「ティア、結婚しないか」
少しだけ震えた声で紡がれたプロポーズの言葉は、風に攫われて、あっという間に空へと消えた。
「……はぁ」
頬を染めたまましばし固まっていたレクスは、ゆっくりと息をついた。がしがしと頭を乱暴にかき回す。その仕草には、レクスがいかに悩み迷い、そして苛立っているのかが滲み出ていた。
「もっとこう、別のいいかたってねえもんかな……」
沈みかけた太陽の光溢れる道の上、レクスの長い長い影が落ちている。それが指し示す方向は、藍色に満ちた東の空。ちらちらと星が瞬き、夜風がひんやりと吹きつけてくる。西の空では朱色や金色を撒き散らした太陽が、名残惜しげに大地の向こうへ落ちていく。昼と夜が混ざり合う北の空には、北極星が力強く瞬いている。
美しい色彩に包まれたローアンの下町近辺で、もはや少年ではなく青年となったレクスは、眉間に皺を寄せて腕を組む。恋人へ結婚を申し込むための文句を探して、うろうろとしているその様は、はたからみると微笑ましい。
もちろん、レクス本人は真剣に悩んでいるわけであり、そんなことには全く気付いていない。
レクスは、手にしていた小箱をそっと持ち上げる。ぴったりと隙間なく閉じられた蓋を開くと、柔らかな布の上に、銀細工の指輪がひとつおさまっている。それは、太陽光に照らされて、まろやかな色を帯びて輝いた。
今日、この日のために、数ヶ月前からいくつもの意匠を考え、レクスが持つ技術のすべてを注いで作った、この世界でたったひとつだけの指輪。そして、たったひとりの人のためだけの、指輪。
これをいかにして渡すべきか。
空を見上げ、星を仰ぐ。夜空の中心ともいわれるそれは、ただレクスを見守るだけ。いい考えなど、ひとつもくれそうになかった。
「あ~、やめだやめだ。うだうだ悩んでも仕方ねぇ」
ひとつ舌打ちし、なるようになれと、レクスはそれをポケットにねじこんだ。
恥ずかしさと緊張を誤魔化すように不機嫌そうな顔をして、レクスは歩き出した。
帰る場所はもうすぐそこだ。家までの道すがら、ふと考える。
戦争も終わり、ティアに告白して愛を受け入れてもらってから、もうどのくらいたっただろう。
すでにレクスとティアは子供の領域をとうに抜け出し、互いに大人になった。とくに、ティアはレクスの気持ちなど知らぬ顔で、日に日に美しく成長してきた。いくら恋人といえども、悪い虫がつかないか、レクスは気が気ではなかったものだ。
街の少年たちの、ティアをみる目が変わってきた頃、随分と牽制をしたりもした。それでも、それをすり抜けてティアに接触を図る輩もいたのだが――ティアはそんな誘いにまったく気付くことはなかった。それはもう、相手方に同情したくなるくらいの清々しさであった。
ティアは、ただひたすらに「レクス、レクス」とあどけなく恋人の名を呼んでは、満面の笑みを浮かべ、一直線に駆け寄ってきてくれた。
「まるで、犬みたいだっていってたの、誰だったかな……」
く、とその頃のことを思い出して、レクスは小さく笑った。
そうしてティアが心から慕っていると、その行動で示してくれるたび、優越感を覚えていたことなんて、きっと知らないだろう。
ティアはレクスだけをみていて、レクスもティアだけをみていた。二人の恋に、何者かが立ち入る余地はなく。日々は幸せにここまで紡がれてきた。
だが、このまま心地よさに浸りきっていてはいけない。家族になりたいと願うのならば、きちんとしなければいけないことがある。けじめは必要だ。
いまのレクスは、あの頃とは違う。修行にはいらせてくれた銀細工の工房で、生来の器用さをいかんなく発揮し、若手の中では師の覚えもめでたい。それでも、まだまだなところは多々あるけれど――努力を、認めてもらえ程度の男にはなれた。
家庭を持つなんて、まだはやいかもしれない。しかし、はやくティアと自分の絆を確固としたものとして、世間に知らしめたい。
焦っているのだと自分でもわかっている。だが、好きなのだ。一生自分のそばにいて、笑っていて欲しい。その想いは当たり前で、自然なことのはずだ。
ふ、とレクスは息をついて、のろのろとしか前にすすもうとしなかった足を叱咤した。家は、もうすぐそこだった。
息を整えるよう努めて歩きながら、レクスは古い木造の扉へ手を伸ばす。それは先日修理したため、軋むこともなく、するりと滑らかに開いた。
その先に、ティアがいた。
ふわり、外から家の中へと吹き込んだ風に、ぴくりと薄い肩が揺れるのがみえた。
「お帰りなさい、レクス!」
そして、振り返ったティアが、レクスをその瞳に映して笑った。それは、愛していると心から伝えてくれているような、想いのこもった変わらぬ笑顔。それを一目見たレクスは、言葉に詰まってわずかに目を伏せた。
暖かな家、出迎えてくれる愛しい人。かけがえのないもの。
いつも、いつもだ。どうして慣れることがないのだろう。
家に帰るたび、この扉をくぐるたび。
この胸をかきむしりたくなるほどの憧憬と愛情を呼び起こす、この尊い光景を目にした瞬間に――レクスは柄にもなく、声をあげて泣きたくなる。
「……ただいま」
震える声を、今日もなんとか押さえることに成功し、レクスはそういった。
「今日はね、シチューだよ。もうすぐできるから、待っててね」
ティアは、そんなレクスの様子に気付いているのかいないのか。にこ、ともう一度微笑むと、前に向き直って料理の作業に戻った。
古くからローアンに伝わる美しい旋律の歌を口ずさみながら、明るい色をした髪を揺らす、ティアの後姿をみつめていたレクスは口を引き結んだ。
なけなしの勇気をかき集め、つかつかとティアに近寄ると、ぎゅうと後ろから抱きしめた。
「きゃあっ、ど、どうしたの、レクス!」
上ずった声をあげ、こちらを向こうとするティアの動きを封じる。顔をみたら、絶対にいえない。そのまましばらく抱きしめ続けていると、ティアは次第におとなしくなっていった。何かを察したように、肩に回されたレクスの指に、ティアがそっと手をかける。ぽんぽん、とあやすように優しく二度三度、叩かれる。
ゆっくりと爆発しそうな心臓を宥めるように、レクスは深呼吸を繰り返した。
そして、ポケットにいれっぱなしだった箱を取り出しながら、ティアの細い首に顔を埋めてささやく。
「ティア、受け取ってくれ」
そうして、緊張に汗ばんだ手で握り込んだ箱を、ティアの目の前に差し出した。
「……えっと、うん……?」
それが何かよくわかっていないのだろう。ティアが戸惑った声を漏らしながら、それを受け取る。
「開けてみろ」
「??」
ますます不思議そうな空気が、ティアから溢れる。受け取った細い指先が、すぐさま箱の蓋にかかる。それを背後から眺めるレクスには、それはやけにゆっくりとしてみえた。
箱が、その中に隠されていた銀の輝きをみせる。
ティアが、震えた。それが何かわかったのだろう。そして、それを贈られるということが、どういうことかよく知っているからだろう。
「レクス、レクス……これ、これって」
消え入りそうな微かな声が、呼ぶ。そこの混じる感情は、一体なんだろう。緊張に、それを読み取ることすら、レクスにはできなかった。
「ねえ……レクス……」
いろいろと台詞も考えた。伝えたいこともたくさんあった。
そのはずなのに、それらはもうどこにいってしまったのかレクスの中から消えうせていた。ただそこに残ったのは、ティアに対する気持ちだけだった。
ティアをきつく抱きしめる。ゆっくりと息を吸う。止める。言う。
「ティア、オレなんかでよければ……結婚、してくれないか」
一生で一度だけだ、こんなことを言うのは。そしてその相手も、ティアだけだ。
強くそう思う精一杯の男からの申し出に、だが、相手の女は首を振った。
「……や」
その小さな否定に、レクスは固まる。さきほどまでとの鼓動とはちがう、嫌な動悸に冷や汗がでてくる。心臓が、肺腑が、ひきずり下ろされていくような感覚がした。
ぐるぐると、預言書の事件やらなんやらが頭の中を駆け巡る。裏切り、迷惑をかけ、それでも愛しているといった自分を、ティアは受け入れてくれたけど、結婚まではいたらないということか。だがそれも、自分がしでかしたことを考えれば仕方がない――悪い方向に渦を描きながら落ちていこうとしていたレクスを、優しく掬い上げる声が静かに紡がれる。
「……ちゃんと、私の目を見ていってくれなきゃ、やだ」
髪を左右に柔らかに乱しながら、ティアがいう。きゅ、と抱きしめるレクスの腕に、ティアの指先が食い込む。
「……レクスの言い方も、やだ」
ぽたり、と腕へ次々に落ちてくるものは、ティアの涙だった。
「ずっと、ずっと待ってたのに……どうして、そんなこというの……?」
「……!」
ティアの悲痛な声音と、涙が肌に冷たく滲むにつれ、レクスは気付いた。思わず、歯を食いしばる。
ティアの顔を見ずに、自分のいいたいことだけを言った自分が、情けない。「オレなんか」と自分を卑下し、「よければ」という弱気な単語を付け加えて、逃げ道を無意識のうちに作っていた自分が馬鹿だと思った。
それらひとつひとつは、これまでティアが与え続けてくれたものに対する、裏切りではないだろうか――。
「そう、だな。わりぃ」
レクスはティアの髪に口付けながら、謝った。
ゆっくりと腕を放し、ティアをこちらに向かせて、その顔をのぞき込む。思ったとおり、ティアは大きな瞳に、透明な雫を溢れさせていた。だが、にこりとティアは笑った。その拍子に、ぽろぽろとさらに涙が零れていく。
泣いているのか、笑っているのか。どちらともとれるその表情が、これまでにみたどのティアよりも可愛らしく美しいと、レクスは思った。
レクスは箱から指輪をつまみあげる。力なく下がっていたティアの、しなやかな左手をとる。そしてその細く長い薬指に、銀の輪を静かに滑り込ませた。
思ったとおり、それはティアの指にしっくりとおさまった。レクスは真面目な顔で、ティアを真正面からみつめた。
「ティア、結婚しよう」
ぼろ、と一際大きな涙が、ティアの頬に落ちて跳ねる。それは床板の上に、いくつもの水玉模様を描いた。ティアが、頷く。
「うん……うん……!」
了承の言葉とともに、ティアは手を精一杯に伸ばして、レクスに飛びついてくる。レクスは、それをしっかりと受け止めた。
「ありがとな、ティア」
ありったけの感謝をこめてそう囁いたレクスの眦から、涙がひとつ頬を伝った。
やがて、固く抱き合ったレクスとティアの、互いの瞳が平常ちかくの状態に戻った頃。
ぐすん、と鼻を鳴らしたティアが、レクスを見上げた。
「えへへ、レクスってば目が真っ赤」
「おまえもだろ」
いいものをみたというように、ティアが楽しそうにそういうから、レクスは気恥ずかしくなって横を向いた。泣き顔をみられるなんて、男としては情けない限りだ。だがそれも今日だけだ。
その顔をじーっと見つめながら、ティアが不思議そうに首を傾げる。
「レクスって、ときどきすごく自信なさそうな顔するよね。もしかして、私が断るとかって思ってた?」
むむ、レクスは眉間に皺を寄せた。正直に答えるようにと促す綺麗な瞳に、いたたまれなさを覚える。
ぺた、と頬を触られて、レクスは観念した。ふう、と大きく息をつく。
「すこし、な」
ティアが、またそんな顔をして、と言いながら、ころころと笑う。
「世界でいちばんレクスが好きなのは、私なのに」
「んなこと……知ってる」
そう、知っている。知っているけど、不安になる。知っているからこそ、自分でいいのかと疑問に思った。だが、それはティアの愛を疑うことなのだと、レクスはさっき思い知った。
「知ってるのに、あんなことしたりいったりするなんて意地悪」
むにむにと頬を抓られて、少々痛い。なんでもないというような顔をしているけれど、ティアも気にしているのかもしれない。
レクスは、ティアの手を無理やりはがすと、そっとその手のひらに口付けた。ゆっくりと瞳を開いて、ちらとティアを見下ろす。ティアが、きょとんと目を瞬かせた。
「でも、そういうオレも好きなんだろ?」
ティアから与えられた自信を滲ませた瞳で、レクスは力強く問いかける。
「――うん、そうだよ。レクスが、いいの」
とろり、蜂蜜がとろけるような、そんな笑みを浮かべたティアが頷く。そのまま、レクスの胸に頬を寄せて、ティアはうっとりと目を閉じた。
「大好きだよ、レクス。これからも、私のそばにいてね」
「ああ、あたりまえだろ。なんつーか……夫婦になるって、そういうことだろ」
もっともっと、世界でただひとりの君を愛し、ともに生きる。
そんなことを思うようになった自分が、すこしだけ不思議だった。ただ、自分がそうなったのも、ティアのおかげだということは、わかる。
レクスは照れくさそうに笑いながら、ティアの細い体にやんわりと腕を回す。
ティアが、細い首を傾ける。じっとレクスをみあげて、子どものように無邪気に笑う。
「じゃあ私、レクスのこと、もっと大事にするからね!」
ぶ、とレクスは小さく噴出した。
満足げなティアの顔に、己の頬をあわせながら、込み上げる笑いに肩を震わせる。きゃあ、と愛らしい声をひとつあげたティアが、レクスの頬に応えるように擦り寄ってくる。
「そういわれると、男としての立場がねぇよ」
背に回された、ティアの細腕に力がこもるのを、レクスは感じた。たまらなく愛おしい。
「そう? 私たちらしいと思うんだけどなぁ」
「……そうかもな」
きっと、自分は一生ティアにはかなわないのだろう――これまでも、そうであったように。
そんな自分に出来ることは、ただティアを想い、守ることだともう一度魂に刻むよう、心の中で呟いて。
その誓いを、未来の妻の柔らかな唇に封じるために、レクスはそっと顔を寄せた。