むすっとした顔で、ティアがそっぽを向いている。ふわりと全身が包まれていると錯覚するようなソファに腰掛けているというのに、その柔らかさを堪能するつもりもないようだ。
そんな横顔も可愛いといったら、余計に怒ってしまうだろうかとヴァルドはふと考える。
「ティア、機嫌を直してくれないか」
そっと近づいて、声をかけてみても、頑なにこちらを向こうとはしない。
困ったね、とヴァルドは小さく微笑んだ。
彼女の視線がある先には、雪降る灰色の景色。つい先日までいたカレイラよりも、なお冬の色濃いヴァイゼンの空。幼い頃から見続けたその鉛色も、彼女がいれば気分を滅入らせるものにはなりそうにもない。
ティアがいるだけで、どんな景色も素晴らしく思える。なんて素敵なことだろう。ふむ、とそんなことを考えていると、ティアが目元を鋭くしながらこちらを向いた。
「やっとこっちを向いてくれたね、ティア」
ヴァルドは努めて柔和に顔を綻ばせてみせた。だが、ティアの表情は変わらない。
「……皇子……、どういうことですか」
地の底から響くような、どこか空恐ろしさを秘めた声が紡ぐ台詞。だが、ティアの声は天上に住むという天女にも勝ると信じているヴァルドにとっては、可憐なものでしかない。
「この部屋が気に入らないのかな?」
視線をめぐらせる。あまり物が多いのを好ましく思わないヴァルドの趣味を反映し、この部屋は実に簡素にまとめられている。だが、室内に設えられた家具やさりげなく置かれた美術品の類は、どれひとつとっても最高級品である。
ただ、色気も可愛さもないことは確かである。女の子であるティアには、もっと柔らかな色合いのお菓子で作られたような部屋のほうがよかったかもしれない。
いまから用意させたら、どのくらいかかるだろうか。そんなことをヴァルドが考えたとき、ティアが頭を抱えた。
「いえ部屋のことじゃ……あ、そういえば部屋のこともあったっけ……ええっと、気に入るも気に入らないもありません! こんな広くて豪華な部屋なんて、落ち着きません!」
一度はヴァルドの言葉を否定しかけたものの、「そういえばそれもあった!」というようにティアは訴えてくる。
「そうかい?」
ヴァルドにしてみれば華美というには程遠い。だが、ティアがいうならそうなのだろう。
「わ、私、やっぱり今からでも街で宿をとりますっ!」
「無理だよ。お祭りの日に空いてるところなんてまずないはずだ」
ヴァルドのもっともな言葉に、ティアは唇を引き結んだ。
「で、でもでも……!」
それでもなにかいおうとするティアの、頬にそっと指先を滑らせて、ヴァルドは微笑む。
「それに私の客人である君を、城下にいかせるなんてできない」
「お言葉は、とっても嬉しいです。でも、私がこの部屋にお泊りなんて……何か壊したり傷でもつけたりしたらと考えると……」
ティアが胃の付近を押えた。今、自分がいった言葉どおりの未来を、予想でもしたのだろうか。
「大丈夫、問題はないよ。君はもう、私の伴侶に迎えたいとして城内の者へ紹介された身なのだからね。本当に、好きに使ってくれて構わない」
「そ、それは皇子が勝手に! っていうか、それが一番問題です!」
到着後、皇帝へと謁見したときのことを思い出したのか、ぶるぶるとティアの握った拳が震えている。真っ赤な顔と、いまにも零れ落ちそうな涙を湛えた瞳が美しい。
「ご挨拶にきただけなのに……どうしてあんなこと言ったんですか……!?」
大きな瞳に、僅かに涙の膜を張り、ティアがヴァルドの真意を問いただす。
「挨拶じゃないか。結婚します、というね」
これ以上ない幸せいっぱいの笑顔で、ヴァルドはティアの肩を引き寄せて囁く。びくり、ティアの体が跳ねた。近づくヴァルドを突っぱねるように腕を伸ばし、さらさらと髪を流しながら首を振る。
「……わ、たしは……そんなつもりじゃ……!」
耳まで真っ赤になって俯いたティアの頬に手を添えて、優しく上向かせる。
「君も、楽しみにしていると頷いてくれたじゃないか」
悲しげな色を滲ませ目を伏せて、互いのすれ違いに気付きながらも訂正しなかった、あの日の言葉を思い出させるように、ヴァルドは言う。
「う、うぅ~……そういう意味だって、思ってなかったんですぅ……」
思わぬ方向に展開した事態に混乱し、ついてこられていないティアが本格的に泣きそうな顔をする。ヴァルドは、赤い瞳で射抜くようにティアの瞳を見据えた。
「ティア、そんなに嫌だったのかい? 私の言葉は、少しも嬉しくはなかった?」
「っ、」
ティアが、こくりと息を飲む。
「私は君のことが好きだ。君も、私のことを好きだろう? 私は、そう思っているのだけれど」
でなければ、あんな笑顔を自分だけに向けてくれることはあるまい。
違うならば、あんな声で自分の言葉に応えてくれることはあるまい。
んく、とティアが言葉にならない声を漏らして、大きく見開いていた瞳をきつく閉じる。
真っ赤な顔と、目尻に浮かぶ透明な涙。震える全身は、いつのまに己の心を知られていたことを恥じいっているようにみえる。
だが、その姿はまるで口付けを強張っているようで。ついつい啄ばみたくなるのを堪えながら、ヴァルドはティアの小さな耳へと唇を寄せた。
「だから……ね、ティア。観念するといい」
そうしたら、この世界で誰よりも何よりも、君を愛して――君だけを、可愛がろう。
そう囁くと、ゆるりとティアが長い睫を持ち上げた。
「……ほんと、ですか?」
「君に嘘はつけないよ」
不安げなティアを安心させるように、小さく微笑んだ瞬間。どんと軽い衝撃がヴァルドの体を襲った。
勢いよくとびつかれ、一瞬驚いたものの。ヴァルドは伝わってくるティアの体温に、うっとりと目を閉じながら、細い体を抱きしめた。背をそっと撫でる。
「不意打ちのような真似をして、悪かったとは思っているよ」
ぶんぶんとティアが頭を振る。
「でも、私には君が必要だから」
こくこくとティアが頭を上下させる。
「ずっと、一緒にいてほしい。ね、ティア」
わずかに体を離して、互いの顔を見つめる。
ティアが熟れた林檎のような顔で、泣いているように微笑んだ。
「いろいろと、順番がおかしいような気がしますけど……そこには目を瞑ります。だって私も、皇子の側に、ずっとずっといたいですから」
涙の後の残る頬に、ヴァルドはそっと唇を寄せた。
「まずは家族に迎えたい恋しい人へ、自分の想いを伝えるべきだったんだろうけど……絶対に、君を逃がしたくなかったからね」
気付かぬうちに外堀を埋め、逃げられないようにして。そうしてようやくティアへの願いを口にした自分は、相当臆病なのかもしれない。でもそれも、ティアは許してくれた。
「さっき、少しも嬉しくなかった? っていいましたよね」
「ああ」
ぎゅ、とティアの細い腕に力がこもる。
「ほんとうは、とってもとっても嬉しかったんです。すごく驚いて、泣きそうで、でも嬉しかったこと――私、絶対に忘れません」
ふわ、と雪とける春のように、温かくティアが笑う。
「……ティア」
もう一度、体も心も重なるように抱きしめる。
そのまま、互いに無言のうちに幸せを噛み締める。ぱちぱちとはぜる暖炉の火、そして響きあう二人の鼓動が心地よかった。
そうしていたのはどのくらいだったのか。決して短くはない、心が結ばれた余韻がみせる夢のようなひと時は、どぉんと大きな花火の音で醒めた。
腕の中にいるティアを見下ろせば、不思議そうな顔をしていた。だが、ヴァルドには聞き覚えのあるもの。生まれてこのかた聞き続けてきた、祭りの始まりを告げる合図。
「もうこんな時間か。君といると、時間の流れを忘れてしまうよ」
「……ふふ、私もです」
心からの言葉に、ティアかほんのりと眦を染めて俯いた。そんなティアの肩を抱き、一緒に立ち上がる。
「さ、ティア、仕度をしよう」
「え? え?」
そのまま、ぐいと部屋の奥にある扉へ向かう。精緻な百合の細工が施された扉は、誇りひとつなく磨きこまれている。
戸惑うティアに微笑みかけながら、ヴァルドはドアノブを回して扉を開け放った。
「……っ!」
ティアが、ぎょっと目を見開く。その大きな眼の先にあるのは、部屋の隅から隅まで続く服の行列だ。
「お、お、お、皇子……? その、部屋いっぱいにある、こ、この服は……」
ここまでくれば、さすがのティアも察することができたのだろう。若干の青い顔が、ひきつった笑みを作る。
「ここにあるものはすべて君のためのものだからね。好きなものを着るといい」
ひぃ、とティアが悲鳴を飲み込んだのがわかった。かといって、それを聞き始めるとおそらくきりがないだろうことも、ヴァルドはよくわかっていた。
「だから、君のものだよ。――誰か、ティアの着替えを」
有無を言わせぬ笑顔でティアにもう一度いい含め、その二の句を奪ったヴァルドは、『誰か』に向かって声をかけた。
「はい」
「ひゃっ」
ヴァルドの声に応え、すっと音もなく現れた複数の女官に、ティアは飛び上がって驚いた。気配もなく静かに控えていただろう女官たちは、ティアのそんな反応にも動じることなく優雅に一礼すると、滑るように近づいてきた。
「ではこちらへ、ティア様」
「え、ちょ、お、皇子ー?!」
「ではよろしく頼むよ」
にこにこと、ヴァルドは悲鳴のような声をあげながら連行されていくティアを見送る。
きっと、この上なく可愛らしくティアは着飾られるのだろう。そんな少し先の未来を想像しつつ、自分も着替えるべく踵を返した。
部屋にいた頃は、雪が降っていたというのに。
まるで祭りのため、いや自分とティアのためにように、雪は止んだ。世界に選ばれたティアなのだから、こういったこともありえるのかもしれない。
白い息を吐き出しながら、黒くなった空を見上げる。そこに星たちはない。厚い雲の向こうで、きっと瞬いているのだろう。魔王の闇に囚われて、絶望にもがくことさえできなかった自分の目の前に現れたティアの輝きに、希望を見出したときのごとく、静かに強く。
「お、お待たせしました……」
ふと、救い出されたときのことに思いを馳せていたヴァルドの背後、楚々として響いた声に振り返る。そして、ヴァルドは目を細めた。
ふわふわとした真っ白いコート、たっぷりとした白い帽子、細い足を包み込むブーツ。帽子に付けられた、雪の結晶を模した飾りの貴石が、きらきらと輝く。
もじもじとしながら、ヴァルドの言葉を待つティアが、いじらしくてたまらない。
「ああ、ティア。とても可愛いよ」
上品さと清楚さを兼ね備えたティアの出で立ちは、予想通り、ヴァルドを満足させるにたるもの。心からの賛辞だった。
「あ、ありがとうございます……」
ふわ、と頬を紅色に染めて、襟元の毛皮に埋もれるようにしながら、ティアがはにかむ。
そんな様子に、ふ、と微笑みながら、ヴァルドはティアへと腕を差し出した。雪避けの帽子を目深に被ったヴァルドを見上げながら、ティアはおずおずとそこへ白い手袋に包まれた手を絡めてくる。
雪の妖精。そう形容するにふさわしいティアを、優しくエスコートする。
今日は、城の一角にある庭が一般へと開放され、城内の者たちが作った雪像が立ち並ぶ。それを見学しにきた街の人間たちの間へ、するりとまぎれたときティアが小さく首を傾げた。
「その、いいんですか? 私たち、二人きりで外出しても」
ヴァルドが、立場ある身であることを心配しての言葉なのだろう。
「大丈夫だよ。ティアは、わからないかもしれないけれど、ちゃんと護衛がついてきているから」
「そうなんですか?!」
驚いて、きょろきょろあたりを見回すティアの仕草に、笑みが零れる。自分の腕に絡まるティアの手に、そっと自分の手を重ねる。
「さあ、街へいこう。君に、たくさん見せたいものがあるんだ」
「はい!」
元気よく頷いたティアを連れ、ヴァルドは城を後にする。
厳しい冬を過ごし、また軍事国家でもあるヴァイゼン帝国は、民もまた質実剛健と質素を旨としている。しかし、この日ばかりは違う。皆、冬の寒さを忘れたように明るく笑いあい、酒を飲み、街中に溢れる作品たちを見て回る。
家々の前には、家族の共同作品の雪像が並ぶ。各通りには、そこに住む者たちから選ばれた者たちが力を尽くした大掛かりなものがそびえている。通りごとのものは都の住人たちの投票によって、祭り一番の作品が選ばれるということもあり、素晴らしい出来のものが多い。
幻想種と呼ばれる竜や獣を模したもの。冬の女王をかたどったもの。絵本で人気のある主人公。可愛らしい雪だるまの親子。歴史上の人物。
どれもこれも、作り手の楽しい思い出と、見る人に楽しんでほしいという想いがこもっていた。
最初は見知らぬ街と、ヴァルドとの行動に大人しかったティアだったが、いつの間にか祭りの雰囲気に飲まれ、積極的にヴァルドをひっぱっていくようになっていた。
あれもみたい、これもみたい。あれ可愛い、これも素敵――くるくると表情を変え、すっかり満喫するティアに、ヴァルドは笑みが絶えなかった。
一通り街中をみた二人は、小さな川にかけられた橋の上で足を止めた。
「うわぁ……! ここも綺麗ですね……!」
ティアのいうとおり、川沿いに等間隔におかれた小さな雪灯篭の中、ちらちらと淡いオレンジの光が揺れる様は、幻想的だ。
ぽーっとそれに見惚れるティアの後ろで、護衛から温かな飲み物の入ったカップをふたつ受けとる。す、と影が闇にまぎれるように護衛が姿を消したことを確認し、ティアのもとへと歩いていく。隣に並んで、はい、とそれを手渡した。
「わ、ありがとうございます」
いつの間に買われたんですか、という無邪気な質問にヴァルドはあいまいに微笑んだ。毒見済みである安全なものを、護衛に用意してもらったとはさすがにいえない。
「あの、」
ティアが、カップからの湯気の向こうで、微笑む。ヴァルドは、目を細めて続きを促す。
「お祭り、ほんとうに素敵です。連れてきてくださって、ありがとうございました」
「喜んでもらえて嬉しいよ。君なら、きっと気に入ってくれるだろうと信じていたからね」
氷色をした川にかかる橋の上、笑みを交わしながら暖かなもので喉を潤す。すとんと胃の中に落ちた熱が、ゆるりとたゆたう。ふ、とそれを逃がすような息をつきながら、ヴァルドはティアを見下ろした。
「私のほうこそ、ありがとう。私を許してくれて、そばにいてくれるといってくれて」
「!」
びく、とティアが肩を跳ねさせ、じんわりと頬を染める。
「今日は、私の人生の中で最良の日だ。君のおかげだよ、ティア」
「は、はぃ……」
冷たく張り詰めた大気に、ティアが応えが溶けていく。城での抱擁でも思い出したのか、恥ずかしげに瞳を伏せる。
「どうか、これからもよろしく」
ヴァルドがにこりと微笑めば、こくこくとティアは頷いた。
落ち着こうとするためか、ティアがカップに唇をよせる。だが、冷えた体には熱すぎるのか、少しずつ口にしていく。その様が、可愛い。ふと、カップの縁に押し当てられる唇が、やけに目に付いて悪戯心が湧きあがる。
この国の政に携わるものとして、自分の身を律するよう心に決めているのだが、ティアに関してはそれも緩んでしまう。さく、と雪の積もった欄干に、ヴァルドは手にしていたカップを置いた。
そして、ティアを包むようにマントを広げる。
突然のことに、え、とティアがヴァルドを見上げてくる。その瞳に吸い込まれるように、柔らかな唇に引き寄せられるように、ヴァルドは背をかがめて顔を寄せる。
「ティア、誓いの練習でもしようか?」
悪戯っぽい口調で紡いだその言葉に、ティアが慌てふためく。
「お、おうじ……! だめです……!」
なにをされようとしているのかわかったらしく、ティアが顔を真っ赤に染めながら言う。
「ティア、あまり激しく動いては、飲み物がこぼれてしまうよ?」
声をあげ、身を捩ろうとするティアに、ヴァルドは意地悪っぽく囁く。とたんに、ぴたっと動きを止めるティアの素直さに、ついつい喉の奥で笑ってしまった。
「ご、護衛の人もいるっていってたじゃないですか……」
おろおろと目を伏せて彷徨わせ、ヴァルドと視線をあわせようとしない。
「大丈夫――わからないよ」
恥ずかしげに、もじもじとするティアの細い顎をつまむ。上向かせた顔に、かぶさるようにして深く口付けた。飲み物の、甘い味がする。
この布一枚越しに、たくさんの人が行き交う場所なのに、こうして熱を分け合う口付けを交わしている。とてもいけないことをしているような気分に昂揚してきたせいか、心臓がひどく跳ねた。
「……ティア、愛している」
遠くない未来に、花嫁としてヴァルドの手をとってくれるティアへ、最大限の心を込めて囁いた。気の利いた言い方を考えるのも惜しかった。ただ、伝えたかった。
ふるり、ティアの体が寒さのせいでなく、震えた。
もう一度、それを奪うように口付ける。
吐息さえも交し合う二人の耳には、人々の喧騒も、今はただ遠かった。 唇の結びを解いて、ぼんやりとしているティアを見下ろす。ずっとみつめていたいけれど、そろそろ城に戻らなければいけない。
「いこう、ティア」
そっと外套を下ろし、手を差し出す。ん、と首筋まで真っ赤にして頷いたティアが、柔らかに握り返してくる。
帝都の街並みへ、ゆらゆらと二人で歩きだす。寒い風も、静かに降り始めた雪も、すべてが心地よく美しいのは、ティアがいてくれるから。
次の年も、またその次の年も。こうして雪の祭りを楽しめるように。
そのために自分にできることはなんでもしてみせよう――ティアと、自分のために。
ヴァルドはそう想いながら、大きく息をつく。
熱を帯びた吐息は、一瞬だけふわりと丸い形を作り、消えていった。