雨が降っている。
全ての罪を洗い流すような優しい雨が、世界を柔らかに包んでいる。いまはもう嵐が多くなる秋の季節だが、今日はなんとも静かだ。
小さな我が家の中は湿気に溢れているが、常に室内は綺麗にしておきたいティアは、家具の埃を払い、床を箒で掃いていた。
そうしてしばし掃除に没頭して。
ぴたりと働いていた手を止めて、ティアはぐるりと室内を見回し、身体から力を抜いた。
「ふう、こんなところかな」
本当だったら、あとは窓を大きく開いて空気の入れ替えもしたいところだが、今日の天気ではそれはできない。
「明日になれば晴れるといいなぁ……」
箒を手に持ったまま、独り言を零しながらティアは窓辺へと近づいた。
しっとりと濡れたそんな景色が、霞んで見える。外と家の中の温度が違うため、古びた窓ガラスがくもっているせいだ。つ、と大きく成長した水滴が、跡を残しながら上から下へと落ちていく。
そんな不透明さ越しに外の様子を確かめたティアは、ちらと脳裏に星のごとく瞬き閃いたものに誘われるまま、なにげなくそこへ手を伸ばした。
きゅ、きゅ。軋むような音を立てつつ、ティアは水とガラスでできたキャンバスに指先を滑らせていく。
先端にハートを描き、その下には小さな半円を。半円中央から下に向かって直線をひきつつ、終わり部分はほんの少し跳ね上げる。そうすればほら、可愛らしい傘の出来上がり。
そして、最後の仕上げに取り掛かる。傘の柄を挟んだ右半分へ、自分の名前を記す。そして、その反対側には――。
「なーにしてんだよ、ティア」
「わきゃっ!」
ふいに後ろから聞こえた声に、びくっとティアは肩を跳ねさせた。子犬が鳴くような声をあげ、ティアが慌てて振り返った先には、ふわふわと浮かぶ小さな影ひとつ。燃え上がる炎のような逆立つ髪をもち、猫のような吊りあがった目で瞬きを繰り返す、人でない存在。尖った耳がぴくりと動くのを、大きく見開いた瞳で、ティアは呆然と眺めた。
「レ、レンポ……!」
掃除の邪魔になるから、と預言書にもどっていたはずなのに。
レンポの突然の登場に、ティアの思考が一瞬止まる。それとは逆に、どっと心臓が血液を送り出しはじめる。どきどきと大きく跳ねる胸が痛い。そのせいで、背後のものを隠す、ということまでティアは気が回らなかった。
動きを強張らせたティアの肩越しに、ひょいとレンポが窓を覗き込む。尖った指先が、その視線の先をなぞるようにさす。
「なーなー、それなんだ? ティアって書いてあるぜ」
「ええっと、これはその……」
ティアが描いたのは、いわゆる「あいあいがさ」と呼ばれるものだ。それは、街の女の子たちの間でほんの少し前に流行った、大好きな人と自分の名前を傘の下に書いたら恋が実るとかいう、嘘か誠かわからぬ他愛のないおまじない兼らくがき。
そしてこれは、こんな雨の日に二人肩を寄せ合いながら、水底に眠るような世界をゆっくりと歩いてみたいと思った、ティアの心の具現でもある。
しかし、属する性質ゆえに水を苦手とするレンポとそんなことをできるわけがない。わかっているからこそ、余計に憧れてしまうわけだが……。
ほとんど無意識のうちにそんなことをやっていた事実と、その空想の相手であるレンポにこれをみられてしまったことに、ティアは頬を染めた。
あいあいがさが意味するところは、問いかけられたことから考えれば、レンポにばれていることはないことはわかるけれど――やはり、恥ずかしい。
「ちょ、ちょっとね、かいてみたかっただけだよ……! うん、とくに意味はないから!」
ティアは紅に染まった頬の熱を自覚しつつ、わたわたと手を振って、わざとらしいほどの明るい声でいう。
「ふーん?」
きょろりと不思議そうな色をたたえ、大きな瞳がティアを映す。見透かそうとするようなその視線に耐えられなくて、ティアはそっと視線を外した。
「えっと……んと……」
そして、さらに誤魔化そうと試みるものの、混乱しきった思考ではうまい答えなどでるはずもない。あうあうと声を漏らしながら、ティアは他の言葉を探し胸元で指を絡ませ手を握る。視線があちこちに泳ぐティアの目の前で、すっとレンポが小さな指を窓に押し当てた。
「ま、とりあえず……オレも、っと!」
そういって、朗らかに笑ったレンポは「つめてーなぁ」と呟きながら、さきほどのティアと同じように、指を滑らせて――「ティア」という文字のすぐ隣に、三文字描く。
ティアはそれをみて、目を瞬かせた。
「へっへー」
満足そうに、笑ってティアを見上げてくるレンポが、記したもの。
それは、可愛らしい傘の下、右半分に片寄って仲良く並ぶ、ティアとレンポの名前。そっと寄り添うように書かれているものの、レンポの字は傘の下から少しだけはみ出してしまっている。
ああこれじゃあ、レンポの肩が濡れちゃう――実際のことでもないのに、ティアは固まったまま、そんなことぼんやりと思った。
いくら恋人同士といえど、ティアのそんな心の内まではわからぬだろうレンポが、腕を組んでひとつ頷く。
「やっぱこうだよな~!」
ゆっくりと瞬きをしたティアは、もう一度、じっくりと目の前の図を辿る。
それは、いつもティアの隣にいるのは自分で、自分の隣にいるのはティアだと。たとえなんであろうとも、二人の間を隔てることはありえないのだと。そう、いっている。
そんなことを当たり前のように行動で示したレンポを、ティアは視線で捕えた。
気分よさそうに、レンポは笑っている。
――すごい――
自分はこんなこと考えもしなかった。いくら頭を捻ったところで、思いつくこともなかっただろう。
ああ、どうしよう……。たまらないくらいに、嬉しい。
胸に去来した幸福感に、ティアの目じりが下がる。口元が、雪解けるかのように緩む。
「どうしたんだ?」
急に、ほやんと蕩けるように微笑んだティアをみて、レンポが怪訝そうな顔をする。そんな姿をこうして眺めているだけで、むくむくとレンポに対する愛情が、果てない天を目指して大きく膨らむ。
「レンポ~……!」
「っ!」
感極まったように恋人の名前を呼んで、ティアは衝動的にレンポを胸へと引き寄せて抱きしめる。放り出した箒が、乾いた音をたてて転がった。
炎の性質をもつ恋人は、ほんのりと肌を温めるような熱を帯び、触れた肌に心地よい。ティアは思う存分そのぬくもりを味わうように、すりすりと頬を寄せた。
「うわっぷ! ティア、なんだよ急に!」
そんな行為に対し、当然のように抗議の言葉があがる。だが、それを紡ぐ声には、照れと嬉しさはあっても、嫌だという感情は欠片もみあたらない。それが余計に嬉しくて、ティアはちゅと音を立てて、その白く秀でた頬に口付けを落とした。
「んーん、レンポのこと好きだなぁって思って!」
気にしないで、と続けたティアは、ぎゅうぎゅうとレンポを抱きしめて幸せそうに笑った。もみくちゃにされながら、レンポが諦めたようにふうと息をついた。そして、次の瞬間、ニヤリと笑う。
「ったく……しゃーねぇなあ。でも、よ」
「あ!」
するり柔らかな戒めから抜け出したレンポが、瞬きひとつもない僅かな時間で、少年ぐらいの大きさに変じる。そして、ティアにすらりと細い腕をまきつけた。そのまま引き寄せられれば、あっというまに二人の距離はゼロになる。さきほどとは逆になった状態に、どこか男らしさを滲ませるような色を湛えた金色の瞳が、細くなる。
「こっちのほうがいいと思うぜ、オレはな」
「ふふっ、くすぐったい……!」
お返しとばかりに、今度はレンポが頬をすり寄せ、頬に口付けてくる。羽が掠めていったような感触に声をあげながら、ティアはレンポの背へと腕を回した。
んー、と意味のない音を機嫌よく発しながら、ティアはレンポの肩口に小さな頭を押し付ける。レンポが負けじと腕に力を込める。お互いに幸せ空気を最大限に生産しながら、二人は寄り添い続ける。
と。
「これって『あいあいがさ』だよね!」
「わぁっ!」
本日二度目、またしてもティアは飛び上がって驚いた。
抱きしめあう二人の側に、満面の笑みで窓ガラスをみつめるミエリがいる。私、これ知ってるよー! と、どこか能天気に森の精霊は語る。
こちらもまたいつの間に預言書から出てきたのか。あいあいがさの件もあれど、いまのこの状態をみられるのも恥ずかしい。頭に血を昇らせながら、ティアは身を捩った。いるって気付いていたら、こんなことはしなかったのに! ……たぶん。
「ちょ、ちょっと、ミエリ……! って、ああっ!」
「私も、知ってる……」
「ほう、どのようなものなのですか」
ひょこひょこと、ミエリに肩を並べるようにして、ネアキとウルが姿を現す。しかも、ネアキも意味を知っているらしい。ティアは涙目になって叫んだ。
「は、離して、レンポっ……!」
自分を抱きしめ続けるレンポを見上げ、真っ赤な顔を晒しながらティアはそうお願いする。せめてもう少し抱擁を緩めてくれれば、手を伸ばして消すこともできるだろう。しかし、ニヤリとレンポは笑うだけ。
「だめだ。離したら、ティアはあれ消しちまうだろ?」
「ふぇ~ん!」
見抜かれている。どうやら、精霊たちにはめられてしまったようだ。ティアは眉を下げて、情けない声をだした。
「で、それって何なんだよ」
半泣きなったティアを逃がさないようにしながら、レンポが仲間に問いかける。
「えっとねー、自分の名前と仲良くなりたい子の名前を、こことここにそれぞれ書くの!」
にっこにっこと、まったく悪気なくミエリが傘の柄を挟んだ両側を指差す。こくこくと頷いたネアキが、それに続くように小さな唇を動かした。
「そうしたら、恋する想いが伝わる……らしい」
「女の子たちがよくやるおまじないなんだよね~。ふふ、可愛いくて素敵だよね!」
きゃー、と何がそんなに楽しいのか、歓声をあげながらミエリはネアキに抱きついた。その様子を眺めながら、ウルが細い顎に手を当てた。
「なるほど。つまり相愛の意味をからめて『あいあいがさ』なのですね。片思いは相愛になりたいと願い、恋人同士の場合はさらに仲良くなりたいという想いが込められている――といったところでしょうか」
「!!!」
容赦なく恋心を分析するウルの発言に、ひぃ、とティアは引きつった声で喉を震わせた。
そう改めていわれると、恥ずかしいことこの上もない!
「ティアったら、レンポとこーんなにラブラブなのに、まだ愛が足りないのね!」
くすくすと笑いながら、ミエリがティアの顔を覗き込んでくる。うぐぐ、とティアは口を結んだ。眉を下げ、口をへの字に曲げて、ティアはこれ以上墓穴をほらぬように沈黙を保つ。
レンポからの想いが足りないなんてことはない。絶対にない。だけど、いつだってその心に私を置いていて欲しいとは思うのは事実で――。あれ? ということは、私ってば、無意識のうちに「もっと」って、思ってたのかなぁ?
「おい、ウル!」
ぐるぐるとそんなことを考えていると、ぎゅっとレンポが身体を強張らせて叫んだ。意識を引き戻されたティアは、近くにあるレンポの顔をみる。眉間に皺を寄せて、レンポがさらに目を吊り上げている。
「はい?」
どうかしましたか? といわんばかりに、窓ガラスに近づいていたウルが顔をあげた。
「てめ、何してんだよ!」
「いえいえ、こちら側が空いているのも寂しいな、と思いまして」
空いている側に、ちゃっかりと「ウル」と書いた雷の精霊は、爽やかにそしてにこやかに笑った。ぱちぱちとティアは目を瞬かせる。ぎりっとさらにレンポの瞳が険しくなった。
「だからって何勝手におまえの名前書いてるんだよ!」
「別にいいじゃありませんか、私もティアともっと仲良くなりたいですし。それに、レンポだって自分でティアの隣に書いたでしょう?」
烈火のごとき勢いを、ウルはひょいと肩をすくめ、さらり受け流しつつそんなことを言う。これくらい大目にみたらどうですか、もっとおおらかになってほしいものですね――そんなウルの心の声が聞こえるようだった。
そんなウルに向かって飛ぶ影がふたつある。白く細い腕を前面にさし伸ばしたミエリと、その後ろをついていくネアキだ。
「ウルったらずるーい! 私も私も!」
「私、も……」
「あ、コラ、おめーらもかよ!!」
我も我もとミエリとネアキが窓に詰め掛けた。その様子に、レンポがぎょっとした顔で叫ぶが、止められるわけがない。
そうして、緑と青の後ろ姿が楽しげに揺れて。二人がゆっくりとどいたところにできあがっているもの。
小さな傘の下に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた、一人に人間と、四人の精霊の名前。
ティアとレンポは常に互いの隣にあるように。そしてその二人を見守るように、つかず離れずウルとミエリとネアキがいる。
その可愛らしさに、むずむずと足の先からむず痒さが這い上がってくる。
「……ぷ、ふ……ふふっ、あは、あはははっ」
やがて、ティアは肩を震わせ、声をあげて笑い出す。
ああ、レンポに寄り添うように名を書かれたときも嬉しかった。だが、これはまたそれとは違う意味で、幸せだ。
「ありがとう、みんな」
ひとしきり笑ったティアは、目尻に浮かぶ涙を指先で掬いながらそういった。その笑顔に毒気を抜かれてしまったらしいレンポが、目じりを赤らめながらふんと鼻を鳴らした。
「ちぇ、ティアの恋人はオレ様だってーのによ」
ぶちぶちと、わずかに不満げな色を乗せてそういうものの、ティアや仲間をみるその目はとても優しい。
「いいでしょ? 皆一緒にいると、楽しいもの!」
他意などこれっぽっちも持ち合わせぬミエリにそういわれてしまえば、それ以上何かいうこともできやしない。有無を言わさぬ天然は、やはり最強である。
「……ま、ティアが笑ってくれるなら、オレはいいけどよ」
にか、と晴れ渡る空を連想させる笑顔で、レンポがいう。ティアは頷く。その言葉を全力で肯定する。見回した預言書の精霊たちが、思い思いの笑顔を浮かべている。
ああ、こんな風に笑ってくれるなら。
こうして隣にいて抱きしめてくれるなら。
大切な仲間で家族でもあるみんながいてくれるなら。
それが、一番だ。
「うん! 私もだよ!」
こうして、この家に集い笑いあうティアたちは、今まさにひとつの傘の下にいるようだった。