タコだって空を飛ぶ

 いい天気だ。
 空は高く青く、気温はさして高くなく、風はやわらかく爽やかで――なんというか、飛行日和である。そう、絶好の、飛行日和なのである。
 ナイトレイブンカレッジ二年C組に所属するアズール・アーシェングロットは、ぎりりと箒の柄を掴み、憎々しげに空を見上げた。
「……クソッ」
 言葉汚く罵ってみるが、それで天気が一転するわけもない。ああ、大雨にでもなればよかったのに。
「あ~、だりぃ……」
「はあ……」
 近くにいるフロイドとジェイドも、やる気なく箒を握って突っ立っている。
 その憂鬱な気持ち痛いほどわかる。たちの悪いこの幼馴染たちに、これほど共感を持つことはあまりない。
 オクタヴィネル寮及び他寮の人魚たちが鬱々とした空気をまとっているのを横目に眺め、アズールは眼鏡のブリッジを押し上げる。
 というか、おかしいだろ。こちとら、生まれは珊瑚の海の北のほう。
 それなのに、陸にあがって学校に通え?
 いやまあそれは、知識と経験となり自分のためになるからまあ納得はできた。むしろビジネスチャンスに繋がると考え、諸手をあげて喜んだ。
 だが、飛行術って何だ? 人魚に空を飛べだと? そんな無茶な話があるものか! 人魚は空を飛ばないんですよ!!
 このアズールの叫びは、きっと人魚なら誰しもが同意してくれると思っている。
 しかも今日は、一年生と二年生の合同授業なのだ。
 一年生は飛行術が得意な二年生に指導してもらい、二年生は一年生を見ることで指導力を先生に示すのだ。
 定められた飛行経路を規程の時間内にクリアすれば、一年生も成績が加算される。また、その飛行状況も加味される。
 なお、指導側になれる二年生は、飛行術で中の上から上の成績を修めている生徒のみである。その筆頭といえば、リドルやジャミルとなる。
 つまり、せつないかな、飛行術の成績は最下位から数えたほうが早いアズールは、指導できない。もちろん、ジェイドとフロイドもである。
 二年生の落ちこぼれ組はひとかたまりとなってバルガス指導を受け、本日の課題をこなすことになっている。
 ああ、指導担当となれれば、体力育成の成績をかせぐことができたのに。
 己の無力さを噛みしめながら、アズールは視線を走らせる。
 その先にいるのは、楽しそうに歓談しながら授業開始を待つ一年生たちだ。
 集団の端に、いつものメンバーと共にいる少女をみつければ自然と顔が綻ぶ。
 朝に挨拶をしたものの、残念ながら昼食は共にできなかった。しかし、午後からも元気そうでなにより。
 少女はこの学校で監督生と呼ばれて一目置かれる存在で、特例中の特例でこの学園にグリムという魔獣とともに通っている。
 そして、紆余曲折を経て心通わせた、アズールの恋人である。
 ここ、大事なところなので声を大にして重ねて言いたい。
 この僕! アズール・アーシェングロットの恋人なのである!
 その事実を噛みしめれば、心の奥でとろりと甘い何かが沸きだしてきた。おかげさまで、飛行術の授業に直面しているという憂鬱さが、ふわふわとした幸福感に浸食されて、幾分かマシになった。
 週末のデートの約束をとりつけたときの愛らしさを思い出せば、さらに笑顔になってしまう。
「アズール、ニヤニヤして気持ち悪ぃ~」
「おやおや、そんな本当のことをいっては可哀そうですよ、フロイド」
 感情の起伏は激しいが言動に裏表のないウツボと、常に余計な一言を口にしなければ生きていけないウツボがなにか言っているが、無視をする。
 と、アズールの視線に気づいたらしい監督生が、ぱっと顔を華やがせてこちらを見た。小さく手を振って「アズール先輩」と口元を動かし、はにかむように笑ってくれる。
 それに応えて、にっこり笑顔で手を振り返したアズールは、いつもの通りにみえるだろうが内心は別である。
 はい、かわいい。あ~、かわいい。僕の彼女世界一可愛い。
 できることなら、芝生の上に転がって顔を覆ってもんどりうちたいところである。やらないけど。恋に浮かれているとはいえ、さすがに羞恥心はあるのだ。ちなみに寮の自室であったなら、ベッドにダイブしていた。
 アズールの視線の先に、監督生がいることに気づいたらしく、フロイドが首を傾げた。
「小エビちゃんも授業でるの~? なんでえ?」
 魔法が使えないんだから出る意味なくね? といわんばかりだ。
 アズールは朝に挨拶をしたときの話を思い出しながら言う。
「今日は先生の手伝いをするそうですよ」
「なるほど。バルガス先生は僕たちを指導される予定ですしね」
 ジェイドが頷き、落ちこぼれ人魚組を見回した後、フフフと笑った。お前もその仲間なんだからな、とは突っ込まなかった。
「ええ、タイムを記録したり、指導係が誰を指導したかのチェックするのだとか」
「いいなぁ~、オレ、小エビちゃんのとこにいこ~っと」
 わずかに機嫌を上向かせたフロイドがあちらへ駆けだそうとした瞬間。
「よし集まれ! 今日は徹底的にしごいてやるぞ!」
 空中を錐もみ回転して現れた筋肉の塊り、いや筋肉馬鹿、もといバルガスが地面に華麗に降り立つ。
 いつも思うが、その登場必要です?
 ゲェ、とフロイドが嫌そうな顔で呻くのを聞きながら、アズールは深くため息をついた。

「くっ……!」
 力と魔力を込め、箒に命じる。
 ふわっと浮いたのは地面から1.5メートルほどの位置。
 そのままさらに浮かべ、前へ飛べと箒に命じるものの、箒はうんともすんともいわず、やる気なく地面へと降下していく。
 なお、近くにいる「アズールよりマシです」と豪語するジェイドもまた同じようなものである。
 いつもの澄ました顔を放り投げて箒に縋り、長い手足を縮こまらせて前かがみのまま、浮いては沈むを繰り返している。
 たしかこういうのを監督生の故郷では「どんぐりの背比べ」というのだったか。なかなかおもしろい表現である。
 自分たちの中では最も飛行術ができるフロイドは、やる気が宇宙の彼方にいってしまったようで、箒をもってギターを掻き鳴らすようにして遊んでいる。
 というわけで、残念ながらバルガスの直接指導をもってしても、せいぜいいつもより十数センチほど上昇しただけで、オクタヴィネル悪徳三人組の飛行術はたいして進歩しなかった。
 他の人魚たちも似たようなものであるが、一部まだ見込みのある人魚が、今もバルガスから熱血指導を受けている。この分なら、今日の課題のひとつくらいはクリアしてしまいそうだ。
 こっちだって頑張ってるんですけどねえ?!
 わめき散らしてやりたくなるが、それは得策ではない。せめて努力する姿勢をみせるべきである。
 アズールはそこからも、真面目に懸命に飛行術に取り組んだ。結果は目に見えて出ずとも、いつか実るときがくるだろう。
 やがて授業が終わりに近づいた頃。
 きゃあきゃあと元気な声が聞こえてきて、アズールは箒から降りてあたりを見回す。みれば、比較的近いところに監督生がいた。
 それなりに飛行術が習得できたのか、指導役の二年生から離れてきたエースとデュース、そしてグリムがそばにいる。
「じゃあ、僕が軽量化の魔法をかけよう」
「俺は風魔法な。そよ風ぐらいで吹かせるけど気をつけろよ?」
 自主練習でもしているのかと思ったが、どうやらこっそり遊んでいるらしい。
「おう、わかってるんだゾ! いくゾ子分!」
「うん! よろしくお願いします!」
 グリムが乗った小さな箒に、監督生が跨る。
 空を飛ぶときには、その高さ、速さ、重さに応じて、魔力の負担は大きくなる。
 自分だけならまだしも、監督生を一人乗せて飛行するのは、グリムには荷が大きい。なので、友人たちが別方向から支援をするようだ。
 考えたものですねえ、とアズールは額に浮かんだ汗を拭いながら感心する。
 じっとみつめていれば、ふわり、とグリムと監督生が乗った箒が浮かび上がった。高さにすれば、アズールが全力で浮かび上がったのと同じくらいだろうか。
「お、いい感じじゃね?」
「ああ!」
 エースの言葉に、デュースが嬉しそうに頷いている。自分の魔法がちゃんと効力を発揮しているとわかるのは、楽しいものである。
 それ、と掛け声をかけて、エースがマジカルペンをふるう。
 アズールのいる場所ではわからないが、彼が得意とする風がゆるゆると監督生の背中を押しているのだろう。大股で歩くくらいの速度で、滑るように移動していく。
 魔力がなく魔法が使えない監督生にとっては、とても楽しいだろう。祭日などで子どもたち相手にやる遊戯として提供すれば、なかなかウケそうだ。
「どうだ子分!」
「すごいすごい! みんなありがとう!」
 得意げに胸を張るグリムの頭を撫で、周囲で見守ってくれているエースとデュースを順繰りに見やって、監督生が軽やかに笑う。
「今日はスペシャルツナ缶にするんだゾ!」
「俺は明日のデラックスメンチカツサンドな」
「僕はロースカツサンドがいいな」
「皆のそういうとこどうかと思う!」
 遠慮なく対価を要求するあたりさすがにこの学校の生徒である。監督生の悲鳴に、友人たちが、どっと笑い声をあげる。
 その光景が眩しくて、アズールは目を細める。
 ああ、いいなあ、羨ましいなあ、なんて、そんなこと別に思って、思ってなんか――心の底から羨ましいですけどなにか?!
 ぎりっ、と音がするほど奥歯を噛みしめる。視線だけで殺害できそうなアズールの様子をみて、近くにいた人魚がそそくさと距離をとっていく。
 当たり前のように監督生の周囲にいる友人たちに、呪いのひとつでも送りつけてやりたい。
 どうして自分は一年生ではないのだろうか、そうしたらあの場にいたのは自分かもしれないのに。
 そんな理不尽な気持ちにさえなったところで、アズールは休憩を切り上げることにした。
 今度の合同授業までに絶対に飛行術の腕をあげてやる。アズールは誓った。そして、彼女を後ろに乗せて空を優雅に飛ぶのだ。
 成績云々も大事であるが、彼女に喜んでもらいたいという気持ちがそれに勝った。
 ええ、ええ、なにせ僕は監督生さんの彼氏ですからね!
 努力ならばいくらでもできる。できるようになるまで、やればいいだけのことだからだ。目標があればさらに頑張れるというもの。
 ふんす、と鼻息荒く残りの時間を練習に費やそうとした矢先。
「あ?」
 フロイドが、ふいに空を見た。
「どうしましたフロイド」
 燃費が悪いと言っていたジェイドが、腹に手を当てたまま首をかしげる。そろそろお腹がすいてきたのだろうか。授業前にパンをたいらげていたくせに。
「あれ、なに?」
「あれとは?」
 ジェイドが目を瞬かせ、片割れが気にかけているものを探すように視線を動かしている。
 不思議に思ったアズールも、フロイドが注視している空をみて、ぎょっと目を見開かせた。
 生徒たちが飛び交う空のさらに上。魔力をこめた目でみればわかる。
 風の力をもった精霊たちが、魔力を渦巻かせてこちらをみている。にこにこと楽しそうに、悪戯っぽく。
 人魚や獣人は人間よりも多くの魔力を体内に保有して生きている、ゆえに人間よりも身体の各器官にめぐる魔力も多いため、こういったことには聡いのである。
 まずい、とアズールは直感した。妖精もそうであるが、元素を司る精霊も厄介な存在である。とくに風の精霊は悪戯が大好きだ。
 というか、悪気なく手を出して、結果を確認することなく満足して去っていく。後に残るのは、瓦礫ばかりだというのに。
 年月を経て格のあがった精霊ならばまだ若干マシであるが、アズールが見た限り彼らは幼いシルフである。もしかしたら生まれたばかりなのかもしれなかった。
 このままでは、このあたり一帯に嵐並みの強風が吹き荒れる。飛行術をしている最中にそれをやられるのは致命的だ。
 アズールは素早くバルガスを探す。しかしながら、頼りにすべき先生は、生徒の指導に熱がはいっていて上空の脅威には気づいていない。
 ああ、まったく!
「ジェイド、バルガス先生に報告を!」
「承知しました」
「俺はぁ~?」
「地面にでも伏せていなさい! 下手すると巻き上げられますよ!」
 ジェイドとフロイドに指示をして、アズールは監督生たちのほうへと走り出す。
 一瞬遅れて、フロイドがついてきた。こちらのほうが楽しそうだと思ったのだろう。
 オクタヴィネル寮長とその腹心たちの動きに何かを察した周囲の生徒たちもまた、空を見てまずい状況であると察したらしく、早々に地面へと伏せたり、魔法を使ったり、木のそばへといったりと思い思いの行動を取り始める。
「監督生さん!」
「あれ? アズール先輩?」
 大声で呼びかける。自分の声にすぐに気づいていくれるところもまた可愛いのだが、今はそれどころではない。
「すぐに箒から降りて伏せなさい!」
「アズールのやつなにいってるんだゾ?」
「なになに、どういうこと?」
「さあ?」
 きょとんとするだけで動かない三馬鹿たちが憎らしい。
「上空に精霊が――」
 いる、と伝えようとした瞬間。ごう、と耳元を塞ぐように圧のある空気が全身を覆った。
 しまった! アズールは目をつむると同時に、自分に重力倍加の魔法をかけなんとかその場に踏みとどまる。
 音もよく聞こえないが、いろんな悲鳴があがり、どこかへ飛んでいく。
「くっ……!」
 圧が緩んだ頃合いに、目をわずかに開ける。しかし、さきほどまでそこにいた監督生がいない。
 少しばかり離れたところに、ひっくり返って倒れこんでいるエースとデュースのそばにもいない。
 まさかと目をあげて、喉をひきつらせる。
「監督生さん!」
 青空の向こうに連れて行かれるその姿に、悲鳴じみた声がでた。
 いかせてたまるか!
 ぎゅっと箒の柄を掴む。いつもは不安しか覚えない細さだが、そんなことはいっていられなかった。いまは、最大限の信頼を寄せるしかない。
「頼みますよ……!」
 幸運にも地面に転がるだけで済んだ、有象無象の生徒たちの間を駆け抜ける。手にした箒に素早く跨ると、アズールは力強く地面を蹴った。
 すっげ、とフロイドの驚いた声が聞こえたが振り返る暇などない。
 今のアズールには、監督生しかみえない。みてはいけない。
 決して視界から外さぬように目を凝らして、水流に弄ばれる小魚のように空を舞う監督生のもとへと一直線に駆け上がる。
 くるくると上下左右もわからなくなって回転している生徒たちがいるが、知ったことではない。魔法が使えるのだから自分でなんとかするべきだ。
 だが、監督生は違う。アズールの恋しい人は、このままでは地面に叩きつけられて死んでしまう。
「きゃあっ!」
「子分!!」
 また強い風が、今度は横から吹き付けた。
 みれば、きゃらきゃらと笑いながらシルフたちが舞っている。
 このクソ精霊!
 世界の仕組みたる敬意を払うべき存在を、アズールは心の中で罵った。
 力がもうはいらなかったのか、とうとう監督生の手がグリムの箒から離れる。
 自分のことで手一杯なグリムと監督生が遠ざかっていく。
「グリム!」
 それでも相棒を気遣うその心根といったら。
 呆れながら飛ぶアズールの横を、目を輝かせたフロイドが飛んでいく。今にも箒から落ちそうな、無茶な乗り方をしているようだが、天才肌の男に任せるしかない。きっとうまくやるだろう。
 アズールは、グリムをフロイドに任せることにして、横から再び吹き付ける風を同じ程度の風の魔法で相殺して進路を確保する。
「監督生さん!」
 再度呼びかければ、恐怖からか強く瞼を閉じていた少女が目を開いた。はっとした様子で顔をめぐらせ、アズールをみつけてくれる。
 視線が、ぱちりと音をたてるように重なった。
「アズ……! あずーる、せんぱいっ!」
 躊躇うことなく手が伸ばされる。
 苦しそうな顔で精いっぱい伸ばされる指先へ、同じようにアズールは手を伸ばす。
「くっ……!」
 監督生が流されていく勢いと、アズールの箒の速度がつりあわない。
 魔力を箒へ回す。
 もっと速く、もっと、もっと!
 風の音さえ聞こえなくなる中を、常ならばありえない速さをもってして、アズールは監督生に迫る。
 そうして、青い空の中、ぽつんと不安定に存在する監督生を捕まえた。
 確かに、捕まえたのである。
 やった! と喜びと安堵を顔に出しながら、ぐっと手を引いて、監督生の身体を確保する。
 胸元へと抱きかかえるようにして、もうどこにも飛んで行ったりしないようにする。
 強張っていた監督生の体から、ゆるりと力が抜けるのがわかった。アズールの腕の中で、きゃあと声が弾ける。
「す、すごいすごい、先輩、すごく高いですよ!」
「わかっています! 黙って!」
 改めていわれると、冷や汗が吹き出した。無我夢中でここまで来てしまったが、現状を理解したら悲鳴をあげたくなる。
 今、二人が飛んでいるのはナイトレイブンカレッジの中でも、最も高い尖塔よりなお高い空の上。
 運動場は遥か下、生徒たちが地面を這う蟻のようだ。
 飛び出しかけた悲鳴をなんとか飲み込み、汗の吹き出してきた手で箒の柄を掴みなおす。
「しっかり掴まりなさい、降りますよ」
「あ、はいっ」
 乾いた喉をなけなしの唾液で湿らせながらそう言えば、あたたかくやわらかな感触が、ぴったりとアズールに寄り添った。
 ぎゅっと監督生に正面から抱きつかれたアズールは、一瞬固まった。
 考えてみてほしい。こんな非常事態とはいえ、好きな女の子に正面から抱きつかれて、丸みを帯びた柔らかいものが自分の身体に押しつけられるという状況を。
 ひっ、と今度こそ漏れ出した悲鳴が、呼び水となった。
「キャアアアアア!!!」
 年頃の少女のような悲鳴が、ナイトレイブンカレッジ上空に響き渡る。
 身体は青年、心は乙女。アズール・アーシェングロット17歳、渾身の悲鳴であった。
 一瞬で茹でダコになったアズールは、己の身体に力いっぱい抱きついている少女へと叫んだ。
「ば、ばかっ! このばかっ! 抱きつけとはいってないだろ~~?!!」
 そもそも真正面から抱きつくなんて、こちらを殺す気としか思えない。むしろ今それをやると心中することになるのだがわかっているのだろうか。
 わかってないんだろうな~~~!!
「ええっ、先輩が掴まれっていったのに! っと、わ、わわっ……?!」
 理不尽! とばかりに憤りながら監督生が身を離せば、当然のことながらバランスが崩れる。
「ばかばか、急にそんなふうに動いたらっ――!」
「うわ、うわわわっ?!」
 また風に煽られて、二人揃って飛ばされつつ落下していく。
「く、うぅっ……!」
 くるくると回転しそうになるのをなんとか制御する。天地もわからなくなるのは危険極まりない。
 珍しくいうことをきく箒を信じ、アズールは自分と監督生の周りに防御結界を巡らせ――そして、ナイトレイブンカレッジでもひときわ大きな木の先端付近へと、頭から突っ込んだ。
 地面に落ちるよりはよいだろうと判断したものの、衝撃はいかばかりか。
 結界のおかげで五体満足なことを感覚で確認し、アズールは目を開く。
「……大丈夫ですか、監督生さん」
「な、なんとか……怪我は、してないみたい、です……」
 アズールの胸元に顔を伏せていた監督生の肩を揺さぶれば、軽く頭を振りながら身体を起こす。
 憮然とするアズールの顔をみて、監督生がくしゃりと楽しそうに笑った。
「ふ、ふふ、あは、あはははっ! すごかったですね!」
「なにを呑気な!」
 さきほど危ない目にあったことなどなかったように、けらけらと笑いだした監督生が信じられない。
「あーんな高いところまで飛べるなんて! さすがです先輩!」
 みました? ほらあそこ。と、指を差すのは、さきほどまでいた尖塔のさらに上である。アズールはぞっと背筋を震わせた。思い出したくもない。
「……次は、あんな風にとべるかなんてわかりませんよ」
 あまりにも手放しで褒めてくるものだから、少しばかり拗ねたような口調でそういえば、そんなことはないと監督生は頭を振った。
「一度できたことは次もできます! やっぱり先輩はすごいひとです!」
「……っ、」
 真正面から素直な賛辞を浴びせられて、アズールは照れるしかない。ひょいと覗き込むように、監督生が顔を近づけてくるからなおのこと。
 それをわかっているのだろう。ふふふ、と心地よい声を転がすように笑いながら、監督生がいう。
「空にいる私を助けに来てくれた先輩、王子様みたいで素敵でした」
 からかうような口ぶりに、少しばかり悪戯心が沸いた。やられっぱなしは、アズールの性に合わない。
 だから、懸命に余裕のある表情で笑ってみせた。
「――あれくらい、僕にだってできますとも」
 自分からも距離を詰め、そっと、監督生の華奢な手をとる。
 引き寄せて、常々桜貝のようだと思っている爪の先に唇を寄せた。ぴくっと震えるその動きさえ愛おしい。
「大切な、お姫様のためならば」
 そう。それぐらいできる。どんな困難だろうとも、これぐらいなんだといってやる。
 海に生まれ、陸を知り、空を苦手とする人魚であっても。恋しい人のためならば、どんなところだっていってみせる。なんだってしてみせる。
 タコだって、空くらい飛べるのだ。
 しかし、そんな想いをありったけ込めた言葉を捧げた相手は、ぽかんと間の抜けた顔でアズールをみるばかりだ。
 わあきゃあと、今だに騒いでいる生徒たちの喧騒を遠くに聞くこと、いかばかりか。
 何の反応も示さない監督生を前に、自分の行動をじわじわと思い返したアズールは羞恥で死にたくなった。
 せめて何か言え。反応しろ。言及されないほうが恥ずかしい。
 なんだかもう黒歴史確定のような気がしていたアズールは、気まずく視線をそらした。でも、監督生の手は離せない。
「なにか言いなさい」
「……」
 それでも監督生は応えない。
「なにか言えよ!」
「……」
 もはや涙目になりつつ、やけくそ気味に震える声で言い募れば、監督生が呪縛が解けたように身体の力を抜いていく。
「せ、せんぱい……」
「……」
 いまさらなんだと、むくれながら視線を流せば、匂い立つような柔らかさで頬を染め上げていく監督生がいた。ぎし、と今度はアズールが動きを止める。
「好き……」
「!」
 ほわわ、と熱に浮かされた監督生が、そっと睫毛を伏せる。
 風が吹くたびに形を変える木漏れ日に照らされたその顔は、嬉しそうな期待するような表情で、潤んだ瞳がアズールを誘う。
 握っていた手の指先を絡めて繋ぎ、彼女の背に添えていた手に力を込める。
 恥じらいながらもアズールに寄り添ってくれる監督生の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
 ああ、こういうのも悪くない。
 今回はあまりにも突然で危険な空の旅だったけれど、もっともっと飛行術を練習して、誰の邪魔も入らない場所へと二人きりで出かけたい。やっぱり、飛行術をもっと頑張らねば。
 今後の学習スケジュールを脳内で組みなおしつつ、名残惜しく離れれば、監督生が幸せそうに笑ってくれた。
 きっと自分も、同じくらい崩れそうな顔をしているのだろうと思いながら、監督生を抱きしめようとした色ボケアズールの頭に、激痛が走った。
「痛っ?!」
「先輩?!」
 身体を跳ねさせるアズールに驚いた監督生が、「あ」と声をあげる。
「ギャア! カア! カアァ!」
 黒い翼を翻し、何度も頭を狙う何者かを確認して、アズールは目を見開く。ぐん、と旋回して再び急降下してくるその姿に、思わず叫ぶ。
「カラス?!」
「先輩、あそこに巣があるみたいです!」
 指差された先には、卵の入った巣がみえた。
 これはまずい。どうやら卵を狙う不届き者だと思われたようである。
 動物言語学も優秀な成績を修めているアズールだが、こちらを敵認定をしているカラスとまともに会話ができるとは思えない。我が子を守るため、怒り狂った親になにをいったところで通じるわけがないのだ。
「ごめんなさい、いますぐどきます!」
「あ、こら、ばかばかばか! なにしているんです?!」
 自分たちがひっかかっている枝から、なんとか降りようとする監督生を慌てて制止する。
 なんだか今日は、子どもみたいに「ばか」とばかり言っている気がする。
 監督生といると、オクタヴィネルの寮長であるとか、モストロ・ラウンジの支配人であるとか、そういう肩書きがすべて吹き飛んで行ってしまう。何も考えずにその日その瞬間を楽しむ、ただの17歳の少年になってしまう。
 それもまあ、悪くないと思うあたり、そうとうこの少女に毒されているなとアズールは思う。思うのだが――さすがに今の状況は笑って見過ごせるものではない。
「今なら飛べる気がします! 人だって空を飛べる!」
 ぐっと拳を握りしめて叫ぶその潔さと無謀さは、一体どこからくるのか。
 この恋人には、やはり自分という存在がいなければいけないと、アズールは強く思った。でなければ、早々に死んでしまう未来が見えた。
「できるわけないだろ~~~!? いいから、はやく乗りなさい!」
「あ、はいっ」
 カラスをなんとかいなしながら、二人そろって箒に跨る。
 今度は正面ではなく、アズールの背中にぴったりとくっつく監督生の感触に、また悲鳴をあげそうになったが、ぐっとこらえた。
 ちくしょうおぼえていろ!
 心の中で青春の叫びをあげながら、アズールは飛び出す。
 カラスから逃げながら、視線を巡らせる。
 空は高く青く、風はまだ強い。生徒たちはまだ混乱の最中、うるさい先生が右往左往していた。
 いつもはなかなかうまくいかない飛行術だけれど、今日ばかりは違う。
 愛しい少女のぬくもりを感じ、背後から響く楽しそうな歓声をきくことができたのだから――まあ、いいか。
 アズールは運動場を見下ろして、年相応の笑顔で大きく笑った。