生は尊敬の眼差しでみつめた。すごい、いつかこうなりたいものである。
ハン、と肩をすくめて呆れたようにマァサが言う。
「なってないねぇ! 女を誘いたきゃ、礼だのなんだの言う前にやることがあるだろ!」
「……おっしゃるとおりです」
マァサの張りのある声が、アズールに喝を入れる。いや、まって、なんか雲行き怪しい。
はぁ、と悩ましげに息を吐いたアズールが、蚊帳の外になりつつあった監督生をみつめる。
「!?」
恭しい手つきで己の手がとられるのを、つい許してしまう。
きゅう、と痛みを覚えない程度の優しい力で握りしめられて、目を瞬かせる。
なにかとてつもないことが起きる、そんな予感に背筋が震えた。
アズールが、長い睫毛の影を落とした美貌と、甘い苦しさを帯びた美声で切なく訴える。
「あなたに一目惚れをしました。どうか僕にチャンスをください。来週、お会いしていただけませんか?」
監督生を逃がすまいとしている手が、かすかに震えている。
ひゅ、と恥ずかしさのあまり、喉が鳴る。
さっき、アズールが肩を揺らしたように見えた理由が、わかった気がした。きっと怖かったのだ。会ったばかりの名も知らぬ女に、自分が袖にされるのが恐ろしかったのだ。
いつものアズールを知っている監督生にしてみれば、そんなことをありえないと思うだろう。
だって、あのアズール・アーシェングロットが、こんなちっぽけな女の言動を気にするなんてあるわけない、必ずなにかあるはずだ、ああ、でも、なんて、なんて――かわいいんだろう。
真っすぐにこちらを見つめる眼鏡の向こうの瞳はこれ以上なく真剣で、監督生の頬に熱がともる。
こんなに熱烈な視線を向けられたことなんて、生まれてこのかた一度もない監督生は、のぼせあがった。頭がぼうっとして何も考えられなくなる。
「……はい……」
「ありがとうございます!」
上擦った声で了承の意を小さく返せば、アズールがみたこともないほど嬉しそうにはにかむ。
そんな少年少女の青い春を黙ってみつめていたマァサが、にっかりと笑った。
「どうしましょう?!」
マァサの店に戻ってきた監督生は、「やってしまった!」とばかりに声をあげた。
さきほど街角で繰り広げてしまったことを思いだし、羞恥に身悶える。
「ははは、一目惚れされたなんて素敵な話じゃないか」
「ぜんぜんまったくもって素敵じゃありません!」
なんであのとき「はい」といってしまったのか! ばかばかばか、私の馬鹿! なんで流されちゃったの?!
恋愛経験値のなさが、こんなところで危機を招くなんて思っていなかった。
あの後、連絡先の交換を迫られたが、それはさすがになんとか断って、次の休みに待ち合わせる場所と時間を決めた。さらに、マァサの前で「夜になる前には帰す」ことと約束させられた後、アズールと別れたのだ。
名残惜しそうに手を離すアズールが、捨てられる仔犬のように見えて一瞬胸が痛んだ。そして、そんな自分に驚いたものである。
「どうしよう、アズール先輩に正体がバレたら……学園長が脅される……? いや、その前に私が海に沈められる……?」
可愛らしい仔犬などではない、深海から陸まで手広く商売を繰り広げる人魚相手に、なんてことをしてしまったのか。約束=死といっても過言ではない。
監督生の苦悩っぷりに、マァサが首を傾ける。
「ナイトレイブンカレッジに通う学生は、ひと癖もふた癖もあるとは知ってるけど、そんなに厄介なのかい?」
「それはもう……厄介な人たちの筆頭ですよ……」
これからのことを考えるだけで胃が痛くなってきた。
「そりゃたいへんだね。まあ、座りな」
「はい……」
勧められるまま、店内の椅子に腰かける。マァサが奥へと消えたと思ったら、水の入ったグラスを持ち、すぐに戻ってきた。
「ほら、これを飲めば少し落ち着くだろ」
「ありがとうございます」
手渡されたグラスに口をつければ、程よく冷えた水が喉を滑り落ち、レモンのすっきりとした香りに包まれる。
はふ、と一息ついたところを見計らい、腕組みをしたマァサが言う。
「でもまあ、アタシがみたところ、ずいぶんといい男だよありゃあ」
「それは知ってますけど……」
アズールの、飽くことなく努力を積み重ねる姿を尊敬している。慈悲という言葉の仮面の下に、強欲ともいえる商人の顔が見え隠れするけれど、願い叶える力は確かなもの。それも全ては、彼の努力の結果があってこそ成し得ることなのだ。
「ただ、恋愛対象かと言われれば、そうではなくて……」
申し訳ないが、オンボロ寮を取り上げようとしてきた彼を知っているので、今までそんなつもりはまったくなかった。
そのアズールに、真正面から恋愛対象ですと告げられたのだ。狼狽しないほうがおかしい。
あの声を、あの言葉を、あの姿を思いだすだけで、甘く不穏に震える己の胸を、監督生はそっとおさえる。
そういう対象ではなかったのに、こんなにもときめいてしまうのだから、顔がいいというのはずるい。
アズールが恋をすると、あんな風になるなんて知らなかった。思ってもいなかった。いつもは冷めている瞳が、あんなに熱っぽくなるなんて。
まっすぐに向けられる好意、握られた手の感触、すがるように込められた力。思い出したら体が火照ってきた。
「ま、男を手のひらのうえで転がしてこそイイ女ってもんさ! 乗りかかった船だ、アタシが手伝ってやるよ! ませときな!」
「……はあ……」
別にアズール先輩を転がしたくはないのだが、マァサの勢いを押し返す気力も体力も、残っていない。
監督生は、来週末のことを考えて頭を抱えた。
会話もそこそこ、親切で申し出たアルバイトの話もすげなく断り、学園外へと続く鏡に飛び込んでいった監督生を見送って、アズールは小さく舌打ちした。
オンボロ寮の監督生。人畜無害そうな顔をした細身の少年。お人よしで、同学年の友人たちをはじめ、各寮の先輩たちにも可愛がられている。
彼の心根をアズールだって知っている。だが――ああ、相変わらず気に入らない。
そう思うのに、ついつい気にかけてしまう自分に、アズールは苛立っていた。
苦々しい気持ちが顔にでていたのか、オクタヴィネル寮に続く鏡から出てきたジェイドに、からかい混じりに笑いかけられる。
「おや、アズール。もしかしていつものように監督生さんにふられたところでしたか?」
ちょうど、彼がアズールのもとから去っていくところを目撃していたのだろう。わかっているのに余計なひと言を言ってくるのが、ジェイドという男である。
「ふざけたことをいうな。それより、フロイドはどうでした?」
「まだ準備ができていませんでしたが、例の件の対処に向かってくれるそうです。僕はラウンジのほうをみますので、ご心配なく」
ギロリとねめつけて仕事の首尾を確認すれば、そこそこ満足のいく答えが返ってきた。
飽きっぽく気まぐれなところはあるが天才肌のフロイドと、そつなくどんなことでも器用にこなしてみせるジェイドがいれば問題あるまい。
「わかった。あとは任せる」
「いってらっしゃいませ」
洗練された仕草でジェイドが頭をさげる。それにひとつ頷いて、アズールは学園外へと続く鏡をくぐった。
行き先は、青と白の色彩が美しいと有名な、とある島だ。
火山帯に位置しており、土壌が豊かで果物の生産が盛んな郊外と、海に近く観光業が盛んな町で成り立っている。
海の幸は当然ながら豊富で、特に島近海で採れる珍しい魚が、市場価値が高い。
この島には、まだまだ商売に使えそうなものがあるのだが、今回はラウンジで提供する魚を卸してもらうべく交渉に赴くのだ。
交渉をするべく機会を設けてほしいと願い出たときの感触は悪くなかった。食材を確保できれば、今度の新作メニューとして大々的に宣伝したい。
そんなことを考える思考と、アズールにさしたる興味を示さない男への思考が交差する。
正直に言えば、自分はあの監督生に言い表しようのない感情を抱いている。
その存在を前にすると胸をかきむしりたくなる。憎いのか、好いているのか、それさえもわからない、わかりたくない。
でも、どこにも逃がしたくない、帰らせたくない。優しくしたいのに、傷つけたい。
監督生を認識すれば心がざわつくのに、視界にいなければ苦しくなる。息をすることさえ、ままならなくなる。
人間になる薬を飲まないまま、陸にあがってしまった馬鹿な人魚ではないのに、なぜこんなことになってしまったのか。
アズールが苦しんでいるにも関わらず、あの監督生はへらへらと気の抜けた顔をして友人たちと過ごしている。顔をあわせれば挨拶程度はする。だが、それだけだ。
こちらばかりが監督生を気にかけていて、腹立たしいことこの上もない。
そも、男相手にこんな感情を持っていることに納得がいかない。
これが女相手なら、囲って逃げないようにして自分だけをみるようにしてやるところなのに!
いや、むしろ男でも、もういいか。
どうせ身寄りのない人間だ。そのちっぽけな人生を絡め取って逃げられないようにしてやって。もし、繁殖がしたいと言いだしたなら、適当な女をあてがってやって。でも一番に考えるのは自分であるように仕向けてやればいい。そうしたらきっと、少しくらい気が晴れるだろう。
そこまで考えて、アズールは自嘲気味笑った。
なにを馬鹿なことを考えているのか。そんなことまでする価値が、ほんとうにあるとでも?
頭を振って、ひどい妄想を振り払う。
でも、その残滓は、いつでも頭の片隅にある。まるで、紙に落としたわずかなインクのように。べったりと、いつまでも消えないのだ。
せめて、気持ちを切り替える。こんなことで商談をふいにすることはできない。
思考の海に浸っていたのは、わずかな時間だ。
転移の鏡を抜けた先、アズールがはじめて訪れた町は賑やかで、潮の香りが混ざる風が心地よいところだった。
故郷である海がみえて、少しだけほっとする。
そのまま約束の時間に遅れないよう、訪問先へとアズールは靴を鳴らして歩き出した。
「では、私はこれで失礼いたします。本日はよいお話ができて、大変有意義な時間となりました」
折り目正しく商談相手に礼をとり、商談の会場となった漁業組合の建物を後にする。
当初考えていたよりも提供してもらえる魚の量は少なかったが、それならそれで数量限定の付加価値をつけて売り出せばよいことだ。あわせてムール貝の提供の約束も取り付けられたし、よい契約ができた。
気分がよかったアズールは、せっかくだからと目的もなく町を歩きはじめる。
白い壁、青い屋根。石畳は趣深く、家々のベランダに咲き乱れる花の色彩が、よいアクセントになっている。
路地を抜ければ、町の中心にある広場にでることができた。美しくそびえる教会は厳かに、この町を見守っているようにみえた。
こういう風光明媚な場所に、店をかまえるのも悪くはない。
問題は陽気すぎる住民たちの中に、昼間から酒を飲んで騒ぐような者たちがいるところだろうか。
アズールはわずかに眉を潜め、その一角に視線を流す。
広場から見えるところにあるバーがすでに酒を提供しているようだ。活気があってよいと言えばそれまでだが、いささか品がないように思えた。
ここまできたついでだ、あの教会を見学して、土産物屋が軒を連ねるという通りをみていこう。
交渉相手から勧められた観光スポットを思い出しながら、歩きだした瞬間。
アズールの視界に、長い髪がひるがえった。どうしてだか目が引かれる。視線が吸い寄せられる。
広場から伸びる通りのひとつからはいってきた女性が、アズールの前を通っていく。
派手ではない色彩の女だ。格好だって、シャツにジーンズといういたってラフなもの。一見すれば目を引くところなんてどこにもない。
それなのに、ついつい目で追いかけてしまう。足は縫い付けられたように動かない。
何か楽しいことでもあったのか、柔らかに微笑むその人の横顔をみて、どっと血が音をたてて巡りはじめた。
今までに感じたことのない状況に、アズールはごくりと喉を鳴らす。
魅了の魔法にでもかけられたかと思ったが、そんな気配はどこにもなかった。そもそも、対魔力の高いアズールにそんなことをできるのは、一流の魔法士だけだ。
息を忘れ、遠ざかっていく姿をただ見つめるしかできない。
ぼうっとした意識をなんとか繋いでいると、彼女のもとへふらりと近づく人影がいた。
どうやら酔っぱらい集団の一員がちょっかいをかけはじめたらしい。
お酒を飲もうと誘っているようだが、女性はそれを断ろうとしている。しかしながら、話が通じないようだ。
少しばかりの会話のやりとりのあと、酔っぱらいが女性の腕を掴んだ。その光景に、思考が一瞬で沸騰する。反射的に魔法を使って排除しようとする自分を、理性で抑え込む。
「やめてください!」
凛とした声が響く。
その華奢な身体で立ち向かう様が、アズールの心にちかちかと火のような何かを燈す。本能に引きずられて千々に砕けてゆく理性が、悲鳴をあげた。
気づけば、アズールは彼らの間に立っていた。
女はびっくりして固まっているし、アズール自身もなんでこんなことをしたのかと、自分のことながら驚いていた。
そのおかげで、ひねり上げて骨を折ろうとしていた己の手を、止めることができた。
酔った男は、突然の乱入者に一瞬目を見開いたが、彼女に対するのと同じように酒に誘ってきた。
悪気があるわけではないとわかり、穏便にことを終わらせるように思考が動く。
男の手を撫でるようにして引き剥がせば、手品のタネがわからないとばかりに困惑して目を丸くした。
それを放置して、自由にしたばかりの女性の手をやんわりと握りしめた。それだけのことなのに、気分が高揚してなんでもできそうな気がした。
「いきましょう」
「は、はいっ!」
一言そう告げれば、震えた声で返事がある。よほど怖かったのだろう。ああ、可哀そうに!
いつの間にかできていた人垣のあいまを擦りぬけて、広場をあとにする。
いくつか路地を抜けた先で止まって振り返れば、女性は俯いて息を整えていた。
ふ、と女性の顔があがる。
視線が絡んだ瞬間、ぶわりと肌から内臓から骨まで駆け抜けていった衝動に似たものを、アズールはよく知っていた。
でも、彼に抱くものよりずっときらきらとしていて、やわくて熱い。目を合わせた、ただそれだけでどうしようもなく、幸せを感じる。
――恋しい。
そんな気持ちを、アズールはこのとき初めて知った。このまま自分だけをみていてほしい、強く希うこの状況を、恋といわずなんという。
胸が早鐘を打つ。じんわりと頬が染まっていく。
「ご無事ですか?」
「!」
丁寧に声をかけたつもりだったのに、アズールの心に一瞬で滑り込んできた女は、すっかり怯えた様子で細い身体を震わせた。
そのうえ、視線を泳がせ、礼もなく距離をとり、逃亡を図っているようにみえた。
まあ、暴漢から助けたとはいえ、自分もまた見知らぬ男であることに変わりはないだろう。だが、逃がすつもりはなかった。
礼を盾にとって逢瀬の機会をとりつけようとしている最中に現れた、マァサと呼ばれる女性にあっさりと心中を見抜かれて、アズールは毒づきながら心奪った女の手をとって願った。
また、会いたいと。会ってほしい、と。
こんなことは、はじめてだった。
はい、と細い声で返事をしてくれたときは、天にも昇るような心地だった。
そして、ふわふわとした気持ちのままアズールは学園への帰路を辿った。連絡先をきけなかったのは残念だが、それはおいおい知れればよい。
「ユーリさん……」
教えてもらったその名を口の中で転がすだけで、脳が甘くしびれるようだった。
やはりあの監督生が、自分の心を占めているのは何かの間違いだったのだ!
学園への帰路につくアズールの足取りは、これまでになく軽かった。
アズールから「一目惚れをしました」という衝撃の発言を貰った翌日、学校の大食堂で顔をあわせたとき、特に何も言われなかった。むしろいつもどおり、ちょっと小馬鹿にされた。
去っていく後ろ姿が影も形も見えなくなった瞬間、喜びを面に出さす真顔で小躍りした。
だってそれはつまり、監督生=ユーリ(偽名)であると気づいていないということだ! 首が繋がった!
幾度も小さなガッツポーズを決めていると、友人たちが不審者をみるような顔を向けてきたので適当に誤魔化しておいた。
このとき、監督生はこれからも平穏な休みを満喫するため、アズールのデートはなんとか誤魔化さねばならないと固く心に誓ったのであった。
そして、あっという間に時間は過ぎて、約束の日。
「……はあぁぁぁ~……」
逃げたい。帰りたい。愛着のある我がオンボロ寮の自室に引きこもりたい。
あの誓いは一体どこにいったのか。
マァサの魔法薬で大人の姿となった監督生は、今にも死にそうなほど強張った顔で、待ち合わせの場所に立ちつくしていた。
この前のラフさと動きやすさ重視の格好ではなく、マァサが用意してくれた鮮やかなブルーのワンピースを着ている。
落ちつきなくあたりに視線を走らせれば、化粧が施された自分の顔が、店のガラスに映っていることに気づく。鏡がわりにして、前髪をいじる。
この町の空や海、屋根の色を切り取ったような綺麗な服を着て、デートの相手を待っているというのに、表情がすべて台無しにしている。
親切な魔女の心遣いを無駄にするわけにもいかないので、にこりと笑ってみる。まあ、悪くはないと思う。
「うーん、すごく気合いはいってるようにみえる……」
ただ、これではアズールとのデートが楽しみで仕方がなかったようにみえる。そわそわする。
着飾るのは嫌いではないが、それが誰かのためだなんて初めての体験だ。落ちつかない。
そもそもこの服、私に似合っているのかな?
通りすがりの人たちが、ちらちらとこちらをみているのが気になる。きっと似合っていないのだろう。
可愛らしい靴まで用意してもらったのに、履いているのが自分なんかで申し訳ないな、とその靴の先をみつめていると、影がさした。
「すみません、お待たせしてしまいました」
顔をあげれば、若干慌てたような様子を滲ませたアズールが立っていた。
「いいえ、私もさきほどきたばかりですから」
定型句を口にしながら、ぎこちなく微笑む。
待ち合わせしているのだから、彼がくるのは当然なのだが、なんだかまだキツネにつままれたような気持ちが消えない。
ネイビーのスラックスに白いシャツ、グレーのジャケットを羽織っているアズールは、まるでモデルのようである。美人は何を着ても似合うのだと再認識した。こんな人の隣に自分がいていいのだろうか。ああ、辛い。
「あ、あの、ユーリさん」
さっさとデートを終わらせて、解放されたいなあ。そんな身も蓋もない心の内など知らないアズールが、ほう、と息をはく。
「ワンピース、とても似合っておられます」
蕩けるような美声で褒められて、肌があわだつ。触られたわけでも、性的なことをいわれたわけでもないのに、やたらと恥ずかしい。
そうだった。この人は、恋をしているのだった。しかも自分に!
改めて認識してしまうと、照れてしまう。
赤くなっているだろう自分の間抜けな顔を想像しながら、なんとか微笑む。
「ありがとうございます。アズールさんも素敵です」
「!」
ふわっと頬を染めて嬉しそうに目を細めるアズールが、年上なのに可愛くみえる。そのあたりの女の子より、よほど可愛いのではないだろうか。
「では、いきましょうか」
「はい」
上機嫌なアズールにエスコートされ、歩き出す。
背の高さが違えば、足の長さも違う。だけど、ゆったりとした歩調で、こちらにあわせてくれているのがわかる。さすが紳士だなあと横顔をみあげれば、視線が重なった。
ふわ、と熱を帯びた瞳が細くなる。花の蕾が綻ぶような美しさだ。
「広場の教会を訪れたことは?」
「いえ、ないです。アズールさんは?」
「先日立ち寄ろうかと思っていたのですが、時間がなくて。いまからいきませんか?」
「はい、ぜひ」
さして土地勘のないはず町を歩いていくアズールの足に、迷いはない。この町の地図でも覚えてきたのかな? ということを考えているうちに、路地を抜けて広場に導かれていた。
この世界の宗教に詳しくはないが、この町に住む人たちの心の拠り所なのだろう。美しくそびえる白と青の教会には、地元の人間とおぼしき人たちが出入りしている。
大きく重厚な扉は大きく開かれ、どのようなものであれ等しく迎え入れる懐の深さをみせていた。
アズールにくっつくようにして扉をくぐる。
足を踏み入れた建物内部の光景に、わ、と思わず声を零した。
白い床に色とりどりの光が零れ落ちて揺れている。
「これは素晴らしい」
「きれいですね……」
高い天井、独創的な柱、いくつもある窓にはステンドグラス。きらきらゆらゆら、陽の光を透かしたガラスが極彩色の光景を生み出している。
身廊の先には祭壇が設えてあり、さらに先には美しい女性の像が安置されている。
像の前までいって、見よう見まねで祈りを捧げる。教会の関係者らしき人は、観光客で慣れているのか、ニコニコと笑いながら見守ってくれた。
ゆっくりとステンドグラスを見て回る。海に近しいためか、魚や貝などの意匠が見てとれる。故郷にあったような、宗教的な意味合いのものではないのかもしれない。
ふと、とあるステンドグラスの前で、足を止める。
そこには人魚と相対する人間の姿が描かれている。
海の中から陸を見上げる人魚と、陸から海を見下ろす乙女の図だ。
人魚は銀の髪に白い肌、下半身は虹色の鱗。背景には海と月を背負う。対する乙女は金の髪に、白い衣装を纏ったたおやかな姿。溢れる陽光と風を受けて微笑んでいる。
一心に視線を交わす二人の姿はまるで恋人のようである。この島にも人魚がいたのだろうか。
「ユーリさん」
「あ、はいっ」
自分でつけた偽名のことをすっかり忘れかけていた。危ない危ない。
肩を跳ねさせてしまったが、集中しているところに声をかければこのくらいの反応はするだろう。
だいじょうぶ、と自分に言い聞かせてアズールへと向き直る。彼は、どこか神妙な面持ちをしていた。どうしたのだろう。
「あなたに言っていないことがあります」
「何でしょうか?」
きちんと前置きをしてくれるあたり、アズールらしいと思う。これがフロイドだったらそんなものすっ飛ばしているところだろう。
真剣な顔を向けられて、姿勢を正した。これからきっと、彼は重要な何かを告げるのだ。そんな気がしたから。
が。
「実は、その……、僕は、人魚なんです」
そっと重大な秘密のように落とされた告白に、返答が一呼吸分遅れる。
「……はあ」
え? それだけ? 監督生は、なんと言っていいのかわからず戸惑う。
それはナイトレイブンカレッジに通う生徒にしてみれば、公然の事実である。改めて言われる理由が思いつかず、不思議のまま首をひねるとアズールも首をひねる。
「お嫌では、ないのですか?」
「えっと……アズールさんが人魚で、何か問題でも?」
どうしてそんなことを言うのかわからない。気を使っているわけでもなく、素直に不思議に思う。
ふ、とアズールの瞳が柔らかくなる。
「ユーリさんは人魚に対して偏見がないのですね」
嬉しそうなその言葉に、びっくりして目を見開く。まさかそんな話になるとは思ってもいなかった。
「偏見ですか? なにがそんなに……? だって人魚のみなさんは、」
そう言いながら、思いだす。
珊瑚の海でみかけたリーチ兄弟のこと。そしてオーバーブロットしたときに垣間見た、アズールの本性。
人間とは違う肌、人間とは違う手、人間にはない尾びれ、人間にはない造形。怖くないといえば嘘になるだろう。でも、それは非捕食者が捕食者に狙われれば当然感じるもの。でも、それでも、そんな感情を凌駕するほどに、彼らは美しかった。
「綺麗じゃないですか。それに、生命力に溢れていて、強くて格好いいです」
自由に生きる彼らの姿は、眩しくて遠い存在だ。でも、だからこそ憧れてしまう。
ああなることはできないが、少しくらいはあの強さを見習いたい。というか、図太くなければあの学園では生きられない。
へらっと笑いながら人魚に対する感想を伝えれば、アズールが押し黙って俯いた。
「アズールさん?」
なにか気に障ることでもいってしまっただろうかと、下からのぞきこむようにして様子を伺うと、少しばかり拗ねたような顔をしていた。
「……タコの人魚でも?」
ああ、なるほど。監督生は笑う。
このステンドグラスのような人魚ではないと言いたいわけだ。
だがそれもいまさらだ。故郷の別の国では、悪魔扱いを受けている生物だけれど、監督生の地元ではそんなことはなかったし。オーバーブロットさえしていなければ、アズールだって恐ろしくもない。海の底に引きずり込まれるとか、そういうのがなければ。
「私、タコ好きですよ」
食糧的な意味でも。という一言は、あえて伏せておく。なけなしの良心だった。
「そ、そうですか!」
ぱあっとアズールの周囲が輝いたようにみえた。自分の秘密を受け入れてくれたことを素直に喜んでいる。
その姿をみて、監督生は内臓が下がるような心地がした。
あれ、もしかして私、会話の選択肢間違えた?
上機嫌なアズールに対して内心焦りながらも微笑んで誤魔化す。
だって、これきりにするつもりでこのデートに臨んだというのに、期待をもたせるなんて不誠実すぎる。
こちらの内情を知りもしないで、アズールがステンドグラスの解説を始める。
この島に伝わる人魚と乙女の恋物語のようだったが、まったくもって頭に入ってこなかった。
事前に下調べをしていたのだろうアズールの教会にまつわる話のあと、店が並ぶ通りに足を運ぶこととなった。
この島の知人に教えてもらったというトラットリアで軽く食事でも、という次第だ。
隣を歩く見るからに浮足立っているアズールに、しまったなあと苦い思いを抱く。
嫌われたいわけではないが、これ以上好かれるわけにもいかないのに、ついついアズールたち人魚を肯定して持ち上げてしまった。
頭痛に耐えていると、ぱっと視界の片隅を何かが駆け抜けた。
心惹かれて視線で追いかければ、白い子猫がおぼつかないなりに懸命に走っているのが見えた。そのまま、するりと店と店の間の路地に入りこんでいく。
監督生は猫が好きだった。ひいおばあちゃんの家にはいつも猫がいて、よく遊んでもらったものだ。彼らは癒しである。世界の宝である。猫を崇めよ。
精神的に疲労していた監督生は、ついつい足をとめて子猫の行く先を覗き込む。
建物の日陰になっている外階段の下、心地よい風が吹く場所で、母猫と子猫たちが昼寝をしている。
そのかたまりに一目散に飛び込んで行った子猫の頬を、母猫が優しく舐めあげた。
「かわいい……!」
そーっと、引き寄せられるように近寄っていく。こんな可愛い光景は見逃せない。スマホを持っていれば激写したのに。
急に近寄っても逃げ出さないあたり、ここが彼らの縄張りであり、ここの住人たちに可愛がられているのだろうことが想像できた。
「こんにちは」
動物言語は履修しているがあまり得意ではない。普通に話しかけてみるが、母猫は長い尻尾を優雅に揺らすだけだった。
それでもいい。猫の親子の穏やかな時間を眺めているだけでも至福のひとときである。
「ユーリさん!」
しゃがみこんだ頭上から落ちてくるような声に、あ、と声を零す。そうだった、一瞬、アズールのことを忘れてしまった。我ながらひどい。
ばつの悪い気持ちを抱きながら顔をあげれば、息を切らしてこちらを見つめるアズールがいた。焦って探してくれたのだと、それだけでわかる。
「はあ……、どうしてこんなところに……急に姿がみえなくなって驚きましたよ」
「ご、ごめんなさい」
呆れたように息をつくアズールに、素直に謝る。さすがにこれは自分が悪い。
「……帰ってしまわれたのかと」
「そんなことしません!」
苦しそうに眉を下げ、悲しい言葉を吐き出すアズールの憂い顔に、悲鳴が飛び出す。
「ほんとうにごめんなさい。猫さんたちが可愛いくて、その、つい……」
「猫?」
きょとりと目を丸くするアズールに、「ほらここです」と可愛い集団を指し示す。
目を細めた母猫が、頭をあげてひとつ鳴く。
「にあ、にゃあ」
「なるほど」
動物言語学で優秀な成績を修めるアズールには、やはり母猫の言葉がわかるらしい。
「子は眠ったばかりなので、撫でるなら自分を、だそうです」
「ふふっ」
指を伸ばし、言われたとおり母猫を撫でる。
「子だくさんのお母さん、いつも頑張っててすごいね」
喉元を優しくくすぐれば、ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らしてくれた。
可愛い凄い素晴らしい素敵と褒めちぎっていると、アズールがくすくすと笑う。
「まったく、いなくなったと思えば猫につられただなんて……ユーリさん、あなたおいくつなんですか?」
どうやらあまりにも子どもっぽい行動をするものだから、確かめたくなったらしい。
「えーっと、二十一、です」
嘘ついちゃった。でもどうせ今日限りなのだから、かまいやしないだろう。
本来は十六歳。でも今は魔法で二十六歳くらいになっている。しかしながら、どうにもそうはみえないというマァサさんの言葉も考慮しての回答である。
とたんに、アズールがぎょっとした顔をする。
「年上?!」
「あははっ」
ひっくりかえったその声に、思わず噴き出してしまう。
アズール先輩そんな声を出すんですね。言えない言葉を腹におさめて身をよじる。
「てっきり僕より年下かと……いえ、失礼しました。女性に尋ねることではありませんでしたね」
焦ったように言いながら、眼鏡のブリッジを押し上げている。そんなに動揺することだったろうか。
「気にしないでください。童顔だってマァサさんにもからかわれるので」
「ですが、不躾すぎました」
しゅんと意気消沈してしまったアズールに、首を傾げて微笑む。
「ほんとうに気にしなくてもいいんですけど……。えと、じゃあ、食事のあとにジェラート食べたいです」
お詫びはそれでどうですかと、からかうようにねだってみれば、アズールはわずかに目を見開いたあとくすぐったそうに笑ってくれた。
「ふふ、かわいいおねだりですね。いいですとも」
立ちあがれば、「さあ、いきましょう」とアズールが手を握ってきた。
「ひょわ……」
「いけませんか?」
するすると恋人のように指を絡ませられて、言葉を失う。積極的すぎる。こちらは恋愛経験の乏しいというのに、なんたることか。ふわ、と体温があがる。鼓動が、大きくなる。
「あ、ええっと、」
なにか言わなければと思うが、アズールはそれを許してくれない。
「こうでもしないと、危ないでしょう、あなた。ふらふらと、どこかに勝手にいってしまう」
「もう……。いきませんよ」
完全な子ども扱いだと抗議するように唇を尖らせる。そんな反応すら面白いのか、アズールが笑った。いつものような取り澄ましたようなそれではなく、温かみのある年相応の笑顔だった。
ぎゅ、と胸の奥が締めつけられる。わかっていた。わかってはいたのだけど――この男、魅力的すぎる。
何も言えなくなった監督生を甘ったるい視線で絡め取ったまま、アズールは薄い唇を開く。
「そうですね。でも、僕は年下ですけれど男です。どうかエスコートさせてください」
「……はい」
波が何かをさらうような自然な足取りで、アズールが導いてくれる。それに身をまかせながら、かっこいいな、と思ってしまった。
元の世界でも、こんなふうにしてもらったことはない。この世界にきてからはなおのこと。
だって、いつもは男の子として過ごしているのだ。それを仕方がないと受け入れてはいても、こうされれば嬉しく思ってしまう。自分の中に押し込めている「女の子」が、久しぶりに息ができた気がする。誰にもみつけてもらえなかったものが、ようやくみつけてくれた人の前で、花開いていく。
頬が、熱い。足元が、ふわふわする。
まずい。だめだと思うのに、心の中にアズールの居場所ができていく。
ああ、おかしい! 私は、彼のことが好きなわけではなかったのに!
真っ赤な顔で唇をかみしめてみても、甘い熱に浸食されていく思考回路はまともに動いてくれそうにない。
重ねた手の柔らかさと温かさを、一生忘れないのだろうと思った。
気づけば、白と青の町並みは夕暮れの色に染まっていた。昼間の明るい雰囲気とはまた違う。夜へと向かう時刻も、美しいひとときだ。
教会をみて、食事をとってジェラートを食べて。そのあとも、町のあちこちをみてまわった二人は今、浜辺に立っている。
足元から砂に伸びる長い影はぴたりと寄り添っているけれど、実際の自分たちはそうもいかない。
だって、この逢瀬はここで、これでおしまい。マァサとは夜の帳が落ちる前には、店に帰ると約束している。
「……もう、日が暮れてしまいますね」
寂しげなアズールの声に、きゅっと胸が痛くなる。痛みをおさえるように、手をあてて一歩前に踏み出す。
「アズール、さん」
うっかり先輩と続けてしまいそうになるのを、今日は何度堪えたことか。失敗しなかった自分を誰か褒め称えてほしい。
最後まで気を抜かないように構えながら、頭を下げる。きちんと、ここで終わりにしなければ。どんなに名残惜しくとも。
「今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました」
自分でいっておきながら、泣きそうになる。だが、涙をこぼしてどうなる? ここで別れると決めていたくせに。
ではこれで――そう続けようとした言葉は、手を握りしめられたことで消えていった。
そうしてきたアズールは、みているほうが焦げ付くような熱のこもった瞳でこちらをみている。
「あ、あのっ」
手を引こうとするが、まったく動かない。そんなに力がこめられているようにも思えないのに。これはもしかして、自分が離してほしくないと思っているせいなのか。
力の入らない理由に気づいた瞬間、思わず顔を伏せた。きっと、物欲しそうな顔をしているに違いない。そんなものをアズールに見せたくなかった。
手の甲を、アズールの親指が優しく撫でる。これで終わりにしたくない、もっとずっと一緒にいたい。そんな気持ちが伝わってくるような、恋しさに満ちた仕草だった。
「ユーリさん。また、僕と会ってはくれませんか」
「……」
寄せては返す波の音の合間に、細い声で願われる。
助けてもらった対価は、今日一日アズールと過ごすことだったはずだ。それはもう支払った。
それ以上は、お互いの気持ちがなければ、約束はできない。
「僕は、やはりあなたのことが好きです。もっとあなたのことを知りたい。あなたと一緒にいたい」
「でも、私……」
「一時の気の迷いなどではありません。からかっているわけでもありません。僕は、あなたが欲しい」
「……」
いいえ、と言わなければいけないのはわかっている。
会えば会うだけ、正体がばれることに繋がる。
そうなったらきっと、自分にもアズールにもよくない。
自分は学園にいられなくなるだろうし、多忙なアズールは実在しない女相手に時間を無駄にしたことになる。
でも、言えない。
だって楽しかったのだ。
女の子の格好をして、アズールにレディとして扱ってもらって、美味しい物を食べて、綺麗なものをみて。
その時間が、一分一秒が、きらきらと輝いていて、尊い思い出として胸の中で輝いている。
眩しくて、まっすぐに見られない。でも、またこんなふうに過ごせるならどんなに素敵だろう。そんな、欲が出た。
「……はい、私も、アズールさんにまた会いたい、です」
噛みしめていた唇が観念したように解かれて、そこから零れ落ちた欲望は、本当ならば伝えてはいけないものだった。
だがそれを知らぬアズールは、嬉しそうに笑う。
「よかった! 僕はなんて幸せ者なんでしょう!」
無邪気な笑顔で喜ぶアズールに、申し訳ないという気持ち湧きあがる。だけど何も言葉にできなくて。
喉を鳴らして飲み込んだ感情が、小さな針となって心を刺す。
ああ、懺悔するべきはきっと、今の私。
教会の片隅で、人魚であると誠実に話してくれたときのアズールが、ひどい嘘つきな自分を責めている気がした。
それからというもの、アズールと時間をあわせて会うようになった。
スマホを持っていないのだと言えば、マァサの店に手紙が届けられるようになった。
マァサからサムに渡され、購買で誰にもみられないようにその手紙を受け取ることが、ひそかな楽しみになった。
訳知り顔ではあるけれど、サムがなにも追求してこないことが、ありがたかった。
文通なんていまどきの学生がするものではないだろう。しかし、一週間に一度のそのやりとりが、どれだけ心を救ってくれたことか。
勉強がわからずとも、大変な雑務を学園長から押しつけられても、監督生という存在を疎む生徒から難癖をつけられようとも、それがあれば頑張れた。
そんなやりとりと積み重ねていくアズールとの逢瀬は、麻薬のようだった。あの町で、会えば会うほど惹かれていった。
学校ではみない表情、向けられる恋情のこもった瞳、こちらに配慮しながらも躊躇うことなく伸ばされる指先、鼓膜が震えるような優しい声で紡がれる言葉の数々。
それは、普段は男子たちに混ざり、男として生活している監督生が、唯一なにもかも曝け出すことのできる、かけがえのない時間となった。
アズールのような人が、自分を女の子として扱ってくれて、恋をしてくれていると思ったら、いけないとわかりながらもやめられなかった。
そうして、ずるずるとした関係を続け、もう何度目かの逢瀬の日。
昼の間は部屋での食事を提供するサービスを行っているということでアズールに連れてこられたのは、島の片隅にある小さなホテルだった。
高齢のご夫婦がオーナーであるそこは、夫人の趣味が反映されているらしく、淡い色調の内装と丸みを帯びた家具で統一されていて、お菓子で出来ているかのような可愛らしさだった。
もちろん景色も素晴らしく、通された部屋から見えるのは、どこまでも広がる海原と遥かな空。著名な画家が描いたような景色を、ときおり海鳥が横切っていく。
運ばれてきた食事は島で採れた新鮮な魚介を惜しみなく使っており、どれもおいしかった。すっかり満たされたお腹が、眠気を連れてきそうだ。
部屋から繋がるテラスには、二人掛けのソファとローテーブルが設えられていて、アズールに導かれてそこに腰掛けた。
長い髪をくすぐるような風に目を細める。
「海風が気持ちいい……。とっても素敵なところですね、連れてきてくれてありがとうございます」
「気に入っていただけたならよかった」
ふふ、と小さく微笑んだアズールが、テーブルに置いてあった水差しから、美しいガラスのコップに水を注いでくれた。
差し出されたそれに口をつけると、すっきりとしたミントの香りが鼻から抜けていく。食後にはぴったりだ。
「そうそう、今日はお尋ねしたいことがありまして」
「はい、なんですか?」
アズールの問いかけには、できる範囲で率直にこたえたい。首を傾けて続きを促すと、にっこりとアズールが笑った。
からかっているような、答えがわかっている自信が滲むような、そんな笑顔だ。
んん、とわざとらしい咳払いのあと、アズールが言う。
「好みを教えてくれませんか?」
「?」
何の好みかがわからなくて、目を瞬かせて首を傾ける。食事? 色? 趣味? いろいろなことが頭に浮かんでは消えていく。
「どんな男性がお好きですか」
「!」
「そういえば、聞いたことがなかったと思いまして。ぜひ教えてください。努力します」
誤魔化すことなんてしませんよね? といわんばかりの綺麗な笑顔を向けられて、監督生は頬を染めた。
ここまで親密になっておいて、わざわざ言わせようとしているあたり、アズールは意地が悪い。でも、好いた女から言ってもらいたいという気持ちもわかる気がする。逆の立場だったなら、遠まわしにでも「あなたが好み」と言ってもらえたらきっと嬉しい。
胸元に流れる長い髪をいじりながら、恥ずかしげに瞳を伏せる。
「えっと、そうですね……。私よりも年上の人で、落ちついていて、なんでも知っている人とか、頼りがいがありそうでいいかなー、って……思います」
頭の中に思い浮かているのはもちろんアズールである。少しばかり照れくさくなって、視線を海へと向ける。
アズールからの反応はない。海からあがってくる風に身を任せながら、沈黙に目を細める。
と。
そっと手が握られた。反射的にアズールのほうを向くと、困ったような顔がそこにあった。
「あなたは酷い人だ」
「ど、どうして?」
するりと手の甲を撫でられて、声が上擦る。あなたが好みだと、明確には言わずとも伝えたつもりなのに。
焦る姿を楽しむように一息おいて、アズールは憂いを帯びた眼差しを向けてきた。
「僕の気持ちを知っていて、そんなことをいうのですから」
色気にあてられて混乱する身体を引き寄せて、赤く熟れた耳に吐息と共に差し込まれる言葉。
「どうやったって、歳の差は変えられないというのに」
せつなく悲しみに満ちた彼の訴えを理解した瞬間、身体の奥底からぞわりと嫌な衝撃が広がった。
「――あ」
そうか、今の自分はアズールより年上という設定だった!
さあっと顔から血の気が引く。
違う、あなたを否定したんじゃない、と言いかけたユウの唇にアズールのそれが触れる。
は?
あまりにも突然かつ自然な口づけと、ファーストキスが奪われたという事実に、頭の中が真っ白になった。
ちゅ、と可愛らしい音をたてて離れていったアズールは、ほんのりと眦を染め上げて覗き込んでくる。
「お嫌でした?」
「っ、ず、ずるい……」
今度は顔に血を上らせながら、アズールから距離をとる。
やらかしたあとに、悪びれた様子もなく尋ねてくるなんて。
ほんとうに嫌なら、こんなに嬉しく思うはずがないだろう。突き飛ばして罵って二度と会わない。
でもそんなことできるわけがないのだ。
だってアズールのことが好きだから。
甘えるように男の好みを訊かれたことも、初めてのキスをアズールが持っていったことも、嬉しくておかしくなりそうだ。
心配そうに少しばかり眉を下げ、でも悪いことはしていないとばかりに抱きしめてくるアズールに、この内側で跳ねる心臓をみせてやれたらいいのに。
「怒らないで、僕の可愛いひと」
「お、おこってなんか、いません」
嬉し涙を堪えたのを、睨んでいると勘違いされたのか、宥めるようにもう一度キスが降る。
重ねた唇の柔らかさと温かさがひとつになるまで触れあって、そっと離れていく。
「僕は、あなたより年下ですが、あなたを想うことなら誰にも負けません」
アズールの白く滑らかな手が、両の頬を包み込む。視線を逸らさないでと、願うように優しい力で固定される。
そんなことをしなくても、この美しいひとから逃げられるわけがないのに。
「だからどうか、僕を選んで。絶対に後悔はさせませんから、ねえ……いいでしょう? ――ユーリさん」
「!」
誘惑を紡ぐ声さえ美しい。まさに人を狂わせる人魚の唄。
だがしかし、最後の音は、正気に戻すに十分すぎるほどの力があった。
ひう、と悲鳴に近い声と涙が、ぽろりと二人の合間に零れていく。
嬉しいのに、辛い。
だって、自分は、自分は――「ユーリ」じゃ、ない。
脳裏に稲妻が走ったような感覚に、びくりと肩を震わせる。怪しまれない程度に視線をそらす。そっとアズールの胸に手を置いて距離をとろうと試みる。きっと恥ずかしくて抵抗しているような姿にみえていることだろう。
「す、すこし、考えさせてください……」
「おや、焦らすのがお好きなんですか?」
応えなどわかりきっているのにと言わんばかりの態度と言葉に、真っ赤になる。こちらの気持ちが、自分にあるとわかっているのだ。
「そういうわけじゃないです……!」
「ふふ、待ちますよ。僕は気の長いほうですから。でも、ね。あなたのこととなると限度がある。色よい返事をはやく聞かせてくださることを期待していますよ」
「……」
そのまま、引き寄せられるままアズールに寄り添う。抱きしめられて、このまま死んでしまいたいと思った。
自分がしでかしたことだけれど、この現実が苦しくて苦しくてたまらない。どうしようもない。
アズールは、知らない。
私が、監督生であることを。
あなたが嫌いなユウであることを。
ユーリという女は、どこにもいないのだということを。
恋をしたアズールは優しく、知らない表情をいくつもみせてくれた。たくさんの素敵な思い出を作ってくれた。
人魚は恋をすれば一途に、全身全霊をもって相手を求める。そのひたむきさと純粋さは、何よりも美しく尊い。そんな人を、いつまでも騙してはいけない。
アズールに比べ、自分のなんと醜いことか。
正体がばれたくないからと名を偽り、姿を誤魔化し、嘘をついた。最初から最後まで、私は身勝手な人間だ。
真実を話したなら、きっとアズールは自分を許さないだろう。きっと、自分から離れていくだろう。
想像するだけで、身体と心が冷たく震えた。
モストロ・ラウンジでの営業を終えた深夜、アズールはVIPルームの執務机に座り、ペンを走らせていた。
最後の一文字まで丁寧に書き終えて、インクが乾くまでの間、物想いに耽る。
風光明媚なあの町で、ユーリさんと親しくなってから随分たった。
彼女のことは、いまでもまだわからないことばかりだ。
どこで生まれて、どうやって育ってきたのか。家族は、友人は? 恋人がいたことは?
わかっているのは、ユーリという名とマァサという魔女の店から出入りしていることくらいだ。
調べてみたが、それ以上の情報はなにもでてこなかった。魔女の店の女主人と懇意ではあるが、おそらくあの町に住む魔女ではないのだろう。
結局、アズールは調べるのをやめた。
あからさまにおかしいし、謎だらけの人物相手に、普段ならそんなことを思わないけれど――いつか、彼女の口から、すべてを明かしてもらえたらいい。そんなふうに思ってしまった。
恋は判断を狂わせる精神疾患だ。だからそんなものにうつつを抜かすなんて愚かしい。そんなふうに思ってたかつての自分を思いだし、アズールは自虐的に微笑む。
それは恋を知らなかったがゆえの傲慢だったと、今ならばわかる。あの人と出会っていなかったからこそ吐けた、妄言だった。
「ああ、ユーリさん、あなたは一体何者なんですか……?」
声に熱がこもっていることが自分でもよくわかる。その名を口にするだけで、あの笑顔を思いだすだけで、こんなにも胸が苦しい。
つ、と手袋に包まれた指先でなぞるのは、彼女にあててしたためたモストロ・ラウンジへの招待状だ。特別なお客をもてなすために作った予約制の部屋に、一番に来てもらいたかった。
間違いがないか、失礼がないか、文字は美しいか。何度も何度も確認してようやくできあがったもの。
彼女はきてくれるだろうか? いやきっときてくれる。そうして、僕の望む言葉をくれるはず。
だって、心が通じていないはずがない。あんなにも寄り添い、口づけを交わし、彼女を求める言葉を囁いた。希望が多分に含まれているかもしれないが、控え目に微笑んだ彼女だって、まんざらでもなさそうだったじゃないか。
不安は拭えないが、自分にできることはやってきた。アズールには、彼女がこの手に入るという確信がある。
「……」
だがそれと同じくらい、うまくいかないかもしれないという不安も拭えなかった。どんな手を用意しても、あのひとはするりとこの腕の中から消えてしまいそうな気がするのだ。
アズールは、執務机の上に置いてあったスマホに手を伸ばす。
アプリを開けば、恋しい女の写真が何枚もおさめられている。その中でもお気に入りの一枚、浜辺で微笑む彼女の写真をぼんやりと眺めていると、横から伸びてきた大きな手がスマホを攫っていった。
慌ててその方向に顔を向けると、寮服のジャケットを脱いだフロイドが画面を覗き込んでいるところだった。
いつの間に部屋に入ってきていたのか。まったく気づいていなかった自分に、内心舌打ちをする。
「フロイド!」
鋭く名を呼ぶが、ひょいひょいと長い足で距離をとったフロイドが、にんまりと笑う。
「あは、これがアズールの番になるメス?」
「女性といいなさい!」
陸の常識を諭せば、フロイドは面倒くさそうに顔を顰めた。
「別にいいじゃん、そんなの。たいして変わんないでしょ」
そして、奪い取ったスマホの画面をまじまじと見つめたフロイドが、色の異なる目を見開いた。
「――あは」
ニタリ、とフロイドの口元が欠けた月のようにしなる。鋭く白い歯の奥で、赤い舌が蠢く。面白いものをみつけたといわんばかりに、瞳が細くなった。
「なにこれ、小エビちゃんに似てんじゃん、ウケる。っていうかむしろ小エビちゃんじゃん!」
あははは、と声高に笑い飛ばされて、スマホを奪い返そうとしていたアズールは動きを止めた。
「……は?」
冷水を浴びせられたような感覚の直後、全身の血が湧き立つような激情に襲われる。
「そんなわけないでしょう!?」
次の瞬間、アズール自身も驚くような大きな声が出ていた。
びっくりしたのかフロイドは固まったし、アズールは喉が焼けついたように痛むしで、部屋の中が静寂に満たされる。
それを破ったのは、わずかに開いたVIPルームの扉から、ひょいと顔をのぞかせたジェイドだった。
「おやおや、どうしたんですかアズール。そんなに大きな声をあげるとご近所迷惑ですよ」
ラウンジがあるのは、オクタヴィネル寮の片隅で、寮生の部屋から離れたところである。
そんなことあるかと睨みつければ、眉を下げたいつもの笑顔を向けられた。
「ねーねー、ジェイドもみてよー。これ、マジで小エビちゃんだから!」
大きな声を出されたことなどなかったかのように、にぱっと笑ったフロイドが、片割れに向かって大きく手を振る。
ふむ、と顎に長い指先をあてたジェイドが、わずかに首を傾ける。
「アズールが懸想している人間のメスですね。ええ、ええ、興味がありますとも。フロイド、パスです」
部屋から漏れ出た会話を聞いていたのだろう、いつもの調子で笑うジェイドがフロイドに指示を出す。
「はぁーい!」
「ジェイド!」
本当に厄介なウツボどもだと心の中で罵りながら、スマホが渡らないよう手を伸ばすが、空振りに終わった。
フロイドの腕がしなり、その手の中にあったスマホが鋭く宙を飛ぶ。それを難なくキャッチしたジェイドが素早く画面へと視線を走らせる。
そして、目を見開いて――フロイドとまったく同じ顔で笑った。
ああ、なんて嫌な兄弟だろう!
「これはこれは……」
「返せ!」
足音を立てながら近づいて、力任せにスマホを奪う。あっさりと所有権を譲り渡したジェイドが笑う。その横に、フロイドが寄り添った。
「フロイドのいうとおりでした」
「でしょ~? 小エビちゃんそのまんまじゃんねえ?」
クスクス、けらけらと笑いあう二人を射殺すほどの強さで睨みつける。
「違うといっているだろう!」
再びの大声が部屋に響く。ぴたりと動きをとめたジェイドとフロイドは笑みを消してアズールをみつめている。
「だって、だって……! 監督生さんは女性ではないし、あんなに落ちついていないし綺麗でもない! なにより僕と親しくしゃべってなんてくれないじゃないか!」
そうだ。いつもいつも。どこか一線を引いて、決して踏み入れさせようとはしない人間。友人たちに向ける親しみのこもった笑顔なんて一度もみたことがない。他寮の先輩にあたる人物たちへの尊敬と敬愛に満ちた顔もみたことなんてない! ジェイドとフロイドにさえ、ときおり見せる年相応の表情さえも、むけられたことがない!
そこまで一息に吐き出してしまってから、しまったと口元を押さえる。これでは、監督生と親しくなりたいのだといっているようなものだ。自分以外の誰しもが、羨ましいといっているようなものだ。
ぐっと唇を噛みしめて兄弟を睨みつければ、ジェイドとフロイドがそれはそれは美しく嗤った。
「なるほど。監督生さんがくださらないものを、その女性に求めているのですね。それはなんとも、滑稽なことです」
「ほんっとアズールってば、おもしろいよねえ。自分のことなのにさあ」
「……!」
愕然とする。さっきみたいに、咄嗟に「違う!」という言葉がでてこない。
自分は、ユーリさんに監督生さんの面影をみていただけなのか? 与えられないものを欲しがっていただけなのか?
いや、そんなことはないそんなことはない! ないはずだ!
もしそうならば、自分は無意識にあの男の影を追っていたことになる。
そんなの、そんなの――あの男に、この生涯を捧げてしまっているようなものじゃないか!
アズールは顔面を一層青白くしながら、拳を握りしめる。
「失せろ」
低く冷たく呟けば、ウツボの兄弟は、そんなアズールを楽しそうに眺めたあと、一言も発することなく、するりと泳ぐように部屋を出て行った。
アズールは、静かになった部屋の中、よろよろと歩いてソファへと身を沈める。
頭にこびりついた問いかけを何度も何度も繰り返す。
「そんなはずない……そんなはずがないんだ……!」
ユーリに告白したけれど、返事はもらえていない。
どす黒い感情が、腹の底に渦巻く。彼女に会ってから、久しく感じていなかったものだ。熱くて重くて、苦しくて。辛くて、さみしい。
アズールは、ソファの座面で手足を縮めて丸くなる。幼いころ、同学年の人魚に虐められては、自分の蛸壺に引きこもっていたときのように。
ああ、はやく、はやく――彼女に会いたい。
そうしたらこんな気持ち、きっとなくなってしまうのに。
監督生は、緊張した面持ちでモストロ・ラウンジのとある部屋の前に立ち尽くしていた。
胸に抱くのは、アズールからユーリに宛てて送られた招待状である。つい先日、マァサ経由で手元に届いたものだ。
指定された日は今日。指定された時間よりは、一時間ほどはやい。そして指定された完全予約制の部屋までは、アズールにちょっとした用事があるからとジェイドに無理をいって通してもらった。あとからそれなりの対価を要求されそうだが、いたしかたない。
すぐに帰りますのでといった手前、早急にアズールに会わねばならないというのに勇気がでない。
目を閉じて、上質な紙に綴られた招待状の内容を思い起こす。
丁寧に記された文字、恋ねがう熱のこもった文面、やわらかな彼の香り。ユーリという架空の女を慕う男の、それは大切にされるべき恋だった。
幻は、いつか消えるもの。それは今日であり、実行するのは、作りだした自分しかいない。
「……!」
数度深く呼吸する。そして意を決してノックした。
「お邪魔します」
室内にいる人物からの返答を待つべきところだが、無礼を承知で扉をあける。
「――監督生さん?」
恋しい人を招待し、恋しい人のためにあつらえた部屋の真ん中で、アズールが細い眉を潜めた。
何をしに来たのかといわんばかりの顔だ。それはそうだろう。
申し訳ないと思いながら、監督生は部屋に身体を滑り込ませ、後ろ手に扉を閉めた。
「あなたがなぜここに? 誰が通したんです?」
コツンと杖を鳴らして、アズールがこちらへ向き直る。震える足を叱咤して、その三メートルほど手前に立った。
「ジェイド先輩です。私が無理をいったので、怒らないであげてください」
「……」
ぴく、と柳眉をわずかに跳ねさせたあと、アズールは深く息を零し、いつもの整った笑顔を浮かべた。いつも、監督生を突き離す、あの笑顔だ。
「申し訳ありませんが、今日は大切なお客様が来る予定ですので、ご用件はまた後日に――」
「ユーリさんは、ここには来ません」
人の話を遮るなんて、本当に失礼な話だ。でも、勢いがなければここで挫けてしまう気がした。乾いた口内をなけなしの唾液で湿らせて、監督生はアズールを真正面から見据える。奮い立つ自分が折れてしまわないように、きつく拳を握りしめた。さあ、断罪の時間だ。
まさか学園内の誰にも口にしたことのない人の名が、監督生から飛び出すとは思っていなかったのだろう。
一瞬、呆けたように色をなくした顔をしたアズールが、ややあって頬をひきつらせる。
「……なんですって?」
ひどく掠れた声が問い返す。しゃべり方も声色も、取引のときには重要な役割を果たすと知っている深海の商人が、動揺している。
「知っているんです。彼女とアズール先輩のこと」
申し訳ないと思う心を秘めたまま、監督生は淡々と続ける。
ギリ、と音がする。それは、アズールが己の杖を固く握りしめた音だった。
常の冷静さを失わぬよう、ぎりぎりのところで踏みとどまっているのがわかる。
は、と呆れたように蔑むように、鼻を鳴らしたアズールが胸に手を当てる。
「あなたがいろんなことに首を突っ込む人だと知ってはいましたが、まさか僕の恋愛事情にまでそんなことをするなんてねえ。まったく、無粋な人だ!」
よほど腹に据えかねたのか、アズールの口は止まらない。
「恋をする僕をみて、馬鹿にしていたんですか? 恋などくだらないといっていた人魚が、無様に溺れているのがそんなに面白かったですか?」
「ちがいます。そんなことは思っていません」
強くなっていく語調を宥めるように、努めて穏やかな声で明確に否定する。
恋をしたアズールは素敵な人だった。思いやりがあって、情熱的で。傷などひとつたりとてつけない、優しさがあった。それを知っている。
じっとアズールをみつめていると、視線を逸らされた。
「もう結構。これ以上、あなたと話すことはありません。お帰りください」
「いいえ、帰りません。アズール先輩に伝えなければいけないことがあります」
明晰なアズールを持ってしても、この現状は理解しがたいだろう。感情からみたって、拒絶反応を示している。
監督生は、一歩前に踏み出した。覚悟を決めたせいか、足はもう震えていない。穏やかに頬笑みかければ、アズールがたじろいだ。
「でも、先輩は『僕』の言葉は信じてはくださらないだろうから……こうしたほうが、きっとはやい」
そう言いながら、手を伸ばす。その先にあるのは、学園長から与えられたこの世で唯一無二の、監督生という女をこの学園で守るための魔法道具のピアス。
装着者に対する認識を阻害し、逆転させるそれがなくなれば、監督生はありのままの姿をアズールに晒すことになる。
ごめんなさい、学園長。私を守るための約束を、私は自分で破ります。
雑用は押しつけてくるし、無理難題もいってくる人だけど、なんだかんだと言いながらも自分を心配してくれる人へ、心の中で詫びた。
右耳のピアスを外したとき、アズールが目を見開いた。左耳のピアスを外したときには、まるでこの世のものではないものに遭遇したような顔をみせる。
「は……? 監督生さん……!?」
震える声を聞き、驚きのあまり逸らされることのない視線の中、制服のジャケットの内ポケットから小さな瓶を取り出す。マァサからもらった魔法の粉を、仕上げとばかりに頭から被った。
星のような光が、螺旋を描きながら周囲で瞬く。マァサの呪文がないから効果はわずかな時間しか続かない。だが、アズールに正体を示すにはじゅうぶんだ。
ぐん、と腕が伸び、足も伸びる。伸びた髪がさらりと背中に零れていく。
ぐっと肺を押しつぶされるような感覚。さして変わらないと思っていたけれど、男物のベストが窮屈になる程度には成長するらしい。初めて知った事実に、監督生は苦笑いした。
アズールは声も出せなくなったのか、真っ白な顔をして薄い唇を戦慄かせている。
監督生は、頬笑みを浮かべたまま、告白する。首を傾ければ、伸びた髪が頬にかかった。
「僕は、――いいえ、オンボロ寮の監督生である『私』は、女なんです」
そして、見てのとおり。アズールと逢瀬を繰り返していた女なのだ。
「ユーリ、なんです」
幻が崩れる音は、この耳には届かない。アズールには、どんな音が聞こえているのだろう。
白いアズールの顔から、さらに血の気がひいていくのがみてとれた。
ゆらりと揺れた瞳の中、人のそれと同じ丸い瞳孔が、彼の本性に変わっていく。それだけ感情が昂っているのだろう。
「はあ?! 監督生さんが、ユーリさん!? そんな、そんな馬鹿なことがあってたまるかっ!」
ああ、やはり認めてはくれないんですね。
監督生は泣きたい気持ちで、歪んだ笑顔を浮かべた。
あなたは、わたしに、恋なんてしない。だからきっと否定すると思っていた。
わかっていたことだった。正体を晒せばこうなることくらい。
でも、少しばかりの希望を夢見ていた。ユーリが監督生だとわかっても、恋しいというあの瞳を向けてくれるのではないかと、夢をみていた。そんなこと、あるはずもないのに。
ごめんなさい、と頭を下げる。
「あの日、あの町で、アズール先輩が私をたすけてくれた時、ほんとうのことを言えばよかった。でも、言えなかったんです」
上着の裾を握りしめ、涙を堪えながら頭を下げ続ける監督生に、鋭い声が飛んでくる。
「なぜだ?! そうしたら、こんな、こんなことにはっ!」
ほら、やっぱり後悔する。ユーリに恋したことさえも、なかったことにしたくなると思っていた。
監督生はゆるりと顔をあげた。
「だって、先輩は私のことが嫌いだから」
「!」
さっとアズールの顔色が変わる。図星を突かれたのが屈辱だったのか、白い肌が興奮で色づく。
「気づいてないと思ってましたか?」
「ち、ちがう……! 僕は……!」
弱弱しい、そんな否定をせずともいいのに。
穏やかな笑顔、丁寧な言葉、洗練された仕草。でもその裏に隠された触れれば火傷しそうなアズールの心に、監督生は気づいていた。
「私のことを嫌いなアズール先輩に、弱みを握られるのが恐ろしかった。その瞳で、今まで以上に見下ろされたくなかった。この学園での居場所を失うが怖かった」
オンボロ寮を取り上げようとした過去のあるアズールには、思うところがあるはずだ。でもだからといって、アズールの一途な恋を無下にしてよいはずもない。
「そんな私の保身と欲を優先した結果がこれです。私は、アズール先輩から恋した人をとりあげることになってしまった。最低なことだと理解しています」
それは、いつかのあの日のように。アズールが大切にしていたものを、無にする行為。
黄金の契約書が砂になったことを思い出したのか、アズールの喉が小さく鳴った。
「ごめんなさい」
もう一度、頭を下げる。日本式なら土下座が相当かもしれないが、この世界にそんな文化はないようなので、せめてもと深く腰を折る。
「そんな謝罪で、どうにかなるとでも?」
アズールの声が震えている。
「なんでもします。許してくれなくてもかまいません」
「……なんでも? この僕にそんなことをいうなんて、本当に何をされても文句はいえませんよ」
「はい。先輩の好きにしてください」
学園から出ていけと言われれば従おう。オンボロ寮を差し出せといわれれば差し出そう。死ねと言われれば、アズールの知らぬ場所で命を絶とう。
何もそこまでと事情を知らぬ者なら言うかもしれないが、アズールのことを好きになってしまった監督生にはそうすることしかできない。自分の好きな相手にこんなことをしでかして、無傷でいたくない。
長い長い沈黙の後、アズールが靴の踵を響かせて、監督生の前に立った。
「顔をあげなさい」
そう言われて、ゆっくりと背筋を伸ばす。アズールの顔が、すぐそこにあった。
やはり美しい人だと、場違いにも思う。怒りに燃えているかと思った瞳は、想像していたよりずっと静かにみえた。
「好きにして、いいのですね?」
心地よい声が、犯した罪にふさわしい罰の開始を告げるよう。
「はい――、わっ?!」
詫びる気持ちは変わらないとばかりに頷いた瞬間、腕を引かれて抱きしめられた。
息ができないほどの力がこもった抱擁に、目を瞬かせる。
肺から吐息が全て漏れだしていく。みしり、と骨が軋む。痛いと思う。身体も、心も痛い。
だって、どうしてこんな、離れがたいというように抱きしめてくるのか理解できない。恋しい男に抱きしめられれば、女なんて容易く落ちてしまうというのに。嫌いならば、抱きしめたりしないで、殺してほしいのに。
混乱しているうちに、アズールの腕が緩む。
解放されるのかと思ったら、両手で頬を押さえられ荒々しく口づけられた。
ユーリとして接していたときとはまったく違う。あれが穏やかな凪いだ海ならば、これはまるでなにもかも奪い去る嵐のような激しさだ。
「ん、んぅっ……!」
まさかキスまでされるとは思っていなかった。驚いてアズールの腕を掴み、身を捩るが逃げられるわけもない。
これがアズールの望むことなのだろうか。怒りのままに傷をつけたいということなのだろうか。
それならばと、身体の力を抜いていく。彼の背中に手をまわし、戸惑いがちに唇を開けば、口づけが一層激しくなった。
酸素が頭に回らない。陸にいるのに、深い海に溺れているような感覚に、眩暈がする。
「ん、んあっ、は……! あず、あずーる、せんぱ、いっ……! せんぱい……!」
「は、……、黙れ……!」
結び合わせていた唇がほどけたとき、舌足らずに名を呼べば舌打ちをしたアズールに、抱き上げられた。
「ひゃ、?!」
「動くな、落とすぞ」
慌てて手足をばたつかせると、いつにない乱暴な口調で咎められた。
ひ、と喉をひきつらせて動きを止めたのを睥睨し、アズールが滑らかに言葉を紡ぐ。魔力のこもったその音に応えるように、空間が歪んだ。二人の数歩先の床が、夜の色に暗く波打つ。
「!」
ぽっかりと開いた穴の先は真っ暗で、どこに続いているのかなんて監督生にはわからない。
ここでないどこかで、きっと死体になるのだろう。さすがに自分の店で手は下せないということか。
足を踏み出すアズールの肩に抱きつけば、「ぐ、」と小さな呻き声があがる。
苦しかったのかと顔をみあげれば、アズールは唇を噛みしめてこちらを睨みつけていた。その顔は、キスの余韻のためか仄かな朱色に染まっている。
「アズ、」
呼びかけようとした声は、音半ばで消えていく。
床に開いた穴にアズール自身ごと引きずり込まれた監督生の指先が、空を切った。
どうしてこんなことになったのだろう。
アズールは息をついて、汗に湿った髪をかきあげ、撫でつけた。
自分の中から湧きだしたのに、制御できなかった激情を叩きつけた相手は、ベッドにぐったりと身を投げ出している。
場所は、オクタヴィネルの寮長に与えられる部屋――すなわちアズールの私室である。
まさかこんな形で部屋につれてくることになるなんて。
再び深い溜息をついて、アズールは監督生に指先を伸ばす。
魔法薬が少なかったのか、それともアズールと交わる間に魔力を相殺してしまったのかはわからないが、気づけばいつもの見慣れた監督生の姿に戻っていた。
厄介な魔法道具がないため、ちゃんと女性として認識できている。
ひとつひとつ確かめるように触れていく。
髪、目、鼻、耳、唇。
ああ、フロイドのいうとおりだ。アズールは、泣きそうな顔で笑った。
監督生は、アズールの恋したユーリそのものだ。よく似ているどころの話ではない。どうして、気づかなかったのだろう。
監督生として自分の目の前に現れたこの人間に関わった日からずっと、自分はこのちっぽけな存在にすべてを握られていたのだ。
見知らぬ町で出会った女にまで、気づかぬうちのその影を見出すほどに、囚われていた。
同一人物を追い求めていたという滑稽極まりない事態は、まだ受け入れるには心の動揺が収まっていない。
あげく、ここまでするつもりなんてなかったのに、その身を暴いて抱きつぶした。
「くそ……」
ここまでくれば、どうあったって認めざるを得ない。
憎らしいのに、愛しているのだ。どうしようもなく、この監督生という存在に焦がれている。
魂さえ燃やしてそのあとに何も残らずとも、一瞬でいい、手に入れたいとずっと思っていたのだ。
しかし、「なんでもします」という最高の言質はとったとはいえ、自室に引きずり込んで事に及ぶなんて紳士のすることではない。
アズールは頭を抱えた。
監督生は、アズールにますます嫌われたと感じただろう。何か言いかけるのをほとんど力づくで黙らせて、その上でその華奢な体にとんでもない無体を働いた自覚がある。
好いた女性との初夜は、もっとこう、丁寧に大事に慈しむようなものにしたかった。恐怖よりも愛情を感じて溺れてほしかった!
だがそれは理想であって、現実はこれである。
監督生は、アズールが求めている間、拒絶はしていなかった。そこにいくばくかの希望はないだろうか。
馬鹿がつくほどのお人よしではあるけれど、監督生は「否」が言えない人間ではない。もしも本当に嫌だったならば、もっと抵抗があってもいいはず。
そこまで自分に都合のいいことを考えてしまったアズールは、自分の愚かさに余計に気落ちした。
もしも、アズールの馬鹿な希望どおりだったとしても、そんなもの木っ端みじんに砕け散ったことだろう。
となると、やはり監督生は自分のことが嫌いに違いない――そう結論づけたところで、腹の中で海底火山が噴火したような心地になる。
このどす黒い気持ちを、どうしたらいいのだろう。いまにも、衝動のままに監督生を傷つけてしまいそうだ。
いつぞや監督生に対して思ったように、自分から離れられないようにその人生をコントロールしてやろうか。
そうしたらますます嫌われるだろうに、考えることをやめられない。
だってもう、逃がしてはやれないのだ。遠い故郷に帰してもやれない。自分以外の、どこにも行かせられない。
受け入れられたときの温もりを、理性を蕩かすあの声を、柔らかな彼女の奥の奥まで、すべてを知ってしまった。
恋も愛も知らなかった、監督生の存在を知らなかった、アズール・アーシェングロットはこの世界のどこにもいない。恋に溺れ、愛に目を潰した化け物しか、もういないのだ。
そっと愛しいひとを抱きしめる。
何をもってしても、どんなに嫌だと叫んでも、あなたは僕のもの。死ぬまでも、死んでからも、ずっと、ずっとだ。
アズールは泣きわめくだろう監督生を想像して胸を痛めながらも、そっとその額に口づける。
「あなたが嫌だといっても、もう、離せない……離せないんですよ、ユウさん……」
午睡から目覚めたような気だるさの中、意識が浮上していく。
「う、ん……」
喉が痛いし、身体も痛い。霞む目は、何度か瞬きを繰り返すうちに、明瞭な視界を取り戻していく。
数時間前まで、見知らぬ天井であったそこを、ぼーっと眺める。
少しずつ、自分がしでかしたこと、アズールにされたことを思い返して、監督生は羞恥でちょっと死にたくなった。いやまあ、まだ死なないけど。自分を殺してよいのは、アズールだけなのだから。
いやでも、どうしてこんなことになったのか。
自分はアズールに騙していたことを謝罪した。殴られたり、殺されるのかもと覚悟していたが、実際にされたことといえば、抱きしめられてキスされて、この部屋に連れ込まれた。
こんな綺麗な部屋で息の根を止められるのかと思ったが、アズールは予想の斜め上をいった。
まさかあんな破廉恥なことをされるとは。
これが彼なりの復讐だったのだろうか。女の尊厳を奪うような行いは、確かに罰にはなるだろう。だけど自分はアズールのことが好きなのである。これでは罰にはならない。
もしかして、これからもずっと、こういう相手にするつもりなのだろうか。
嫌いな女相手だからこそ、思う存分振るまえるということはあるかもしれない。アズールにそんな性癖があるとは知らなかった。
性癖のことはひとまず横に置いておいて。
きょろりと、当たりに視線を回す。アズールはいないようだ。ベッドの上に体を起こす。
「いたた……」
節々が痛い。とはいえ、どこかが欠損している様子はない。生きることくらいは、許してくれたということだろうか?
ただ、何度も何度も求められて、はしたない声をあげ、身体を暴かれたので、恥ずか死という死因に不足はないと思う。
灯りのない薄暗い部屋の中、懸命に縋ったアズールの細身でしなやかな身体、自分より少し低い体温、コロンの香るなめらかな白い肌、伏せられた瞳の長い睫毛、その奥にある瞳の色に意識が溺れたことも、なにもかも覚えている。
やはり恥ずかしすぎて死にたくなった。
しばらく立てた膝に顔を伏せて身もだえてみたものの、それでなかったことになるわけもない。
「……おみず」
とりあえず、水が欲しい。喉を潤して、一息つきたい。
ふと、テーブルに目がとまる。綺麗なガラスの水差しとコップがみえた。
勝手ながら、いただいてしまおう。痛む身体を誤魔化しながらベッドを下りようとしたとき、扉が開いた。
驚いて顔を向ければ、アズールが立っていた。寮服ではなく、白いシャツとネイビーのスラックスという出で立ちだ。
「うわわっ」
可愛らしい悲鳴のひとつもあげられないまま、ベッドに慌てて逆戻りする。乱れた掛布を身体に巻き付けるようにして転がる。
なにせ真っ裸だったので。監督生は、嘘をついて自分の感情を優先してしまった卑怯者であるが、変態ではないので。部屋の主の前で、裸をさらしながら水を飲むという真似はできないのだ。
「うぅ……!」
そろ、と掛布を引き下ろして部屋の入口の方を見遣れば、アズールが扉を閉めている姿が見えた。
振り返った顔には、なんの表情もうかがえない。いつも真っ白な顔が、さらに白い気がした。
監督生が籠城するベッドまで歩を進めたアズールが、苦しそうに微笑む。
「やはり逃げようとなさるんですね」
「どこをみてそんな話になったんですか?」
アズールのわかってましたよ、といわんばかりの悲壮な様子に、監督生は思わず突っ込みを入れた。
やはりって何だ。そんな予想を立てていたのだろうか。
「だって、ベッドから降りようとしていたじゃないですか」
「それだけで!? いえ、あの、とりあえず、水が欲しかっただけです」
ほらあそこにある、とテーブルの上にあるガラスの水差しを示せば、アズールがコップに入れて持ってきてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
もぞもぞと蓑虫のような姿のままベッドの上で身を起こす。伸ばした手に触れる、冷たいガラスが心地よい。
器を満たす水を飲む監督生を、アズールはじっとみつめている。
「あの、アズール先輩? そんなにみつめられると困るというかなんというか」
取ってきてくれた感謝はあるが、見ていて楽しいものとは思えない。そう問いかければ、空になったコップが取り上げられた。
ベッドに腰かけたアズールが、そっと監督生の様子を伺うように顔を覗き込んでくる。
「あなた、怒ってはいないのですか?」
おや、と監督生はわずかに目を見開く。あのときの嵐のようなアズールはすっかりとなりを潜めており、いつもの冷静さを取り戻しているようにみえる。
「怒りませんよ。ちょっとばかり、その……疲れていますけど」
「……僕は、あなたにひどいことをした」
アズールにしては珍しく、自分を責めているような非を認めるような響きを持った言い方だ。
違う。ひどいことをしたのは、私のほうだ。
監督生は眉を下げて笑う。
「私が望んだことです」
一番の被害者は、あんなにも純粋な恋心を弄ばれたアズールだ。その心の傷はいかほどか。自分の体のことなど気にするべくもない。
「でもあなた処女だったじゃないですか!」
「それはとりあえず口にするのやめましょうか」
あまりにあけすけな内容を捲し立てられ、かっと頬を染めながら早口で止めにはいる。
紳士的じゃないです、と俯きながらか細い声で付け加えれば、「……失礼しました」とアズールが口ごもった。
気まずい沈黙の中、心地よいシーツをなんとなく一撫でしてから、監督生はそろりとアズールを見遣った。
「私よりも、先輩こそ怒っているでしょう?」
結果として騙してしまったこと、彼の恋を破綻させてしまったこと。なんといって詫びればよいのか、どうやって償えばよいのか、監督生にはもうわからない。
はあ、とアズールが息を吐いて肩をすくめる。
「いえ。もうそんな感情はないですよ。そもそもユーリさんはあなたでしたから、ほんとうにこの世にいないわけじゃない。破綻とまではいかないでしょう」
「そう、でしょうか?」
思ってもない言葉に、目を瞬かせる。もっとこう、「僕のユーリさんをかえせよおおお!」と大泣きされるかと思っていた。
「ええ」
しょうがないでしょう、とアズールが微笑む。そこには、なんというか、他愛ない我儘を聞き入れる慈愛のようなものが滲んでいた。
いつも「監督生」の自分に向けられるような冷たさはその瞳にはない。あるのは、「ユーリ」のときに与えられ続けた熱だ。
これまでアズールと重ねた恋の時間が、胸にこみあげてきて苦しくなる。もう、そんなふうにみつめられることなんて、ないと思っていたから。
「では、えっと……少しは、気が晴れましたか?」
でもそれも、これできっと最後だろう。胸元に添えた手で恋心を抑えつつ尋ねれば、アズールが目を見開いた。
「そ、それはその、今はこのとおり落ちついてますから」
ふっと顔をそらして眼鏡の位置をなおすアズールの端正な横顔に、知られぬように息を吐く。
どうやら、謝罪の入口は無事に通過できたようだ。あとはこれからどうなるのか、だ。
「コホン、ともかくとして、謝罪はしていただきましたがそれはそれです。僕は絶対にあなたを許しません。よろしいですね?」
「はい」
顔を引き締め、アズールから与えられる罰ならばなんでも受け入れる覚悟を示す。
「僕をこんなふうに変えてしまったことを、一生かけて償ってください。死んで終わりになんてさせません。さあ、これにサインを」
ふわり、差し出された手の上に現れたのは黄金の契約書。きらきらと満月のように淡く光って美しい。
アズール先輩らしいなと思いながら、差し出されたペンを手にとって、紙面に視線を流すこともなく名を記す。
絶対的な力を持つ契約書の中身を確認さえしないなんて、愚か極まりないと人はいうだろう。アズールのユニーク魔法はそれほどまでに恐ろしい。
でも、監督生はアズールのためになんでもしたい。ほんとうに、何をされてもいい。
だって、好きなのだ。己の商売のためには手段を選ばない強かさを持ち、学園長さえ一目置く努力家で、そして純粋で一途な恋をするこの人魚が、誰よりも好きだから。
契約者双方の名を得た契約書が、ひときわ大きく輝いて、光の粒となって消えた。おそらくアズールご自慢の金庫にでも転移したのだろう。
これでいい。ほっとしながら消えた契約書の向こうにいるアズールを見遣って、監督生は目を見開いた。
「ア、アズール先輩、どうして泣いてるんですか!?」
ほろほろと、白い頬に綺麗な涙をこぼしながら、アズールは泣いていた。なぜ、どうして。
あっ、と監督生は小さな声をあげた。
魔法薬で大人になればいざ知らず、いまの自分は貧相すぎる。そこか、そこなのか?!
混乱した頭で考えることなんて、ろくなことではないし大体的外れなものである。だが、それにさえ気づかないほど、監督生は焦っていた。
「あの、とりあえず、十年ほどですかね、待っていただければ、あんな感じに成長するはずなので! いまはこんなちんちくりんで申し訳ないのですがすこしばかり我慢していただければ……! ほんと、貧相ですみません……」
最後はもう、消え入るような声となる。ユーリの姿ではあれば、まだマシだろうか。マァサからまたお薬わけてもらおうかな、と明後日の方向にまで思考が飛んで行った頃。
「な……だよ……」
アズールが握りしめた手を震わせて、何事か囁く。
「え? なんですか?」
あまりにも小さくて聞こえなくて、監督生はアズールににじり寄って耳を傾ける。
「なんで嫌がらないんだよ! おかしいだろ!!」
「うわっ」
とたん、アズールが監督生の腰あたりにしがみついて泣きだした。実に見事なタックルで、監督生はベッドに押し倒されてしまった。
「おおっと……?」
これが情緒の崩壊というものだろうか。
考えてみれば、さすがに情報量が多かったし、刺激も強すぎたのかもしれない。この数時間の濃密さは、長い人生の中でもそうそうないだろう。
どうしたらいいのかわからず、押し倒されたままの監督生は、とりあえずアズールの頭に手を添えた。
「おかしくないですよ。なんでもしますっていったじゃないですか」
「どうしてそこまでするんです?! おかしいでしょう、たかだか男ひとりを騙したくらいでこんな、こんな……! 自分の人生をかけるほどのことじゃない!」
今まさに黄金の契約書で私の人生を縛った人が言うことじゃないなと、監督生は笑った。
そういえば、伝えていない。嫌がられるだろうからと、心に秘めてしまったこの想いを、一度たりとも口にしたことがない。
「だってアズール先輩のこと好きですから。先輩の心が少しでも軽くなるなら、私はなんだってできます」
言葉を頭の中で組み立てるよりもはやく、唇はアズールへの想いを紡いでいた。
びくり、とアズールの体が震えた。やはり嫌だったのかもしれない。
でも、監督生はひどくすっきりとした心地だ。ごめんなさいという謝罪をこめて、アズールの髪を梳く。手入れの行き届いた絹糸のような感触に、目を細めながらもう一度囁く。
「好きです、先輩」
「嘘だ!」
張り裂けそうな声が、監督生の心を即座に否定する。
「だって、そんなわけがない!」
そこからアズールの口からたくさんの言葉が溢れだすのを、監督生はただ聞いていた。
「あなたはいつだって僕に笑いかけてくれないし、話しかけてもすぐに切り上げていなくなるし、バイトに何度誘っても頷いてくれないし、勉強を教えようとしても断るし! 僕と二人きりにならないように立ちまわってることぐらい知ってるんだからな! バレてないと思ってました?! 残念でしたね! それになにより寮を担保に契約を持ち掛けたこんな陰湿な人魚なんて嫌いに決まってる! 好きになるわけない!」
「いや、あの……せんぱ、」
「でも僕は諦められない! あなたが僕が嫌いでもどうでもいい! 深海の奥底にまで付き合ってもらいますからね! 契約書だってあるんだ! ……やっぱりこんな卑怯なことをする人魚なんて……う、ううっ……! ぼくはこんなにすきなのに……どうして、どうして……」
そのあとも、ぐずぐずと泣きながら話された内容を要約すると、好きだから、泣いても喚いても、僕が嫌いだとしても絶対に逃がさないという呪詛によく似た告白だった。
なるほどなるほど――え?
監督生は、自分の腹に顔をうずめたままのアズールの肩に手をかけて揺さぶる。
「先輩、私のことが好きなんですか?」
驚きである。目を丸くすると、ぎろりと涙目で睨みつけられた。
「そうだっていってるでしょう?!」
「よく考えてください。私、先輩の嫌いな監督生なんですよ。いまは女の子にみえてるから勘違いしてるのでは?」
「ちがう! 僕はずっと、ずっと監督生さんのことが気になっていて……! ああもう!」
勢いよく体を起こしたアズールが、身体をすり合わせるようにして顔を近づけてくる。
「あなたが好きです! 好きなんですよ……!」
雰囲気もなにもあったものではない。裸に布一枚の人間の女と、整った顔を涙と鼻水で濡らしながら告白してくる人魚の男。お伽話のような美しさなんて欠片もない。
でも、そのほうが現実だと実感できる。少女が夢見るようなロマンチックさがなくても、この人がこうまでして求めてくれるほうが、ずっとずっと嬉しい。
監督生は、気の抜けた笑顔で、アズールの頬に指先を滑らせる。
「なんだ、私たちって両想いなんですね」
「嘘だあぁぁ~!」
アズールが抱きついてきて頭を振る。もはや何を言っても駄々をこねる幼児である。
「信用ないですね」
「そもそも、それならどうしてもっとはやくいわなかったんですか!」
ぽんぽんと宥めるように背を一定のリズムで叩くと、わぁわぁと泣き声交じりに抗議された。
「いやそれはラウンジでお話したとおりなんですけれども……あとはその、あの町で会う先輩があんまりにも可愛くていじらしくて、それで好きになったところもありますし」
言外に、学園でのアズールしか知らなかったなら、恋をしていたかどうかわからないといっているようなものである。
しかし、いつもの明晰な頭脳が機能停止しかかっているアズールは、そのあたりまで読み取らなかったようである。
「はあ?! 年上をつかまえて可愛いだなんて……! あっ」
「?」
急におとなしくなったのを訝しんで首を巡らせてアズールをみてみれば、ぱちぱちと忙しなく瞬きを繰り返していた。
「では、あの……好みの異性が年上といっていたのは、その、僕、あてはまりますね……?」
おずおずと尋ねてくるアズールに、監督生は吹き出しそうになる。
なんなんだ、この可愛いひとは。
「そうですね。というか、アズール先輩を思いながらああ言ったんです。通じませんでしたけど」
頬にかかる髪をそっと指先で流し、耳にかけてやりながら微笑む。
むぐぐ、と一度唇を引き結んだアズールが観念したように表情を緩めた。
「はあ、もう……好きです……監督生さん。ユウさんもユーリさんも好きです……全部、ぜんぶ僕のものだ……」
監督生はたまらない気持になって、アズールを抱きしめ返した。
「何度でもいいますけど、私もアズール先輩のこと好きですよ」
「いやそこはちょっとまだ信じられないですね」
すん、と真顔になってそんなことをいうアズールに、とうとう声をあげて笑ってしまう。
「あはは、いいですよ。これから、わかってもらうようにずっとそばにいますから」
あ、違う、と訂正する。
「そばにいて、いいですか?」
告白したし、告白してくれたし、それになによりここまでした仲なんだからいいですよね?
と確信を込めて問いかければ、呆れたようなため息を返された。
「あなた契約書読みました? そう書いてあったでしょう?」
「うーん、ごめんなさい。まったく読んでいませんでした。それに、アズール先輩から直接言っていただきたいです」
「馬鹿ですね。あなた、ほんとうに馬鹿です」
――絶対に、離しません
重く決して壊れぬ鎖に似た愛の言葉をささやいて、震える腕で抱きしめてくれるアズールは、やはり可愛いひとだった。
よい天気だ。
監督生は式典服のフードをおろし、深呼吸する。
高く青い空に、涼やかな風が心地よい。
この学園での生活も、今日で終わりだ。感じるにおいや光ごと記憶するように、あたりをゆっくりと見回す。
式典服に身を包んだ学生たちが行き交い、いろんな意味で世話になった先生に挨拶をしている生徒もいる。
卒業式にふさわしい光景に、監督生は目を細めた。
すり、と足元に寄り添うやわらかな感触に、そっと手を伸ばす。幾度も撫でてきた小さな頭を、いつものように指先でくすぐる。青い炎の灯った耳が、ぴるぴると動いた。
「グリムも卒業かあ……よくがんばったよね」
「さすがオレ様なんだゾ!」
感慨深くしみじみとそういえば、当然とばかりに相棒が胸を張った。
「いやグリムじゃなくて私が」
「ぶなっ?!」
「あはは、冗談だよ。グリム、すっごく頑張ってたよ。魔法士になれてよかったね」
しゃがみこんで視線を合わせ、ぎゅっと抱きしめれば、グリムの肉球がついた手が回される。その柔らかな毛を、優しい手つきで撫でる。
出会いも、ここでの生活も、常にふたりでひとつだったグリムとの別れは悲しいが、彼が望む魔法士としての道が開けたことは喜ばしいことである。
「おーい、監督生!」
「いたいた! 卒業パーティまで話でもしないか?」
いつもの調子で駆け寄ってきたのは、エースとデュースだった。
グリムと顔を見合わせて笑い合い、立ち上がる。湿っぽいのは性にあわないのだ。
「わかった! なら、メインストリート近くのベンチにでもいく?」
そうするかー、という賛同を得て歩き出せば、途中でジャックにエペル、そしてセベクも加わった。同学年でも特に仲が良い彼らとの話は尽きない。
「そういえば監督生、卒業したら学園を出るんだろ?」
「うん。アズール先輩の会社でお世話になるよ」
エースに頷いて返せば、デュースが眉根を寄せてこちらをみた。
「大丈夫なのか?」
「心配してくれるの? あはは、だいじょうぶだよ」
手を振って問題ないと伝えているのに、ジャックが溜息をついた。
「お前、在学中にあの人たちにやられたことを考えると呑気すぎないか?」
「だいじょうぶだって!」
一年生のころに巻き込んでしまったイソギンチャク事件は、なかなか忘れられない思い出だ。
ジャックやその隣にいるエペルは実力でテスト勉強していたから関係ない話だが、エースとデュースは無意識のうちに己の頭に手をやっている。
「嫌なことあったら、僕の村にきて。監督生サンなら、いつでも大歓迎だから」
「ありがとうエペル」
いつかエペル自慢のリンゴ畑にいってみたいとは常々思っていた。花の咲くころのリンゴ畑は、きっと綺麗なことだろう。
「なにをいう! それならばマレウス様の治める茨の谷のほうがいいに決まっている! 人魚などものともしない!」
「セベクうるせえ!」
エースが耳を塞いで叫ぶ。それよりはやく、大きな音に敏感なジャックとグリムが大きな耳を揃って抑えた姿が可愛くて、思わず声をあげて笑った。
雷が落ちるような大きなセベクの声も、なかなか聞けなくなると思うとなんだか寂しいものである。
わいわいと他愛のない話に花を咲かせながら、学園内を歩いていく。
ちなみに、さきほどエースにも言われたが、監督生の今後の進路はアズールの会社で世話になることになっている。秘書として雇いたいといっていたが、どうなることやら。
学生時代から始まったお付き合いも継続しており、それはアズールが卒業してからも変わっていない。二人の関係は順調で、恋人になる経緯も今は笑い話となっている。
他に何かあったかと考えれば、学園長の養女となったことくらいだろうか。
どうやらアズールが学園長を脅したらしいと察しているが、そのことについて言及したことはない。きっと、なにか考えがあってのことだろうから。
手続きに学園長が苦労していたようなので、正式に養女となった後は、精いっぱいの感謝をしておいた。
そんな目まぐるしい学園生活は今日でおしまい。いろんな思い出がつまったナイトレイブンカレッジともこれでお別れ。
長かった。でも楽しかった。
祝福のように降り注ぐ光に目を細める。たくさんの記憶が溢れては流れていく。
そうそう、四年生になった頃、元の世界へ帰る方法がみつかった。
なんだかんだといいつつも、学園長はしっかり仕事をしてくれていたのだ。ただそれは、一方通行の帰り道だった。
だから、この世界にとどまった。
元の世界に未練がないかと問われれば、いっぱいあると胸をはっていえる。けれど、いまやすっかりこの世界に馴染んでしまった自分が帰ったところで、あちらに物足りなさを感じるだろう。だってそこには、日々の刺激が足りなくて、そして何より恋しい人がいないのだから。
ただ、さすがに両親には申し訳ないので、鏡を通じて手紙を出した。無機物のやりとりならできるということだったから。
最初は、半信半疑に怒りも加わって大変な内容が折り返し届いたものだけれど、今は落ち着いて定期的にやりとりができるようになった。
将来、自分自身の行き来の方法を探し出し、里帰りしたいと思う。まあ、対価を支払って希代の努力家に願った方が、はやそうだけれど。
心を交わし合った人魚のことを考えれば、自然と笑みがこぼれる。
そういえば、今日は卒業式に来るといっていたけれど、まだ顔をみていない。
そんなことを考えていると、あっとグリムが声をあげた。
「悪徳商人がいるんだゾ!」
「うっわ、マジだ。久しぶりじゃね?」
噂をすればなんとやら。毛を逆立てたグリムの叫びに、エースもまたその存在に気づいたらしい。
「アズール先輩来てるのか? どこだ?」
「あそこだ。わざわざ卒業式に何の用だ?」
ひょこ、と立ち止まったエースの後ろから顔を出したデュースが、きょろりと瞳を巡らせる。そのさらに後ろから高い身長を生かして素早く目的の人物をみつけたジャックが、メインストリートの先を示す。
「どうしたの、かな? 監督生サンを迎えにきた、とか?」
「おまえら急に立ち止まるな!!!」
足を止めたエペルが首を傾げれば、最後尾にいたセベクが通行を妨げられて声を張り上げる。セベクうるせぇ! と、皆が再び耳をふさぐ。
ぎゃいぎゃいと言いあう彼らを笑って追い越して、監督生は一直線に愛しい人のもとへと向かう。
「アズール先輩!」
「ユウさん」
にこやかに出迎えてくれたアズールの前で、くるりとひとつ回って見せる。ひらりと式典服の裾が円を描く。
「どうです? 僕、ちゃんと卒業しましたよ」
「それはそうでしょう。僕がどれだけ勉強をみてさしあげたと思っているんです?」
「その節はありがとうございました。アズール先輩さまさまです」
へへーっとわざとらしく頭をさげれば、アズールがふんぞりかえってまんざらでもない顔をする。
こちらをはらはらした様子で見ている友人たちに大丈夫だよと手を振っておく。
「さて、ユウさんは明日から僕のところにきてもらうわけですが」
「もしかして、会社の研修のお知らせにきてくれたんですか?」
わざわざ知らせにきてくれたのだろうか。仕事熱心な社長であるアズールに、よくそんな時間があったなあと首を傾けつつ、彼が杖の先端で円を描くのをじっとみつめる。
「そんなわけないでしょう。もっと大事なことです」
呆れたような声に導かれた光の粒が舞い踊り、何もないところから黄金の契約書が現れる。
その紙面に目を走らせ、自分の名前をみつけた監督生は、目を見開いた。
「あ、これ、は……」
アズールと契約を交わしたのは二回。イソギンチャクたちを解放することを条件にしたときと、アズールのそばから離れないと誓ったあのときだけだ。
一回目の契約書はすでに砂になっているのだから、これがいつの契約書かなんて尋ねるべくもない。
空中に留まったままの契約書を手にしたアズールが、懐かしそうに微笑む。
「これを破棄しようかと思いまして。契約相手であるあなたにも、それを知る権利がある」
「えっ?」
驚いてそれ以上言葉もでない監督生の目の前で、アズールの細い指が、なんなく黄金の契約書を破っていく。
小さな小さな紙片となったそれらは、花びらのように舞って消えていく。
「よかったんですか?」
アズールと自分が、ずっと離れないことを記したもの。二人の願いを形にしたもの。
なにかしら不安を覚えたとき、アズールが金庫から取り出しては眺めていると、ジェイドとフロイドにこっそり教えてもらった。それほど、大事にしていたはずのものなのに。
「ええ。だってユウさんは、僕のことが誰よりも好きでしょう?」
ドヤ顔で肩をすくめるアズールに、監督生は噴き出した。
「自信がつきましたか?」
「それはもう。故郷より僕を選んでくださった覚悟を、いまさら疑うつもりはありません」
やっと愛されていると理解し、かつ実感してくれたのかと、一層笑みを深くすれば、アズールが恭しく手を差し出した。
「さあ、ユウさん。僕と次の約束をしにいきましょう」
「どこへですか? モストロ・ラウンジでの卒業パーティまでには戻らないといけないのですが」
当然のように手を重ねてから、首をかしげる。
「ええ、ええ、もちろん承知していますよ。それほど遠い場所ではありません、ご安心を」
にこりとアズールが微笑む。それはそれは美しい完璧な笑顔だ。
「行先は、結婚登記所です。ご心配なく、僕の独身証明書などの必要書類は準備してあります。何も問題なく、つつがなく婚姻することができますよ」
いつか陸の方式で婚姻するなら、珊瑚の海から書類を取り寄せなければいけないといっていたことを思い出す。きっとそのときから手配していたのだろう。
「さすがですね先輩。あ、それなら、少しだけ待っていただいてもいいですか?」
「はい」
アズールの完璧な手回しに声を転がして笑いながらお願いすれば、やんわりと握れていた手が解放される。
監督生はその手を伸ばして、耳のピアスを外していく。これまで学園内では、アズール以外の前で外したことのないそれを。
周囲の友人たち、卒業生、在学生たちがあからさまに動揺するのがわかる。
アズールとあの海辺の町で恋を重ねた姿が、皆の目には映っているのだろう。
だってほら。いつも一緒にいたエースやデュースでさえ、目を落とさんばかりに見開いて絶句している。
学園長の魔法道具の影響下からようやく抜けだした蝶は、晴れやかに笑う。
ああ、楽しい!
数年越しの悪戯が、見事に成功した気分だ。
少女の姿を取り戻した監督生――ユウは、彼らを見回して悪戯っぽく笑ったあと、アズールに遠慮なしに抱きついた。高い位置にある彼の顔をみつめて、満面の笑みを向ける。
「私、今日からユウ・アーシェングロットになるんですね、嬉しいです!」
ユウの腰に手を添えて引き寄せながら、アズールは海のように美しい瞳を潤ませて笑う。
「ずっとこの日を待っていました――ああ! これでようやく名実ともにあなたは僕のものだ!」
高らかに宣言したアズールが、ユウを高く抱き上げる。
きゃあ、と歓声をあげて腕を伸ばせば、そのままアズールが強く抱きしめてくれた。
心を確かめ合う抱擁のあと、恋人たちは人目を憚ることもなく、キスをする。
表現しようのない衝撃が、ナイトレイブンカレッジのメインストリートを満たしていく。それは歓声なのか、怒声なのか。さざ波のようなそれはやがて津波となって、この場にいるものを飲み込んでいく。
自分たちの周囲を混乱の渦に叩き込んだ二人は、声をあげて笑いながら学園の入口に走り出す。
そうして、二人はリーチ兄弟が傍に控える車に乗り込んだ。
この道の続く先で、新たな約束を結ぶために。