お忍びというものは楽しいものだと、ヴァルドはこの年齢になってはじめて知った。
冬らしい雲に覆われた空の下、足早にローアンの街の中を通り過ぎる。北風の冷たさが頬を打つ。銀の髪が弄ばれる。
身に纏うのは、秘密裏に軍用のコートに手を加え、一般市民に紛れやすいようにしたもの。もちろん、身を守る工夫は忘れてはいないが、一目見たくらいでは、誰もヴァルドだとは気付かない。城を抜け出してから、公園、中央街と通ってきたが特に見咎められることはなかった。
こんなところをヒースにみつかったならば、顔をしかめてお説教になるのは必至だ。もしかしたら今頃は、完了させた仕事の書類と、そのうえに置いた書おきをみて、こめかみに青筋を立てているかもしれない。
皇子としての立場とか、以前のような暗殺の懸念等々、少し前なら当たり前だと頷いていたことを、ここ最近聞かされることが増えた。その原因が自分にあることは、よくわかっている。だが、今のヴァルドにとっては、それを乗り越えてでもいきたい場所がある。会いたいひとがいる。
ヒースにはすまないと思うが、魔王という闇の中に押し込められていた己を解き放った光に焦がれるのは、仕方がないことだ。
脳裏に春の陽だまりを思わせる笑顔を思い浮かべ、思わず小さく微笑んだヴァルドは、首に巻いたワインレッドのマフラーを口元まで引き上げつつ、下町へと足を踏み入れた。
フランネル城を中心に、円形の階層を成すローアンの街の外周部分にあたるそこに、ヴァルドの恩人が住んでいる。否、帝国と王国、そして世界に生きるものすべての恩人であるといってもいい。
預言書に選ばれた、少女。
英雄と呼ばれるに相応しい、素晴らしい功績をあげてきたというのに、欲をみせることもなく、相変わらず質素な住まいで暮らし続けている。
ヴァルドがこっそりと訪れるようになってから、こうしてこの扉の中をうかがうようにノックをするのは、何度目だろう。
心躍る乾いたその音の響きに、家主は軽やかに応えてくれる。そのたびに、ヴァルドはなんともいえない幸せな気持ちになるのだ。
「はぁい、っと――、お、お、お……!」
ふわ、と暖かな室内の空気とともに、顔を覗かせたティアの表情が固まる。
「やあ、お邪魔するよ、ティア」
そんなティアに笑顔で会釈すると、ヴァルドは家の中へと滑り込む。
「今日は風が冷たいね」
すれ違いざまにそう告げる。
「え、ええっと、はい、そうですね……って、そうじゃありません! もう、皇子ったら!」
暖炉の前にいき、いそいそとコートを脱いでいると、はっと意識を取り戻したらしいティアが扉を勢いよく閉めてから駆け寄ってきた。
「ヒース将軍にお忍びはやめるようにって、この前きつくいわれてたじゃないですか!」
「ああ、そうだったね。あのときティアもいたね」
「っていうか、あのときも私の家に来ていて、追いかけてきた将軍に怒られていたんじゃないですか……」
そのときのことを思い出したのか、かっくりとティアが肩を落とす。
感情が素直に表れるティアの仕草や表情に、くすくすとヴァルドは声を零して微笑む。その楽しそうな様子に、む、とティアが唇をわずかに尖らせた。ほんのりと頬が赤い。
「もう、お仕事大変で息抜きしたいのはわかりますけど……あんまりヒース将軍を困らせちゃだめですっ」
「そうだね。でも、私はそれでも君に会いたいから」
ほんのり色づいていたものが、ばっとティアの顔全体を覆っていく。耳が熟れて落ちそうになるまで、数秒ももたなかった。そんな顔をして、あわあわと目を泳がせるティアは、まったくもって可愛らしい。
「う~~……」
「ヒースには、あとでちゃんと怒られるから。どうか君は怒らないでほしい。笑ってくれると、私はとても嬉しいのだけれど」
頬に手をあて、俯くティアの顔を覗き込むようにしながらそういうと。ちら、と伺うようにティアがヴァルドをみた。それにあわせて、にっこりと微笑むと、ティアの肩から力が抜けた。「もう、しょうがないですね……」、という小さな呟きとともに、花開くようにティアが笑う。
「わかりました。ちゃぁんと、あとでヒース将軍に怒られてくださいね」
「ああ、わっているよ」
「あ、座ってください。今、お茶を淹れますから」
くるり、楽しげな空気を振り撒きながら、ティアがティーセットのある戸棚へと向かう。
たしなめてきても、結局はヴァルドの訪問を喜んでくれている。全身でそれを表現するティアの後姿をみつめながら、ヴァルドはゆっくりと質素な椅子に腰掛ける。王族として使うものにはありえない、その軋む音さえ心地よい。赤々とした炎、暖められた空気、ゆるりとひろがる紅茶の香り、そしてなによりティアがいる。
ふ、と自然に滲む笑みがおさえられない。
国のためにつくす日々も、たやすいことばかりではない。その苦労も、疲労も、ここにくるだけで癒される。
ほう、と息をついたところで、ヴァルドの前に白いティーカップがそっと置かれた。
「ありがとう、ティア」
「……」
ゆらりと波打つ紅茶の水面を一瞥して、顔をあげると。ティアが曇った顔をしていた。どうしたのか、と思う間もなくティアがその小さな唇を震わせた。
「皇子……あんまり、その、頑張りすぎないでくださいね」
「……!」
胸元で細い指を絡ませながら、ティアが続ける。
「ええっと、なんだかとっても……お疲れみたいだなぁって、その、思ったので……」
最後のほうは、ごにょごにょと口の中へと消えていった。
そこまで、あからさまではなかったと思うのだが。ティアにはなにか感じるものがあったらしい。
ヴァルドは驚きに見開いていた紅の瞳と、和ませた。
「君は、すごいね」
「い、いえっ、あの、別に……! 勝手に、そう思っちゃっただけで!」
もしかしたら間違えてるかもしれないし、そうだったら恥ずかしいですし、と手を振りながら早口でそういうティアに、ヴァルドは笑いが堪えられない。
「大丈夫だよ、あたっているから」
ふう、と息をついて淹れてもらったばかりのお茶に手を伸ばす。
洗練された王宮のものとは、やはり違う。だが、ふんわりと心まで温かくなるような、そんな味がした。
かた、と小さく音をたてて、ヴァルドの真向かいにティアは腰掛けた。
じっと心配げな色が次々と浮かんでは、その大きな瞳の奥に落ちて消える。
なんと声をかければ励ますことができるだろう?
そんな風に悩むティアの心の声が、聞こえてきそうな気がした。
「この柔らかな空気の満ちる君の家を訪れて、穏やかな君の顔をみて。こうして君のお茶を飲む。それだけで、私は元気になれる」
頬に影をつくっていたティアの長い睫が、ぱっとはじかれたように持ち上がる。
「いつもありがとう。ほんとうに、助かっているんだよ」
「は、はいっ」
えへへ、とティアが嬉しそうに笑った。
「私も、皇子にお会いできて、嬉しいです」
「そういってもらえると、やっぱりお忍びも悪くないと思ってしまうよ」
もう、またそんなこといって、とティアがころころと笑った。ヴァルドも、笑う。
心地よい空気が、二人の間に生まれるのがわかる。
「それから、今日来たのは君に会いたかったのももちろんだけれど――実は、誘いにきたんだよ」
そう、これが今日の本題。こほん、とヴァルドはわざとらしく、自分の意思を固めるように咳払いをした。
「え?」
目を丸くするティアを、真正面からみつめる。
「一度、私の国に――ヴァイゼン帝国を、訪れてはくれないだろうか? 素敵な冬の祭があるんだ」
昨夜考えた言葉を一言一句間違うことなく言い切って、ヴァルドは知られぬように小さな息を吐き出した。
それには気付かないティアが、目を瞬かせる。
「お祭り……ですか?」
ぴんとこないのか、あどけなく繰り返す少女に頷いてみせる。
「そう。この季節に執り行われる、伝統的な祭りなんだ」
そういいながら、すっとヴァルドは、テーブルの上に無造作に置かれていたティアの手をとる。
「前に、一度帝国に戻る予定だといったことがあったね?」
「ええっと、この前こられたとき、すこし伺いました」
ん、と頷くティアに重ねるように、ヴァルドは続ける。
「すっかり忘れていたのだけれど、そのときにちょうど執り行われるんだ。だからよければ、私に同行して帝国を訪れてほしいと思って。ぜひとも君に、みてもらいたい」
だから、誘いにきたんだ、と微笑む。
「は、はあ」
包み込まれる指先が恥ずかしいのか、長い睫を伏せてティアが口ごもる。ヴァルドは、そんなティアの目を覗き込むように身を乗り出す。
「その祭はね雪と氷を利用して像を造り、その美しさや独創性を競うものなんだ。夜には篝火が灯されて、とても幻想的な光景になる」
ティアの目がゆっくりと瞬きを繰り返す。その奥に煌く光に、興味を覚えたようだとヴァルドは察した。
「父にも、世話になった恩人を招待したいと、先日本国に送った文書と一緒にだした手紙で、話は通してあるんだ」
「えっ」
知らぬ間に進んでいた話の内容にひどく驚いたらしく、ティアが飛び上がった。
父の名をだしたのは早急だったかと、ヴァルドが内心焦っていると。
おろおろとこちらが申し訳なるくらいに狼狽したまま、ティアが口を開いた。
「お、皇子のお父さんって、えっと帝国の王様ですよね……?」
正確には皇帝であるのだが、意味的にはそう間違いはない。ヴァルドは訂正せずに、そのまま頷いた。
「ああ、もちろん。父も快く了承してくれたよ。楽しみにしていると」
あうあう、とティアが口を開け閉めして項垂れる。
「わ、私なんかがいってもいいんでしょうか……?」
もじもじとしながら、ティアは言う。
「お祭り、とってもみてみたいです。でも、私ってすっごーく庶民ですし、皇子にそんな気を使ってもらうような身分でもないし……」
「そんなことはないよ」
ぎゅっとティアの手を両手で包み込み、ヴァルドは微笑む。
「君は私を魔王から救ってくれた。わが国とカレイラ王国の和平条約を結ぶ際にも尽力してくれたじゃないか。私は、とても君に感謝しているんだ」
だが、ここでヴァルドはふと思った。もしかして、こんな風に誘われること事態、ティアにとって好ましくなかったのではないか、と。
自分のそんな考えに、しゅんとヴァルドは眉を下げた。こちらの意見ばかり優先して、ティアのことを考えていなかった。彼女にだって都合というものはあるのだから。
「すまない。もしかして――迷惑、だったかい?」
恐る恐る確かめる。
「いいえっ」
ぶんぶんとティアが勢いよく頭を振った。やわらかな髪が舞う。
「すごく、すごく嬉しいです……!」
必死なティアの言葉に、ヴァルドは顔を輝かせる。
「じゃあ、、私と一緒に帝国にきてくれるかい?」
「は、はい……! その、私なんかがお邪魔してもいいのなら……」
きゅうと、ティアがヴァルドの手を握り返してくれる。
「邪魔だなんてとんでもない。私も嬉しいよ、ティア。君がわが国にきてくれるなんて」
そういって、ヴァルドはティアの小さな手を持ちあげ、その指先に口付けた。
「お、お、お……!」
皇子! といいたいらしいが、まともに言葉にできない真っ赤なティアに、やさしく笑いかけて、ヴァルドは言う。
「これで、父にも君を紹介できるよ。ありがとう」
「あ、はい……! そうですね、ちゃんとご挨拶しなきゃ」
あたふたとしたまま、ティアが小さく頷く。
だがここに、二人の間に小さな誤解が生まれたことにティアは気付いてはいない。
ティアは言葉どおりに、「ヴァルドを救い、両国の平和のために尽力したカレイラの英雄――すなわちティアのこと――を、父に紹介したい」と取った。
「これまでにあったいろいろなこと……お話したほうが、いいですもんね」
その証拠に、ティアは少しだけ遠い目をして、誰に言うでもなくそう呟いている。
何事もきちんとしたいヴァルドのこと、きっとこれまでの経緯を当事者であるティアからも説明してほしいのだろうと、ティアは考えているらしい。
しかして、ヴァルドの希望や本心を追加した場合、こうなるのである。
ヴァルドを救い、両国の平和のために尽力したカレイラの英雄――すなわちティアのこと――を、「生涯の伴侶として迎えるために」父に紹介したい、となる。
概ね、ティアのことを把握しているヴァルドは、ティアにはそんなつもりはないだろうことに気付いているが、あえて訂正するつもりはない。
だって、指摘してしまったならば、この恥ずかしがりやで人の気持ちをこれでもかと慮る可愛らしい少女は、それこそ背を向けて逃げ出してしまうに違いない。
それは困る。とても困る。色よい返事を覆されてはたまらない。
だから、いまはこのままで。
だってあと幾日か我慢すれば、ティアは見知らぬ帝国の地にたっている。そのときに告げてしまえば、心を決める後押しになるだろう。
ティアからの自分への気持ちに確信があるからこその、荒業だった。
「ああ、本当に楽しみだよ、ティア」
「はい! 私もです!」
ティアはヴァルドの思惑を知る由もなく。ヴァルドはティアの誤解を解くつもりは毛頭なく。
手を握り締めあって、二人は微妙かつ確実にすれ違ったまま。怒り七 割呆れ三割の感情で、ヴァルドを追いかけてきたヒースが家に飛び込んでくるまで、にこにこと幸せそうに笑いあっていた。
ことの次第を知ったティアの、言葉にならない叫びが帝国の城に響き渡るのは、それから二週間と少し経った――帝国の首都が祭りにわき立つ、とある寒い冬の日のことであった。