St. Valentine’s Day~女神~

 はしたないと思いつつ、ころりとティアはソファに横になった。だって、全然戻ってくる気配がない。誰か来る様子もない。
 ぱたぱたと手足を動かしてみても、すぐに虚しくなってきて、ティアはくったりと全身の力を抜いた。
「張り切って作ったのに……。今日は渡せないのかなぁ……」
 うつぶせたまま、ぽつりと呟く。
 ソファセットのテーブルに乗せた小さな包みを、指先でちょんとつつく。
 ぼんやり今日の朝からのことを思い出す。
 朝一番にどうしてもこのチョコレートを渡したくて、フランネル城にいるヴァルドをたずねた。
 だが、朝から両国間の定例会議がはいっていたようで、午前中は会えないとヒースにいわれたため、一度家に帰った。
 そして午後になってもう大丈夫だろうと思ってやってきたのだが、今度は帝国からの使者と一緒にゼノンバート王と謁見しているらしく、しばらく待つことになった。
 それが終わったと思ったら、今度はその使者へ渡す重要書類の作成と帝国からの書類の対応に追われているらしく会えず。
 夕方になってようやく一段落したヴァルドと会えたと思ったら、今度はカレイラ王国の重鎮からの緊急会議要請。
 そのときすれ違いざまに、「部屋で待っていて」といわれた。
 そのため、ヴァルドの部屋で待つことにしたのだが……。ぼーっとしている間に、時間だけがどんどんと過ぎていく。もうすでに、外は静かな夜の帳に包まれている。
 でも、ヴァルドは帰ってこない。
 皓々と明るい月を見上げて、ため息をつく。

 お仕事忙しいんだもん、仕方ないよね。でも……はやく、帰ってきて……――。

 横たえたソファの柔らかさは、そんなことを考えるティアの瞼をゆるゆると下げていく。
 そうして。
 いつのまにか、ティアは眠りに落ちていた。

 

 随分と遅くなってしまった。
 かつかつと硬質な踵の音を長い廊下に響かせて、ヴァルド皇子はありがたくもフランネル城への滞在許可が下りたときに与えられた自室へと足早に向かっていた。
 今日はとんでもなく忙しい日だった。だが、それを思い返すことよりも、愛する少女のことでヴァルドの頭はいっぱいだ。
 もう、帰ってしまっただろうか。
 夕暮れの中、待っていてといったときに嬉しそうに笑って頷いたティアの姿が脳裏を過ぎる。
 慌しくも皇子らしい気品を損なうことなく、ヴァルドは扉を開けて部屋に滑り込んだ。
 明かりは灯っていない。ひんやりとした部屋の空気に、は、と息をつく。
「さすがに、もういない……か」
 明日、薔薇の花束でも持って詫びに行かねば、とヴァルドが冠を下ろし、甲冑を脱ぎながらそんなことを考えていると。
「……ん……む……」
 小さな声が聞こえた。
 反射的に剣に手をやって、闇夜に目を凝らす。そっと音のしたほうへ向かう。
 いつでも剣を抜けるように構えつつ、そっとソファを覗きこんで――
「……ティア」
 ヴァルドは目を見開いて、恋人の名を口にする。
 窓からの月光溜まりに浸かり、ソファの上で猫のように身を丸めて、むにゃむにゃと可愛らしい寝言を繰り返している。
 そんなティアを見下ろして、ヴァルドは微笑んだ。待っていてくれたという嬉しさと、安堵がこみ上げる。
 そっとその薄い肩を揺すりながら、呼びかける。
「ティア、――ティア」
「う……ん、おう、じ?」
「ああ、待たせたね」
 まだ夢の中にいるようなティアを、そっと抱きしめる。ほにゃ、と微笑んだティアが、ぬくもりを求めるように冷えた体を摺り寄せてくる。
 その仕草に小さく笑いながら、ティアの髪を撫でた。
「すまない、君をひとりにさせておいて」
「ううん、いいの。こうして戻ってきてくれたから。だから、いいの」
 そういって、ティアは手を伸ばして、ヴァルドのために用意した包みをとった。
「はい。今日は、バレンタインデーだから……」
 その言葉に、ヴァルドは目を細める。
「ああ、そうか。もうそんな季節なのか――ありがとう、ティア」
 差し出された小さな箱を受け取って、微笑む。確かめるように、その包みを撫でる。
 だけれど、この満たされる想いと幸福は、自分に許されるものなのか、そう魔王の記憶がささやきかけてくる。
 それは、ヴァルドを苛む暗い影。胸の奥底が、軋んで悲鳴のような音を立てた。
 よほど憂いた顔をしてしまっていたのか。すっと細く白いティアの指が、闇を横切って伸びてくる。
 意識しないうちに眉間に寄っていた皺に、ティアはそっと指先をあてて、どこか寂しそうに笑った。
「また、自分が幸せでいいのかなって思ってる?」
「……ああ」
 いまだ魔王に意識を支配されていた頃の記憶に苦しむヴァルドを慰めるように、ティアがそっと抱きしめてくる。己の胸へとヴァルドを優しく引き寄せて、愛情のこもった眼差しを向けてくる。
「私は、皇子に幸せになってほしい。一生懸命、王国と和平を結ぼうとしたのも、平和を願う優しい心も、私は知っているよ」
 するり、と髪を撫でる手の、なんと優しいことか。
「たとえ誰かがあなたを責めることがあっても、私もそれを背負うから。大きな荷物も、二人で半分こすればきっと大丈夫だと思うの」
 ゆっくりと耳から全身に広がっていく、柔らかな声の響き。
「私ね、ずっと皇子と一緒いたいよ。あなたが、大好きだから。だから、あなたの幸せを願う私の気持ちを、受け取ってほしいな」
 ことん、と胸に落ちる言葉はまるで光のよう。
 ああ、そういってもらえることが、どんなに救いとなるのか――きっと、君は知らないのだろう。
 引き寄せられたティアの胸の中、ヴァルドは小さく微笑んだ。
 彼女は、この世の救世主、新たな世界への導き手。そして、それ以上にヴァルドの心を癒す女神だ。
 ほんとうに、尊くて。愛おしい。
 そんな想いが伝わればいいと願いながら、そっと服越しにヴァルドはその胸元へと口付ける。と、その行動にティアがぴくりと震えて、慌てて手を離した。
 その反応にちらりと視線を上げれば、ティアは赤い顔をして目をそらす。
「あ、じゃ、じゃあチョコレートも渡せたし、私そろそろ帰るね……!」
 あたふたと、自分のやった行動にいまさら恥ずかしさを覚える少女が、なんとも可愛らしい。
 先ほどとは逆に、今度はそんなティアをヴァルドが逃がさないようにと抱きしめる。腰に回された手が離れないことに慌てるティアに、伸び上がるようにして顔を寄せる。
「今日は、泊まっていきたまえ。もう、夜も深い。ね……?」
 口付けを落とすように、甘く紡いだ言葉に、ティアは大きな目を見開いた。
 どうか今宵、もっともっと幸せを授けて欲しいと視線だけで願えば、ヴァルドだけの小さな女神は、わずかな逡巡のあと頷いた。
 その言葉のない返事が、とんでもなく心を震わせる。
「ありがとう、今日は人生最高のバレンタインデーだ」
 そういって、先ほどよりもなお温かく心に燈った感情を、ありのままに笑顔にすれば、ティアは応えるようにヴァルドが大好きな輝く笑顔を返してくれる。

 軽々とそんなティアを抱き上げて、頬にひとつ口付けたヴァルドは――ゆっくりと、己の寝室へと足を向けた。