酒乱の悪魔使いにご用心

 人間は悪魔になれる。
 それは、どうしようもない欲望に身を委ねたとき、現れるもの。
 そうなったら周囲を省みることはなく、人としての理性もなくなり、ただ本能に従い行動して、迷惑をかけ被害を及ぼす。程度の差こそあれ、それに巻き込まれるほうは、たまったものではない。
 だがそれが、自分で対処できることならいい。降りかかる火の粉をはらう実力くらい、自分は持ち合わせている。魔界の一流大学を卒業したエリートにして、名高いベルゼブブ家のものとして、それは当然のことだ。
 だが、それでも。
 それでも、どーしようもないことが、世の中には、ある。だから、耐えろ私。これは修行。そう、己の精神を高めるための、苦行。
 ぐりぐりと頭を撫でられながら、ベルゼブブはそんなことを考えて、叫びだしそうになるのをなんとかこらえる。
 だが限界が近いことは、自分がよくわかっている。
 もういやだ。魔界帰りたい。泣きそう。
 ぬいぐるみよろしく柔らかな膝の上に座らされたベルゼブブは、気力体力ともに根こそぎ奪い取られ、ぐったりとしていた。
「おぉら! ベルゼブブ! てめー飲んでんのかぁ?!」
「……ええ、いただいてますよ。さくまさん」
 そういって、ちびりと手にしたコップをあおる。舌と喉が一瞬にして火を帯びたように熱くなる。濃く、芳醇な酒の香りを鼻から吐き出し、一息つく。
 その様子をみて、佐隈が「そうかそうか!」と大笑いして、ベルゼブブの背を叩く。痛い。手加減がない。どこのオヤジだ。
 ベルゼブブは、深くため息をついた。
 視線を送った先にある、壁にかけられた丸い時計は、佐隈の酒盛りがはじまってすでに5時間が経過したと、無情に告げている。
 ここまでくると、この女に酒をよこした依頼人を呪いたくなってくる。一ヶ月ほどトイレと仲良くなってもらってもいいのではないだろうか。
 酒瓶、ビール缶、洋酒瓶……手当たりしだい掻き集めたようなテーブルの上は、混沌とした有様だ。これがほとんど、細い身体をした佐隈におさまったのだから、尋常ではない。
 その中でも一際目立っているのが、今日解決したばかりの依頼の報酬として、現金のほかにもってこられた日本酒だ。銘酒といわれる類のもの。なかなか手に入らないが、よほど依頼内容に対する結果がよかったのか、にこにこといい笑顔をした依頼人が、ぜひご賞味くださいと、おいていったもの。
 これを中心にして、ちょっとだけ飲みましょうと言い出したのを、全力でとめなかった数時間前の自分。反省なさい。
 ぷはー、というおっさんくさい声とともに、酒臭い吐息が背後から流れてくる。その空気のなか、そろそろとベルゼブブは佐隈を振り仰いだ。
「あの、さくまさん。そろそろおひらきにしたほうがよろしいでのは? 明日の予定にも差し障りがでてしまいますよ」
「あぁん?!」
「……すみませんでした」
 だめだこのクソ女。
 努めて優しく忠告したというのに、親の敵でもみるような視線を返された。何故だ。理不尽だ。
 ピギィ……とベルゼブブは小さく鳴いた。
 なぜこういうときに、ストッパーであるべき芥辺は海外出張しているのか。
 なぜこういうときに、アザゼルは木っ端微塵にされたあげく灰にされ、部屋の片隅で再生中なのか。
 いやそれは、アザゼルが、すっかりできあがった佐隈にセクハラをしでかしたからなのだけれども。こんな酔っ払い相手にそれでも手を出さずにはいられない、淫奔という悪魔の本能が哀れだ。
 そんなわけで、味方なく、援軍のあてもない、どうしようもなく孤独なベルゼブブが、これからの対応策を脳内で必死に練っていると。
「そうそう、ベルゼブブさんってぇ~……」
「なんですかな、さくまさん」
 ちゃんと受け答えをしないと、こちらにまでグリモアの仕置きをされかねない。ベルゼブブはぞんざいに、しかし文句を言われない程度のかったるい口調で、頷く。
「童貞ってほんとですか~?」
 ぴし、と一瞬固まったあと、ベルゼブブはぐるりと身体ごと後ろを向いた。
「……はァ?!」
 にやにやと、アザゼルのことを馬鹿にできないような下世話な笑顔で、佐隈が口元に手を当てている。くふくふと笑いながら、言う。
「いやー、ほら、グリモアっていろいろ書いてあるじゃないですかぁ~?」
「!」
 悪魔のグリモアには、ありとあらゆることが記されている。それはもう、子供のころのおねしょの回数から、思春期ごろの淡い初恋の甘酸っぱい思い出から、その他諸々――あまり知られたくない類のことも、記載されている。グリモアの中に、悪魔のプライバシーなどないのである。
「まだ全部は読みきれていないんですけどぉ、アザゼルさんがね、『べーやん、ああみて童貞なんやで』とかなんとかいっててぇ! でも私読めないから、ほんとか嘘かわからないし~!」
 けたたた、と鳥が鳴くように佐隈が笑う。対してベルゼブブは、ぷるぷると怒りと羞恥で震えていた。
 あンの犬面悪魔がァ……! 再生したところを切り刻んでミンチにしてやる……!
 余計なことを言った友人にして同僚の、辿るべき暗い道を想像していると、佐隈につつかれた。ごつごつと、こめかみあたりに容赦なく突き刺さる女の人差し指。
「だからぁ、ほんとのとこ、どうなのかなって! ほら、ほら~、教えてくださいよぉぉ~」
「プ、プライベートなことなので、お答えできかねますな」
 本当に個人的な話すぎて、いいたくない。それは至極まっとうな感覚のはずだ。いつもの佐隈なら賛同してくれるはずだ。だが、酔っ払いには通じなかった。
「……あん?」
 一瞬にして、温度って下がるものなんですね。
 ベルゼブブは、心の中で悲鳴交じりに呟く。
 佐隈を中心にして、ブリザードが吹いているような錯覚に陥る。そんなこと、ないはずなのに。
 そんな知りたくもなかった世の中の事実を、ベルゼブブが体感していると。
「!?」
 ぐるり、急に視界が回転した。それは、眩暈をおこしたのではない。
 どす、と容赦なく腹に圧し掛かる重さに、ぐぇ、と喉から悲鳴が漏れた。
 ベルゼブブをソファに押し付けた赤ら顔の佐隈が、すうっと目を細める。魔剣のごとき剣呑さを帯びた瞳からの視線が、ベルゼブブをがんじがらめにする。息が詰まりそうだ。
「もったいぶりやがって……、なにさまだてめぇは、ああ?! お高くとまってんじゃねーぞ!」
「いや、あの、さくまさんっ?! おち、落ち着きましょう、ね?! 大体、私が童貞だったところで、あなたには何の影響も問題もないじゃありませんか!」
 ひぃぃ、と青ざめながら、じたばたとベルゼブブは手足を動かした。これでは、自分が童貞であると認めたようなものなのだが、それよりもいかにして佐隈の魔の手をかわすかのほうが重要だ。
「……ま~、そりゃー……たしかに、そうですねえ~……、あは、あはははっ!」
 雷鳴り響く曇天のような顔から一転、夏の快晴を思わせる笑顔で、佐隈が豪快に笑う。
 もうやだ。はやく魔界に帰りたい。
 顔を覆い、あがりそうになる嗚咽を堪えていると、するりと首もとが軽くなる。
「?」
 不思議に思って手をどかし、瞳をあけると、佐隈の手が自分の服をひらいているではないか。意味がわからない光景を、ベルゼブブは呆然と眺める。
 蝶ネクタイがはずされてソファの向こうに落とされる。ベストの前をあけられて、ブラウスのボタンに手がかかり――
「って、何してやがんだこのクソ処女がああああっ?!」
 嫌な予感に、ベルゼブブは叫ぶ。
「いいじゃないですか~! 童貞と処女同士、ここですぱっと捨てましょうよ! うふ、あははははっ!」
「よくねぇよ! ちっともよくねぇよ! どんな思考回路してんだ、テメーはよォ?!」
 佐隈に剥かれているとようやく理解したベルゼブブは、悲鳴を上げつつ身をかばおうとする。しかし、酔っ払いのわりには手つきのよい佐隈が、あっというまにベルゼブブの服を脱がせていく。
「ちょ、ちょっと、ほんとにやめてくださいっ」
「減るもんじゃなし、腹ァくくれよ! 悪魔だろうが!」
「むしろ悪魔はそっちだ、ボケェェェェ!」
 まさか、こんな人間の女に貞操の危機を覚える日がこようとは!
 じたばたと佐隈の下でもがきながら、は、とベルゼブブは気づいた。
 今、自分は魔界でのあの姿ではない。忌々しい芥辺のソロモンリングによって、動物の姿に変えられているではないか、と。
 なんだ、助かった……。
 ほーっと、息をつく。
 この格好ではどうにかしようもあるまい。せいぜい服をぬがされたところで、白い羽毛に覆われた丸い身体しか晒さないのだ。いつもは屈辱的だと思っているこの姿だが、このときばかりは「アクタベ氏、グッジョブ!」と親指たてて感謝してもいいと、本気で思った。
 何を焦ってしまったのかと、ベルゼブブが自分自身を恥ずかしく思っていると。
 途中から安心して抵抗を緩めたベルゼブブの衣服を綺麗に脱がした佐隈が、んー……と唸った。
 上等な布地でできた上着が、放り投げられる。それをつかんでいた手が、ベルゼブブの腹に降りてくる。
 ベルゼブブの身体を無遠慮にまさぐり、ひっく、としゃくりあげながら、佐隈は座った目で見下ろしてくる。
 なにかを確かめるその動きがくすぐったいものの、それ以上に怖くて、ベルゼブブはわずかな身じろぎもできない。
 と、佐隈の視線が、ベルゼブブの瞳を射抜く。
 ひやっとしたものを背に感じ、ぶるりとベルゼブブは大きく震えた。
「オイ、てめーのはどこについてんだ? あ?」
「……」
 処女のくせにとんでもないことを聞く女である。さすがのベルゼブブも絶句した。
「いやあの、なに……?」
「カマトトぶってんじゃねーっつーの、アレだよアレ!」
「ピギャァァァ!?!」
 がしっと両の足を掴まれたと思ったら、勢いよく左右に開かれ持ち上げられる。足の付け根を惜しみなく晒すような格好をとらされて、ベルゼブブは叫んだ。
 これが魔界での姿であったら大惨事である。
「ん、ん~……?」
 まじまじとした視線を注がれて、すっかり陵辱される女の気分を味わっているベルゼブブは、引きつりながらなんとか佐隈を宥めようと試みる。
「さ、さくまさん……。ほら、あいにくと私はこのような姿ですし、どうしようもありませんでしょう? と、とりあえず、服を返していただけないでしょうかね……?」
 恐る恐る、機嫌を損ねないよう言葉を選びながらいってみるが、佐隈はベルゼブブの恥部ばかり眺めている。ほんとに処女か、てめーは。
「よくわかんねぇなあ……オイ、ベルゼブブ!」
「は、はひっ?!」
 ぱ、と手を放した佐隈が鋭く呼ぶものだから、びくっと身体を跳ねさせながら裏返った声で返事をする。
「もとの姿にもどれ。でなきゃ殺す」
「?!?!」
 無茶だー!
 ピギャー、とベルゼブブは口を開いて、鳴いた。
 この事務所に張られた芥辺の結界は強固で、綻びなどどこにもない。呼び出されたが最後、どうあがいてもこの姿でしかいられないベルゼブブには、どだい無理な要求である。
 だが、佐隈の目は本気だ。できなければ殺される……! しかし、自分にできることはなにもない。
 自分の人生、はかなかったですねえ……と、悲観しかけたとき、佐隈が傍らに置いていたグリモアを手に取った。
「……うぃっく~……」
 汚したりしてはいけないと、無意識に思っているのだろう。その本の表紙には、アザゼルの血の一滴も、酒の飛び散った雫のひとつも、つまみの油さえ、ついてはいない。
 ぱらら、と佐隈がそれをめくる。
 ああ、殺される。いつかのように、爆散させられるのだろうか。
 あれから身体を再生するのは、それこそ地獄のような過程を経たというのに、またあの思いを味わうのか。
 素っ裸の上、酔っ払いに殺されるとか――長いベルゼブブ家の歴史の中でも、これから続くだろう歴史の中でも、おそらく自分くらいなものだろう。なんという恥辱。
 もう、どうとでもなれ。
 妙に達観し、そっとベルゼブブが瞳を閉じた瞬間。
「とはいっても、無理ですよねえええ~。だいじょーぶ、だいじょーぶ、わかってますからぁ! わたしが、ひっく、ちゃぁぁんと、やってあげますからねえええ」
 上機嫌な佐隈の、死の宣告に等しい、明るい声が響き渡った。
 ナァニィー!?!
 ばち、とベルゼブブが目を見開いたのと。その顔に佐隈の手のひらが突き出されたのはほぼ同時。
 止める暇も、妨げる余裕もなく、淀みなく女の声で綴られる呪文。
 体が解放される感覚は、一度だけ味わったことがある。そのときは芥辺の手によるものだったが――それを、今、目の前の女は成し遂げようとしている。
 嘘だ、そんなことできるわけがない、ありえない! あの芥辺の結界を未熟な悪魔使いがどうにかできるわけがない!
 そう心の中で叫びながら、目の前の佐隈の手をどかそうとして、手を重ねた瞬間。
 ぼふ、と間の抜けた音が響き――佐隈の手を、見慣れた四本指の己の手が、掴んでいた。
 ウソだろォォォ!?
 そのまま佐隈の手をどかし、ベルゼブブは慌てきって上半身を起こした。
 そこにあるのは素っ裸の自分の体。佐隈の手を掴んでいるのも、まごうことなき自分の手。
「やりやがった……!」
 いつのまに、こんな実力を備えていたのだろう。佐隈は将来、芥辺をもこえる悪魔使いになるのではなかろうか。末恐ろしい潜在能力だ。
「あはっは! イェーイ、大成功~!」
 結界を解いた張本人といえば、自分がしでかしたことの大きさをわかっていないまま、ケタケタと笑っている。そしてそのまま、視線を落とした。
「へええ~……、ベルゼブブさんのって……うふ」
「!」
 ピギャッ、とベルゼブブは叫び、あわててその場所を手で覆った。当然だ。誰が好きこのんで晒したいと思うものか。あいにくとそういう趣味を、ベルゼブブは持ち合わせていないのだ。
 だがその仕草に、あん? と佐隈が顔を歪めた。せっかく見ていたところを邪魔されて、気分を害されたらしい。
「ちょ、ちょっと、さくまさん! 落ち着いてください……!」
 未熟な悪魔使いであったはずの佐隈がソロモンリングを解いたことに驚くよりも、自分の身の危険をなんとか回避するほうが大事。
 ベルゼブブは仰向けの状態から、なんとか横向きに体制をかえ、身をよじり逃げようとする。が、そんなベルゼブブの顔のすぐそばに、分厚いものが振り下ろされた。
「ヒッ」
 思わず、息を飲む。それは見間違えることなどありえない、おのれのグリモアだ。触れたら最後、問答無用で制裁が下される。
 ぷるぷると震えながら、ゆっくりと佐隈を見上げる。
 そこに、悪魔がいた。
「おとなしくしてれば、一緒に天国いってやるっつってんだろーが……――ねえ、ベルゼブブさぁん?」
 に、と凄みのある顔で、佐隈はそうのたまった。
 ベルゼブブは慄いた。芥辺に感じるものとはまた違う、だが間違いない、恐怖。それとちょっぴりの、悦び。いやいやいや。
「……お、おとなしくなんかできるか、このビチグソ女ァァァ!」
 が、こちとら貞操の危機に直面している。
 こんな酔っ払いに奪われるために、自分のそれはあるわけではない!
 ちょっといいかも、とか思っちゃった自分の愚かな考えを打ち払うように、ベルゼブブは頭を振りつつ涙交じりに叫んだ。
 ちっ、と佐隈が舌打ちをする。
「しゃあないな~……合意のほうがいいような気がしますけど……。まあ、ベルゼブブさん悪魔ですから犯罪にならないでしょうし~、勝手にやりますねぇ~」
 ひどく自分勝手な方向へ行動の舵をきられて、ベルゼブブは青ざめる。
 仕方ない仕方ないと言いながら、まったくもって悪いと思っているようにみえない佐隈が、服をたくしあげる。キャミソールを、全裸の男にまたがりながら、勢いよく脱ぐその豪快さに涙がでそうだ。
 しかしながら、佐隈は想像していたより可愛らしい下着を身に着けている。着やせするほうだと思っていたとおりの豊かな胸、女らしい優美な曲線を描く細い腰。
 事情が事情なら、見惚れてもいい佐隈の半裸姿だが、あいにくと堪能する余裕なんて、ベルゼブブにはない。
「待て、待ちやがれこの酔っ払いビッチ! ほんとに待て……! あっ……?!」
 つ、と剥き出しの肌に感じたぬくもりと動きに、ベルゼブブは思わず声をあげた。
 さきほどのペンギン姿にしていたときと同じように、佐隈が撫でている。なにをってもちろん、ベルゼブブの尻を、だ。ちなみに、ときおり指先に力がこめられて、揉まれてもいる。
「この痴女ォォォォ! やめなさい、はしたない! あなた、それでも女性ですか?!」
 やめてやめてと叫ぶベルゼブブの顔を、佐隈が覗き込む。
 また怒鳴り散らされるか、グリモアでも突きつけられるかと思ったが、違った。
 へにょ、と佐隈が眉を下げたのだ。いまにも、泣き出しそうな子供のように。
 思わずベルゼブブが、黙り込んでしまうような弱く、あどけない顔を、佐隈が近づけてくる。
「……そんなに、嫌なんですか……?」
「……え、ちょ……?!」
 ぐい、と上半身を倒した佐隈の、下着に包まれた柔らかな膨らみが、ベルゼブブに圧し掛かる。
「ねぇ……? ベルゼブブさん……いや……?」
 さっきまでの勢いはどこにいった。オヤジくささはどこいった。急に佐隈から噴き出すように現れた色気に、うぐ、とベルゼブブは唇を引き結んだ。
 赤い顔、とろりとした瞳、濡れた唇、しっとりと汗ばんだ白い肌の香り――そのすべてが、気づけば抗えない魅力となってベルゼブブに迫ってきていた。
 処女のくせに!
 喉が渇いたわけでもないのに、ベルゼブブはこくりと唾を嚥下した。
 すりつけられる柔らかな肢体は、人間ではない悪魔のベルゼブブにとっても、男という本能を刺激するにはじゅうぶんすぎる。
 だが、ここで佐隈に手をだしたら――?
 芥辺に膾切りにされる自分、アザゼルに笑い倒される自分、酔いの醒めた佐隈から仕置きされる自分。そんなものが、死の間際にいるわけでもないのに、走馬灯のように脳裏を過った。
「ベルゼブブさん……」
「さく、ま、さ……」
 業を煮やしたのか、佐隈が甘えるように首を伸ばして、口づけをしてくる。酔いのせいか、慣れていないせいか、唇をかすめたり、その近くにしか落とされないその仕草に、よけいに煽られる。艶っぽく誘ってきたかと思えば、そんなところで何も知らぬ無垢なところをみせるなんて。
「ああ、クソっ!」
 ベルゼブブは毒づきながら、柔らかな体をぐいと引き寄せ――ここだと教えるように唇を重ねた。佐隈が、嬉しそうにそこを食む。それだけで、背骨がじんと痺れたと同時に、ある場所が熱を帯びていくのがわかった。
 ああもう、ああもう、どうとでもなればいい。
 悪魔ならば、欲望に忠実であるべき。そうでなければ悪魔ではない。
 ならばこれば、自分の悪魔としての矜持を守るためなのだと、そんなくだらない理由をつけて、ベルゼブブは佐隈の口内に残る酒精を残さず舐めあげる。
 つ、と絡ませた唾液をひきながら、互いの顔を離す。酒を帯びた吐息が重なる。
 さらに蕩けた表情をみせる佐隈に、引きずり出されつつあった悦びが、さらにベルゼブブの身の内からこぼれ出す。
「うっへっへ~、それじゃあ、いただきまぁす」
「そういうことをいうんじゃありません! 慎みのない!」
 至近距離で叫んでいるのに、へらへらと佐隈は笑っている。酔っているからだとわかっていても、その余裕に腹がたつ。
「ただじゃ済まさんから覚悟しろよ、このビチグソ女が! ヒィヒィいわせてやっからなァ?! ん、ぅ……!」
 そういいながらも、今度こそ間違いなく与えられた佐隈の口づけに、ベルゼブブは瞳を閉じていく。
 こんなの、どう考えたって最悪だ。最低の初体験だ。
 ああ、酒の勢いって怖い。
 ベルゼブブは佐隈の背に手を回し、下着のホックをぎこちなく外しながら、そのままゆっくり、ソファへと沈んでいった。

 

 

 はたして、ベルゼブブが佐隈にいただかれたのか、ベルゼブブが佐隈をいただいたのか――翌朝、ピンクの糸で繋がった二人の様子に気づいて叫ぶアザゼルにも、その過程までは見通せないのであった。