陽だまりのいきぬき

AVALONCODE3周年企画作品 ヴァルド皇子好き様よりのリクエスト

 疲れた。
 ぐったりとソファに身を横たえる。
 栄光あるヴァイゼン帝国の皇子として、こんな行為に及ぶことなどないように、厳しく教育を受けてきたはずだけれど――いまはこうして、休みたかった。
 隣室にある寝台へいくのも億劫だ。鎧や手甲を外した無防備きわまりない姿で、ヴァルドは深く息をつく。
 身体の芯が鉛にでもなったようだ。全身が重い。それに引きずられるように、気持ちまでもが落ち込んでいく。身を横たえる場所、その下の床、さらにその下の大地の底までいってしまいそうだ。
 そうなると、ヒドゥンメイヤに行き着くことになるのだろうか。できればもう二度といきたくはないね、と皮肉気に口元を引き攣らせる。
 もうひとつ、息をつき、午前の間に開かれた会議のことを思い出す。できることなら、午後も話をつめることに使いたかったが、カレイラ側の行事があるとのことでそれは叶わなかった。
 政治は狸と狐の化かしあいだ。それは、重々承知している。
 相手の腹をさぐり、いかに自分達に利益になるかを考える。ときに脅し、ときに宥め、ときに実力行使にでるときもある。
 一度暗殺をされた身だ。そのことは、骨身に染みてわかっているつもりだった。
 だが、つらい。
 せめて、国のためという信念をもつものならば、相対するのもそこまで苦ではない。こちらもそのつもりであるからだ。そういった心を互いが持っているのなら、歩み寄る余地は必ずどこかにあるはずだ。
 だけれど、彼らは長く平和と特権が生む利を貪っていたせいか、どこまでも自分達のことしか考えない。自分達の栄華が崩れることを、ことさらに恐れている。だから、話はなかなか前へと進まない。
 国の未来を、民の平穏を。そう何度口にしようと、見えない壁が、言葉と理解を阻む。

 どうしたものか……。

 瞳を閉じて、眉を潜める。
 明日も会議は続く。なにか、決定的な打開策をこのあたりでうたなければ、また何も決まらぬまま終わってしまう。ヒースにも、こちらの提案が通るよう、様々なところから情報収集と根回しを頼んでいるが、果たしてどこまで効果があるか。
 そうして、沈思黙考し、なかなかよい案も浮かばぬまま目を開ける――と。
「わぁぁぁ! あぶなっ――!」
「?!?!」
 ぱあっと眩い光が部屋に溢れたと思ったら、空中から小さな人が、ぽん、と現れて落っこちてきた。
 ヴァルドの、腹の上に。
 重さと衝撃と、状況のわけのわからなさのせいか、周囲の景色がやたらと遅くなってみえる。音も聞こえない。
 そういえば、人は死の間際には時間が遅くなってみえるときいたことがある――と、妙に冷静に考えた瞬間。
 ひゅっと空気が肺に滑り込み、世界が正常に動き出した。同時に、感じるみぞおちへの痛み。
「うぐ……げほっ、こほっ!」
「きゃああ! 皇子、皇子っ、ごめんなさい、大丈夫ですか?!」
「ティ、ティア……?」
 けほけほと咳き込み、涙目で自分の上に乗っている人物の名を呼ぶ。
 大きな瞳にいっぱいの涙を溜めて、真っ赤な顔で口元をゆがめている。
 その、今にも泣きだしそうな顔に、眉をさげるようにしてヴァルドは微笑んだ。
「ず、随分と……派手な、けほっ、訪問だね……はじめてだよ、こんなのは」
 うまく言葉が出ず、声が掠れてしまったが、ヴァルドは恋しいティアに会えて嬉しい。
「ごめんなさい……!」
 べそべそと泣き出すティアの頭を、優しくなでる。さらさらとした紅茶色の髪が、指先に気持ちいい。
 よいしょ、とわずかに痛む身体を起こせば、ソファの上でティアと向かい合う形になった。
 まだ、ぽろぽろと涙を零すティアの姿がせつなくて、いじらしくて、白い額にそっと唇を寄せる。
「んっ」
「もう泣かないでほしい。私は、大丈夫だから」
「……はい」
 ぴくん、と目を閉じて身体を震わせたティアが、小さく頷いた。よしよしと頭を撫でて、顔を覗き込む。
 キスのおかげなのか、ようやく涙をひっこめたティアの頬は、恥ずかしさと申し訳なさからくるのか真っ赤になっていた。その様が可愛くて、また口づけたくなるが、それは堪えて頬に指先を滑らせる。
「どうしてこんなことを?」
「お、皇子に、会いにきたら……兵士さんが、具合が悪くて誰も会えないって教えてくれて……」
「……ああ」
 そういえば、しばらくは何人たりとも部屋へ通すなと、きつく命じていたことを思い出す。
 会議で思うような成果が出せず、少し頭を冷やし、今後のことを冷静に考えるための時間と、身体を休めるための静寂が欲しかった。
 だが、迂闊だった。
 ティアが来るのならば、そんなことを命じはしなかったものを。今度から、似たようなことがあれば、ティアだけは例外であると命令に添えておかねばなるまい。
「それで?」
 どうしてこんなことをしてまで訪ねてきてくれたのか? と促せば、ティアが鞄の中からおずおずと小さな小瓶を差し出してきた。
「これを、渡したくて……。もし、眠ってるようなら、こっそりと置いていこうって思ってたんですけど……」
 それは見たことがあるものだった。いささか古めかしいが綺麗な意匠の小瓶。
「これは……エリクサー?」
「はい」
 以前、ヒースがどこかから手に入れてきてくれてた霊薬の名を口にすれば、ティアが頷いてくれた。確か、味は難ありだが、その効果についてはヴァルドは身をもって経験している。魔王に操られていたころに衰弱してしまった身体を癒してくれた。
 それが、ティアによって作られたものだと知ったのは、随分あとになってからだ。
 魔王からの解放だけでなく、この身を癒すためにも、ティアの力を借りていた。そのことに恩義を感じると同時に、そこまでしてくれることへの歓喜に震えたものだ。
 ヴァルドは、ティアからエリクサーを受け取りながら、ほのかに微笑む。
「届けにきてくれたのかい?」
「……すみません、まさかあんなところに出るなんて、思わなくて」
 焦ってしまったせいか、預言書の力を上手く制御できなかったらしい。俯くティアの頭を、ヴァルドは幾度も優しく撫でる。
「いいや、よかったよ。あそこにいなければ、君を受け止められなかった」
「……ほんとうに、ごめんなさい」
「いいんだよ。君がきてくれたことのほうが、なによりも嬉しいのだからね」
「……」
 その言葉に偽りはないというように、腕を伸ばして抱きしめる。
 同時に、心がふんわりと軽くなる。温かく、なる。さきほどとは全く質の異なる吐息が、自然と零れた。
 ティアが、恋しい。好きでたまらない。
 息の熱さを、体調不良からくるものと勘違いしたのか、ティアの顔が曇る。
「やっぱり、お疲れですか?」
「ん……、ああ、ちょっとね、いろいろあったから。でも大丈夫」
 にこ、とヴァルドはその麗しい顔に人懐っこい笑みを浮かべた。ほんとうの家族にであっても、みせることのない表情。
 ヒースいわく、心底惚れて骨抜きにされつつのがまるわかり、という顔だ。
 だが、そうなってしまうのは仕方がない。相手がティアなのだ。ヒースも苦笑しながら、そうですねと同意していたのだから。
「人払いをしたけれど、身体の具合が悪いというわけじゃないんだ。なんというか、気持ちが疲れてしまってね」
「そうですか……」
 情けないことを、と自分でも思わないでもないが、ティア相手に嘘をつけるわけもない。
「ティアの気持ちはありがたく受けとらせてもらうよ」
 ヴァルドはそういいながら、エリクサーを懐へとしまう。
 その間、んん~……、と可愛らしく眉を寄せ、細い腕を組んで考え込んだティアが、ぱっと顔を輝かせた。
 ぽん、と胸の前で手を打ち鳴らす。
「皇子っ」
「なんだい?」
 その、いいことおもいつきました! という考えがまるわかりの表情が、愛らしくてたまらない。くすくすと小さく笑いながらきっと楽しいことをいってくれるのだろう、とティアに続きを促せば。

「いきぬき、しましょう!」

 元気いっぱいそういったティアが、ずい、と乗り出すように上半身を前に倒して、ヴァルドを見上げてくる。
 ね? と甘えるように、おねだりするようなその仕草は、本人にそのつもりはなくとも、男の庇護欲を刺激するには十分すぎるほどの魅力があった。なにをいわれえても、叶えたくなる。
「おでかけしましょ? 今日はとっても天気がいいんですよ。外が気持ちいいんです」
 もちろん、ヴァルドとて男。しかも、こんなにも可愛いティアの心を射止めた恋人という立場を得ている男。ならば、応えるのが筋というものだ。
 一瞬、これからやらねばならない仕事のことが脳裏を掠めたが、夜にまわしてどうにかしよう。
 うん、とヴァルドは脳内で緻密に立てていた予定を、素早く正確に組み替えながら頷いた。
「そうだね、それもいいかもしれない。では、でかけると伝えに、」
「だめです!」
 見張りの兵士に声をかけようとしたヴァルドを、ティアがぴしゃりと語気強く制した。
 きりりと目元を険しくしたと思ったら、次の瞬間には淡雪が消えるように表情を崩して微笑む。
「こういうのは、こっそりいくのが楽しいんですよ!」
 くるり、実り色の大きな瞳が、いたずらっぽく輝く。
「しかし、誰にも告げずにいくわけには」
「でも、今は誰も、ここにはこないんですよね?」
 人をたぶらかす無邪気な妖精のようなティアの物言いに、ヴァルドは目を見開いたあと、大きく口をあけて笑った。
「ああ、そうだったね。たしかに、ここには誰もこない。ならば咎めるものもこない――そういうことだね?」
「はい。ヒースさんだってきません!」
 うんうんと力強く頷くティアに、彼女にはいつも驚かされる。ヴァルドは内心舌を巻く。
 規律を礼儀正しく守ろうとする面ももちながら、こうしてときおり突拍子もないことをいいだす。だがそれが、楽しくて仕方がない。次は何をいってくれるのか、何をしでかしてくれるのか、目が離せない。
「まあ、ティアはこられたけれどね」
「ふふっ。預言書があってよかったですね」
「まったくだ」
 ヴァルドの腹の上から、ひょいと降りたティアが、その胸に指先をあてて、得意満面にいう。
「私のお気に入りの場所に案内します!」
「それはいい。楽しみだよ」
「じゃあ、手を繋いで……――」
 はらり、といつの間にか世界に顕現させた預言書を左手にもち、ティアが右手を差し出してくる。
 それに指先を重ねようとして――はた、とヴァルドはその動きを止めた。
「皇子?」
 どうかしましたか? と首を傾げるティアの前に立ち上がり、ヴァルドは隣の部屋へと向かう。
「ああ、ティア。少しだけ待ってくれるかな。せっかくだからお菓子でも持っていこう。冷えてもおいしいお茶もあったはずだ」
「わあっ、素敵!」
 部屋にひきこもる際に、昼食がわりに届けられた焼き菓子とお茶があったはずだ。それならば毒見済みだし、ティアが食べても問題は起きないだろう。
 歓声をあげたティアが、待ちきれないのか後を追いかけてくる。餌をくれる親をおいかけてくる雛のようだ。
 くすくすと笑いながら、隣室のテーブルを確認する。美しい陶磁器の皿の上には焼き色美しい数種類の菓子と、いい香りをほのかに振りまく陶磁器のポットがあった。
 これだけあればじゅうぶんだろうと思いながら振り返ると、部屋の隅に広げられた敷物の前にティアがしゃがみこんでいた。
「皇子、これ持っていったらだめですか?」
 そういいながら、ずるりとティアが引きずったのは貴族からの贈り物である小さな絨毯だ。複雑な模様に織り上げられたそれは、高価なものであるといってたような気がするが、帝国における価値としてはさほどでもない。
 なかば無理やりに渡されたものであるし、ティアの可愛いお尻が痛むくらいなら、外の地面に広げて使ったほうが意味がるというものだ。
 贈り主がきいたら、目を見開いて現実を疑うようなことを考えながら、ヴァルドは頷く。
「いいよ、持っていこう」
「やった!」
 くるくると手早くそれをまるめたティアは、今度こそ、と手を差し出した。そして、あっと息を飲む。
「手、つなげませんね……」
 みれば、ティアの左手には預言書。右手には絨毯を抱えている。かたやヴァルドは、右手に菓子の乗った皿。左手にはポットとカップが二つ。
 どうしたものかと思った瞬間、ティアがにっこりと笑った。
「じゃあこれで!」
 ととと、と近づいてきたティアが、ヴァルドに向かって背をあずけるようにしてくっつく。
 首を捻ってヴァルドを振り仰ぎみるティアに目を瞬かせたヴァルドは、その意図をさっして笑った。そのまま、ティアを包み込むように腕を回す。
 小柄なティアに後ろから覆いかぶさるような格好になったヴァルドに、ティアが問う。
「いいですか?」
「ああ、いつでもいいよ」
 答えれば、ティアの意思に応じて分厚い預言書のページが、はらはらとひとりでに繰られていく。
 やがて見開かれたページが淡く輝く。予言書の担い手ではないヴァルドには読むことはできないが、そこがいまからティアがいこうとしている場所なのだろう。
 光が強くなる。ヴァルドの視界が真っ白に染まる。
 懐かしい祖国の、朝があけたとき、そこに広がる何にも汚されていない雪原よりもなお白い。眩しくて思わず目を閉じれば、不思議な浮遊感が全身をさらう。
 それは、ほんとうに一瞬のことだった。
 気づけば、ヴァルドの足は、さきほどまでの毛足の長い絨毯ではなく、硬い地面をとらえていた。
 閉じた瞼を透かして射し入るあたたかな光を感じ、ヴァルドは長い睫毛を震わせる。草の香りが、鼻腔をくすぐる。
「皇子、目を開けても大丈夫ですよ」
 ティアにいわれて、ゆるゆると瞼を持ち上げていく。
「……!」
 ゆっくりと、はじめて世界を目にする赤子のように瞳をひらいたヴァルドは目の前は、どこまでも青かった。自分がいかに小さな存在かを教えてくれるような、清廉さ。
 そんな高く澄んだ空には雲ひとつない。吹く風は心地よく、頬を撫でて流れていく。揺れる草の音、全身を洗う燦燦とした陽の光。
 そういえば、久しぶりに外に出た。そのことにいまさらながらに気づく。
 ついつい緩めてしまったヴァルドの腕から抜け出したティアが、気分良さそうに、丘に一本だけある木に近づく。
「このあたりでいいですか?」
 わずかな日陰あたりをティアが示す。どうやら座る位置について聞かれていると気付いたのは、数秒たってからだった。女性からの問いかけに即座にこたえられないとは、失態だ。
「……あ、ああ。私が」
 慌てたものの、それでもなんとか取り繕って、ティアが抱ええる絨毯に手を伸ばす、が。
「いいんです! 皇子にはお菓子を持ってもらってますし……」
 そういったティアが、手早く絨毯を広げて皺をのばす。綺麗に整えてくれたティアに、「ありがとう」と言葉をおくり、ヴァルドは皿とポットなどを中央に下すと、その近くに腰をおちつけた。
 柔らかな草の上であるからか、絨毯のおかげであるからか、冷えてくるような感じはまったくしない。少々堅いと思うが、大した問題ではない。
 絨毯越しとはいえ、地面の上へと直接腰をおろすのは初めてだ。ヴァルドが、その感覚を満喫していると、ティアがお菓子を覗き込んで歓声をあげた。
「わあ、おいしそう!」
「好きなものを食べるといいよ」
 やったぁ! と、なお瞳をキラキラとさせてティアが焼き菓子を吟味する。それほど悩まずともいいのにと思うのだが、そうすること自体がまた楽しいのだと教えられたことがあるので、ヴァルドは黙ってティアの選択を見守った。
「じゃあ、これとこれ……いただきますね!」
 どうやらクッキーとマドレーヌに狙いをさだめたらしい。元気いっぱいそう告げて、ティアは手にしたクッキーに噛り付いた。赤い苺ジャムがのせられたクッキーを、半分ほど口にしたティアが、もごもごと口元を小動物のように愛らしく蠢かせる。
 そうして、にぱっと心底幸せそうに笑った。
「美味しい~!」
 どれ、とヴァルドも同じものをひとつ手に取る。
「うん……おいしい」
 何気なくクッキーを口にしたヴァルドは、わずかに目を見開く。
 それは、いつもとおなじはずなのに。いまこうして食べる菓子は、これまでとは違う味がするような気がした。解放感溢れる野外であるせいだろうか?
 それも要因のひとつだとは思うが、まだ違う感覚がある。
 これはどういうものなのだろうかと、訝しく思いながら横を向けば、はくはくもぐもぐとお菓子を頬張るティアの口元に、クッキーの欠片がついているのが見えた。可愛い。
 小さく噴出したヴァルドはそれをとってあげながら、ついさきほど感じたものがなんであるのかを、唐突に理解した。
「ああ……、ティアがいてくれるから、こんなにもおいしく感じるのだろうね」
「もう、そんなことないですよー」
 あははっ、とティアはなんてことないように笑う。
 そして、ポットを手に取るとカップにお茶を注いで渡してくれる。
 ひとくち口に含めば、清涼な香りとほのかに甘いお茶が喉を心地よく潤してくれた。やはり、いつもよりずっとおいしい。
 ほう、と息をつけば、同じようにお茶を飲んだティアもまた息をついた。
 二人同時に似た仕草をしてしまったことに気がついて、顔を見合わせ笑いあう。
「そうそう、今日、とっても面白いことがあって!」
「それはよかったね。なにがあったのか、聞かせてくれるかい?」
「はいっ、もちろんです!」
 そうして身振り手振りを交えながら、幼馴染や友人たちとの出来事を語るティアを、眩しいものを前にしたときのように瞳を細めてみつめる。
 きっと、ティアはその笑顔の価値を知らない。こうして、彼女が自然におこなう行為がヴァルドにどれほどの影響を与えるのかを知らない。そばにいてくれることが、どんなに嬉しいことであるかを知らない。
 どんなに――ヴァルドのすべてを戒める鎖のように重くなってしまったものを、軽くしてくれているのか。
 だが、それでいいとも思う。そうであるほうが、ティアらしい。
 そんなことを、くすぐったくなるようなやわらかな気持ちを抱きながら考えつつ、ティアの話に耳を傾けるうち――あふ、とヴァルドは小さなあくびを漏らした。
 慌てて手で口元を押さえるが、ティアにはしっかりとみられてしまった。
 これまた失態である。おしゃべりに興じる婦人の前で、水を差すようなまねをしては、眉を顰められても仕方がない。どうにも、ティア前ではこういったことをしてしまう。気が緩んでいる証拠だ。
 ぱちぱちと、ティアが目を瞬かせる。珍しいなにかをみつけたように、まじまじと注がれる視線に、むずがゆくなる。
「皇子、眠いんですか?」
「ああ、いや……そんなことは」
 ティアといれば胸が高鳴るくせに、どうしようもなく心地よくて楽にもなる。
 自分をそんな状態にさせる人物を、ヴァルドはティア以外に知らない。気心の知れたヒースであってもこんなことはない。
 はっきりとした物言いをしないヴァルドに向かって、くすくすとティアが笑う。
 手にしていたマドレーヌを置いて、子供が先生の真似をするような愛らしさで胸を張る。
「疲れているときには、甘いものもいいですけど、ちゃんと眠らないといけないんですよ?」
 こちらをどうぞ、とティアがわずかに横にずれて絨毯を広く使えるようにしてくれたものの。
「しかし、」
 ヴァルドは眉を下げて戸惑うだけだ。
 ここは外だ。季節も天気もよいから、身体が冷えるという心配はないだろう。だが、生まれてからただの一度たりとも地面に寝転がるということを、ヴァルドはしたことがない。そもそもそんな発想がない。
 これが普通なのだろうか。さてどうしたものか。
 うーん、と悩むうちに、菓子の皿とポットを片隅へと追いやったティアが、恥ずかしそうにヴァルドの様子をうかがってくる。
「あの、それで、ですね……よ、よければ、その」
 そっとティアが自分の膝に手を置く。
「えと、お、皇子が嫌じゃなかったら、です、けど……ひ、膝枕、とか」
 どうでしょうか……と、消え入りそうな小さな声で告げたティアが、顔を真っ赤にしながら俯いていく。
 ティアの紅茶色の髪に覆われた頭をじっとみつめ、ヴァルドもまた少しずつ顔を赤くしていく。
 まったく。ほんとうに驚かされてばかりだ。心臓が、とくとくと上質の酒をグラスに注ぐような、まろやかな音を奏でていく。自分の体が、そんな綺麗な音をだせるなんて、ティアに出会うまでは知らなかった。
「……ありがとう。では、お邪魔させてもらうよ」
 ここまでしてくれる女性に、恥をかかせることなんてできるわけがない。それに、ヴァルドもまたティアの膝には興味があった。なかなか口にだしていえるようなことでもないが。
「!」
 ヴァルドの言葉に、ぱっと顔をあげたティアが、薔薇色に染めた柔らかな頬を緩ませる。
「は、はいっ! えと、えと……お邪魔してください!」
 焦っているのか嬉しいのか、妙な言い方になっているティアに促され、ゆっくりと横になる。
 どのあたりに置けばよいのか正確にわからなかったものの、察してくれたティアが動いてくれたおかげで、ヴァルドの後頭部はやわらかくあたたかな、世界で一番愛おしい枕のうえへとおさまった。
 上から覗き込むティアが、蕩けるように笑う。小さな手が、いつもより大胆に動いて、ヴァルドの銀色の髪を梳いた。
「えへ、えへへ。なんだか、とっても……ええと、」
「――恋人同士みたい?」
 その言葉の先をとってやれば、目を見開いたティアが、こくん、と素直に頷いた。自分もそう思っていたことは秘密にして、ヴァルドは微笑む。
 そのたまらない可愛さにあてられながら、紅茶色の髪に縁取られた面に、手を伸ばす。
「じゃあ、もうひとつ。恋人らしいことをしてくれるかい?」
「……」
 さあ、ティアはどうでるだろうと思う間もなく。
 ちゅっ、と小さな音をたてて、ヴァルドの唇にティアの唇が触れた。
 一瞬で風にさらわれていく程度の熱しか残さなかったティアの唇が、恥ずかしさを振り切るように離れていく。
 どんな表情そしているのかがみたいと思うものの、小さな手に目元を覆い隠されては、それもできない。
「ふふ……、きみは……ほんとうに、かわいい、ね……」
 その小さな手をひき話して、真っ赤になっているだろうティアを満足するまで眺めるのもいいだろうが、それよりも心地よさのほうを優先してしまう。
 自分でもわかるくらい、呼吸が穏やかになっていく。不必要に強張っていた身体の芯が、ゆっくりととほぐれていっている。
 ティアの頬を指先で撫でて、ゆっくりと下に降ろすと同時に、目蓋が重さにさからえずに落ちてくる。
 このまま、魂さえも融けてしまいそうだと思うヴァルドの耳に、小さな声が届く。
「おやすみなさい――ヴァルド」
 恥ずかしがって滅多に呼んでくれないくせに。
 こんなときにそんなことをいうティアの小憎たらしいまでの愛らしさに、ヴァルドは頬を染めた。
「……ありがとう」
 君がいてくれること。君が私を好きになってくれたこと。知らないものをみせてくれること。
 こうして、なによりも自分を甘やかして、癒してくれる――君という存在。
 ティアだけに聞こえるような儚さでもうひとつ感謝を重ね、ヴァルドは愛しい少女の膝に全てを預け、ゆっくりと眠りの淵へと船を漕ぎ出していった。

 丘に吹く優しい風は二人を包み、ふわりと世界の果てへと飛び去ってゆく。