無垢の守り手

AVALONCODE6周年企画作品 ぺっぺ様よりのリクエスト

 カレイラ王国とヴァイゼン帝国。
 帝国の王国領内への侵攻によって勃発した戦は、当初、帝国側が優勢であった。
 しかし、王国に一人の英雄があらわれたことにより、情勢は覆される。
 奇跡の力を秘めた預言書を携えた少女により、カレイラ王国首都のローアンまで攻め入っていた帝国軍が降伏。
 そのとき、なにがあったのか。隠された真実を知るものは、ほとんどいない。
 ただ、帝国軍は無条件に全面降伏したと、後の歴史書には記されるのみである。
 後に、戦の引き金を引いた張本人である、ヴァイゼン帝国皇子ヴァルドが使者となり、王女ドロテアの力添えによって、聖王ゼノンバートとの会談が実現した。
 そうして、両国の和平が結ばれてからもうすぐ一年になる――

 

「えっ、ど、どういうことですか?!」
 徒手流派の師匠であるヒースのもとで時間を潰そうと執務室を訪れたティアは、素っ頓狂な声をあげた。
 淑女の嗜みなんてもの、知りもしないようなその様子に、ヒースが渋面になった。がしがしと頭を掻いたヒースが、再度口を開く。
「皇子には当面の間近づかないように、と、そういった」
「え? え? 私、なにかしちゃいましたか?! なんでそんなこと急にいうんですか?!」
 勝手知ったるなんとやらで、腰を下ろしていたソファから飛び上がり、ティアはヒースに詰め寄った。
 唐突にいわれたことに、納得がいかない。当然だ。なにしろ、ティアとヴァルドは、今はまだ公言することはできないけれど、世間一般でいうところの『恋人』とされる間柄なのだ。
 ティアの勢いにやや気おされつつ、ヒースが片手でティアを制する。師匠と弟子という関係上、そうされるとなんだか素直に従わなければいけない気持ちになってくる。
 まて、をいいつけられた子犬のように、そわそわとしつつもおとなしくなったティアをみて、ヒースはいう。
「ティアがなにかした、というわけじゃない。急なことは認めるが、これでも数日前からいついうべきか悩んでいた」
「そう、ですか……」
 ほっと、ティアは息をつく。なにもやっていないのならば、その点では一安心だ。
 だが、それならば余計に、ヴァルドの傍にいくなといわれる理由がないことになる。
 もしかして、かの人の心が自分から離れていってしまったと、そういうことなのだろうか。
「でも、それなら……皇子、私のこと、嫌いに……?」
 ううっ、と自分の妄想に目を潤ませるティアをみて、ヒースが再び頭を掻いた。困った、とその表情が物語っている。
 ティアが、ただ言いつけただけでいうことをきくような人間でないことは、ヒースもよく知っている。理由もなしに頭ごなしに命じたところで、納得しないことも。
 だてに、ともに牢屋から脱出したあげく、森の中でラウカの世話になりつつ、徒手流派の修行にあけくれていたわけではない。
 わずかに思案したヒースが、その深い眼差しをまっすぐにティアへと向ける。
 空気が、一変したのがわかる。大声をだしたり、茶化したり、聞き流してもいいような雰囲気ではなくなった。
 その真剣さは、ただ一度、本気で拳をあわせたときのヒースに重なる。ティアは、思わず息を飲んで姿勢を正した。
「これから話すことは、他言無用だ」
「は、はい」
 きゅっと口元を引き締めて、ティアはヒースを見返す。目をそらすことなく、告げられる事実を受け入れる覚悟をみせる。
 うむ、と頷いたヒースの瞳が、すう、と細くなった。
「皇子の暗殺が画策されているとの情報を得た」
「……え?」
 ティアが想定した以上の悪いことだ――伝えられた言葉の内容が、思考になかなか浸透していかない。
「それが真実なのかは、現在手元にある情報では判断がつかん。常日頃から警備はしているが、ことさら用心するにこしたことはない。なにしろ、もうすぐ和平の記念式典が執り行われるからな。もしも、」
「もしも……?」
 胸元で、手をきつく握り合わせたティアは、ヒースの言葉を、ぼんやりと鸚鵡返しにした。
 腕を組み、ヒースが重々しくひとつ頷いた。
「もしも、狙われるとしたら式典の最中か、その直前だろうと、オレは考えている」
「あ……」
 わかりたくないけれど、わかってしまったティアは、小さな声を漏らした。
 そうすれば、せっかく結ばれた和平は崩れ去ることになるかもしれない。
 帝国をおさえる立場の者はいなくなり、再び戦が起こるかもしれない。
 そのときには、きっと――カレイラ王国が皇子を暗殺したのだと、そう理由をつけてくるに違いない。
「でも、それなら、私、皇子のそばに……!」
「ティアを巻き込まない、というのは皇子のご判断だ」
 だから、今日は皇子に会えなかっただろう? といわれて、はっと今日の出来事を思い出す。
 どうりでおかしいと思ったのだ。
 小間使いが困った顔をして、「……お会いできないそうです」と申し訳なさそうに返してくれたときに、もっと疑問に思うべきだった。
「とにかく、安全が確認されるまで、ティアは皇子に近寄らないように――「いやです!」
 言葉をかぶせるようにして叫べば、む、とヒースが眉をひそめた。だが、ある程度、反応を予想していたのか、さして驚いた様子はない。
「いやです、いやです! 私、皇子が危ないのに自分だけ安全なところにいるなんてやです!」
「なにもわからない子供のようなことをいうな。君は皇子の心遣いを無駄にするつもりか」
 ヒースのいうことは、正しい。ヴァルドの配慮も、当然のものだ。だけれどそれで「はいそうですね」、といえるものではない。理解はできても納得はできない。
 かつては魔王復活の器とするために、宰相であったワーマンにより暗殺の憂き目にあい、いまふたたびその命が狙われようとしている。
 そんなヴァルドをほうっておくことは、こちらの身を案じてくれているとわかっていても、できない。
 利用される前も、今も、懸命に平和を求めるヴァルドをティアは尊敬している。国という重圧をその肩に荷い歩む彼を、支えたいと強く思っている。
 どこからともなくやってきて、小さな身の内を満たし動かす熱に追い立てられるように、ティアは駆け出した。
「私……! 皇子に会いに行ってきます!」
「おい、まて、ティア!」
 追いすがる制止の声をひきずって、ティアはヒースの執務室から飛び出した。
「……やはり、こうなるのか」
 ヒースの呆れとも感心ともとれぬその呟きは、赤い絨毯の上を疾走するティアには、届くことはなかった。

 頭の中は、想い通じあった人のことでいっぱいだった。
 どうしてどうして、私に話してくれなかったのだろう――理由は、ヒースのいったとおりでしかないのに、そう考えてしまう。
 ヴァルドがゼノンバードの温情により城内に与えられた一室は、ヒースの執務室からさほど遠くはない。
 だけれど、その扉にたどり着いたときには、無限に続く回廊を走り抜けたような疲労感がティアを襲っていた。
 息せき切って現れたカレイラの英雄に、今朝方、ヴァルドへの取次ぎを断った小間使いが目を丸くする。
「あら、ティアさ「おじゃまします!」
 彼女の言葉をさえぎって、ティアは大きな扉に飛びついた。
「皇子!」
 体当たりするように押し開き、部屋へと駆け込む。
 一人で大騒ぎしているのが恥ずかしくなるくらい、そこは静謐な空気に満たされていた。
 滑らかにペンを走らせるヴァルドと、その傍らに控える事務官は、なにがあっても動揺などしないのだろう。
 麗しい皇子の執務に励む様子を、一流の画家が描いたような光景に、一瞬、目を奪われる。
「いらっしゃい、ティア。どうかしたのかな」
 伏せられていた瞳があがる。ふわり、と整った面を笑みに形作るヴァルドに、ティアは無言で近づいていく。
 いましがた書き上げたと思しき書類を手渡し、さがりなさい、とヴァルドが命じる。
 ティアのあとを追いかけるように部屋へとはいってきた小間使いが、場の空気を察したのか、何も言わすに一礼した。
 文官と小間使いの二人が、静かに退室したのを見送って後、ティアは重厚な執務机に小さな手を、ぺちりと叩きつけた。全力でここまで走ってきたせいで、力がいれずらくて、まったくさまにならないのが悔しい。
 それでも、なんとか自分の感情の昂りを伝えようと、肩で息をしながら強くヴァルドを見据える。しかし、執務机の向こう側にあるヴァルドの余裕は揺るがない。
 そのまま、ぜぇぜぇと息を整える。その間も、じっと待っていてくれるヴァルドの忍耐強さに、ティアは感謝した。
「ど、どうしたのかな……、じゃ、ありません……! どうして、教えて、くれなかったんです、か……?!」
「ああ、知ってしまったんだね。困ったね、ヒースにはうまくいうようにお願いしていたんだが」
 酸素を補給する合間に、言葉を吐き出せば、ヴァルドがわずかに眉をさげた。そんな憂い顔もまた麗しいのだから、高貴な血と美貌のあわせ業はずるいと思う。こちらが悪いことをしている気持ちにさせる。
 だけれどここは譲れない。ティアは自分の胸に手を当てて、きりりと表情を引き締める。
「私が、ぜったいに皇子をお守りします! 私なら、なにかあっても、ええっとなにかあったら困るんですけど、嫌ですけど……! なんとかできると思います!」
 国家の樹立を宣言するように、堂々といってのければ、ヴァルドが一瞬呆気にとられ――小さく噴出した。普段の王族然とした張り詰めた空気が緩みきった、歳相応の青年らしい笑い方。
「ああ、それは頼もしいね。預言書の主、直々の護りを賜れるとは、私はなんと幸運な人間だろう」
 幼子たちのままごと遊びをほほえましく見守るように、ヴァルドが相好を崩してそんなことをいうものだから、ティアはなおさら眦を吊り上げることになった。
 なにを呑気な、と思いつつティアは叫ぶ。
「笑いごとじゃありません! もう!」
「そうはいわれても、ティアに心配してもらうのは嬉しいことだから」
 またそんなこといって、と軽く睨みつけながら、ティアは唇を尖らせた。
 その様子がまたおかしいようで、ひとしきり笑ったヴァルドだったが、これ以上機嫌を損ねてはまずいと思いなおしたらしく、こほん、とひとつ咳払いをした。
 そして、ゆったりと外套をさばいて立ち上がり、そっと両手を広げてティアを招く。
 頬を膨らませて簡単には許しませんと暗に示しながら、ティアはゆっくりとヴァルドに近づく。
 こわばったティアの手に、ヴァルドの手が重なる。
「怒らないでほしい、愛しいひと」
 まっすぐに見つめられながらそんなことをいわれると、わずか一瞬前に誓ったことが、脆くも崩れ去ってしまいそうになる。
 ティアは、紅の瞳から向けられる熱さを和らげるように、そっと睫を伏せた。だけれど、頬はゆっくりと恋しい人の視線によって焼け付いていく。きっと、林檎のようになっているだろうと思いながら、ティアは唇を震わせた。
「お、怒ってるんじゃないです……心配、しているんです……」
「うん、わかっているよ。その心が、私は嬉しい」
 優しく引き寄せられるまま、ティアはヴァルドに寄り添う。
「今日からずっと……、一緒にいます」
 ヴァルドの首に腕を回して、力をこめる。熟れた頬を白い頬にくっつける。
 伝わるその命の温かさを失いたくないと強く思った。
 擦り寄ると、くすぐったいのかヴァルドの肩が震えた。抱きしめあっているからその顔はみえないけれど、笑っているのだろう。
「君がそこまでいうなら、私はかまわないけれど……ほんとうに?」
「はい、もちろんです!」
 ぎゅーっとさらにきつくヴァルドを抱きしめる。わかったよ、と決意のほどを受け取ってくれたヴァルドが、ティアの背を優しく撫でた。
「……ありがとう、ティア」
 しばし抱きしめあったあと、ヴァルドがゆっくりとティアを引き剥がす。わかってはいるけれど、距離が近くて恥ずかしい。それでも、真紅の瞳が綺麗で、綺麗で。意識が吸い込まれていく。まぶたが、甘い空気の重さに抗えず、ゆっくりと下がっていく。吐息が、重なった気がした。
 と。
 くう、と間の抜けた音が二人の間で響いた。
 一拍の後、ティアはヴァルドが飛びのくようにして離れ、いましがた空腹を訴えた自らのお腹を抱えた。
 気まずく視線を泳がせるティアに対して、にこにことヴァルドは笑っている。
「ずっと一緒にいてくれるのなら、てはじめに食事にしよう。ちょうどお昼だしね」
「ぅぅ……、はい……」
 いい雰囲気を壊してくれた空気の読めないお腹を撫でたティアは、力ない足取りで促されるままついていく。
 皇子として教育の賜物なのか、上流階級の人間ならば当たり前なのだろうか。
 いずれにしても、洗練された動きで女性に恥をかかせず対応できるのは、やはりすごいと思う。お腹が鳴ったことをからかったりしないあたり、同年代の少年とはやはり一線を画する。
 絵に描いたように平々凡々な庶民である自分では、本来ならばつりあうような人ではないのだけれど――その彼から、好きだ、と言われたのは紛れもない事実なわけで。
 恋人という関係になってから思っていたけれど、ほんとうに夢のようだ。この幸せな時間をくれた尊い人を、大切にしたい。

 よし、皇子を守るためにがんばろう!

 ティアが、手を握り締め改めてそう思ったとき、そういえば、とヴァルドが視線だけを向けていう。
「ずっと一緒にいてくれるというのなら、もしかして湯浴みもかな?」
「えーっと……? ……?!」
 湯浴み湯浴み――ああ、えっと、確かお風呂のこと……と、言われた言葉を自分に馴染んだものに脳内で変換した瞬間、ティアは耳まで真っ赤にした。
 ぶんぶんと頭をふる。高速でふりすぎて、どこか人の悪い笑みを浮かべるヴァルドの姿さえ霞むほどに。
「む、むむむむ、無理、です! そ、それはヒースさんに頼んでください!」
「おやそれは残念」
 ころころとヴァルドが上品に笑う。前言撤回だ。ヴァルドも、歳相応の無邪気さがあるらしい。もちろん、相手を選んでのことだろうが。
 考えてみたら、四六時中一緒だなんて、土台無理な話だ。ヴァルドのいうとおり、お風呂もあるし、今気づいたけれど、用を足すことだってあるのだ。
 子供っぽい浅はかなおのれの言動を思い返し、ティアの恥ずかしさが最高潮に達したとき、控えめに扉が叩かれた。
 足を止めたヴァルドが応じると、開かれた扉の向こうに立っていたのは、ヒースだった。
「失礼いたします」
「ああ、ヒース、遅かったね」
「……申し訳ありません、皇子」
 その謝罪は、説得できなかったことか、とめられなかったことか。はたまた追いかけてくるのが、文字通り遅かったせいなのか、はかりかねる。
 ことの原因たるティアは、ちょっとばつが悪くて肩をすくめた。ヴァルドのことばかり考えていたけれど、ヒースだって大事な恩人なのだ。彼に咎が及ぶようならば、なんとかしなければと思う。
 だけれど、ヴァルドは特に責める様子はない。むしろ嬉しそうに、ティアの肩を抱いて引き寄せながら、言う。
「ティアが私を守ってくれるそうだよ」
「そうですか……私も尽力いたします」
 困ったような心配気なヒースの視線を、ヴァルドは静かに受け止めて微笑む。ヴァルドの笑みにそれ以上なにかいうことはできなくなったのか、ヒースは苦笑して頭を垂れた。
 そこにあるのは、ティアのわからない信頼だと、なんとなく感じた。素直に、うらやましい。
「ところで、これからティアと昼食をとろうと思うだけれど、ヒースもどうかな」
「はい、謹んでお供いたします」
 いつもの和やかな空気を取り戻した二人に安心しつつ、再び歩き出したヴァルドについていく。
 廊下にでたところで、自分たちの後ろを守るような位置取りで歩き出したヒースを、ティアは首を捻って見上げた。
「あの、ヒースさん」
「?」
 どうかしたか、といつでも見守ってくれている青灰色の瞳が瞬く。
 にこ、とティアは笑った。やはり、大事なことを託すことができるのは、この人しかいない。
「あとから皇子と一緒にお風呂はいってあげてくださいね!」
「どんな話をしていたんだ?!」
 ティアとヴァルドが何を語っていたかを端折ったうえでの発言は、ヒースにとって青天の霹靂、意味不明なことこのうえもなかったのだろう。目を白黒させて叫んでいる。
「はははは!」
 師匠と弟子の会話が面白かったのか、珍しく大きな声で、ヴァルドが笑った。
 だが、ティアはもうひとつ、大切なことを忘れていた。
 それに気づいたのは昼食を終え、午後の執務の手伝いをして――すっかり夜も更けた時刻だった。

 お風呂だけじゃなかったー!

 フランネル城にある豪華なとある一室で、ティアは青ざめていた。
 目の前には、皺一つなく美しく整えられた寝台がひとつ。
 今日から泊り込んでヴァルドを守ろうとは思っていたけれど、まさかまさかこんなことになるなんて。
 上質な絹で作られた寝間着の心地よさを堪能する余裕もなく、ティアは回れ右をして、いますぐこの寝所を飛び出したかった。
 だけれど、背後にある気配がそれを許してはくれないだろう。
 ああ、でもでも……! まだ私たちには早いです……!
 そんな気持ちが体に反映したのか。無意識に足が一歩分、後退した。
 と。
「おや、ティア、どこにいくのかな」
 そっと肩を掴まれて、ティアは大きく体を震わせた。顔を向ければ、すぐそこにヴァルドの端正な顔がある。
「ひえっ、お、おおおお、おうじっ」
 あのそのええと……、と、しどろもどろになったあげく、何もいえなくなり真っ赤な顔で俯いたティアに、そっとヴァルドが唇を寄せてくる。
「……!」
 ぎゅっと目を閉じると、ふわりと羽が触れるような優しさで、頬に口付けがひとつ落ちてきた。
 でも、それ以上はなにもない。
「……?」
 そーっと、おそるおそる目を開くと、微笑んだヴァルドがティアの腰に手を添えて歩き出した。もちろん向かう先は、さきほどティアの視線が釘付けになっていた寝台である。
「さあ、明日もはやい。休むとしよう」
「はひっ」
 ぎくしゃくとした動きをしながら裏返った声で応えると、ヴァルドが小さく噴出した。
「なにもとって食べたりしないよ。残念だけれど、見張りもいることだしね」
「……え」
 目の当たりにした現実に軽く混乱していたせいで気づいていなかったが、寝所の出入り口近くに、気配を消した武官が一人立っている。
「すこし気になるかもしれないけれど、そのうち慣れる」
 やわらかな毛布、ふんわりとした寝具の狭間へと身を横たえながら、あたりまえのことなのだとヴァルドはいう。
 普段からこうした身辺警護がされているんだ――と、ティアは気づいた。
 ヴァルドを守りたい気持ちに嘘偽りはないし、誰にも負ける気はしないけれど、今回の自分の行動は、我侭以外のなにものでもないのかもしれない。もしかしたら、ヴァルドを守ろうとしている人たちの迷惑になっているのかもしれない。いやいや、でもきっと、預言書の主である自分にしかできないことがきっとある。
 落ち込みそうになる自分を励ましながら、ティアはヴァルドに招かれるがまま、その隣へと寝転ぶ。
 掛布を引き上げながら、ヴァルドが嬉しそうに笑う。見張りからはみえない掛布の下で、そっと手が握られる。
「おやすみ、ティア。今日は、君がいれくれるから、とてもいい夢がみられそうだよ」
 ああ、そんな笑顔をしてくれるのなら、私は自分にできることを頑張れる――ティアは、同じようにヴァルドへと微笑みをむける。きゅっと、ヴァルドの手を握りかえした。
「ふふふ、私もです……おやすみなさい皇子」
 こうして、手を握り合って夢の世界に旅立つのは久しぶりだ。
 遠い昔の、父と母との思い出を重ねたといったなら、ヴァルドはどう思うだろう。
 そんなことを考えながら、ティアはゆっくり瞳を閉じた。

 

 

 こうして、ヴァルドとティアの生活がはじまった。
 朝、ともに起きて、昼、ともに仕事をし、夜、ともに眠る。
 その繰り返す日々の中、ティアはヒースと入れ替わって、ヴァルドから離れることもままあった。そこは互いの都合というものがあるので、仕方がない。
しかし、そうしたとき、ヴァルドの直属の部下である、帝国武官が一人、必ずついてくるようになった。
 守られるべきはヴァルドなのに、と思って訊ねたところ、いくらカレイラの英雄であっても、いや、だからこそ、帝国の機密に触れられるわけにはいかないということらしい――つまり、監視役だ。余計なものを見たり、聞いたりしないように、といわれたに等しい。
 ヴァルドが申し訳なさそうに、周囲の帝国側の人間と協議した結果なのだと教えてくれて、ティアは納得してそれを受け入れた。
 それについて、不満などあろうはずもない。だって、当然のことだろう。
 いつか、いつか――もしも、自分がヴァルドとともに帝国側の人間になったなら、そのときはきっとそうした心配もされることはなくなるに違いない――そこまで考えて、ティアは顔を真っ赤にする。
 だってそれはつまり、ヴァルドと結婚したら、という話に繋がるからだ。
 まだ気が早い。気が早い。
 でも幸せな想像はとどまることを知らず、ティアは温かな日の光差し込む窓辺で、身をくねらせる。
 いつもついてきてくれる武官がいないことが救いだった。この部屋で少しお待ちくださいと告げ、足早に部屋を出て行った彼は、そういえばどこにいったのだろう。
 和平の記念式典まであと数日。きっと、やるべきことはたくさんあるのだ。
 ここまで、皆の努力のかいもあって皇子の周辺に異変らしき異変はない。
 ヒースもいろいろと探ってくれているが決定打はみつかっていないらしい。
 ティアは、青い空に燦燦と輝く太陽に向かって手を組み合わせた。

 どうか、すべてがうまくいきますように。はやく皇子が安心できる日がきますように――

「ティア様、ティア様?」
「ふあっ?! あ、はいっ!」
 静かな部屋でただ一人きり、いつしか祈りに没頭していたティアは、数部屋向こうから響く声に飛び上がった。
 それを聞きつけたのか、ひょっこりと隣室から顔をだしたのは、すっかり顔見知りになった小間使いの一人だった。
「ああ、こちらでしたか。皇子が別室でお待ちでございます」
「え? あれ……?」
 確か、ヴァルドはこれから式典についての会議があるとかいって、でていったはずなのに。
 だから、武官さんと一緒にここで待っていることになったはずなのに。
「でも、ここから動かないようにいわれてて……」
「さあ、おはやく。会議が始まる前に、とのことでした。なにかお願いしたいことがあるとか……」
 ヴァルドが自分を頼ってくれると知った瞬間、浮かんだ疑問と違和感はあっさりと霧散した。
「わかりました! 今行きます」
 まだ武官はさんはもどってきてはいないけど……まあ、すぐそこだろうから、いいよね――ティアは喜びからくる軽やかな足取りで、小間使いの後を追いかける。
 部屋を出て、廊下をすすみ、いくつかの角を曲がって着いたところは、フランネル城の片隅。
 古びた扉を、小間使いが恭しく開けてくれる。
「こちらでございます」
 ありがとうございます、と礼を言いながらティアはその部屋へと足を踏み入れた。普段は使われていないのか、部屋は少し埃っぽい。窓も北向きについていて、差し込む光が、真昼にしてはこころもとなかった。
「皇子……?」
 呼びかけてみるが、誰の気配もない。応えもない。
「あの、この部屋で間違いないですよね――っ!?」
 まさかどこかに隠れているのだろうか、なんてことを考えつつ、中を歩きながら辺りを見回したティアは、悲鳴を飲み込んだ。
 テーブルの下に転がるなにか。
 それは、いままさにティアを案内してくれたはずの、小間使いだった。皇子から離れずにいるといったティアに、よくしてくれた女の子が、頭から血を流して伏している。その生気のない、青ざめた顔に、思考回路が止まった。
 驚きに身をこわばらせたのもわずか。
 ふいに感じた殺気に、自然と体が動いたと気づいたのは、床を転がって立ち上がることができたあとだった。
「どうして……!」
 わけがわからない。視線の先には、ここまでつれてきてくれた小間使いがいる。その手には、よく研がれたナイフがひとつ。
 気配を読みながら足元をみれば、そこにもやはり小間使いがいる。どちらも同じ服装。同じ顔。まさか双子とでもいうのだろうか。
 ナイフでもって襲い掛かってきた小間使いが、構える。その隙のなさに、ティアは戦慄した。
「会議場からは遠い場所だ。今頃、皇子もそれに出席している。助けはこない」
 口調が、変わっている。違う、そうじゃない。これが『この人』本来の喋り方なのだと、唐突に理解した。『この人』は、ティアが知っている彼女じゃない。
 ここまできたら、さすがにティアにもわかる。詳しい事情はわからないけれど、今、自分が命を狙われているということを。
 向けられる殺気に汗が滲む。警戒しながら預言書を呼び出すと同時に、大精霊たちが姿をあらわした。
「おいおい、どうなってるんだよ!」
「私にも、よく、わからなくて……!」
 気勢激しく叫ぶレンポに答えると、小間使いは理解できないものをみるような不愉快さを滲ませて目を眇めた。虚空から出現した本を手に、見えないものと会話するティアを、蔑むような視線が痛い。
 ふいに、カレイラ住民たちから責められ、追い立てられたときのことが脳裏に蘇った。あのときは、皆もああするしかなかったのだとわかっていても、暗い記憶はティアの心を一息で冷えさせる。
「ああ、気持ちの悪い。どうして皇子もこのようなモノを傍に置かれるのか」
「あのような戯言、気にする必要はありませんよ、ティア。この世の神秘を解さぬあちらこそ、大いに問題ありなのですからね」
「うん……」
 ウルの穏やかな言葉に、ざわつきかけた心の波がわずかに静まった。
 大丈夫、レンポもウルも、ネアキだってミエリだってそばにいる。ティアは、自らを奮い立たせて、精一杯に小間使いをにらみつけた。
「どうして、私を襲うんですか? 狙われているのは、皇子だって……!」
 だからこそ、あれほどの厳重に警備されていたはずだ。
 わずかな沈黙のあと、ゆっくりと小間使いの唇が動いた。
「違う」
 静かな口調であるのに、その声音はどこまでも淀んでいて暗い。夜のいちばん深い闇から響く、この世のものではないようなそれは、ティアの小さな耳を震え上がらせる。

「殺したいのはおまえだ。カレイラの英雄」

「……え」
 一歩、まるで幽鬼のように小間使いが――否、暗殺者が前にでる。ティアは、気おされて一歩後退する。
「気づいていなかったのか。英雄とは名ばかりのとんだ素人だな。皇子に守られ安穏とすごしていることに、気づきさえしなかったとは……なんともいいご身分だ」
「うそ、そんな、そんなこと……!」
 ヴァルドのそばにいたのは、彼を守りたかったからだ。本人はもちろん、暗殺という卑劣な手段によってその周辺の人に危害が及ぶようなことがあれば、預言書の力で助けになれると思ったからだ。
 それが、まったくの逆であったという指摘に、ティアは動揺した。
 だが懸命な否定の言葉も、侮蔑の視線が切り捨てる。
「嘘なものか。皇子と食事を供にするということは、毒味されたものが供されるということ。皇子と同衾するということは、周囲の安全が寝ずの番により確保されているということだ」
 普通の庶民としての生活中には決して得られるものではない。
 ああ、とティアは小さな声をこぼした。ようやく気づくなんて、私はなんて馬鹿なんだろう。

 守られていたのは――私のほう。

 呆然とするティアに、暗殺者が苦々しく舌打ちする。
「こんな小娘に、帝国の覇権が阻まれたとは……」
 ナイフの柄をきつく握り締めたのが、軋むような音がかすかに響く。それは目の前の暗殺者のいきどおりの悲鳴のよう。
「死ね! 貴様さえいなければ、我が帝国はたやすく勝利していたものを!」
「!」
 かたちはなくとも、はっきりとした憎悪をぶつけられて、身体が竦む。凍ってしまう。
 鋭く床を蹴って迫る脅威から、ティアを守るためにレンポの炎の壁が吹き上がる。
 しかし、それを避けず、焼け焦げながら突破した、ぬらりと光る刃から目が離せない。
 逃げなきゃ、と思うのに思ったように身体が動かない。
 自分の胸へと吸い込まれるように、一直線に迫るナイフ。やけにゆっくりとみえる。受け入れた瞬間、得られるのは死しかないとわかっているのに、動けない。
 見ず知らずの人に、死を願われるほど憎まれているという事実が、重い枷となってティアをその場に縛り付けている。
 あ、私、死ぬのかな――やけに冷静な部分が、そう考えたとき。
 閉じられていた扉が、蝶番ごと吹き飛んだ。
 視界の端に映るのは、練られたプラーナをもって一突きしたのだろう、ヒースの姿。
 どうして、と思う間もなく、銀の光がその背後から迸る。
 絶望に染めあげようとする負の感情を断ち切るように一直線に伸びた輝きは、細い。だけれど力強い。
 ティアの眼前にある刃を見事に受け止めたその光は――かつて、フランネル城の地下深くで、刃を交えたこともある、ヴァルドの剣だった。
 自分を背にかばうヴァルドの外套が、ふわりとその背に落ちた。
 ヴァルドだと確認したティアは、安堵からその場に崩れ落ちそうになる。それを、ミエリとネアキが支えてくれた。
「皇子……」
「すまないティア、こんな目にあわせてしまって」
 狼藉者をひたりと見据えながら、ヴァルドが涼やかな声でそういった。
 すばやく、小間使いが後ろに下がる。入り口にはヒース、目的のティアはヴァルドの向こう側。
 もはや己が目的を果たすことはできないと悟ったのか、暗殺者の顔がゆがむ。人とはこんなにも憎悪に身を焦がせるのかと、恐ろしくなるくらいに。
「皇子!」
 部屋の入り口近くで、ヒースがジェネラルソードを抜き放つ。
 それをヴァルドは片手で制した。なにも言葉にはしないけれど、その怜悧な横顔が手出し無用といっている。
 暗殺者が、顔を赤黒く染めて叫ぶ。もう少しのところを邪魔されたせいか、怒りが留まるところを知らぬように溢れ出す。
「おのれっ、おのれおのれ! この――売国奴がっ! 貴様も殺してやる! いくら我が帝国の王族とて、もはや許せぬ!」
「罵りはいくらでも受けよう。そうした心も含め、すべてが我が帝国なのだから」
「帝国はお前のものではない!」
「そうだ。私のものなどでは決してない。だが、貴様たちのものにもならぬ」
「!」
 烈火のごとくわめき散らしていた暗殺者が、ふいに動きを止めた。氷水でも浴びせられたように、ぶるりと身を震わせている。
「そのことはあとで話をしよう。ああ、そうそう、これをみてくれるかな? いましがた、ようやく本国から届いたものだよ」
 世間話をしているように話題を変えたヴァルドが取り出したのは、手のひらに乗るほどの小さな丸い鏡だ。あまり光が差し込んでいないこの部屋にあって、それはまるで太陽を映したかのように、ほんのりと輝いている。
「帝国最高位の神官が作った鏡だ。魔女が作ったものが、どこまで通用するか試してみるのもおもしろそうだと思わないか」
 つい先ほどまでの威勢はどこへいったのか。暗殺者は額に汗を浮かべながら、じりじりと後退している。
 それにかまうことなく、ヴァルドは冷たく微笑んだ。ティアの知らない顔。でもきっと、これもまたヴァルドの一面。ヴァイゼン帝国という大きな国を背負う者がもつべき顔のひとつなのだろう。
「おおむねの調べはついている。すこし、詰めが甘いようだね。わざわざ姿を変える魔法道具まで大金を払って用意したのに、なんとも残念なことだ」
「そこ、まで……?」
 息をする間隔が短くなっている。よほど焦っているのだろう。相対するヴァルドから目をそらさないようにしているが、その瞳が揺らぐ。
「私とティアの周辺に、何者かが紛れ込んでいることはわかっていたよ。でも、それが『誰』であるか、特定するにはこちらの力が足りなかった。ならば調べればいい。補えばいい」
「くそ……!」
 汚い言葉を吐き捨てながら、暗殺者が視線を走らせる。一瞬だけ向けたのは、外に続く窓だ。逃げるのならばそこしかない。
 諦めろ、とひどく穏やかな声でヴァルドは言う。
「何も手をうっていないと思うのか? この、私が」
 ティアのいる位置からはみえないが、きっと窓の向こうにはヴァルド直属の兵が配置されているのだろう。
 目の前にはヴァルド、部屋の出入り口にはヒース、窓の向こうには手練れの兵。
「さて、そろそろ自分の状況が理解できたところで、本当の姿をみせてもらえないかな」
「……!」
 壁際ぎりぎりまで下がった暗殺者に向かって、ヴァルドが手にした鏡を掲げる。鏡面は暗殺者を映し出し、その輝きを増した。
 暗殺者が腕をあげておのれをかばうが、最高位の神官が作ったという鏡の光からその程度で逃れられるわけもない。
 穏やかな春の日差しを思わせる金色の光に触れた瞬間、そこから細かい鱗が剥がれ落ちるようにしてその姿が崩れていく。
 はらはらと崩れた姿の向こうに、焦燥と驚愕の表情を浮かべた見知らぬ男が、いた。
 細身の剣を優雅に構えたヴァルドが、かつり、と具足の踵を鳴らして前にでる。
「身元が確かな人物とすりかわるまではよかったと、ほめておこう。一度厳重に調べたあとでは、確認もゆるくなる。彼女は本国からつれてきた人材だったしね……今後の参考にさせてもらうよ」
「うるさい、うるさい、うるさいいいいい!」
 男がナイフを構えなおす。その手が、震えてみえるのは、ティアの見間違いではないだろう。
 殺気が大波のように押し寄せる。ヴァルドの背後にいるティアでさえ、その気迫が肌に突き刺さる。
 暗殺の失敗か。それとも、自分の所属する組織が知られてしまったことへの焦りか。
 ティアを追い詰めていたときの余裕はなく、男は鬼気迫る形相で肩を上下させている。
 ふつ、とその呼吸が止まった次の瞬間。
 獣じみた叫びとともに、白刃を閃かせながら突っ込んでくる男へ、ヴァルドがなめらかに踏み出す。
 ティアを救った銀の光が、また、宙にいくつもの弧を描いたように見えた。
 そのまますれ違うかと思えた瞬間、びくん、と大きく男が震えた。
 ぱしゃり、とはじける赤。ずるり、男の手から落ちていく凶器。自らの血にまみれ、男が床に倒れこむ。利き手と足の筋を断ち切られた男が、受身さえとれず床に伏した。
 真紅の瞳は、覚悟を知る者の深さに、慈愛さえ滲ませながら男を見下ろす。
「我が帝国は、我が民のものだ。日々の小さな幸せを、懸命に紡いで生きる、尊い彼らのものだ――力でねじ伏せようとするものたちのものではない」
 苦悶に呻く男へと、天からの言葉を伝えるようにそう告げて、ヴァルドが剣を鞘へとおさめる。
「お見事です、皇子」
 そういいながら男をおさえつけたのはヒースだった。これ以上暴れる力はないだろうが、捕らえる必要はある。
 ヒースにひとつ頷いて返したヴァルドが、いう。
「ティアに、何者がなにをしようとしたのかは、あとでゆっくり訊ねることにしよう。連行しろ。決して殺すな。死なせるな」
「はっ」
 応じたヒースが呼びかけると、部屋に兵たちが雪崩こんでくる。狭い部屋に大人数では動きたくとも動けなくなる。待機していたのかもしれない。
 ぼんやりと、そんなことを考えるティアの目の前で、ミエリが手を振った。
「ティア、ティア! 大丈夫?」
「……怪我は、ない……?」
「うん、あり、がと……な、なんとかだいじょうぶ……」
 美しい面を曇らせてこちらを覗き込んでくるミエリとネアキに申し訳なくて、ティアはぎこちなく笑った。気づけば、壁伝いにへたりこんでしまっている。これでは精霊たちに心配されても仕方がない。レンポとウルにも礼を述べて、そっと預言書をしまうと、手元が影に覆われた。
 はっと顔をあげると、わずかに身をかがめたヴァルドがいた。
「無事かな、ティア」
「……」
 応えないティアへと差し伸べられる手。一瞬迷ったものの、それを拒む理由はなく、拒むこともできない。そっと手を重ねると、優しく引き起こされた。
 暗殺者はすでに部屋から連れ出され、テーブルの下に倒れた小間使いの女性が、手当てされているのがみえた。どうやら、死んではいなかったらしい。
 よかった、と呟くティアの手を、ヴァルドが引く。
「場所をうつそう」
 兵たちの間をすり抜け、廊下にでると、肺に溜まっていた淀んだ空気を吐き出した。壁ひとつ、扉ひとつ越えただけで、生きていると感じられた。
 少し廊下を進んだところで、ティアは歩みを止めた。それに気づいたヴァルドが立ち止まり、ティアへ向き直る。
「別室で、あたたかいお茶でも飲んで落ち着こう、ティア」
 だから、ひとまず着いておいで、と誘うヴァルドに頭を振ってティアは言う。
「なんで……なんでこんなことを……? いってくれればよかったのに……!」
 駆けつけてくれて、助けてくれて嬉しいはずなのに、言葉は気持ちと裏腹にヴァルドを責める。
 ぎゅっと唇を引き結んだのに、ぼろりと涙が零れた。
 信用されていなかったことが悔しくて、悲しくて。
 危険を顧みず自分をかばってくれたのが嬉しくて、切なくて。
 もう、自分の気持ちがよくわからない。それらをきちんと整理して名をつけられるほど、ティアは成熟してはいなかった。
「君が、命を狙われていると知ったら、君はどうする?」
 感情を溢れさせるティアを穏やかな表情でみつめながら、ヴァルドは冷静な声で問うてくる。
「それは……! ……あ」
 すぐさま答えようとして、ティアは口元に手を当てた。
 もし、自分が命を狙われていると知ったなら――巻きこまないために、ヴァルドから離れただろう。一人でどうにかしようとしただろう。
 絶句したティアを、微笑んだヴァルドが優しく抱きしめてくれる。壊れやすいものを、精一杯大事にするように。
「君を一人には出来ない。したくない。好きな女の子一人守れないようでは、私は自分が許せなくなる」
「……ぜんぶ、私を守るためだったんですね……? 最初から……」
 わざとヒースからヴァルド暗殺計画の情報を伝え、ティアを寝食を共にすることでティアへの安全を確保し、自らの目が届かぬときには信頼できる部下をつける。
「そうだよ。みなには無茶をいうと、窘められたけれどね、快く協力してくれたよ」
 ここまできたら誤魔化すつもりはないのだろう、ヴァルドはティアの問いに頷いた。肯定されて、ティアはしゃくりあげた。本格的に涙が止まらなくなってきた。
「ふぇっ……おうじ、ひっく、おうじ……!」
「泣かないで、ティア……ああ、君がこうして泣くだろうから、知られたくなかったのに」
 心の痛みを堪えるように眉を下げたヴァルドが、涙零れるティアの唇を寄せてくる。ぎゅっと目を閉じたティアの瞼に、落ちる口付けがひどく優しい。それはヴァルドの心そのもののやわらかさで、ティアを慰めてくれる。
「ティア、私は臆病で我侭なだけだ。君においていかれるなんて、考えたくすらないだけなんだ」
 そんなことはない。臆病な人間が、刃の前に立つことなんてできるわけがない。誰かをその背にかばうことなどするはずがない。
 そう、いいたいのに、嗚咽に阻まれて何もいえない。あうあう、と幼子のように泣くしかできないティアの頭を、ヴァルドは愛しそうに撫でてくれる。
 やわらかな美しい微笑みには、嘘偽りのない喜びが浮かぶ。
「君が無事なら、それにまさることはない。君が好きだから、愛しいから、生きていてほしい――だから、最後のときまで、私と一緒にいて。ティア」
 こつり、と額を触れ合わせ、どこかあどけなく願われて、断れるわけがない。何度も頷いて、ティアは叫ぶ。
「お、おうじぃー! うわぁぁぁん!」
 ティアは力いっぱいヴァルドの首に縋りつく。ぎゅうぎゅうに力をこめて、大きな声で泣いた。
 いつかもっともっと、この人にふさわしい女の子になろう。守られるだけじゃなくて、今度こそ守ってあげられるように。でも今は、この優しさに甘えたい。
 何度も何度も、ありがとうございますと繰り返し、ティアはヴァルドに縋って泣き続けた。

 

 

 ヴァイゼン帝国皇子ヴァルドを狙った暗殺未遂事件が、カレイラ王国内で発生。
 彼の者は捕らえられ、その素性は仔細に調べられた。帝国による覇権を願う国粋主義者であり、それを支援したのは他国への侵略を推し進める貴族たちによるものだと判明。
 帝国内は荒れに荒れた。
 それを治めたのは、暗殺未遂の憂き目にあった皇子ヴァルドであった。
 帰国した皇子ヴァルドの見事な手腕により、関係者たちはすべて処罰された。
 それ以降、帝国内でのカレイラ王国に対する侵略への気運は掻き消えるようにして失われ、互いの手を取り合って発展への道を歩むことになった――、そう歴史書には記されるのみである。